第36話 これは残留エンド失敗のフラグですか?

 周防さんが、私の頬に濡らした布を当ててくれる。それは、現代の熱冷まし用冷却シートに比べたらだいぶ生温いものだけれど、惟規さんの優しさがじんわりと伝わって来るようで嬉しかった。

「氷が手に入ればいいのですけれど……我が家のような貧乏貴族、この残暑の季節に氷を手に入れるすべなどなくて……」

 私の目の前で、惟規さんが申し訳なさそうに頭を下げる。

「いえ、そんなやめてください。これでも充分ですから! しかし、冷蔵庫もないのにお金持ちの家なら氷が手に入るのですか?」

「れいぞう……こ……? 氷室ひむろのことでしょうか?」

「ひむろ?」

「氷を貯蔵するための建物です。冬の間に凍った池から氷を切り出して、保存しておく建物があるのです。20箇所ほどあったと思いますが、おもに使用できるのは皇族のみで……」

 どのように貯蔵しているのかわからないけれど、夏まで氷を保存して、皇族だけとは言え、氷を暑い季節に使えるようにしておくシステムがあるとは驚きだ。

 しかし、いまこだわるべきなのは氷の保存方法ではなく、なぜ式部さんに私のしている手習いがバレて、あんなに怒らせてしまったのかというところだろう。

「ところで、惟規さん……なぜ式部さんが私の手習いのことを……」

 言いかけたところで、惟規さんが先ほどよりも深く、勢いよく頭を下げた。

「申し訳ございません! 香子さんがあまりに頑張っていらっしゃるので、わ、私が……兄上に……、つい口を滑らせてしまって……兄上もお喜びになるかと思ったのです……」

 なるほどそういうことかと合点がいった。

 夕刻、国時さんと一緒に邸に帰って来た惟規さんが、私のところに来る前に式部さんのところに挨拶に行き、その席で私の手習いのことを話したのだろう。式部さんがあの重い装束を身につけたまま恐ろしい勢いで早歩きができることは、先日大殿のところから退出したときに目の当たりにした。おそらく、惟規さんと国時さんを置いて私のいる対屋まで走って来たといったところか。

「すみません、私だけ話が見えないのですが状況を教えていただいてもよろしいですか? このような愛らしい女君を殴るなど、私には信じられませんよ!」

 一人だけこの流れを理解していない国時さんが、まるでイタリア男性のように首を振る(と言っても、私はイタリア男性と直接話したことはないので、あくまてもテレビなどで見るイメージでしかないが)。

「ああ、安倍天文生殿、失礼いたしました。実は、兄のことを女性だと信じ切っている大臣おとどから、中宮ちゅうぐう様の元に出仕せよという命が下りまして……。しかし、兄は男ですから……それが露見しないためにと、香子さんは兄の身代わりとなって中宮様の元に出仕しようと手習いの練習をされていたのです」

「ということは……、元いた世界に戻らないご覚悟なのですか?」

 国時さんは、さらに信じられないというように、目を見開く。

「いえ……ずっと帰らない……という覚悟はできていませんでした。ただ、中宮様が明日の月蝕を不吉なものと恐れられて……月蝕の間だけでも話し相手になって欲しいというお話でしたから……」

「月蝕の間に……ですか? なら、なおさら……我が君は、明日の月蝕には帰るおつもりがなかったということですね?」

 国時さんが、今度は複雑な表情を浮かべる。

 当たり前だ。

 私は最初、自分がいた時代に帰りたいと国時さんにアドバイスをお願いした。現代のように簡単に月蝕や日蝕の日付を調べられるコンピューターなどない時代、おそらく安倍の家に伝わる陰陽師としての技術を使って、計算をしてくれているのだろう。

「ごめんなさい……」

 私は、国時さんに向かって頭を垂れる。

「いえ、私は我が君が一番幸せになれるお手伝いができれば、それが私の幸せになると考えているのです。だから、頭など下げないで下さい。……でも、先ほどの様子ですと、我が君のそのお優しい気持ちはあえなく踏みにじられてしまったということですか!」

「まあ……そういうことになりますかね……」

「ああ、我が君のこのお優しい仏のような心を踏みにじるとは、同じ男として解せませんが……しかし、わが愛しい姫のこの先を考えれば、元いらした世界に戻った方が幸せになれるでしょうから……かえってよかったと考えるべきでしょうか……」

 それまで、口を一文字に結んでいた惟規さんが、意を決したように口を挟む。

「兄も……、本当は香子さんの努力が嬉しかったはずだと思います。でも……兄は早くに家族を亡くしていますから……いえ、もちろんそれは私も同じなのですが、私と違って物心ついてから、母、姉と亡くしていますから……。私にはおぼろげな記憶しかありませんが、兄は家族と永遠に別れることの辛さ、身をもって知っているはずだと思うのです。だから、香子さんが今後、ご家族と会えなくなってしまったら……そのとき、香子さんやそのご家族がどんなに悲しまれるだろうかと……そういったことを心配されたと思うのです」


 惟規さんの振り絞るような言葉に、私はまだゲーム感覚が抜けていなかったのかもれない、とあらためて考えさせられた。

 確かに、家族ともう二度と会えなくなるのは悲しい。

 でも、今までプレイしてきた乙女ゲームで、タイムスリップした主人公はどうなった? ハッピーエンドでは、タイムスリップした先に残留するエンディングと現代に帰還するエンディングの2パターンあることが多い。そして、そもそも恋愛を達成することが目的のゲームなのだから、たとえ主人公がタイムスリップした先に残留して恋愛を選んだとしても、それは絶対的なハッピーエンドであって、元いた時代の家族や友人を思い起こすことはないのである。

 私は……、漠然とそんなエンディングを期待していたのではないか?

 そもそも、タイムスリップや異世界に転移する主人公を中心としたゲームの場合、その主筋に必要がなければ主人公の家族や友人など絡んでは来ない。これが現実なら……私がいないことが確定してしまった時間軸の先では、私が修学旅行先で行方不明になったとして、学校側は大変なことになっているだろうし、警察にも届け出がされているだろう。

 これは、現実なのだ……。

「国時さん……せっかく帰れるかもしれない日時を調べてくださったのに……それを無駄にするようなことをして、ごめんなさい。明日は……何時に一条戻橋へ行けばよいのでしょうか?」

 私は溢れる涙をこらえながら、国時さんに尋ねる。

「我が君……明日の月蝕はの刻少し前から欠け始めるはずです。念のため、の刻にお迎えに上がりましょう」

 国時さんは、私の片手を取りながら紳士的に微笑んだ。

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