第3話 株式以外に関する素朴な疑問 -The Colour of Stew-

  和泉隆平はこっそり面白がっていた。

 先週と同じメンバーが目の前に座っている。首を傾げている者、下を向いている者。興味津々に和泉を見ている者。反応は様々だった。

「さて、授業を始める」

 和泉は意識してお腹から声を出した。目線が一斉に和泉の方に集まる。

「質問です」

「感心だね」

 半笑いで声を上げた男子生徒に、和泉は笑い返した。顔馴染みの生徒だった。彼のことを去年も一昨年も担当していた。しかし、このクラスの中で教えたことがあるのは彼一人だけだった。

「白石? 先生の授業では?」

「本来ならね」

「デジャビュがします」

「奇遇だね。僕もだ」

 苦笑いを浮かべたまま和泉は答えた。

「今週も白石先生が来られなくなったので代講です」

「俺、まだ白石先生の顔すら見たことないんですけど」

「多分、見覚えあると思うよ……」

 和泉は白石の顔を思い浮かべた。塾が好きだったのか、彼女が授業を休むことは滅多になかった。テスト前や受験期などは授業が無い日にも塾に来て自習をしていた。質問に答えたり、息抜きの雑談に付き合ったりしたこともしょっちゅうだった。

「どんな先生なんですか?」

「女性だね」

 続いて質問した女生徒に、和泉はのんびりと答えた。学期が始まったばかりだし、そんなに焦って授業を進める必要はどこにもない。

「ざっくりしすぎです! 歳とか性格とか色々あるでしょう?」

「歳は知っているけど知らないことにしておく。まあ、僕よりは若い、とだけ言っておこうかな。性格は、そうだね、少しシチューに似ている」

「シチュー?」

「ビーフですか? それともクリーム?」

「君の食生活が少し心配だよ、僕は」

 和泉の携帯電話に着信があったのは十七時過ぎだった。千束の携帯からで、今日も代講を頼みたいという簡潔な内容だった。詳しい事情を説明しないところや堅い口調も、先週にそっくりだった。なので二つ返事で引き受けた。授業が終わった後、報告を兼ねてメールを送るつもりだ。

「ラーメンのスープにも少し似ている」

「……液体?」

「白石先生は固体だし個体だよ。少し、いや大いにけったいかも知れない。人によっては蹴られたいかも」

 先ほどの男子生徒が笑っている。他の生徒は一様に首をひねっていた。

「可愛いですか?」

「ふむ」和泉は頷いた。心なしか、生徒、特に男子の瞳が先ほどより燦めいている気がする。「ブイヤベースくらいの可愛さかな……」

「……美味しいんですか?」

 的確な質問だと和泉は思った。聞きたい言葉を引き出そうという点で、とても狡猾なアプローチだった。

「食べたことがない。お腹壊しそうだし……」

「ずいぶんな言い草ですね」

「内緒にしておいて貰えると助かるよ……。本人に知れたらお腹以外の場所が壊れそうだ」

 和泉は投げ遣りな口調で言ってから、テキストのページを開いた。それを見て、生徒も口を閉じた。

「さて、いい加減授業に入るよ。先週の続きだ。式の証明だね。イコールや不等号の取り扱いが普段と違ってややこしいから気をつけるように」

 和泉はそう言いながらホワイトボードの一番左上に『証明』と書いた。それからその下に間隔を空けて三つ点を打つ。

「証明するにはいくつか方法があるけど、何か知ってる人は?」

「三角形の合同? 三辺が等しい、とか」

「ええと」和泉は顎をしゃくった。「それは証明の方法じゃなくて対象と条件だね。まあ、中学生の範囲だとそれくらいしか証明する内容がないから仕方ないけど」

 和泉は先ほどホワイトボードに打った点をさらに大きくした。

「高校数学の範囲で扱われるのはこれくらいかな。転換法、背理法、数学的帰納法。……まあ、他にもあるかもしれない。式の証明で出てくるのは主に転換法だね。背理法は適用できる範囲が広い。数学的帰納法は数列なんかで出てくる。今年の終わりぐらいにちょっと苦労することになるだろうけど……」

 それから和泉はのんびりと各証明法の説明をし、簡単な実例をやって見せた。生徒たちは解ったような解らないような顔で聞いていた。

 和泉は授業中、基本的な原理や定理の説明に多くの時間を割く。逆に公式やテクニックなどはあまり教えないし、計算練習などもっての外だ。基本的な構造が解っていさえすれば、公式など自分自身でいくらでも作れるからだ。テクニックばかり教えて、ブラックボックス化してしまうことには何の意味もないと常々思っている。

 のんびり進めた割には予定通り、簡単な等式の証明にまでたどり着いた。最初は等号の取り扱いを上手く飲み込めない生徒もいたが、授業が終わる頃には、なんとか形になっていた。等号のような慣れ親しんだものを目の前に出されると、つい知識にある使い方に飛びついてしまうらしい。やはり先入観とは恐ろしい。

「何か質問は? ……じゃあお終い。気をつけて帰れよ」

 ちょうど切りの良いところでチャイムが鳴ったので、和泉はそう言って教室を出た。生徒たちが一斉に片づけとおしゃべりを開始し、背後が途端にうるさくなる。

 和泉は歩きながら額に手をやった。少し頭痛がする。ただでさえ朝が早い職種のうえ、突然代講することになったため今日はスケジュール的に厳しかった。

 扉を開けて講師室に入る。元々自分が使っていた机に戻る。今年からは千束が引き継いだらしい。まだ講師になって日が浅いからだろう、綺麗に片付いていた。

「お疲れ様です。和泉先生」

 机から二歩離れた位置で和泉は足を止めた。椅子に座った千束が困ったような顔で和泉を見上げていた。

 到着したばかりなのか、千束は上着を羽織ったままだった。少し憔悴しているようにも見える。

「そちらこそ、お勤めご苦労様です」

「ええと」千束は眉を寄せた。「あながち否定できないところが辛いです」

「え?」

「ええ」

 和泉は手に持ったままだったテキストやペンケースを机に置いて、隣の椅子に腰掛けた。

「今日はありがとうございました。本当に助かりました」

「いや、別に良いけど……」和泉は首を傾げた。「それで、何があったの?」

 問いかけに、千束は和泉の目を真っ直ぐに見て言った。

「サークルの先輩が亡くなりました」

「亡くなった? ……って、この間逮捕されたデイトレーダー?」

「いえ、別の方です」千束は膝に置いた手を丸めた。「天沼先輩と同期の、山中先輩と言う方が」

「そう……大変だったね」

 どう反応して良いのか迷ったが、和泉は結局それだけを口にした。千束は続けて口を開いた。

「亡くなったときの状況が不自然だったのでまた警察から質問を受けました。それで授業に間に合わなくなってしまって……」

「そんなことだろうとは思ってたけど。でも、どうして君がそんな関係者みたいな扱いなの?」

「最初に発見した一人だからです」千束はそう言ってため息を吐いた。「今日はお昼頃、サークルの他の先輩たち、淡雪先輩と東先輩と、あと平山さんという方ですけど。後、一緒に入った友人と買い物に行って。それで部室に引き上げてきたら」

 その時のことを思い出したのか、千束の顔が少し曇った。和泉はけれど何も声をかけなかった。

「山中先輩が倒れていたんです。慌てて救急車と警察を呼んで、私と東先輩で地下の駐車場からマンションの部屋まで誘導しました。救急車には淡雪先輩が同乗して……。でも、結局すぐに死亡が確認されました。私たちが部室に帰ってきたときには、すでに亡くなっていたみたいです。死因は感電で、多分十一時四十分頃。時計がその時間で止まっていましたし、検屍の結果もそれくらいみたいです。高い電圧がかかった何かに触れてしまったようだと小耳に挟みました。死体のすぐ近くにはスタンガンが落ちていました。使用された形跡もあったそうです。ただ室内に争ったような様子は無く、確認した限りでは無くなった物も無いようです。通帳やカードなども無事です。ただ、その手の物が入ったキャビネットのキーを、死体が握っていました。鍵はかかったままでしたけど……」

「スタンガン?」和泉は千束に問い返した。「あれって間違っても人が死なないように設計されていると思うんだけど。たまたま落ちていたんじゃないかな」

「さすがにそれは偶然が過ぎませんか?」

「ところで」千束の反論を無視して和泉は訊いた。「高い電圧ってどのくらい?」

「数万ボルトくらいらしいです。正式に伺ったわけではなくて、警察の人が話しているのを小耳に挟んだだけですけど」

「数万ボルトね……。その部室、ブラウン管のテレビがある?」

「ありません。テレビもパソコンのモニタも液晶かプラズマか判りませんけど、薄型でしたから。……どうしてですか?」

「まあ、一応スタンガン以外の原因も考慮に入れて、というところだけど。コードから電気を入れたあと、一○○ボルト以上に電圧を上げる機器が他に思い浮かばなくて」

 和泉の言葉に、千束は首をひねった。

「ええと、何だか凄いパソコンがありましたけど? 停電対策もされていて。あ、でも、昨日はもう警察に押収されていたんだった……」

「ううん、パソコンは関係ないだろうね。普通の電気機器とそう変わらないはずだから」

 和泉はぼんやりと空中を見たまま答えた。数万ボルトとなると、短い距離なら空中放電を起こしかねない電圧だ。室内でそうそう利用されるものではない。

「電圧が高くないと感電しないものですか?」

「いいや。普通のコンセントから出ている一○○Vの電圧で十分感電するよ。周波数や電流量によっては死んでもおかしくない」和泉は虚空を見つめたまま答えた。「動物なんて、塩水が詰まった革袋だからね……」

「え、そうなんですか? その割にはあまりニュースとかで見かけないような……」

「皮膚の抵抗が大きいからね。それを通過できるところまで電圧を上げるか、あるいは皮膚以外から通電させないといけない。粘膜とか傷口とか、体液に直接通じている部分が理想的で一番危険だね」

「あ、そういえば山中先輩の指に傷口がありました……」

「そう。ならそれが原因の一つかも知れないね……」

 和泉は千束の方へ目を向けた。興味深そうに聞いている。目が合うと、少し口元を緩めた。その反応に和泉は少し不安になった。

「まあ、どちらにせよ、今回の場合はパソコンや普通の家電は関係無いだろう。高電圧ってことなら普通の電気機器の事故である可能性はほとんどない」

「なるほど。だから警察の取り調べがあんなに執拗だったのですね。何らかの人為的な関与を疑っているから」

「そう考えるのが自然かな……。静電気も高電圧になるけど、直流だし電流が少ないから死人が出るとは考えづらい」

 ううん、と千束が唸る。空中を見つめて何事か考えているようだった。やがて、ぽん、と手の平を合わせた。

「……あ、忘れてました。ブレーカーが、漏電検知出来るタイプのものなのですが、作動していなかったみたいです」

「ふうん。なら家電の事故の線は消えたと言って良い。スタンガンが利用されたのはほぼ確実だね」

 和泉は千束と同じように腕を組んだ。

 そこに講師室の入り口から声がかかった。

「先生! 和泉先生!」

「どうかした?」

 生徒が入り口から顔を覗かせていた。去年まで教えていた女子生徒だった。久しぶりに顔を見たが、お互い特に感想は無いようだった。

「何か、変な人が居るんですけど」

「僕の目の前にいる人以外に?」

「はい。私の目の前にももう一人いますけど、それとも違います。塾の入り口から少し離れたところに。なんかじっとこっちの方見てるんです」

 和泉は椅子から立ち上がって講師室を出た。玄関の内側に女子生徒が何人か、不安そうな顔でたむろしていた。

「白石君。講師室から出ないこと。何かあったら警察呼んで」

「あ、はい……」

 ついてきた千束を講師室に戻してから、和泉は入り口から顔を出す。生徒が指さす方を見ると、路肩に車が停まっていてその傍らにスーツ姿の男性が二人、塾の方を窺うように見ていた。和泉は生徒に戻るように指示した後、二人組の方に近づいた。

「うちの塾に何かご用ですか?」

「貴方は?」

 若い方の男が答える。もう一人、壮年の男性は腕を組んで黙っている。

「講師の和泉と言います。臨時のアルバイトですし、生憎名刺なども持っていませんが」

 和泉が名乗ると、二人は納得したように頷いた。しかし名乗りはしなかった。

「ええと」仕方がないので、和泉は口を開いた。「警察の方ですね?」

「……どうしてですか?」

「いえ、何となくですけど。親御さんには見えませんし、そうだったらちゃんと名乗るでしょう? もし生徒を狙う変質者であっても、こう言っておけば退散するかと思って」和泉はくすりと笑った。「変質者だったら二人組では来ないかな……」

「誘拐目的などの可能性もありますから、不審な人物を見かけたら何か起こる前に警察までご一報下さい。パトロールに向かわせますから」

「では早速怪しい二人組がいるとご連絡を」

 和泉がわざとらしく携帯電話を取り出すと、二人組は揃って苦笑して、ようやく胸ポケットから手帳を出し、刑事だと告げた。若い方は加藤、年配の方は袴田と名乗った。

「どんなご用です?」

「いえ、大したことではありません」

「その車」和泉は路肩に停まった車に目を向けた。「横浜ナンバーですね」

「……ええ。それが何か?」

「別に……」

 鼻白んだように言った加藤に、和泉は肩を竦めた。節目の株価の真下に居座っている大きな注文をつついているような気分だった。

千束の通うK大のキャンパスは神奈川県の横浜市にある。今いる学習塾は東京都の自由が丘。多摩川を渡って綱島街道を走れば大した距離ではない。この辺りでは横浜ナンバーもよく見かける。何もおかしいところは無かった。

「ええと」和泉は一瞬塾の方を振り返った。鈴生りになって入り口から覗いている生徒たちの姿が見えた。「生徒が怖がるんで、一旦お引き取り願えませんか? 何を調べに来たにせよ、もう生徒も講師も帰るだけですよ」

「……」

 しかし二人は何も答えなかった。和泉は軽く笑みを浮かべたままじっと見つめる。目線がぶつかるが敢えて何の反応も示さずにいる。

「……解りました」袴田がぼそりと言った。「今日のところは引き上げます。もしかしたらまたお邪魔するかも知れませんが」

「どうせ来られるなら直接塾までお訪ねください。お茶くらいならお出ししますよ。出来れば授業の時間は避けて頂けると有り難いですけど」

 和泉はにっこりと微笑んだ。

「お子様の進路のご相談など、いかがでしょう?」

 二人は何も言わずに車に乗り込んだ。和泉の方を一瞥すると、車を急発進させた。そのテイルライトを和泉は二秒ほど見送った。

「さて、さっさと帰った帰った」

 和泉は塾の方に戻る。一様にほっとした顔の女子生徒たちをそう言って外に送り出す。さっき和泉を呼んだ生徒が興味津々に覗き込んでくる。

「先生! 何だったんですか? あの人たち」

「うん? ただの進路相談希望の親御さん」

「嘘ですよね?」

「うん」

 しれっと頷いて、和泉は講師室に戻った。生徒もそれ以上質問するのは諦め、三々五々帰って行った。千束はさっきと同じ椅子に座って不安そうに入り口の方を見ていたが、和泉が顔を出すとほっと息を吐いた。

「さて、何の話だっけ?」

「何者だったんです?」

「シチューがホワイトかどうか確かめに来たらしい」

「……シチュー?」千束は眉を寄せた。「ええと、私はボルシチが好きです」

「斬新な色だね。少し意味深かな……」

 和泉は元の通り椅子に座った。

「それで?」

「事故でないとしたら人為的な事件ですよね? 高電圧で感電させる手段は何が考えられますか? その、人を死に至らしめるくらいまで」

「そんなこと考えたこともないけど……。単純にスタンガンを改造したんじゃないかな。電流とか周波数とかをいじれば」

「簡単に出来ますか?」

「知らない。原理は理解しているけど、工学的なところまではちょっとね……。電圧を上げるだけならトランスを噛ませるだけだけど。周波数ってどうやっていじるんだろう……」

 和泉は苦笑いしながら答えた。

「……あれ? そうなると、感電させるのに山中先輩に直接改造したスタンガンを押し当てたことになりますよね?」

「事故じゃないならそうだろうね」

「そうか、だからあんなに……」

 千束はそう言って考え込んだ。少しうつむき気味に何か唸っている。生徒のときから変わらない、千束が真剣に考えているときの癖だった。

 和泉は立ち上がって、コーヒーメーカーのところに歩いて行った。気がつけば講師室には和泉と千束以外もう誰も居ない。サーバに残っていたコーヒーは二杯分には少し足りなかった、半分ずつカップに注いで席に戻る。

「あ、ありがとうございます」

 千束が机に置かれたカップを両手で包み込む。

「和泉先生。直接感電させたとしたら、おかしなことがあります」

 千束が真っ正面から和泉の方を見る。

「あの部室、鍵が三つしか無いんです。一つは死んだ山中先輩自身が持っていたもの。これは部室の中にあったお財布に入っていました。二つ目は私たちとずっと一緒だった淡雪先輩のもの。死亡した時刻には秋葉原にいました。最後の一つは……」千束は二十五度ほど首を傾けた。「逮捕された天沼先輩のものです。こちらは警察に押収されているはずです」

「ふうん」和泉はコーヒーを啜った。「鍵のかかった部室の中と、白石君と一緒に行動していたのと、塀の中か。合鍵があったんじゃないの? ちょっと借りてその間に作ったとか」

「ありえません。カードキーなんです」

「カードキー? 一体どんな部室なんだ、それ……」

 和泉は首をひねった。ちょっと、想像出来る範囲を超えていた。和泉のマンションだって決して安普請ではないが、鍵は普通の金属錠だし、合鍵だって作れる。いつの間にか作られていた経験さえある。

「サークル勧誘の唯一の目玉だそうです」

「あ、そう。仲良くなるまで時間がかかりそうだね」

 和泉は軽口を叩くと、千束は少し頬を膨らませた。

「マンションの玄関にあった監視カメラにも、怪しい人は映っていないそうです。犯行時刻の前後に出入りした人物はすべて、マンションの住人かそのお客です」

「他の住人が実行した可能性は? 騒音とかでトラブルになっていたとか……」

「無いとは言いませんけど……。でもどうして騒音なんです? ゴミ出しとかかも知れないじゃないですか」

「いや、ディーラーだと、損失出すと怒り狂ってその辺の物を殴り出す人とかがいるから。会社の休憩室にはストレス解消のためにサンドバッグ吊してあるんだけど……」

「え? それ、本当の話ですか?」

「うん」

「先生も叩くんですか?」

「ストレス解消に殴ったことはないよ。引け後に試しにやってみたことはあるけど、手が痛いだけだった」

 和泉が答えると、千束はくすくすと笑った。それから、コーヒーを一口飲んで、顔を引き締めた。

「少なくとも、今のところそんな話は聞いていません」

「そう、まあトラブルになっていたなら、自然と絞り込めるか。ともかく、部屋だけじゃなくて、マンション自体に出入りするのも難しいのは解った」和泉はカップから手を離した。「じゃあ、仮定が間違っているんだろうね」

「仮定?」

 千束は二十五度ほど首を傾けた。和泉は先ほどまで授業に使っていた数学の教科書をとんとん、と叩いた。

「背理法。矛盾が生じるなら仮定が誤っていることが証明できる」

「仮定って、どれですか?」千束は首を傾けたまま言った。「キーの数? 死亡時刻?」

「さあ。可能性だけなら無数にあるとは思うけど、ね。死因が感電じゃ無いかもしれないし。そもそもその山中君とやらが死んでいることとか。実は山中君が実在していなかったとか。僕は話を聞いただけだから、なんとも」

 和泉はそう言ってカップを傾けた。千束は釈然としない顔をしていた。

「ところで君、さっきから警察の捜査状況らしきものを喋っているけど、どうして知ってるの? 簡単に教えてくれるものでも無いと思うんだけど」

「あ、それは……」千束は困ったように笑った。「私の友人も一緒にいたんですけど、彼女が言葉巧みに、近くにいた警官から聞き出すんです」

「……なんだか、君の交友関係って少し愉快じゃない?」

 和泉は感心と呆れが半々くらいでそう言った。

「愉快というか」千束は首を傾げた。「奇怪かもしれません。厄介なのはたしかです」

 彼女は首をひねったり傾げたりするのが生徒時代からの癖だ。問題を解くのに詰まると、いつも生まれたばかりの赤ん坊のようにふらふらしていたのを思い出す。

「そろそろ帰ろうか」

「あ、はい……」

 千束は自分のコーヒーをすべて飲み干し、二人分のカップを流しに持っていった。手早く洗うとすぐに小走りに和泉のところに戻ってきた。

「今日は、本当にありがとうございました。……あ、今日も」

「いや、別にいいけど……」

 話しながら二人は講師室を出て、玄関も出る。千束がキーケースを取り出して鍵を掛ける。

「ええと、送っていこうか?」

 少し迷ったが、和泉はそう口にした。

「……へ?」

 千束の四十パーセントくらい開いた口が見物だった。




     *




 和泉隆平はビールのグラスを置いた。

「何、とは?」

「だから、この間の彼女は、お前の何なのかと」

 日本橋の天麩羅屋の一室だった。狭い座敷に和泉と榊が向かい合い、その横に新人ディーラーの栗田が座っている。時刻は十七時を過ぎたところ。先ほど乾杯したばかりで、榊のジョッキにはまだ六割ほどビールが残っている。

「説明したじゃないか」和泉は溜息混じりに答えた。「前にアルバイトをしていた学習塾の後輩講師」

「その後輩の女の子が会社まで会いに来たんだっけ? 何でまたそんなことを」

「だから、それは代講したときの礼を言いに来たんだって。お前も聞いていただろ」

「だって、お前それだけのためにわざわざ来ないだろ、ここまで」

 なあ、と榊が隣の栗田に振る。

「そうですよね。普通だったらメール一通入れてお終いじゃないですか」

「だよなあ、だよなあ」

 榊がジョッキを呷る。残っていた中身が、ほとんど無くなった。気がつけば栗田のジョッキも泡がわずかに付着しているだけだ。和泉も諦めてビールを一口流し込んだ。

「ほらもう、いい加減白状しろって。だって、そのバイト先からここまでけっこう離れてるじゃないか。それなのに時間をかけて来て、いじらしくも会社の前のガードレールに腰掛けて待ってるんだぞ」

「えっ!? それはよっぽど気合い入れないと出来ないっすよ!」

「だよなあ、だよなあ」

 店員が料理を運んでくる。榊は日本酒をボトルで頼んだ。もう二人のジョッキはすっかり空になっている。今日は二人とも儲かって機嫌が良いせいか、ピッチがかなり速い。

「しかもな、その娘が若くて可愛いんだ。なんだあれ、高校生じゃないのか?」

「……大学生だよ」

 和泉は割り箸を二分しながら答えた。亀裂が片側に逸れて不格好に割れた。

「ほら、現役女子大生だって。エロいよなぁ」

「羨ましいっす!」

「君はついこの間まで大学生だったじゃないか」

 投げ遣りに言いながら、和泉は山菜の天麩羅を摘んだ。まだ熱くて舌を火傷しそうになる。しかし、サクサクとしてとても美味しかった。

「んで、何て言ったっけ? あの娘」

「白石。白石千束」

「そうそう。千束ちゃん。絶対あの娘、お前に気があるって」

「それはそれは。光栄なことで」

 和泉は今度はカボチャの天麩羅に手を伸ばした。黄色い表面に薄く衣がついていて、こちらもとても美味しい。

「ほら、これだ……。すっかり枯れきっちゃって」

「榊みたいに無尽蔵にこんこんと湧き出ているみたいなのもどうかと思うけどなあ。あのキャバクラの娘はどうしたんだ?」

「馬鹿、お前。俺のことはどうでも良いんだよ」榊の声が一○○ヘルツくらい高くなった。「そういや栗田は彼女いるのか?」

「いないっす。キャバクラ連れてって下さい!」

「ああ、まあ、そのうちな」

 榊が遠い目をしていった。以前は毎週のように通っていて、和泉も何度か付き合わされたことがある。しかし最近はめっきり声がかからない。何があったのかは聞かないことにした。

「和泉さんって塾講師やってたんですか?」

「ああ、うん。三月まで副業で」

「へえ、頭良いんですね」

「馬鹿お前、こいつK大だよ」

「え、マジッすか! 超頭良いじゃないですか!」

「ちなみに噂の千束ちゃんは?」

「……K大」

 二人が色めき立った。和泉は今度は竹輪の天麩羅を抓んだ。衣の表面がぱりっと揚がっている一方で、中身はしっとりとしている。頬が五○ミリほど落ちそうだった。

「……ふうん。後輩なんだ。可愛い後輩からお願いされてお仕事引き受けちゃったわけだ。他の講師もいるはずなのに、なぜかお前が」

「急な話だったから、確実に捕まる人がいなかったんだと思う」

「まあ、たしかに突然の話だったけどさ」

「ん? どんな理由だったんです?」

 栗田がお猪口を傾けながら訊く。和泉も手酌で日本酒を注ぎながら答えた。

「投資サークルに見学に行ったら突然先輩が逮捕されたらしい。それで参考人として警察に連れて行かれた」

「うわ、それは凄いっすね。何やったんすか?」

「見せ玉だと。馬鹿だよなあ」お猪口を傾けてから榊が言う。「お前も気をつけろよ。全社的に売買停止になんかなった日には末代まで祟るぞ」

 榊が一瞬真面目な顔になってそう言った。

「そんで、逮捕されたのって結局kabraだったのか?」

「多分ね。その日からずっとブログも更新されていないし……」

「ふうん。ま、たしかにここ半年くらいあんまり儲かってなかったみたいだしな。焦ってたのかね」

 店員がまた天麩羅の皿を持ってくる。和泉は今度はエビに手を付けた。大きい。身を円柱だと近似した場合の断面の直径が二十五ミリくらいはある。口に入れると、さくっとした衣の内側にぷにぷにした食感がした。

「お前、何か知らないけど、毎日kabraのブログチェックしてたよな?」

「うん。まあkabraだけじゃないけどさ……。新人の頃、先達者のページをチェックして勉強していて、そのままずっと」

「偉いよなあ」榊が栗田を小突いた「おい、お前も見習えよ」

「は、はい!」

「今度、見てたページの一覧、メールで送っておくよ。愚痴か自慢ばかりであんまり参考にならない人のページもあるけど」

「でも、kabraのは参考にしていたわけだ」

「参考と言うよりは」和泉は榊の方に目を向けた。「ただ単に興味深いってだけだよ。一時的に大きく儲けを出せたデイトレーダーは今までたくさんいたけどさ、これだけ長期間利益を出し続けられるのって、どんな手法なのかな、って」

 和泉は日本酒に口をつけた。かなりの辛口だった。咽が焼けるように熱くなる。

「ディーラーじゃなくてデイトレーダーだから、自己資金で商いをしているわけで。信用取引使うって言っても、一度に発注出来る数量にも限界があるだろう?」

「まあ、そうだよな。一度に何十万株も買えないよな、個人じゃ」

 榊も同意した。日頃からその何十万株の注文を出し続けているだけに、想像しづらいのだろう。

「まあ、負けている日が少ないみたいだから、手堅い手法だとは思うけどね。榊と違って」

「む」榊はお猪口に口を付けたまま、和泉のことを睨め上げた。

「いや、それは善し悪しだろ。俺はたしかにやられになる日も多いけどよ。儲かる日は一気に稼げるぞ。強いと思った日は大引けまで持っていけるからな」榊は胸を張った。「騙しだったら悔しいし」

「ごもっとも」和泉は苦笑いを浮かべながら頷いた。「リスクとリターンが最終的に見合っていれば、後は個人の好みだね」

 榊はディーラーとしては株を保有している時間が長い。強いと思えば、取引開始直後に買って、引け間際までずっと持っていたりする。その分値幅も大きく、一日に何百万円も儲かる日もあれば損する日もある。それでも毎月きちんと利益を纏めてくる辺り、優秀なディーラーであると言える。逆に、そうでなければこの世界では生き残っていけない。

 逆に和泉はポジションをすぐに解消してしまうタイプのディーラーだった。一瞬だけ値下がりしたところを拾ったり、逆に上に跳ねる一瞬を捕まえたりする。瞬間芸だ、とよく榊に評される。値幅が小さいので、大きく儲かることは無いが、大やられもあり得ない。毎営業日こつこつと利益を積み重ねるのが常だった。

「どちらにしろさ、一番大事なのは自分のスタンスを決して崩さないこと。公平に市場中を見渡して、冷静に自分の決めたルールに従って売買すること。それが出来ればやられまくりってことはない」

「まあ、それが理想だよな。ついつい欲出して引っ張ったりさ、特にやられてるときとか取り返したいって思っちゃうもんな。それで予測から希望的観測に変わっちまって、しかも自分でそれに気づかない。ずるずる引っ張って結局凄いやられになる。ディーラーがクビになるのって大抵このパターンだもんな」

 榊が感慨深げに言った。和泉より榊の方がディーラー歴は一年長いし、人脈も広い。会社の求めるボーダーラインをクリア出来ずに辞めたり転職を余儀なくされたディーラーをたくさん知っているはずだ。

「和泉さんでもそういうことってあるんですか?」

「なぜ僕限定なのかは訊かないでおくけど」和泉は栗田の方に向き直った。「一日の商いを振り返るとそんなことばかりだね。どうしてここで買ってしまったんだろう、とか。逆にここでもう売っておくべきだった。そのサインは十分出ていた、なんてのはほとんど毎日だ。結果論って言われたらそうなんだけどさ……」

「まあ、そうやって一日一日と成長していくわけだ」

「榊は商い振り返らないじゃないか」

「わざわざ見直さないと思い出せない商いなんて、思い返す価値は無いね」

 榊はそう言ってまた日本酒をぐいと呷った。

「とはいうものの、ディーラーになった最初の頃は、毎日見返してたけどさ。銘柄も百以上引け後に確認してたし、取引ノートもつけてた。面倒になって止めちゃったけどさ」

「えっ!? 榊さんにもそんな時代があったんですか?」

「当たり前。相場はそんな簡単じゃないの。今は調子良いからやってないけど、儲からなくなってきたらきっと再開するぞ」

 榊が横目で栗田を見ながら言った。

「ディーラーなんて腕一本で食ってるんだ。儲からなくなった時点で行き場が無くなるからな。覚悟しておけよ」




     *




 白石千束は一瞬足を止めた。

 殺風景な部屋だった。パイプ椅子が三つ並べてある。最初に部屋に入った淡雪が一番奥の積に座ったので、少し躊躇したが千束は真ん中の椅子に座った。左隣には続いて有紗が腰掛ける。

 目の前、部屋の中央を横切るガラスの板を見る。会話が出来るように穴が幾何学的に空いている。その向こうに置かれた一脚のパイプ椅子。

 千束は手に持ったハンドバックを膝の上に置いた。そこに両手を乗せて指を組む。バッグには財布や携帯電話など必要最低限の物しか入っていない。何か手土産でも用意してきた方が良かったか、と今更ながら思う。

 今日、留置所に来たのは三人だけだった。事前に確認したところ、一日に面会は一度だけで三人まで、とのことだった。東と瑠夏はまた改めて来ると言って、今日は部室に残り片づけをしている。警察の捜査がようやく終わって、昨日から部室に入れるようになったが、物が押収されたり位置が移動していたりで不便極まりない、と道中淡雪が嘆いていた。

 千束は小さく息を吐いた。二秒ほど呼吸を止めてから、ゆっくりと肺に空気を送り込む。用意してきた話題と目的をもう一度思い返す。

 小さく音がして、ガラスの向こうのドアが開いた。最初に制服姿の警官。続いて天沼が入ってくる。髪はボサボサで無精髭が酷かった。明るく染めた髪の根元だけが黒いのが目立つ。

 天沼はゆっくりと歩いて、ガラスの前の椅子に座った。

「よう」

「お久しぶり」

 淡雪が小さく声をかけた。普段と変わらない口調だった。

「山中が死んだって?」

「ええ。感電死です」

「そうか」天沼が項垂れるように俯いた。「悪い奴じゃなかったんだけどな。残念だ」

 千束はじっと天沼の方を見つめた。天沼が視線を戻し、正面から目が合う。睨み合うようにして、お互い見つめ続ける。先に口を開いたのは天沼の方だった。

「なんでお前等がここにいるんだ?」

「……天沼先輩にお訊きしたいことがありまして」

 千束が答えると、天沼は鼻を鳴らした。

「もう俺にもサークルにも何にも残ってないぞ。稼いだ金は全部持っていかれるだろうし、そうなれば部室だって引き払わなくちゃいけなくなる」

「天沼先輩がkabraですか?」

 千束は天沼の言葉を遮るように突然質問した。

「どうしてそう思う? って聞くまでも無いか。……そうだよ。だったらどうした」

「注文履歴を見せていただけませんか?」

「注文履歴?」天沼が首を傾げた。「そんなもの、見てどうするんだ?」

「ただ、興味があるだけです」

 千束は目を逸らさずに言った。天沼は一瞬視線を横に逃がした。

「君、名前何だっけ?」

「白石です。白石千束」

「どんな興味?」

「はい」千束は準備していた答えを返した。「もちろん商いに対する興味です。取引をする上でのヒントが見つかればと思いまして」

「それならもっと違う方法を考えた方が良いな。いつ、何を、どれだけ、注文したかなんて大した問題じゃない」

「手法とか判断基準とか」千束は一度下唇を噛んだ。「天沼先輩の商いを知りたいんです」

「まるで愛の告白ね」それまで黙っていた有紗が口を挟んだ。「何か見せたくない理由があるのですか?」

「真似をされたくない」天沼は蔑むように千束の方を見た。それから有紗へ向き直った。「同じ手法を使われると、自分が利食うチャンスが減る。まあ、真似出来るとは思わないけどな」

「自信があるんですね」

「もちろん」

「どうして見せ玉なんかを?」

 有紗は続けて質問した。あまりの内容に、千束は少し驚いた。

「俺は見せ玉なんかしていない」天沼はきっぱりと張りのある声で言った。「嵌められたんだ。見せしめのためにな。最近ディーラーやトレーダーの中にかなり怪しい取引をする奴が増えてきた。そういうのを牽制するために、ネームバリューのある俺が生け贄にされたんだ」

 有紗は何も答えなかった。仕方がないので千束は口を開いて、改めて確認した。落ち着いた口調を意識する。

「冤罪なんですか?」

「当たり前だ。大体、俺が見せ玉をする理由なんてない。金に困ってないからな」

「見せ玉って、冤罪が起こりうる犯罪なんですか? 痴漢でもあるまいし……。明確な基準がある行為なのでは?」

 有紗が首を傾げた。

「いいえ」淡雪が代わりに答えた。淡々と説明をする。「一応の目安はあるけれど、基本的には監視委員会の胸一つで決まってしまうものです。名目上は、虚偽の注文で株価を操作する行為の禁止、なので、注文が約定する前に取り消せば、それだけで可能性は出てきてしまいます。もちろん、市場に与えるインパクトやその他の注文を加味したうえで判断されることですが。市場に与える影響などというものが客観的に導き出せるはずがありません」

「そんな曖昧な基準で逮捕までされてしまうなんて……」

 千束は手元を見つめて、呆然と呟いた。組んだままの手の指が白い。

「注文履歴、見ても良いぞ」

 下を向いたままの千束に、少し照れた声がかかった。

「……え?」

「見ても良い。ネットとかには流すなよ。儲かったら飯でも奢れ」

「……はい!」

 千束は顔を上げてにっこりと微笑んだ。ガラスの向こうで天沼はそっぽを向いていた。

 その横顔に淡雪が声をかけた。

「天沼君」

 いつもの柔らかいアルトより、さらに一○○ヘルツくらい低い声だった。波形もサインカーブからほど遠く歪んでいる。

「別に良いだろ。注文履歴だけなら特に実害もないし……。見せてやってくれよ」

「……解りました」

 淡雪が視線だけ千束の方に向けた。

「今日、部室に戻ったらお見せします。ソフトコピーで構いませんか?」

「あ、はい」千束はソフトコピーの意味が解らなかったが、曖昧に頷いた。「お願いします」

「部室って今どうなってるんだ?」

「昨日からようやく入れるようになりました。ただでさえパソコンが押収されている上に、新マシンの組み立てすら出来なくて、酷い目に遭いました」

 天沼の疑問に、淡雪が溜息混じりに答えた。投げ遣りな口調だった。淡雪のそんな態度を初めて見たので、千束には少し新鮮だった。

「ああ……。山中は部室で死んだのか」

「ええ」淡雪は短く答えた。

「事故か? 自殺?」

「解りません。何らかの原因で、高圧電流が流れたようですが」

「高圧? ふうん。何らかとか言われてもな」

 天沼は頭を掻いた。ツートンカラーのぼさぼさの髪が乱暴にかき混ぜられる。ガラス越しだったが、千束は思わず少し身を引いた。

 有紗がまた口を開いた。

「天沼先輩と山中先輩は同期ですよね?」

「ああ。大学一年からのつきあいだった」

「誰か先輩を殺そうとする人に心当たりはありませんか?」

「ちょ、ちょっと、有紗!」千束は慌てて有紗を遮った。「何訊いているのよ」

「何って、至極当然の疑問じゃない」

「おい、それ、どういう意味だよ」天沼がガラスの方に身を乗り出してくる。「山中が誰かに殺されたってのか!?」

「その可能性はあります」

 まっすぐ天沼を見つめたまま、冷静な声で有紗は答えた。

 千束は有紗に、事故の可能性は低いと話したことを後悔していた。天沼に面会に来ることが決まったときに、つい口を滑らせてしまった。誰かと話をすることで、自分の考えを纏めたいと思ったのが失敗だった。

「山中先輩の死体のすぐそばに、スタンガンが転がっていました。何者かが先輩を襲ったとしか考えられません」

 有紗が落ち着いた声で説明した。

「ただ、山中先輩の遺体が発見されたとき、部室には鍵がかかっていました。死亡したと思われる時刻には誰も部屋には入れないんです」

「……」

 天沼は下を向いて何も答えなかった。それを気にした風もなく、有紗は続ける。

「それと、山中先輩はキャビネットのキーを握って死んでいました」

「キャビネット?」天沼が顔を上げる。「俺と淡雪の間にあった奴か?」

「ええ。ただ、鍵は開いていませんでしたし、中身に手を付けられた様子もありません。通帳や印鑑も無事です」

「……」

 有紗の言葉に、天沼はまた黙った。今度は何事か考えているようだった。

「思い当たることは?」

「……ねーよ。あんな奴、わざわざ殺そうとする奴の気が知れない」

「そうですか」有紗は小さく頷いた。「まあ、天沼先輩でないことは確かですからね」

「当たり前だ」天沼は血の気が引いた顔で、それでも唇を吊り上げて笑った。「最強のアリバイだ」




    *




 白石千束は呆然と見送った。

 淡雪と有紗が玄関で靴を脱いでさっさと部屋の中に入っていく。仕方がないので、一度お腹に力を入れてから千束も靴を脱いだ。

 一つ息を吐いて、開け放しのドアからダイニングキッチンに入る。室内はすっかり片付いていた。当然、部屋の真ん中に人が倒れていたりはしない。

「あ、いらっしゃい」ダイニングテーブルについて、いちゃいちゃしていた東と瑠夏が顔を上げる。ただ、二人の距離は離れなかった。「いらっしゃいじゃないか。二人とももうサークルの立派なメンバーだもんな。お帰り」

「東先輩は起き上がりこぼしと言われたことがありますね?」

「え?」有紗の言葉に、東は首を傾げた。「今生まれて初めて言われたけど……。どうして?」

 有紗は答えずに鞄を床に置いて東の斜向かいの席に着いた。淡雪はいつもの、壁際の椅子に座る。それから足下のパソコンのスイッチを入れた。部室に入れるようになったので、早速組み立てたらしい。OSのロゴ画面がすぐに消えてデスクトップが表示される。あまりに速かったので千束は少し驚いた。

「あ、コーヒーでも淹れるよ」東が立ち上がる。

「手伝います」千束は慌てて荷物を置いて、キッチンに向かった。

「良いよ、座ってて」

「いいえ。私たちももう、サークルの立派なメンバー、ですよね?」

 千束はにっこりと微笑んで言った。東が苦笑して受け入れる。豆やカップの場所などを教えて貰いながら、千束はコーヒーを淹れた。作業をしながら、可及的速やかに部室にティーポットと茶葉を常備しようと心に決める。

 カップが全員に行き渡る。一息ついたところで、東が切り出した。

「ええと、天沼先輩の様子はどうでした?」

「お盛んでした」淡雪がパソコンの画面を見ながら答える。

「お盛ん?」東が眉の下がった顔で千束の方を向いた。「どういう意味?」

「ええと、お元気そうでした」

 千束は言葉を選びながら答えた。隣で有紗が声を殺して笑っているのが憎たらしい。

「千束ちゃん、天沼さんに口説かれたんでしょぉ?」

「いえ、あの、そういうわけでは……」

 千束は否定したが、瑠夏は灰色の声で続けた。

「天沼さんはねぇ、良くないんだよぉ。格好良いと思ってるのか、いっつも不機嫌そうな顔してねぇ、でも女の子好きだからすぐ口説くの。お金持ちだから突然プレゼント上げたりねぇ。瑠夏も、最初の頃、いきなりアクセサリとか貰っちゃって、すんごく困ったの」

「最初の頃って」有紗が首を傾げた。「そもそも、平山さんはどうしてこのサークルに?」

「うん、あのねぇ。大学まで健ちゃんを迎えに行ったときにばったり天沼さんと会って。それで、部室に行くって話になったの。そしたらなんだか口説かれちゃったの」

 まるで要領を得ない説明に、有紗がきょとんとした。でもそれ以上は説明を求めなかった。しかし瑠夏は勝手に話を続けた。

「多分ねぇ。あれは最初から下心があったと思うんだぁ。でも、瑠夏は健ちゃん一筋だからねっ」

「まあ、それは。見れば解りますけど」

 千束は一応そう同意した。しかし有紗は小さく鼻で笑った。どうやら瑠夏ではなく自分に向けられているようだったが、理由はよく解らなかった。

「まあ天沼先輩に関しては、ショックを受けているよりは良いのかな」

 東がコーヒーを啜った。有紗がカップを両手で包んだまま、上品に口を挟む。

「そういえば、山中先輩が亡くなられたこと、ご存じでしたね。あまりショックを受けた様子でもなかったようですし」

「警察から事情聴取されたんだと思います」淡雪が横から答えた。

「その割にはスタンガンやキーのことを知らなかったようですが?」

「情報統制が敷かれていたのでは? 色々と話してしまったのは迂闊だったかも知れないですね」

 千束は不安になってそう言った。淡雪はマウスから手を離してカップを持ち、ダイニングの方に向き直った。

「天沼君が知ってはいけない情報があるならば、面会謝絶になっていたはずです。特に問題が起こるとは思いませんね」

「警察は天沼先輩が犯人だとは考えていないということですね?」

「そうだと思います。関係者の中では最も強固なアリバイを持った人物ですし。とは言え、山中君が死亡した時刻には誰も部室には入れなかったはずですけれど」

「カードキーが三枚しかないからですね」

 東が深く頷く。瑠夏がその隣で首を傾げた。

「そっかぁ。じゃあ、どうやって入ったんだろうねぇ?」

「誰も入れないの」有紗が人さし指を立てた。「つまり、誰も入っていないのではないかと」

「じゃあ誰が感電させたのよ。スタンガンがあったんだから……」

「自分でスタンガンを弄っていて感電したのかも」

「まさか……」

 千束は呆れた目で有紗を見た。しかしそこに淡雪が口を挟んだ。

「私は、有紗さんの言う可能性が高いと考えています」

「……え?」

「あのスタンガンは元々部室にあったものですから。もうずっと、ちょうどあのキャビネットの上に置きっぱなしなので存在も忘れていましたけれど。どこかがショートしていて、触っただけで感電したなどということも考えられます」

「え、だって……」千束は困惑した。「どうしてそれを教えてくれなかったんです?」

「警察には既にお話しました。事件当日に、見覚えがないか質問されたものですから。白石さんたちには訊かれませんでしたし、特に話す理由も見当たりません」

 淡雪は事も無げに説明した。カップに口を付ける。こくり、と咽が鳴った。

「それはそうですけど」千束は眉を寄せた。「普通のスタンガンで人が死にますか?」

「考えづらいとは思いますが」淡雪はたおやかに微笑んだ。「誰かがここに侵入して、一つも痕跡を残さず山中君を殺し施錠して出ていった、と考えるよりは可能性が高いという判断をしているだけです。もちろん、確証はありませんし、私が判断する事柄でもありませんが」

 千束は黙ってコーヒーを飲んだ。少し苦い。塾のコーヒーとは豆が違うのだろうか、と疑問に思う。

 有紗が剣豪のようにゆったりと口を開いた。

「ちなみに、今、天沼先輩と山中先輩のカードキーはどちらに?」

「両方とも警察に押収されちゃった。でも返して欲しいってお願いしてる。いくら淡雪先輩が部室に入り浸ってるとはいえ、一枚だけじゃ不便だからね」

「合鍵って作れないんですか?」

「マンションの管理会社に言えば発行してもらえるらしいけど。何万円もかかる上に、納期も三週間くらいだったかな。手元の鍵から複製は出来ないって言ってた」

「そうなんですか……」

「本格的にサークルで活動するようになったら作りましょう。もちろん、費用は自己負担ですけど」

「そ、だから俺は作ってないの」

 淡雪の言葉に、東がおどけて言った。

「ところで、千束さん。注文履歴はどのくらい必要ですか?」

「あ、ええと」千束は逡巡した。「全部、では駄目ですか?」

「……可能です。けれど元々の注文数が多いので凄い量になりますよ? 五年以上ありますし相場環境も今とは全く違いますから、あまり参考にならないのではないかと」

「あ、そう、そうですよね」千束は和泉と榊の会話を頭から引っ張り出した。「では、ここ二年分では?」

「解りました」

 淡雪は自分の財布から金属製のキーを取り出した。足下に三つ積んである金属製のボックスの二段目の鍵穴に差し込む。

「そのボックスって、何が入っているんですか?」

「データです。下の二つは注文の履歴やPCのバックアップ。一番上には私のアルゴリズムがバージョンごとに入っています」

 淡雪は指の具合を確かめながら、有紗の問いに答えた。

「安全性を考えると、多重バックアップした方が良いんですけど、情報漏洩のことを考えるとなかなか難しいんです」

 淡雪は今度は慎重にボックスの引き出しを開くと、中には不織布に包まれたディスクが大量に詰まっていた。どうやら、ディスクを仕舞う専用のボックスのようだった。淡雪はラベルを見ながらディスクを漁っていたが、やがてその中から二枚だけを机の上に置いた。順番にパソコンのドライブにセットしてファイルを取り込む。

「千束さん。パソコンのメールアドレスはありますか?」

「はい」

 千束はパソコンの方に行った。淡雪が立ち上げたメーラーに、自分のアドレスを入力する。淡雪がそれに、暗号化したファイルを添付して送信した。口頭で伝えられたパスワードを携帯電話のメモ機能に控えておく。

「千束さん。この情報をネットに流したりしないと約束して下さい。ウィルスに感染して流出などという事態にも注意して下さい」

「はい、解りました」

 いつになく力の籠もった淡雪の声に、千束は鹿威しのように神妙に頷いた。

「その注文履歴って、そんなに大事なものなんですか?」

「個人のスタンスに拠りますが、私はとても重要だと考えています。注文履歴にはディーラーのすべてが集約されていると言っても過言でないと思っていますから」

「ふうん。私には今一つピンと来ませんけど……」

 有紗が首を傾げる。淡雪は小さく笑って言った。

「そうですね、有紗さんの服のカタログくらいの価値はあります。たとえ、ご本人が映っていなくても」

「ふむ」有紗が唇の端を持ち上げた。「私のヌードよりは価値があるわけですね」




     *




 和泉隆平は興奮していた。

 引け後、情報端末のチャートを開いて日課のチェック作業を終えた。それから会社のプリンタを借用して千束から届いたメールの添付ファイルを印刷する。二年分だったがかなりの分量になってしまった。紙の束を抱えて自分の席に戻ると、栗田が訝しげな目で見ていた。榊は既に退社している。

 チャートと見比べながら売買したポイントに点を打ち、線を引いていく。かなり手間のかかる作業だったが、まるで苦にならなかった。

 見ている銘柄が圧倒的に多い。コア30に採用されているような大型株はもちろんのこと、仕手株や新規上場株、新興市場にETFまで、市場の隅々まで目を光らせている。和泉が知らない銘柄もいくつかあった。

 口元が緩んでいることを自覚して、和泉は意識的に顔を引き締めた。見ているだけでとても面白い。

 手口としてはトレンドフォローのようだった。入っている日はほとんどが長い陽線を出しているので、かなり強い動きだったことが解る。

「うーん」

「それ、何見てるんですか? さっきから楽しそうですけど」

 うなり声を上げると、栗田が声をかけてきた。

「ええと」和泉は逡巡した。千束から、他の人には絶対に見せないこと、と言われていた。「まあ、卑猥な画像ではない」

「卑猥な動画?」

「プリントアウトするの? パラパラ漫画にして再生するのかな……。斬新な閲覧方法だね」

「卑猥な小説?」

「卑猥から離れようよ」

「先に言い出したの先輩じゃないですか」栗田はニヤニヤと笑った。「そうですよね、大学生になったばかりの可愛い彼女がいるお方には必要ないですよね」

「だからね……」和泉は精神的に頭を抱えた。「この間の天麩羅代、半額出してみる?」

「いや、ごちそうさまでした」

 栗田はそう言って大仰に手を合わせた。

 先日飲みに行った天麩羅屋の会計は和泉と榊が半額ずつ出した。しかし領収書は榊の名前で全額発行して貰った。和泉は契約社員扱いだが、榊は個人事業主になっている。確定申告のときに使うために、食事に行くたびにこまめに領収書を集めている。

「まあ、来年くらいには、頭割りで出せるくらい稼いでいるか、クビになっているかどっちかだと思うけど」

「ちょ、プレッシャーかけないで下さいよ」

「いやいや」和泉は少し真面目な顔を作った。「そのくらいの覚悟じゃないと。それでもディーラーなんて恵まれてる方だよ。デイトレーダーなんかだと、クビどころか借金塗れになる可能性だってあるんだからさ……」

「……はーい」

 栗田は若干不満そうに頷いて、自分の画面に戻った。毎日きちんと自分の商いを振り返って、目ぼしい銘柄のチェックもしているようだ。引け後に質問されることも多い。

 和泉も自分の画面に集中する。kabraの商いを追っていくが、やはりどの商いを見ても強い銘柄にばかり入っている。出来るだけ広く相場を見渡して、強い銘柄にだけ入る。あまり欲張らずに確実に儲かるところをこまめに拾う、というアプローチのようだった。デイトレーダーはディーラよりも手数料が高い所為か、銘柄を持っている時間は長めのようだ。しかしオーバーナイトして翌日に持ち越していることは一度もない。

 その日の底値で買ったり高値で売ったりということはあまり多くなかったので和泉には少し意外だった。むしろ底値を付けて切り返したのを確認してから慎重に入り、流れが変わったと見るやすぐに売却、というパターンが多い。持っている時間の割に値幅はあまり取れていないが、勝率が圧倒的に高い。

 和泉もディーラーの中では勝率が良い方だが、それでもkabraには一割近く差を付けられている。値幅は広く取れているが、そもそも見ている銘柄数が段違いなので商いの回数が勝負にならない。ただ、一度の注文数量は和泉の方が多いため、最終的な損益はほとんど変わらない。同業者とディーリングについて話をする機会も多いが、こういうタイプの商いをするディーラーは見たことが無かった。

「……?」

 夢中になってkabraの商いを追い続けていると、やがて変化が出てきた。半年前くらいに突然利益が激減している。特に相場が悪い時期でもないので意外だった。

 少し調べてみると、商いの回数が減っているのが原因のようだった。注文件数自体にはほとんど変化がないが、約定率が下がっている。スピードで押し負けている。そんな印象だった。

 和泉にも、踏ん切りがつかずに躊躇している間に買われてしまい、悔しい思いをしたことは何度もある。大抵、元々調子が悪く自信が持てないときに陥りがちなスランプだ。

 しかしkabraにそんな引き金になるような日は見当たらなかった。ある日を境に、急に約定率が下がっている。もっとも、数字に出なくても本人の中で手痛い失敗だと認識している場合も多々ある。また、仕事以外の部分で心配事が出来て、取引に集中出来ていない可能性だってなくはない。

 和泉はどんどん商いを追っていく。出した注文が約定しないので、取り消しも増えている。それでも成績は少しずつ改善し、一人前のディーラーとしてやっていける程度の稼ぎは楽々出している。会社にピンハネされないことを考えると、一月の稼ぎとしてはかなりのものと言える。

「……?」

 段々異質な注文が増えてくる。今まで新しくポジションを取るときは一括で注文を出していたのに、買い増しや売り乗せが出てくる。それも、二度目の方は注文数量が多く、その上まったくと言って良いほど約定していない。出しっぱなしのまま反対売買をして損益を確定させ、思い出したように二度目の注文を取り消す。

 どう見ても見せ玉だった。

「ううん?」

 和泉は首を傾げた。今一つ、解せなかった。

「ん?」

 ポケットの中で携帯電話が震える。取り出してみると着信だった。発信者は千束だった。

「もしもし?」

「あ、和泉先生?」

 弾んだ声が返ってくる。通話しながら席を立ち、廊下に出る。引け後の廊下はまったく人気が無かった。ほとんどのディーラーはすでに退社している時間だ。

「今、お時間大丈夫ですか?」

「うん、平気」

「良かった……」

 和泉は廊下の隅、壁に寄りかかった。

「そうそう、送って貰ったkabraの注文履歴。今見てるよ」

「あ、本当ですか?」

「うん。とても興味深いよ……。本当にありがとう。何て言うのかな、すごく見ていて面白いし、参考になる」

「良かったです……」

「何か、お礼をしなくちゃね。何か欲しい物とかある?」

「え? 別にそんな、いいですよ」

「遠慮しなくても良いよ。まあマンションが欲しいとか言われても困るけどさ……」

「いえ、本当に。先生に喜んで貰えただけで嬉しいです」

 千束の声の後ろ、押さえた笑い声が聞こえる。千束が何かしら動いた気配もした。どうやら誰かと一緒にいるらしい。

「まあ、何か考えておいて」和泉は一旦引いた。「それで、何か用事があったんじゃないの?」

「あ、ええと」千束が言い淀む。「今晩、お時間ありますか?」

「今晩?」和泉は千束の塾の時間割を脳の端から引きずり出した。「もしかして、また代講?」

「いえ、違います!」千束の声が高くなる。恥じるような間があった後、少し早口に続けた。「あの、お食事でもご一緒できたらと思って。塾の授業なんかについても窺いたいことがありますし……」

「お食事ね」和泉は一瞬考えた。「喜んで」




     *




 和泉隆平は油断していた。

 夕方の千束からの電話の後、和泉はkabraの注文履歴をチェックする作業に戻った。逮捕された日までざっと見終わってから退社する。喫茶店に立ち寄って少し居眠りしてから、千束の授業が終わる時間に合わせて自由が丘の駅に降り立った。

 南口の小さい改札から駅を出る。一月ほど前まで毎週通っていた道をなぞって塾に向かう。塾まで五○メートルくらいのところで、見覚えのある後ろ姿に出くわした。一瞬誰だったか思い出せなかったが、なんとか記憶の底から引っ張り出した。

「こんばんは」

 二人が振り向く。

「遅くまでお仕事、ご苦労様です」

「講師の、和泉先生でしたか」若い方の刑事、加藤が口を開く。

「覚えていただけたようで何よりです」和泉は大仰にお辞儀をしてみせた。「ついでに僕がお伝えした内容も覚えていて下さればもっと嬉しかったんですけど」

 和泉の言葉に、しかし二人は何も言わなかった。表情も全く動いていない。材料の出ない低位株みたいだな、と和泉は思った。

「なぜこんなところまで? わざわざ川まで渡って」

「ええ、ちょっとした野暮用ですが。和泉さんこそどうしてこちらへ? 学習塾の講師は、三月末で辞められたと伺っておりますが」

「ええ、ちょっとした野暮用で」

 和泉は意識して小さく微笑んだ。相変わらず刑事たちの表情は動かない。少しだけ、和泉は感心した。

「和泉さんの本業は、証券ディーラーだそうですね」

「よくご存じで」

「私などはその手のことに疎いのですが、株を売買して利益を出すお仕事だとか」

 和泉は黙って頷く。加藤は気にした様子もなく、話を続けた。

「デイトレーダーなんかと、やっていることは同じだそうで」

「そうですね。基本的には」

「凄いデイトレーダーなんかだと、一度に何万株も扱うとか。私なんかにはまるで想像出来ません。市場に与える影響も大きいんでしょうね」加藤の目許が、少し動いた。「それに巻き込まれて損失を出したディーラーなんかもいたりして」

 和泉は目を瞬かせた。

「……いるでしょうね。逆にディーラーの注文で借金塗れになったデイトレーダーも大勢いると思いますが」

「……なるほど」

 加藤はそう小声で言った。和泉の顔からまったく視線を逸らさない。

 和泉には思いも寄らなかった発想だった。もちろん、大きな注文に巻き込まれて損失が出てしまう場合も多々存在するが、それが誰の注文だったのか知る術はない。そもそも、ディーラーやデイトレーダーはある程度、損失を出すリスクを許容しながら取引をしているものだ。

 しかしそのことを和泉は告げなかった。kabraは商いした銘柄を頻繁にネット上に書き込んでいたし、同じ銘柄をやっていれば逆恨みするディーラーも出てくるかも知れない。ただ、殺害されたのは彼の同級生だと和泉は聞いている。取引はしていたらしいが、あまり目立った成績ではなかったらしい。

「ええと」和泉は微笑を浮かべた。「お二人は見せ玉とか、金取法関係もご担当されていらっしゃるんですか?」

 答えは判りきっていたが、和泉はわざわざ質問を口にした。

「……どう思われますか?」

「少なくとも、もう一つの方は担当しているようですね。感電死の……」

「……」

 加藤は口を噤んだ。和泉は明るい声で続ける。

「同じサークルの中で、一人が金商法で逮捕。その直後に別の一人が変死。ちょっと偶然とは考えづらいですかね。新入生が入部したばかりというのも気になるところですか。まあ、年度が始まったところだから、入部する時期的には何もおかしくないのだけれど……」

「和泉さん」

 ずっと黙っていた袴田が口を開いた。深いバリトンだった。

「二つの事件が関係しているのかどうかはまだ判っておりません。金商法の違反については過去の取引などから実体が明らかになるでしょう。感電死の方も事件性も含めて、必ず何が起こったのか明らかにして見せます」

「ええ」和泉は微笑を浮かべたまま二度頷いた。「もちろん、そう願っています」

「今日は引き取りますが」加藤がまた口を開いた。「先生は物理も教えていたそうですね」

「おい」

 中年の刑事が口を挟む。

「失礼しました。お時間も取らせてしまって」

「いえ、話しかけたのはこちらですから」和泉は唇の端を持ち上げた。「ちなみに教えていた教科は数学と理科、それと英語です。物理だけでなく化学や生物もなんとか教えられますけれど」

「……では。白石さんにもよろしくお伝えください」

 二人の刑事は連れ立って駅とは反対の方にあるいていった。途中、二人が何かを話していたが、内容までは分からなかった。

 和泉は小さく頭を振って歩き出した。最後の授業が終わって四十分ほど立った塾の玄関にはまるで人気がなかった。白石のような奇特な生徒はいないようだ。

「あ、和泉先生……」

 玄関のドアを開けて中に入ると、千束が講師室から顔を覗かせた。

「ごめん、少し遅れたね」

「いえ、あの、お気になさらないでください」千束は少し眉を下げた。「実はもう一人、友人が来ることになっているんですけど。彼女も遅れていて……」

 和泉は講師室を覗き込んだ。他の講師は誰もいなかった。千束がその脇をすり抜けて自分の机に向かっていく。

「ええと」千束は鞄から携帯電話を取りだした。「少し待っていて下さい。連絡してみます」

「ああ、うん……」

 和泉は曖昧に頷いて、壁に寄りかかった。頭を占めているのは先ほどの刑事との会話だった。

「もしもし」千束が電話を耳に当てて話し始める。「ちょっと、今どこにいるの?」

 千束の口調に棘がある。珍しいな、と和泉は思った。

「来られなくなった? そんな勝手な……。だって今日は元々貴女が……」

 千束がちらりと和泉の方を見る。目が合うと、慌てて目を逸らした。

「……ええ、解りました。……まさか。はいはい。じゃあ、また明日」

 千束は少し乱暴に電話を切った。それから一つ大きく息を吐いた。おもむろに和泉の方に向き直る。

「あの、先生。もう一人なんですけど、来られなくなったみたいです」

「そう。体調不良か何か?」

「いえ。愛馬に餌をあげないといけない、って言っていました」

「愛馬? それは……。すごいお嬢様なの?」

「違います。……いえ、局所的にはお姫様ですけど。馬を飼ってもいませんし、乗馬が趣味ということもありません」

「ふうん……。なんだか良く解らないけど」和泉は首を傾げた。「じゃあ、もう出られる?」

「あ、はい!」

 千束は少し弾んだ声で返事をした。簡単に荷物をまとめて講師室を出る。灯りなどのチェックをした後、外に出てしっかりと戸締まりをした。

 和泉は通りに出たところで周囲を見渡した。しかし、塾の方へ注目を向けている人物は見当たらなかった。

「ところで、どこか行く当てはあるの?」

「いえ。あんまり考えていませんでした。全員集まってから相談しようかと思っていたんですけど」

「そう。なら適当に入ろうか。この時間じゃ候補は限られると思うけど……。何か食べたいものはある?」

 話しながら、和泉は頭の中でこの近辺の店をざっと検索した。しかし二十二時から入れそうな店は居酒屋かファミレスばかりだった。勿論食事するのに問題はないし、誘われた方の身としては店の選択に気を遣う必要はないのだが、kabraの注文履歴の件もあって少し気が引けた。

 和泉は考えながら、とりあえず駅の方に歩き出した。右斜め後ろ、二歩半ほど距離を空けて千束がついてくる。

「ええと」千束が声をかけた。「その……」

「何でも良いよ。食べたいもの」

 和泉は首だけで振り向く。千束は足下に視線を落としていた。

「白石君?」

「……先生のお宅はどうですか? 私が何か作ります。途中でスーパーに寄って……」

「え?」

「駄目ですか?」

 千束が顔を上げてじっと見つめてくる。和泉は微妙に視線を逸らしながら自宅に思いを馳せた。つい昨日のことが頭をよぎる。

 万が一のことを考えると非常にリスクが高いように思われた。予想されるリターンに見合うとはとても思えない。期待効用はマイナス方向に大きく振れた。

「ちょっと難しいかな。散らかってるし、何より君に悪い」

「別に悪くなんてないですけど」千束は頭を振った。「じゃあ、外にしましょうか。私、和食が食べたいです」

「和食ね」

 和泉は自由通り沿いの小料理屋に行くことにした。純和風の小洒落た店で、魚が美味しい。和泉の行きつけだった。

 古めかしいガラス戸から店に入ると、平日なのに少し混んでいた。顔見知りの女将の案内に従って、カウンターに並んで腰掛ける。時間が遅いのでビールと食べ物をまとめて適当に注文する。

 すぐに運ばれてきたビールで乾杯してから、和泉は口を開いた。

「夕方に電話でも言ったけど、本当にありがとう。注文履歴、本当に面白かったし、参考になった」

「いえ。私はただ、見せていただけるように頼んだだけですから」

 なぜか千束がにこにこと笑っているので、和泉は問いかけた。

「どうかした?」

「いえ」千束は笑顔のまま言った。「先生が、何かを面白いって言うの、初めて聞いた気がします。その、普段のジョークとか以外で、という意味ですけど」

「……ああ」和泉は首を傾げた。「そうかもしれない」

 和泉はお通しに手を付けた。千束も箸を割っている。ご機嫌な声で千束が訊く。

「注文履歴のどんなところを見ているんですか?」

「そうだね……。特にどこということは無いけど、全体的な傾向かな。数が多かったんで、kabraの商いの特長はかなり掴めたと思う。珍しいタイプの商いをする人だね」

「そうなんですか」千束は空中を見上げたまま言った。「どんなところがですか?」

「まず、見ている銘柄が多いし、一つの銘柄に粘着しない。ディーラーなんかだと、得意銘柄みたいなのがあって、一日に同じ銘柄だけを繰り返し売買していたりするんだけど、そんな感じが一切無い。業種も価格帯もばらばらの銘柄を並行して持っていたりするのも特長だね。先入観がまるで無いみたいだった」

 そう説明しながら和泉は、最近株式やディーリングについて話をする機会が急に増えたな、と思った。元々仕事にはしていたが、人に説明することは昨年度までほとんどなかった。ただ、塾講師の経験があるおかげで人に説明することを苦にはしていない。

 料理が運ばれてくる。刺身の盛り合わせと、季節の野菜の天麩羅だった。

「売り買いのタイミングはすごく丁寧だね。逆に言うと、一度に大儲けは出来ないタイプ。下がってた銘柄が切り返したのを慎重に確認してから入って、少しでも流れが変わったら欲張らずに利益確定。多分、自分で決めたルールがあって、それを忠実に守っているんだろう」

「それは、どんなディーラーやトレーダーでも同じなのでは? 明文化、というか言語化されているかの違いはあるでしょうけど」

「まあ、そうなんだけどね……。でも人間のやることだから。負けているときはどうしてもムキになって取り返そうとするし、勝っていても調子に乗って引っ張りすぎてしまうことも多い。そういう希望的観測に陥らないように、自分をコントロールするのが上手なんだろう。ただ……」

 和泉が言いよどむ。赤身の刺身を箸で摘んでいた千束が訝しげに和泉の顔を覗き込む。

「見せ玉は本当だ。明らかに意図的に虚偽の注文を出して取り消している。まったく約定させる気が見えない」

「そうですか。本人は否定していましたけど……」

「え? 逮捕されたんじゃないの?」

 千束は天沼に接見しに行ったときのことを大まかに説明した。わざわざ留置場まで行ったと聞いて、和泉はかなり驚いた。

「ふうん……。でも、いくら否定したところで難しいだろうね。儲かっていないとはいえ、あからさますぎる」

「え? わざわざ違法なことをしているのに儲かってないんですか?」

「うん。そもそもね、スタートからして間違っているんだよ」和泉はビールのグラスを傾けた。「良いタイミングで買えればさ、見せ玉なんてやらなくても値上がりするからちゃんと儲かる。逆に言うと、変なところで買ってしまったから、見せ玉をしたくなる。違法だって解ってるのにやりたくなるような状況に追い込まれた時点で、もう勝ち目は薄い。少しくらい偽の注文を出したところで流れを変えるのは難しいね。実際、kabraの稼ぎのほとんどは普通に商いして得た利益だ」

 千束は目を丸くして聞いていた。刺身を醤油に浸したまま箸もすっかり止まっている。和泉が天麩羅に手を出すと、彼女もようやく赤身を口に入れた。

 和泉は天麩羅が好きである。この、小麦粉の衣で素材を包んで油で揚げるという、複雑な手順を最初に編み出した人は一体何を考えていたのだろう。和泉にはその思考パターンがどのように生まれたものかまるで想像もつかないが、その恩恵は十二分に享受している。

「確かに半年くらい前から成績はちょっと落ちていたけど、見せ玉なんてする必要ないくらい儲かっていたみたいだったんだだけどな。どうしてあんなことしたのか理解出来ない。kabraくらいになれば、そんなことしたって儲からないって解ってるはずなのに……」

「評判を気にしたのかも知れません」千束は三秒ほど考えてから言った。「プライドの高い方のようでしたし。ネット上での名声が大事だったのかも」

「ううん」和泉は蝙蝠のように首を傾げた。「まあ、想像したって仕方がないことか。本人も否認しているんだし」

 女将がラストオーダーを聞きに来る。二人は首を振って食事に本腰を入れ始めた。時折、塾の授業について話をする。今のところ、大きな問題は起こっていないようだ。生徒のあしらい方についていくつか助言をする。

 閉店間際に二人は食べ終わった。

「ごちそうさまでした」

 和泉がカウンターの中に声をかけると店員がお勘定を持ってくる。和泉は一瞥してカードを渡した。

「あ、半額出します。お幾らでした?」

「別に良いよ」

「いえ、今日は私がお誘いしたんですし……」

「あのね、白石君」

 和泉は思わず目を瞑った。勉強以外については、教えることはまだまだたくさんあるようだった。日光の猿の様に頭を抱えながら諭す。

「一応後学のために言っておくけど、こういうときは黙って奢られておきなさい。値段も訊かない方が良い。それに、店内でそういうことを言うと、男の面子に関わるからさ……」

「……ええと」千束はきょとんとした。「はい」

 カードを返しに来た女将がくすくす笑っている。それを気にしながら和泉はサインをした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る