第四章(五)

 ルチアは前方の壁に立ち並ぶモニターから、一つの画面を選び出し、そこに集中しようとしていた。これから始まるドラマを監督するためだ。緊張しているせいか、眼鏡が曇る。

「ちょっと皆、静かにして。今から、極力物音も立てないでちょうだい」

 ヒステリックに叫ぶルチアの言葉に従い、この部屋で働く数人の女性たちが、お喋りをぴたりと止めた。

「ルチア、もう少しリラックスして。ディレクターのあなたがそんな様子じゃ、この仕事の先が思いやられるわ」

 ルチアの補佐役のアグネスから紅茶のカップを渡された。いつも冷静な彼女の言葉に少し平常心を取り戻した。大学からの付き合いだから、もう十年近くになるだろうか。彼女の冷静さにはいつも助けられていた。この仕事を大学の先輩から誘われた時も、メンバーにアグネスを真っ先に推薦したくらいだ。

「ごめんなさい。この仕事は短期決戦だから、気が抜けないのよ。でも少し、肩に力が入り過ぎていたみたいだったわ。ありがとう」

「あなた一人じゃないのよ、皆がサポートしてくれるわ」

 彼女の微笑みに、微笑み返す。

「皆、聞いてちょうだい」ルチアは立ち上がり、部下の女性たちに向かった。さっきまでの、ヒステリックな表情は消えている。「このドラマは一発勝負。やり直しはきかないの。一瞬の油断が、取り返しのつかない事態になりかねません。全神経をドラマに集中して取りかかって下さい。以上です」

 部下たちを見るとあの浮ついた感じが消えている。ルチアの真剣な表情に打たれたのだろう。それを確認するとルチアは再び席に着いた。

 横に座っているアグネスにそっと耳打ちする。

「あなた、いいカウンセラーになれるわ。ディレクターもあなたがやれば良かったのに。私には向かないのかも知れない」

「何言ってるの。私には、あなた程の判断力はないわ。補佐役が似合ってるの。それより、いよいよ役者の登場よ。集中して」

 モニターに役者たちが映る。ルチアはヘッドホン型のマイクを通して、役者たちに指示を飛ばす。

「打合せ通り、ワンシーン、ノンストップで行います。途中のアクシデントは、アドリブで回避して下さい。台本から逸脱した時は、こちらから指示を出します」

 主役が登場して芝居が始まった。

「ここまでは台本通りね。主役の娘も期待以上だわ」

「待って」アグネスの言葉を否定して、ルチアが言った。「主役の娘の様子がおかしいわ。台詞が詰まってる。パートナーに指示を出して」

 アグネスが即座に反応する。

「その娘をサポートして。考える時間を与えてあげて」

 アグネスが、マイクで主役のパートナーに指示を飛ばす。役者はイアホン型の受信機で、指示を受け取る。

 その声を聞きながらも、ルチアは芝居全体に、神経を集中している。

「もう少し、表現をおさて」ルチアが相手役の男に言った。「それにあなただけが喋ってもしょうがないわ。もっと彼女に話しをさせて」

 芝居の細部に至り、細心の注意をはらっているルチアの肩を叩く者があった。驚いたルチアは、びくりとして振り返った。

「邪魔して悪いわね。様子が気になったの」

 立っていたのは、ルチアをこの仕事に誘った大学の先輩。このドラマのゼネラルプロデューサーだった。

「現在のところ順調です。ただ、主役の彼女の感情表現に波があるので、ストーリーに多少の修正が必要だと思います」

 視線をモニターに戻し、説明する。

「そうね。相手役の男の台詞が弱いわ。もっと残酷でもいいわね」

「それでは、主役の性格上、対立の構造が成り立たなくなるんじゃないですか」

「いいえ、彼女はそんな、弱い娘じゃないわ。大丈夫よ」

 プロデューサーの言葉に不安を残しながらも、相手役の男に強く出るように指示を出し、主役の様子を見る。

「いいわこのまま続けて。後は任せたわよ」

 そう言うと、プロデューサーはルチアの席から離れた。

「どこに、行かれるのですか」

 振り返り、ルチアが尋ねる。

「あなたなら、大丈夫よ」ルチアの、不安な心を察したのか、プロデューサーが微笑んだ。「私の出番はまだ先でしょ。それに、私には、別のドラマがあるの」


 ケーブルテレビの宗教チャンネルでは、いろんな形式で各伝導師が活躍している。ある伝導師はまじめな説教をし、別の宣教師はドラマ仕立で教えを説いている。まるで一種のパフォーマンスだ。

 街頭でもカルト教団の伝導師が毒蛇を体に巻きつけて、パフォーマンスを繰り広げているを見た。花暖は気持ち悪がっていたが、亜麗亜は面白かったのでしばらく見ていた。後で聞いた話しだがその伝導師は、説教中に毒蛇に噛まれて死んだらしい。

 オペラなども、キリスト教を基盤とした歌が多く、亜麗亜も少なからずキリスト教の影響を受けているが、亜麗亜にとって宗教とはお伽噺であり、パフォーマンスなのだ。今回の教皇様の件も、亜麗亜には面白そうなイベントとしての要素が大きかった。ヴァティカンに行けば、楽しい伝導師などに会えると心の隅で思っていた。前回、サンピエトロ広場で行ったコンサートの時は、歌っただけで時間が無くて、遊びに出掛けられなかったから、余計にその気持ちが強い。

 でもアメリカに来てから、軽率な行動をしたのではないかと後悔し始めている。こんな遊び気分で来て良かったのだろうかと。しかも、自分は声が出ないのだ。未散が治してくれると言ったが、未だに治療らしきものは、行われていない。

 テレビの伝導師も次の人に変わりつまらない説教を語っている。面白くないのでテレビを消した。窓に視線を移すと雨が降りだしてきた。しばらく雨の降る様子を眺めていた亜麗亜は、口を大きく開け声を出そうと息を大きく吸い、下腹に力を入れて一気に吐き出した。

 やはり声は出ない。出るのは奇声だけで、以前のようなあの透き通った声には程遠かった。言葉にすらならなかった。

 悲しくて情けない感情が膨らみ、それと同時に怒りと焦りが爆発した。

 さっきまで握っていた、テレビのリモコンを拾いあげ、奇声を発して、テレビに向かって投げつけた。リモコンはテレビの角に弾かればらばらに飛び散った。

 次の標的は、ソファーのクッションだ。リモコンの破片を握りしめ、クッションを切り裂く。切り裂いた裂け目から中身を引きずり出し、泣きながら部屋中に撒き散らす。

 それが終わると、窓に掛かったカーテンを体に巻きつけ、そのまま、全体重を乗せて、引っ張る。カーテンはレール部分からちぎれ、亜麗亜はそのまま前に倒れ込んだ。

 そこで亜麗亜は動くのを止めた。カーテンにくるまったまま、その場にうつ伏せになっていた。ややあって、体を起こして膝を抱えて座る。巻きつけたカーテンの間から右手を出した。赤い物が流れていた。リモコンの破片で切ったのだろう。しかし、亜麗亜は気にならなかった。さっきまでの激昂した気持ちとは反対に、もう死んでも良いと思えるくらいに無気力になっている。

 座っているのにも疲れてそのまま横に倒れた。その拍子に頭に何かが当たった。首だけを動かして、その物を確認する。

 ヴァイオリンだった。未散が治療用だと言って、用意していた物だ。他にも楽器やCDなども置いてある。ヴァイオリンは確か、テーブルの上にあったはずだが、亜麗亜が暴れているうちに、絨毯の上に落ちてしまったのだろう。

 起き上がりヴァイオリンを恐る恐る手に取る。今までヴァイオリンに近づくのは嫌だった。祖父を思い出すからだ。

 亜麗亜はおもむろにヴァイオリンを顎に当て弓を引いた。落ちた時に、調律が狂ったらしく、音は悪い。しかし、亜麗亜は気にしなかった。更に弓を動かし、音を鳴らす。曲を弾いているのではなく、無茶苦茶に指を走らせて騒音を掻き鳴らしている。

 それは、弦が全て切れるまで続いた。

 亜麗亜は、茫然と立ちつくし、窓の外を眺めていた。ふと気付くと、窓に付いた雨粒が、奇妙な幾何学模様に並んでいる。

「クラドニの音響図形って言うのよ」振り向くとミチルが立っていた。「ヴァイオリンの音が、窓ガラスに伝わって、その振動周波数によって、雨粒がそんな風に並んだのよ。板の上に砂や粉を撒きながら、板を擦ると同じ現象が起きるわ」

 未散の手には、ファーストエイドボックスが握られていた。未散に促されて絨毯の上に座る。未散に怪我をした右手を取られ治療を受ける。消毒をされ、ガーゼと包帯を巻かれた。その間ミチルは、この部屋の惨劇を気に留める事が無いかのように、無言で淡々と治療を進めていた。

 ミチルは治療が終わると亜麗亜を抱きしめ言った。

「お姉ちゃんに、会いに行こうか」


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