第33話 式部さんの代わりをするだけの簡単なお仕事 手習い始めました

 翌日、朝から私が始めたのは、惟規さんから借りたお手本を参考に、自分専用のかな一覧表を作ることだった。

 何しろ、惟規さんが貸してくれた手本を見ても、私には読むことができない。だから、それを真似て書くだけでは、その字の連なりをそっくり真似て書くことかできるようになるだけであって、図を写しているのと大差ないのである。そのため、手本をもとに練習する前に、まずかな一覧表を作る必要性があったのだ。

 周防さんに、書き損じなどいらない紙を用意してもらい、その紙にまずマス目を書いていく。定規がないので線が歪んでしまったが、この際、細かいところは気にしないでおこう。

 そして、できたマス目の一番上の段には、私の知っているひらがなを書く。そして、その下のマス目にそのひらがなと同じ音だけれど違う字体のかなを書き込み、さらに各かなの下には小さく元になった漢字を書き込んでいくことにした。

 もちろん、私一人でその表を完成させることはできないので、ほとんど周防さんに作ってもらったようなものであるが。

「こういった手本は、本来なら乳母めのとが傍に寄り添って、一緒に読み上げながら書き写していくものなのですよ」

 周防さんは、一覧表作成を手伝いながら、子どもの文字の憶え方を教えてくれる。

「しかし、そういったこともすべて忘れてしまっていらっしゃるとは……、大変でいらっしゃいますね、姫様」

 かつらをはずし、地毛にかもじを付けてもらった辺りから、私がただの記憶喪失の姫ではないと周防さんもなんとはなしに気付いているのかもしれない。ただ、千年後の世界からタイムスリップして来ましたというのは、あまりに荒唐無稽すぎる話なので、あえて詳しい説明はまだしていなかった。

「これは、“え”です、元になった漢字は……」

 周防さんは、さらさらと筆を紙に走らせる。

「“盈”です」

「え……?」

「はい、“え”です」

「はあ……」

 元になった漢字自体、見たことがない文字もあり、さすがにすべて暗記はできないかもしれないと不安を覚えることもある。

 しかし、できるだけの準備をしておかなければ、この世話になった家の人たちに恥をかかせることになってしまうのだから……。いまは私にできることを精一杯やるしかない、と心に決めた。

 一覧表を作り終えた後は、手本を周防さんに書写してもらってから、その写しの方に、私一人でも読めるよう小さくふりがなを振っていく。

 ここまでできてようやく、私一人で手習いをできる準備が整ったわけだ。

 朝から始め、すっかり日は傾き始めていた。

 庭にふと目をやると、池に水鳥が泳いでいるのが見える。

 こちらから見ると、優雅にプカプカと浮いているようにしか見えない。そして、滑るように水面を移動する。

「優雅に見えるけど……、あの水鳥だって見えない水の下では、必死に足を掻いて泳いでいるんですよね。平安時代の姫君って優雅な暮らしでいいなぁ、と思っていたけど、みんなこれを憶えて文のやりとりをしているんだなって思うと……みんな見えないところで努力しているんだ、尊敬しちゃうなぁ」

 独り言のつもりだったのだが、隣で周防さんがクスクスと笑っている。

「昔は、古今集の和歌を全部諳そらんじることができたお妃様がいたらしいですよ。他にも、琴や琵琶も弾けなければなりませんし、宮廷に出仕するというのは、本当に大変なことでございますわね」

「古今集の和歌全部って……、百……より多いですよね?」

「もちろん、千を超えております」

と言って、また周防さんは笑う。

「千……途方もない数ですね……」

 百人一首を元にした競技かるたについては、マンガで読んだことがある。ただ、実際に百首憶えようとした私は、挫折した。

 それを千首以上暗記するなど……どのような記憶力の持ち主なのだろう、と尊敬してしまう。

「そんなに憶えて、かるたでもするのですか?」

 私の問いに、周防さんは目を丸くする。

「か……るた? で、ございますか? それは、どのようなものでしょうか?」

 もしかして、和歌がこれほど溢れている時代なのに、かるたはまだ存在していないのだろうか? かな文字の認識について惟規さんと大きな認識のズレを感じた昨日のことを思い出す。

「いえ、忘れてください……、その、そんなにたくさんの歌を憶えてどうするのかなぁ、と思ったんです」

「ああ、そういうことでしたか。それは、自分で歌を詠むときの参考にするのですよ」

「あ、本歌取り! ですね?」

 それなら、古典の授業中に習ったのを憶えている。

「ほん……か……とり? で、ございますか?」

 これもまたハズレらしい。

 困っているところに、簀の子縁を歩いて来る人の足音がする。

「香子さん、手習いは進んでいらっしゃいますか?」

 どうやら、御所から戻って来た惟規さんが様子を見に来てくれたようだ。御簾越しに声がかかる。

「はい、ありがとうございます! いまは和歌について、周防さんにいろいろと教えていただいていたところで……どうぞ、お入りになってください」

 そう答えると

「失礼いたします」

と言って、惟規さんは御簾の内へと滑り込んで来た。

 そして、私の机の上を見るなり、

「すごいですね!」

と、声を上げる。

 私が朝から先ほどまでかかってようやく作り上げたかな文字の一覧表と、ふりがな付きの手本を見て、驚いたようである。

「すみません……、昨日そのまま書き写して憶えるものだと教えてくださったのですが、私の頭が悪いせいでこのままだと憶えられなくて……」

と答える私に、惟規さんは責める素振りなど毛ほども見せず

「いえ、これは名案ですよ! 確かにこのように整理しておけば、憶えやすいことでしょう。文字の連なりの美しさは、まず一文字ずつきちんと憶えられてからにすればよいと思います。しかし、これは私たちにはまったく思いもよらぬ発想でした」

と、瞳を輝かせ純粋に褒めてくれた。

「最悪、憶えられなかったときは、こう隠して……」

 私は、襟元に挟んだ畳紙たとうがみの下に、かな文字一覧表を隠す振りをする。

「人目のなくなったところで開いて……辞書として使うこともできますからね」

「なるほど、それまた名案です!」

と、惟規さんは微笑んだ。

 どうやら、辞書はこの時代にも存在しているらしい。ただ、このかな文字一覧表が名案として褒められるということは、まだかなの辞書というのは存在しないのであろう。

 そして、私はその夜から、寝落ちするギリギリまで手習いをしてかな文字を憶える、そんな毎日を過ごすことになったのだった。

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