第28話 2月11日 同志司令官


 由比ガ浜海水浴場から道路沿いに数百メートル歩いて戻ってきて、今、おれとソーニャは、JR鎌倉駅前のバスローターリー広場に立っていた。

 さっきまでいた海岸の方は、ほとんどひとけがなかったのに、一方ここ鎌倉駅前の広場は多くの観光客であふれている。


「やっぱ有名観光地だけあって、混雑しててにぎやかだなあ……」


 おれは周囲を見回しながら小声でひとりごちた。


「そうですね。……それに外国人観光客の姿もちらほら見えます。あそこにかたまっているのは——どうやらアメリカ人の団体旅行客のようですね……やはり警戒しなければ……」


 と、ソーニャもまたひとりごとをつぶやくように、低くささやく。

 おれは、かたわらの少女の様子をちらりとうかがってみた。

 ソーニャが少し厳しい目つきをして、あたりの人の流れに警戒の視線を向け続けているのが見えた。


「……ところでさ、ソーニャ」


 ぽつりと、話しかけてみる。


「はい。なんでしょう?」


 彼女の瞳が素早く横に動きおれの瞳と合わさる。


「——えーと。ほら、例のスターリンの密書ってやつ。今回の観光にも、それちゃんと肌身離さず持って来てるの?」


 なんとなくおれは聞いてみた。


「ダー、カニェーシナ。——常にしっかりと、下着のスリップ、胸元の隠しポケットの中に入れてあります」


 そう答えてこくりとうなずいたソーニャの表情は、真剣そのものだった。


「……じゃあ、それと、あと。やっぱりあれ……トカレフ、も?」


「ええ、当然です。護身用の自動拳銃も常時携行しています。ですから——どうぞ安心してください、同志マモル——」


 それを聞いたおれの表情は少し引きつったものになった。

 だからそこで、あえておれは一呼吸おいてから、ゆっくりとした口調で言う。


「あんまり緊張し過ぎないで、普通に楽しもうよ、鎌倉を。もっとリラックスしてさ」


 数秒後。

 ソーニャは、ふっと軽い吐息と共にその口元を柔らかく緩めた。

 周囲を警戒するあまり、自身の精神が硬くなり過ぎていたことに、彼女も気づいたらしかった。

 ちょっとうつむいてから、やがて顔を上げおれの方へ静かな微笑を返してくるソーニャ。


「……そうでした。今日ここにいるのはカマクラ観光を楽しむためだという事を忘れていました。申し訳ありません同志マモル。……ああ、いえ、また呼び方を間違えてしまいましたね。——はい。マモル……さん」


と、例の堅苦しい『同志』抜きでもって、『マモルさん』と親しげな口調で名前を呼んでくれた。


 ——ふと、おれは向かい合ったソーニャの左肩のあたりに目線を走らした。彼女のロングコートのその左肩が不自然に少しあがっているのが、気になったのだ。

 たぶんコート左脇の下に、トカレフがホルスターで吊されているため、肩があがっているのだろう……。

 そうして今度は、胸の部分に目をやってみる。

 あそこの下着の中にスターリンの密書とやらがあるのか……。

 スターリンの密書——うさんくさいけど、でも、非常に気になる。本物か偽物かはともかく、内容は……一体何が書かれているのだろう? 


「——ここカマクラは」


 ソーニャが穏やかな口調で言う。


「周囲が山と海によって閉ざされています。いわば天然の要害に守られた土地です。軍事上の観点からすると、守備陣地を構築するには非常に理想的な地形といえます。……なるほど、東方諸侯の支配者、ミナモトノ・ヨリトモ将軍が、あえてこの地を戦略拠点に選び城砦を構えた理由も納得できます」


 鎌倉の市街地をぐるりと囲む小高い山々に目を配りながら、一人ふむふむとうなずくソーニャ。

 それから、彼女はまたおれの方に視線を戻し——。

 やがて、しばらくして。


「……あの、マモルさん——」


 小さな声を出す。


「えっ? あ、なに?」


 おれは顔を上げ返答をする。


「私のコートに、その、汚れでもついているのでしょうか?」


 どことなく怪訝そうな表情をしてたずねてくるソーニャ。

 おれは、ソーニャの胸元をさっきからじっと凝視し続けていた事に気がついた。

 思わずあわてて、


「ともかく、まあ、あれ、あれだよ」


 意味のない言葉を続ける。


「ソーニャが外出時にいつも着ているベージュ色のロングコート、ちょっと地味だけどオシャレで似合っていると思うよ。う、うん、いかにもメイド・イン・ソビエトって感じで」


 我ながらなんでそんなことを言いだしのかは良くわからないが、ゴニョゴニョと口が勝手に動いた。


 ——やばいやばい、無意識だったとはいえ——女性の胸を露骨にジロジロ眺めるような男だと勘違いされたか? どうしよう、ひょっとしたら、彼女に軽蔑されてしまったか? 


 心の中に、あせりと不安が広がる。

 だがソーニャは別段、気にはしてないらしかった。いつもの穏やかな表情で口を開く。


「21世紀のトウキョウの女性たちは、私などよりはるかにファッションセンスが良くて、少し劣等感を感じてしまいます」


と、しゃべり終わると、彼女は恥じ入るようにわずかに目を伏せ、それからちょっと小さく笑ってみせた。


 ——良かった、どうやら単におれの自意識過剰に過ぎなかったようだ


 別にソーニャに、イヤらしい男と軽蔑はされていなかったようだ。

 まあ、それに、実際のところ、アパートにいる時の白のブラウス姿と違って今の彼女は外出用のロングコートを身にまとっているから、その胸のラインが服の下から柔らかに浮き上がって見えるような事はないわけであって——。いや、もちろん、別にアパートの室内で彼女の胸をジロジロ見たりなんかそういうことは、決しておれ、していないが……。


「ええっと。よし……。じゃあソーニャ。鎌倉観光だけど、一番の名所——と、ガイドマップに書いてある神社、鶴岡八幡宮から回ってみようか? この駅前の真っ直ぐな道を歩いて数分で着くみたい」


 なんだか奇妙にもやもやしている気持ちを通常に切り替えるべく、おれはことさら大きな声を出し、相手の瞳をしっかりと見つめ直して、反応をうかがってみる。


「はい、そうしましょう、マモルさん」


 ソーニャは素直に同意してくれた。


「ではまずは鶴岡八幡宮参拝から始めようか。——ハラショー? 同志ソーニャ?」


 おれはちょっとわざとらしく明るい作り声でもって、かたわらの少女に語りかけた。

 数瞬、きょとんとした顔つきになるソーニャ。

 だがそのあとすぐに彼女は口元に右手を当てクスクスと愉快そうに微笑んで、


Естьイェースチ, товарищタヴァリシチ командир !カマンディール!


と弾んだ軽快なロシア語を発するとともに、その場で両足のブーツのかかとをピシっとそろえて、直立不動の姿勢を取ったのだった。

 ちょっと困って苦笑するおれ。周りの観光客が数人、ちらちらとソーニャを横目で見て通り過ぎていった。直立不動の姿勢のままだが、彼女の両目には年相応の少女らしい無防備な明るさがたたえられていた。

 おれはたずねてみる。


「なんて言ったの?」


 返事はなかった。

 ソーニャは不意に直立不動の姿勢を崩し、前に進み出て、おれの隣を無言のまま通り過ぎた。そして駅前をあとにし、目的地の神社へと向かってゆっくりとした足取りで進んでいく。数歩遅れたおれはあわててソーニャの横に追いついて、彼女と二人一緒に並んで歩き続けた。

 ソーニャは真っ直ぐ前を見つめたままで、横にいるおれに視線を合わせはしなかった。

 彼女は眼を細め口元をゆるめる。そうしてまた不意にクスクスと明るい笑みをこぼす。


「こう言ったんです」


 あいかわらず彼女の視線は、進んでいく道の先へと真っすぐ向けられたままだった。


「——『了解しました、同志司令官!』……って」


 ソーニャの横顔には、緊張とか警戒感とかは今はもう少しもうかがえず、日頃の彼女の真面目な態度からしてみれば珍しい、無邪気で、どことなく悪戯っぽさすら感じさせるような、快活な表情が浮かんでいた。


「今日は楽しい一日になるといいですね。マモルさん……」 


 そうつぶやくと突然ソーニャは立ち止まり、その場で顔を横に向けて、おれの瞳をすぐそばからのぞきこんできた。

 間近に迫ったソーニャの淡く澄んだ青い瞳が、ひどく美しいものにおれには思えた。今までも何度も彼女にじっと見つめられる、そのたびに、それがとっても綺麗な瞳だとは思っていたけど、鎌倉にやって来たこの瞬間この場所で——その思いはさらに不思議と、いっそう、強いものになった……。

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