21 明日へと続く道




 遠い彼方から声が聞こえる。


「――――」


 心の奥底に響いてくるその声を詩織は知っていた。

 あの日、命を救ってくれた神様の声。


「――――詩織、詩織」


 意識が浮上していくとともに声が近くなってくる。


(ああ、桜様が……桜様が私の名前を……呼んでくれている……)


 詩織は目を開く。

 目の前には詩織の神様、絢咲桜の顔があった。


「詩織……ねえ、詩織? おーい、生きてるよね……? 詩織ー」


 桜は不安げな顔をして水面に浮かぶ詩織の体を揺さぶっている。

 そして、


(ぅんっ……?)


 詩織の体に妙な刺激が走った。

 見ると桜の右手が詩織の胸をむにっと鷲掴みにしていて――。


「いやぁっ!!」


 気付いた時には詩織は桜の顔を平手で殴っていた。

 桜はばしゃんと勢いよく隣の水面に沈む。


「さ、桜様ぁ!」


 思わず手が出てしまった。

 あまりの失態に詩織は激しく混乱する。

 そしていまだ水面に顔を沈めたままでいる桜に気付き、詩織はすぐさま助け起こそうとするも、


「え……」


 身体が動かなかった。身体に全く力が入らない。

 今ほど桜に平手打ちをしたはずの左手もぴくりともしない。

 広大な星空と舞い降る桜色に光る花びらを映し込む暗く澄んだ水面。そこに詩織はまるで糸の切れた人形のように浮いていた。


 水面に顔を沈めていた桜が水面に手をつき、顔を上げる。


「げほっ、えほっ……何、これ……? もしかして、水か?」


 詩織と同じく全身ずぶ濡れになってしまった桜は咳き込みながら焦点の取れていない目で周囲を見回す。詩織の居る方向で顔を止める。

 そして桜はぎこちなく右手を伸ばし、目の前に居る詩織の名前を呼びかけて探す。

 それを見て詩織は桜の識を封じていることを思い出した。

 しきふうじは詩織が解かない限り数時間は解けることはない。しかし桜は封じた五つの識、そのいずれかを回復させ無明の世界から抜け出した。

 桜はたどたどしい動きで水面上を這い、詩織に右手を近づけていく。

 何かを頼りに詩織を探しているようだ。


「……桜様」


 どうにか声を発して呼びかけるも、桜に反応は見られない。

 そこで詩織は決闘の最中かけられた言葉を思い出す。


『詩織、あんたはとても良い匂いがする』

 

 桜が回復した識はおそらく〈しき〉だ。

 桜は今この世界で霊力と匂いしか感じ取れない状態になっている。その中で詩織を探してくれているようだ。


「ああもうっ、これいつになったら解けるのよ! 何で防ぎようのないチート能力にこんな持続性まであんのよっ! 唯識は唯識でしか対処できないってリリスが言ってたけど……何? もしかして詩織が起きるまでずっとこのままってこと? 冗談じゃない……! 詩織、起きて! 起きなさい!」

「……桜様……私に、私の身体に触れてください……」


 今の桜に声が届くことはないが、それでも詩織はどうにか声を絞り出して呼びかける。

 桜の伸ばす右手が詩織の右肩に触れた。

 桜の手は詩織の水に濡れた和服の上。服越しの識操作は少し時間がかかる。

 識を解く前に桜の手が詩織の肩から離れた。

 そしてその離れた手は辿るように、ゆっくりと詩織の頬へと触れて。その瞬間、詩織は桜の封じた識を元に戻した。

 識封じが解け、識を取り戻した桜の深い青の瞳とぴったり目が合う。


「よかった、無事で」


 そう言って桜は笑った。

 そして桜は少し怪訝な顔をして右頬を擦る。


「なんかひりひりする」

「うぅっ……申し訳ありません。それは今私が……」

「いや、なんで謝るのよ。お互いケガ承知の決闘だったでしょうに。……でも私、あんたから何か攻撃食らったっけ?」


 まあいいや、と桜は水に濡れた艶やかな黒髪をかきあげ、


「それよりも詩織、この決闘、私の勝ちね」


 にやりと不敵な笑みを浮かべて詩織にそう告げた。


 詩織の目の前が真っ暗になる。

 そう、詩織は桜との決闘に敗れた。

 そして詩織の敗北は、そのまま桜の死を意味する。


「詩織」

「……はい」

「私が勝てば、私が死んだあと樹の下に埋めてもらうって話だったけどさ。あれ、やめにするわ」

「……え?」

「代わりに別の願いをきいてもらいたいんだけど、いいよね。私が勝ったんだし、受ける必要のない決闘受けてあげたんだから、それくらいのわがままは通させてよね」


 詩織はただ呆然と桜を見つめる。

 陽気な声のまま桜は話を続ける。


「詩織、私は生きる。その為に私はあのしんかくとかいうものを受け入れる。くにがみになる。だから詩織、あんたは私のになってよ」


 世界が停止したかの様な感覚。その中で、詩織は何度もその言葉の意味をはんすうする。


「……桜様……どうして……」


 ようやく出た言葉がそれだった。


「逃げたくないから。負けたくないから。立ち向かいたいから。……叶えたい、夢があるから。ただ、それだけよ」


 桜は淡い微笑みを浮かべ、言葉を続ける。


「でもね、こんなこと言ってる今この瞬間も、私は迷ってる。ここで終わった方がいいんじゃないかって、考えてる。前に進むことを怖れてる」


 詩織の肩を持つ桜の手に、わずかにだが力がこもるのを感じた。


「……どうしても受け入れられなかった。考えるのも嫌で、逃げ出して、目を背けて、もういっそ死んでしまえば楽になれるのにって、そんなことを思ってたら、私の中の封印がどんどん弱まっていって……私はそれに身を委ねることにした。私は、知らなかった。怖いってことが、こんなにも自分を臆病にするものだなんて、私は、知らなかった……」


 誤魔化すことなく吐き出されていく、桜の胸の内に秘められていた感情。

 詩織は桜が抱える苦しみに胸を強く痛め、同時に桜をそこまで苦しめるものに怒りが沸き上がった。


「桜様、あまね様は桜様に一体何をしようとしているのですか」

「あいつが……あやさきあまねが何を企んでいるのか、私には分からない。……ただ、私は、…………私が、怖れていることは……死んで、逃げ出そうとしたことは……」


 桜の開いた口はそこで止まった。

 続く言葉はなく、桜は寂しげに目を伏せた。


「……ごめん。今はまだ、言えない」


 そして桜は静かに目を見開き、詩織を見つめる。


「詩織、私は生きる。私が進む道の中、私は必ずその怖れと向き合うことになる。でも、詩織が私の傍に居てくれるのなら、私は逃げずにいられる。立ち向かえる。前へと踏み出せる。心から今、そう思うから。詩織、私の傍に居て欲しい。私を守って欲しい。私を支えて欲しい。だから詩織、私のになってくれる?」

「……はいっ……! はいっ! ……ありがとうございますっ……桜様ぁ」

「もうっ、こんなことで泣くなよ」


 桜は笑い、また頭を優しく撫でてくれた。


「それとさ、詩織が言ってた私との約束のことなんだけど……。私は生きることに決めた。だからまあその……なんていうか……」


 しばし言葉をためらわせたあと、囁くように桜は言った。


「一緒に、世界にそっと恋でもしてみようか」

「……はいっ! いたしましょう……! 一緒に……世界にそっと、恋を……」

「ははは。なんだこのクソ恥ずかしい台詞は。死にたい。今すぐ死にたい」

「し、死んではダメです!」


 そう言って詩織は気付く。

 何を暢気に心を落ち着かせているのだろう。

 状況は何も変わっていない。危機的な事態は今も進行し続けている。

 いつ桜の限界が訪れてもおかしくない。

 今すぐ神核を桜に受け渡さなければ。


 だというのに体が全く動こうとしなかった。

 だが、こんな時に倒れてなんていられない。


「……グっ……!」


 詩織は水面に手をつき、全身全霊をこめてどうにか立ち上がる。


「おおっ、すごいわね」


 詩織は急いで桜に飛ばされ水面へ沈んだ神核を探す。

 立ち上がった地点から十メートルほど離れた水底に、赤い光を放つ神核を見つけた。

 結界で神核を包みこみ、水面上へと浮き上がらせる。

 神核を手に取り桜の元へ。


 詩織は桜と向かい合い、先ほどと同じように神核を桜の胸の前に突き立てた。

 桜に呼応するかのように神核がグン、グンと不思議な音をたてながら明滅する間隔を早め、光を強めていく。


「桜様、よろしいですか?」

「……メイを取り入れたあの時、人として死ぬことは捨てた。……だけど、国神くにがみ……不老不死か……」

「桜様……」

「大丈夫よ。お願い」


 詩織は桜の胸の中心に向けてしんかくを突き刺した。

 神核は桜の体を傷つけず、すり抜けるようにして桜の体内へと入っていく。

 神核が桜の中へと完全に消える。


「……ッ!」


 桜は右手でぐっと心臓部を押さえつける。

 しかし苦しげな様子も束の間、ふっと桜の表情が軽くなった。


「……すごい。本当に、あっさり収まった。正直、半信半疑だったんだけど……なんていうか、呆気ないな。ほんと今更なんだけど、この神核ってのは一体何なのよ」


 桜は無事神核との同調に成功したようだ。

 分かりきっていたことだが拒絶反応は起きていない。


「よかった。……本当に、……よかった……」


 全身を支えていた力が一気に抜けていく。


「――おっと」


 倒れていく詩織に気付いた桜が右手を伸ばし、詩織の体を受け止めた。

 すっと肩を抱かれ、詩織の目の前に桜の顔がくる。


「大丈夫?」

「は、はいっ、らいじょうぶれす……」

「ふふ、大丈夫そうじゃないけど?」

(さ、さ、さささ桜様が私に笑いかけてくれている!?)


 詩織は幸せの真っ直中に居た。


「あんたがくらった炎、私の〈えん〉はね、どんな霊力だろうと霊力であるのなら一瞬で燃焼する性質を持っているの。その燃やした霊力の分だけ炎の火力は増していく。そしてあの炎が体内の霊力と反応すれば根源の霊力まで全部綺麗に燃やし尽くしてしまう。普通ならまともに身体が動かせない状態が少なくとも三時間は続くはずなんだけど、あんたは本当にたいした奴ね」

「は、はひ……」


 あまりにも素敵な桜の声音と優しい表情を間近で受け、詩織はまともに言葉を返すことができなかった。


「それにしてもあんたも私もずぶ濡れね。乾かすから少しの間じっとしててね。……と言っても動けないか」


 桜は眼を瞑る。

 数秒して詩織の体全体がやんわりとした温もりに包まれた。

 詩織の髪と体、さらに詩織が着ている白の和服から下着まで水気がさっと嘘のように消えていく。

 それは桜も同じで、綺麗に乾いた髪が風でさらさらと流れている。


「これでよしっと」


 乾燥を終えた桜は詩織の足に右腕を通して抱きかかえる。そしてしんひらじんぐう、隠された本殿に向かって飛び始めた。


 桜に抱かれながら運ばれる詩織は、もう壊れてしまうのではないかというほどに、ばくばくと心臓を高鳴らせる。

 疲弊のせいか、もしくはしんかくの負荷がもう現れ始めたのか、空を飛ぶ桜はふらふらと揺れ出し高度を落としていった。

 なんとか桜は飛行術を維持し続け、本殿へと続く長大な柔らかな白い光を放つ石段、その真ん中辺りに着陸する。

 詩織を石段に座らせ、そして詩織のすぐ隣に桜も腰を下ろした。


 先ほどからどうしようもなく体が熱い。

 全身から力が抜けてふわふわとしている。

 まるで夢を見ているような気分だ。

 そんな夢心地な詩織の目に、ゆっくりと輪郭を持って壮大な景色が映し出されていく。

 澄み切った空に、満天の星を映し出す水面の鏡。真っ直ぐにどこまでも続く巨大妖樹の並木道は全て美しい白の輝きを放ち、桜色に光る花びらを空から無数に降らし続けている。

 やはりこの景色はあの時見た景色と似ている。


 ふわりと詩織の右肩に重みがかった。

 心臓が飛び跳ねる。

 桜が詩織の肩へと寄りかかっていた。


「ごめん。なんか、眠くなってきた」

「はっ、はいっ。……安心してお休みください。しんかくと同調を果たした今、しんの炎が桜様の命を脅かすことはありません。桜様には必ず明日が訪れます」

「…………明日……」


 できる限り落ち着いた声で答えるも、間近で触れる桜の感触に詩織はもう訳が分からなくなっていく。


「…………の、通り道、か……」


 混迷する詩織の耳にふと小さく何かを呟いた桜の声が聞こえた。

 詩織はどうにか心を静め、耳を澄ませる。


「……どこまで、続いているのかな」


 それは、どこか想いの込められた言葉のように聞こえた。


 詩織はその言葉に込められた桜の想いを知ることはできない。

 桜は死よりも怖れる何かを抱えていた。しかし結局、桜が何を抱えていたのか話してもらえなかった。

 それでも、桜は生きると決めてくれた。

 傍に居て欲しいとまで言ってくれた。

 だから詩織は答える。

 いや、そうでなくとも詩織はそう答えただろう。それは唯識詩織にとってどこまでも当たり前のことなのだから。


「桜様、詩織はどこまでも、どこまでも桜様にお伴いたしますよ」

「……そう」


 ふっと桜は口許を緩ませ、そして静かに目を閉じた。

 小さな寝息が聞こえ始める。

 桜を支えながら、詩織は隠された本殿、その正面に広がる巨大な並木道を再び見つめた。


 その道はいつか見たあの道と緩やかに重なっていく。


 道は遠く、どこまでも続いている。それは明日へと続く未知なる道だ。


 詩織はどこまでも続くその道に強く、想いを乗せる。

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