第38話 平安時代にタイムスリップしたら藤式部になってしまいました

 一条戻橋は、堀川を渡る橋として一条大路に架けられた橋である。

 だいぶデザインは変わってしまったが、現代の京都にも残っていた有名な橋だ。晴明神社……つまり、国時さんや安倍晴明の住む邸もこのすぐ近く、一条にある。

 いよいよ……もう間もなく、月蝕の時間がやって来る。

 もちろん、この月蝕で私が元の世界に帰れるという保証はない。もしかすると、タイムスリップした日と同じように日蝕という条件でないと帰れないのかもしれないし、そもそも日蝕も月蝕も時空の歪みに関係ないのかもしれない。

 まずは、それを確かめる……。

 私自身は、そんな気持ちで一条戻橋を眺めていた。

 もちろん、それはこの時代に、式部さんに、心残りがあったためである。

 月が欠け始める前は、満月のため月明かりだけで随分と道は明るい。牛車を守る従者や牛飼いわらわたちが松明を手にしてはいるが、松明の灯りなどなくとも橋の全貌を確認できるほどだ。

 これは、私がこの時代の明るさに慣れたせいかもしれない。

 牛車の中から、一条戻橋と月の様子を交互に見つめる私の元に、馬に乗った国時さんが近付いて来た。

「我が君」

 牛車の横についている窓の部分から、馬に乗ったまま国時さんが話しかけてくる。

「何か変化がありましたか? 空間に歪みが?」

「いえ……あの、もう少し、この物見窓にお顔を近づけていただけませんか? 周りに聞かれたくないものですから」

 何だろう?

 陰陽師として、従者たちには知られたくない術の話でもあるのだろうか……。不思議に思いながらも、私は言われるがままに物見窓へと顔を寄せる。

「これでよいですか?」

「はい。小さな声で言います。我が君、あなた様も小声で……周りに聞こえないように答えてください。私には飾る必要も我慢する必要もありません、どうか本心をお聞かせ願いたいのです」

 なんだろう……ますます訝しく思いながら、私は国時さんの言葉の先を促す。

「わかりました、質問は何ですか?」

「我が君……もし、この先時空の歪みが生じたとして……あなたの幸せは元いた世界にありますか?」

「え……?」

「私には、我が君のいた未来が、どのような世界なのか皆目見当がつきません。しかし、きっと今の時代よりは、暮らしやすい世界になっていることでしょう。それでも……そんな世界に帰ることを先送りにしてでも……式部殿の身代わりとして中宮様の元に出仕されることを望まれるのであれば……私は愛しい姫君にとって最善の道を切り拓いて差し上げたいのです」

「国時さん……でも……」

「今なら間に合います。周防」

 国時さんは、物見窓から周防へと声を掛ける。

 周防はしたり顔で、漆塗りの箱を私の前へと差し出した。

「これは、化粧箱でございます。もし、姫様がここで中宮様のもとに出仕されることを選ばれるのであれば……この周防が持てる技術の粋を尽くして、出仕するにふさわしい身支度を調えて差し上げとうございます」

「周防……国時さん……」

 私は、またも溢れて来る涙を抑えることができない。

 なぜ、この時代の人たちは、このように優しいのだろう……。

 この優しい人たちを友と呼べたなら……私は

「周防……国時さん、お願いします!」

と、二人に元の時代へと帰る手伝いではなく、出仕の準備の手伝いを依頼したのだった。


 周防さんによって、施された化粧は現代の美的感覚ではおよそ美しいとは言えないもの。

 顔面は白塗り、眉は剃り落として額の中央に丸く描く、鮮やかな朱色の紅を差し、その口中に隠れた歯はすべて黒く塗り潰されている。

「こ、こんな顔で……大丈夫ですか?」

 不安を覚えて口走ると、

「大丈夫ですよ、大変お美しうございます」

「我が君……ああ、後宮などにやらず私の手の中に永遠に閉じ込めてしまいたい……」

と、周防さんと国時さんがべた褒めしてくれたので、この時代的にはこれが美女のメイクなのだろう。

「ところで……国時さん、間に合いますか?」

「大丈夫、実は現在、内裏は火事で焼失しており、この一条戻橋の近くの一条院が里内裏として使用されているのです。式部殿の邸は四条。ここより遠いですから……式部殿が一条院に入られる前に入れ替わりますよ! さあ、我が君、こちらへどうぞ」

 国時さんは馬首を返して、牛車の後ろ側へと回る。いったん、馬から下りると私を抱き上げるようにして、馬へと乗せてくれた。そして、私の後ろに国時さんが座る。

「しっかりと掴まっていてください。少し飛ばします。舌を噛むといけませんから、口は閉じておいてくださいね」

 言い終わると、国時さんは馬にムチを当てる。馬は勢いよく走り出した。


 相当走るのかと思っていたが、一条戻橋から一条院のまでの道のりはほんの一瞬だった。

「一条大路を、大宮大路に向けてほんの少し走っただけですから」

 国時さんの説明を聞いても、まだこの都の地理を把握していない私にはよくわからなかったが、式部さんの邸から一条戻橋まで、あるいは一条院までの道のりよりは、私たちが今来た一条戻橋から一条院のルートの方が確実に近いのは確かだ。

 現代的に説明するなら、式部さんの邸からはバスかタクシーで移動しないと無理な距離だが、一条戻橋から一条院は現代の服装であれば余裕で歩ける距離なのである。

「来ました……あの牛車ではないでしょうか」

 二条側、つまり南側から一台の牛車が近付いて来る。

 身分の高い貴族が乗るにしては質素な牛車、そして随身ずいじんの数も大貴族とは比べものにならない。

 国時さんは再び、両足で馬の腹を蹴った。

 そのまま、その地味な牛車へと近付いて行く。

「何やつ?」

 牛車の周りの随身たちが刀に手を掛け、国時さんに警戒を露わにしたところで

「式部殿! 香子殿を連れて参りました!」

と、国時さんはわざと牛車内に声が聞こえるように呼びかける。

 牛車の物見窓が開いた。

 そこからは、私と同じような独特の化粧を施した式部さんの顔が覗いていた。

「いったい何を……」

 言いながら、式部さんの視線が馬上の私に止まる。

「式部殿、この装束をご覧いただければわかるように、香子殿の覚悟はそれ相応のものと見受けられます。私が一番に望むのは、『香子殿を無事に元の世界に送り返すこと』ではなく、『香子殿が一番幸せを感じられる手助けをすること』なのです。次の月蝕や日蝕の日にちなら、いくらでも私が計算しましょう。だから、式部殿……この聡明で美しい、我が君の申し出を邪険にしないで……きちんと話を聞いてあげて欲しいのです」

 式部さんとこんな近くでまた逢えたことが嬉しいのか……、それとも国時さんの優しさが嬉しいのか……。

 私は溢れる涙を止めることができなかった。

 しかし、せっかく綺麗に塗ってもらった白粉がはげては困るので、零れる涙が頬に落ちる前に畳紙たとうがみですべて拭う。

「香子殿……」

 式部さんは驚いた表情のまま固まっている。

 国時さんは、私を馬上から抱き下ろし、後ろの御簾を捲ると式部さんの乗っていた牛車へと押し込んだ。

 私は思わずよろけて、式部さんの胸元にダイブする形になってしまう。

「ご、ごめんなさい……あの……でも……私はどうしても式部さんのために……いや、式部さんと離れたくなかったんです!!」

 式部さんの胸元に抱き留められたまま、私は思いのたけを式部さんに告げる。

「ハハ、初めてだ」

 私は、「何が?」と式部さんの顔を見上げた。

「こんなふうに直接、はっきりと女性から気持ちを告げられるなんて……初めてで……正直どうしていいか……どう答えていいかわからない……」

「あ、ごめんなさい!」

 そうだ、この時代は……すべて歌に乗せて思いを告げるのだ。それも、恋の歌なのかどうかもわからないぐらいにぼかした表現の歌が多い。

「いや、責めているのではない。それがこんなにも心地よいものだとは、今まで私が気が付かなかっただけだ」

 式部さんは、私の左頬を優しく撫でる。

「この前は申し訳なかった。女性の顔を殴るなど……。そなたは元いた世界に帰ることこそが幸せだと思っていたのだ。しかし……私にもまだまだ気付いていないこともあるのかもしれないな」


 その夜、私は中宮様の元へと上がった。

藤式部とうしきぶでございます」

 火事によって仕方なく里内裏に住んでいると聞いていたからどんなに小さく質素なお邸なのだろうと想像して上がったのだが……。

 一条院の邸内は、式部さんのお邸にあった調度品とは段違い、美しい屏風や几帳がぐるりと中宮様の周りを取り囲んでいる。

「苦しうない、面を上げよ」

 そう私に告げる中宮様の声は、予想していたより幼く可憐だった。

 恐る恐る顔を上げると、そこには私よりも明らかに年下で、少女にしか見えない中宮様が微笑んでいた。

「そなたが、あの『光る君の物語』を書いてくれた藤式部か。そなたに会うことを楽しみに待っていたぞ。『光る君の物語』のような楽しい話を聞かせてくれ。また、そちは、唐の国の物語に詳しいと聞いた。今夜は、月蝕で不吉な夜であるが、そんな気鬱が晴れるような、面白い外国とつくにの話をしてたもれ」

 まるで、幼子が絵本を読んでとせがむような表情の中宮様に

「かしこまりました。それでは、『三国志』の中の恋のお話をいたしましょう」

と言って、私は微笑んだ。


 私は、式部さんと二人で一人。

 中宮彰子様の女房、藤式部となったのだ。


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