第15話 2月8日 日本資本主義


 三日が過ぎた。

 ソーニャがおれの部屋にやって来て、一緒に暮らすようになってから、三日の日時が経過したのだった。

 それが、「もう三日」なのか、「まだ三日」なのか――心情的にどちらで言い表したらいいのかは、正直今のおれにはわからない。

 ただ一つ言えるのは、この三日間と同様の生活が、これから先も一ヶ月近くにわたって続くのだということである。

 ソーニャと――。

 そして。

 千紗姉ちゃんと――。

 この二人の女性と、おれは来月の3月5日まで、同居生活を送らねばならないのだ……。


 あの日の午後――。バカでかい海外旅行用スーツケースをひきずって突如室内に現れた千紗姉ちゃんは、こたつに腰を下ろし、しばらくくつろいだあと、出し抜けにこう言いった。――これから一ヶ月、ソーニャがソ連に帰るまでの間、自分もこの部屋に同居する、と。

 いきなりの千紗姉ちゃんの言葉に、まずおれはぽかんとし、その後、相手の言うことの意味するところを了解するや、不安、困惑、反発といった種々の感情が心の中に次々と沸き上がったのであった。

 千紗姉ちゃんは声を失っているおれにかまわず言葉を続けた。


 ――若い男女が一つ屋根の下二人きりで同居でしょ? 非常に危険よねえ。……このバカが、とち狂ってソーニャを襲ったりしないように、誰かが監視してないとね――、と、なぜかどこかしら楽しげな表情をして千紗姉ちゃんは言った。

 それに対し、おれより先にソーニャが声をあげた。

 ――マモルさんは、そんなことをするような人ではないと、私は信じています。マモルさんは、とても紳士的な人です。私にはわかります――そう彼女は真剣な口調で言い返した。一方の千紗姉ちゃんは、それを聞くとニヤリと口元をゆがめ、――ソーニャ、あなたはいくつだっけ? と、たずねる。――……十八歳ですが。それが何か? と、返答がある。すると千紗姉ちゃんは、急に微笑みを――年長の姉が年若い妹のことを思いやり教え諭す時のような優しげな表情を浮かべ、 ささやく。――いい、ソーニャ。まず第一に、男は信用できない存在である。第二に、守はこんなボケーっとした覇気のない性格でも、一応男である。ゆえに第三に言えることは、守といえども信用できない……以上、論証終わり。よろしい? ――そうして、ロシア人の少女の瞳をまっすぐに見すえ続けるのだった。


 ――千紗姉ちゃん、ちょっと待ってよ、と言いかけると同時に、――却下します。あなたに発言権は認められません、という、わざとらしく演技がかった口調の言葉を冷たい視線とともに投げつけられた……。


 それからしばらく続いたやりとりについて、くだくだと説明する必要はないだろう。

 結局いつものように、おれが千紗姉ちゃんに強引に押し切られる形で話は決着したのだった。

 ――あと、明日宅配便で、通販で注文した私とソーニャ用の高級羽毛布団がここに届くから。よろしくね

 同居が決まったあとの千紗姉ちゃんは、別に酒を飲んでいるわけでもないのに、ニコニコと非常に上機嫌そうな態度をしていた。

 一方、もう一人の同居人、ソーニャはというと、今回の件については、

 ――私は、マモルさんが決定されたことに従います

 と、簡潔な答えを返して来ただけだった。

 ソーニャの顔色をおれはさりげなくさぐってみたが、彼女は千紗姉ちゃんと一緒に暮らす事に、別に抵抗は感じていないようだった。


 そして今日、お昼前、ボロアパートの一室。おれたち三人は皆、そろってこたつの中に足を入れて暖を取っていた。

 各自、それぞれ自分の世界にひたっている。

 ソーニャは、テレビの映像を真剣な面持ちおももちでじっと見つめている。

 千紗姉ちゃんは、真っ昼間からウイスキーのストレートをショットグラスでちびちびやりつつ、経済新聞に目を通している。

 そしておれは、今朝発売の週間マンガ誌のページをぱらぱらとめくっていた。

 三人とも、沈黙している――。

 窓の外から街の生活音が聞こえてくるようなこともなく、ただかすかにテレビの音声が流れているだけの、静寂な空間――。

 千紗姉ちゃんが、飲み干してからになったグラスをこたつの上にトンと置いた。そして今まで読んでいた新聞を四つ折りにすると、それをいきなりおれの頭めがけて投げつけてきた(その経済新聞は、近くのコンビニでは売っていないので、駅前のキオスクまで毎朝おれがわざわざ買いに行かされている物だった)。

 新聞がおれの頭にぶつかり、それから畳の上に広がって落ちた。


「読みたかったらどうぞ」


 そうぶっきらぼうに言い捨てる千紗姉ちゃん。マンガから顔を上げてみれば、千紗姉ちゃんの視線はおれの方にではなく、テレビの画面に向けられていた。

 その背中に対して、おれはわざとらしくムッとした表情を作り、不快の念をあらわにする。もちろん、真っ正面から向き合ってでは、こんなこと恐くてできない。向こうがこっちを見ていないからこそできるのだ。情けない態度だと言われるかもしれないが、仕方ない。だって相手は、あの千紗姉ちゃんなのだから ――。


「……ねえソーニャ。国会中継なんか見てておもしろい?」


 ぼそっと、千紗姉ちゃんがつぶやいた。


「はい。日本政府が標榜する議会制民主主義の実態について、以前から関心がありましたので。大変興味深いです」


 テレビの方に目を向けたまま声を返すソーニャ。

 見れば、テレビにはNHKの国会中継の映像が映っていた。画面の下に、『衆議院本会議 代表質問』とテロップが出ている。


「日本共産党ですね……」


 小さな声。ソーニャの独り言だ。

 画面には共産党の議員が登場していた。その議員は備え付けのマイクの前に立つと、政府に対し消費税の増税問題について、質問を始めた。

 別に国会中継に興味なんかこれっぽっちもなかったが、ソーニャと千紗姉ちゃんがずっと放映に目を合わせているので、それに付き合っておれもぼんやりと画面を眺めた。

 五分ほど経った。まだテレビでは、共産党の代表質問が続いていた。


「……チサさん、同志カタヤマ・センについて、学校ではどんな風に教育を受けられましたか?」


 不意にソーニャが映像から目を離し、千紗姉ちゃんの方に向き直ってたずねた。


「え? カタヤマ・セン? 誰それ?」


 ほほにかかっていたひとふさの髪を邪魔そうに耳の後ろにかきあげながら、千紗姉ちゃんは言う。ショートカットのつややかな黒髪が、かすかに揺れる。


「えっ……。ご、ご存じないのですか、日本が生んだ世界的革命家、同志カタヤマを! ……モスクワの赤の広場、レーニン廟のかたわらには、各国を代表する偉大な共産主義者たちの墓碑がありますが、その中でただ一人の日本人が彼なんですよ!?」


 『そんなこと信じられない!』といった感じに目を大きく見開き、胸の上で両手を重ね合わせ絶句するソーニャ。それは、はたから見れば少々大げさにも見える態度だったが、彼女はいたって真剣なようだった。


「……では……。トクダ・キュウイチについては……?」


 ソーニャはおそるおそるうかがうような顔つきで、千紗姉ちゃんに再度たずねた。


 数瞬のののち、千紗姉ちゃんは、


「そこの学生――。誰だか知ってる?」


と、軽く背中をそらし肩越しにおれの方をふり向いて問いかけてきた。


「知らない」


 即答するおれ。


「……そうすると、日本共産党、ノサカ・サンゾウの唱えた平和革命路線に対する、1950年のコミンフォルム批判のような歴史的事実も、むろん、知らない、と……?」


「あー、高校の時、日本史の戦後の部分でちらっと習ったような気も……。守は、記憶ある?」


「おれ、大学受験は世界史の方を選んだから……。それに、試験では第二次世界大戦からあとは、まず出なかったし」


「……とまあ、そういうことです、ソーニャ」


 千紗姉ちゃんがさらりと話を締めくくった。

 頭を振りながら、ハァ、と小さく嘆息したかと思うと、ロシア語でブツブツと独り言をつぶやき始めたソーニャ。


「ソーニャ?」


 おれは何となく気になって彼女に声をかけた。


「……ああ、すみません」


 目を伏せて自分の世界に入り込んでいた彼女は、ゆっくりとおもてをあげると、おれと千紗姉ちゃんの顔を交互に見やった。


「仕方ありませんよね。日本は、カピタリーズム資本主義体制の国なんですから」


 そう言ってソーニャは静かに微笑んだ。

 彼女のその華奢な両肩のあたりに、いちまつの寂しさのような物が漂っているのをおれは感じた。


「……そろそろ、昼食の準備をしますね」


 すっとソーニャは立ち上がると、台所の方へと姿を消した。

 付けっぱなしになったテレビの画面の中では、まだ共産党による代表質問が続いている途中だった――。

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