タタリの子

小村ユキチ

序章

いきかえる

 しー……んと、静まり返った暗い部屋に、光蟲のような明滅だけがチカチカと残っている錯覚。そんなものを意識しているうちに、あぁ、いま自分は起きているのだなという自覚が乾いた思考をじんわりと湿気らせて、やがて本当の意味で目が覚めていく。

 風がすうーっと草を揺らして、丈の違う草葉が擦れ合う時の、慎ましい音。この音は昔から知っている。

 暗い部屋で私は目覚めた。

 首をほんの少しだけ右に傾けると、高いところにひとつだけ、小さな窓があいているのが見える。そこから差す月の明りがつるぎのようにまっすぐに右手の辺りを照らす直線を、無論つかめないことなど百も承知で、なんの気なしに握ってやろうと指を動かす。すると、その腕の感覚のなんと鈍いこと……。踏ん張るような気持ちで息を吐くと、がさっと喉の引っかかる感じがした。風邪でもひいたのかしらと思ったが、どうやら喉が渇いて舌の付け根が奥にひっついてしまっていたらしい。ヒリヒリと乾いた痛みをわずかな唾を飲み込むことでごまかしながら、近くに水でもないものかとぐっと体を起こす。

 が、これがなかなかうまくいかない。

「……ふんっ」っと力んでみるのだが、どうにも体に血が廻っていないような、あるいは魂がいまいち体に入りきれていないような、不自然な重さを手足に感じた。いくらふん張ってみても嫌な汗が背を伝うばかりなので、やむなくあきらめて、ふぅっとため息。急に力を入れたものだから、目の前にまたもチカチカと小さな光が星空のように浮かんできた。こういう状態のまま立ち上がると、足元がぐらりと揺れて目眩みを起こすのが常だ。あの陶酔感は嫌いじゃない。

 静かになる。いや、静かは元々だったか。ただ単に、自分の体が落ち着いたというだけのこと。

 仕方ないのでもうしばらくは寝ていることを決心して、草を揺らす風の音に耳を傾ける。しかし、これもうまくいかなかった。折角の心地よい音に、水を差す小さな雑音……一度意識してしまうと、気になって仕方のなくなる性分である。この辺りから頭が徐々に働いてきたらしい。スー……スー……と幽かに規則的な音が、枕二つも離れていないくらいのところでせせらいでいるのが、まどろみの抜けきらない頭にも理解されてきた。その音を追って首を体ごとひねるが、そちらはススで満たされたかのような真っ暗闇。しかし、擦れるようなその音は確かに目の前の闇の中から、何ものかの存在を私に訴えていた。

 誰かが、近くにいる……。

 呼吸の音……寝息かもしれないが、それが人の鼻を通す空気の音であることは疑いようのないことに思えた。

「……そこの……おかた」そこまで声を絞り出したところで、喉が詰まってゲホゲホと咳き込む。その度お腹に痛いくらいの衝撃が走り、涙が出た。

 どうも、体調は思わしくないようだ。風邪を引くようなことをしたかしら……。

 あぁ苦しい、腹立たしい。

 ハッとして耳を澄ます。

 止めたくても止まらない辛い咳に紛れて、小さな反応があった。

 近くで「わっ」っと、細くて高い、驚きの声。そして真っ暗な闇の中に、見えているともいないともつかないような影のような存在を感じる。僅かな動きがかろうじて輪郭だけを浮かび上がらせてくれたような、錯覚じみた実像。ほら、やっぱり誰かがいたのだと、そう思ったら、ざっと戸が開いて、その影はあっという間に部屋からいなくなってしまった。とても急いでいるような慌ただしい足音が少しずつ遠くなっていって、惜しいとも思う間もなく消えていく。結局はっきりとした姿は捉えられなかったわけだけれど、きっと人間だろう。妖怪の類であったとしたら自分は相当に苦しい状況だなと夢想して、一人で微笑む。声の感じからしたら、女の人だろうか。

 咳をしているあいだに口元にかかった髪の毛を、吐く息で払いのける。

 私と同じ、女の人。

 ふわぁー……っと、また眠気が襲ってくる。起きられないのならば眠ってしまえば良いのだ。時間もまだ夜……きっと朝には……。

「目が覚めたのかね」

 しゃがれた声に、目が冴える。

 突然目の前に、小さな灯りが現れた。お皿の上にか細く火が灯っていて、それが頭上……つまりは枕よりやや先の床に置かれている。暗さに慣れた私の目にはそれだけでも十分にまばゆかった。きっとほんのわずかな時間でも、私はウトウトと眠っていたのだろう。思考は連続しているつもりでも、実際には体は途切れ途切れに休眠しているものなのだ。きっとその間に、さっきこの部屋を出て行った女の人が、誰かを呼んできたに違いない。

 揺れる微かな灯りの後ろで、背を小さく丸めた老婆が一人、じっとこちらを見下ろしている。それが人間の顔であったことに、とりあえずは胸を撫で下ろした。

「あ……あの」そこでまた一つ咳き込んで、声を細くしながら先を続ける。「お水を一杯いただけないでしょうか……?」

「ふむ……」暗がりの老婆はおごそかに息を吸い込んで、また厳かに吐き出す。「なるほど、そうだろう、そうだろう。喉が渇いているのだね?」

 しゃべるのも辛いので、黙って頷く。

 老婆はぐっと難儀そうに片腕を後ろについて、背後の戸の奥へ向かって一声、「水だ、急ぎなさい」と呼ばわった。どうやらそこに誰かが控えていたようで、めいを受け、走っていく足音がまたドタドタと響いてくる。

「すまないね、気が利かなくて」

 やはり答えるのは億劫おっくうなので、「いえいえ、そんな」と気持ちを込めたつもりで微笑み返す。この老婆の声、少し独特だ。しゃがれていて声も小さいはずなのに、恐ろしいほど内容が聞き取りやすい。

「具合が悪いようだね」

「……ですね」

 なんだか不思議と落ち着いていた。この老婆の居住まいがそうさせたのだろう。皺の目立つ顔面に二つ、裂け目から覗く眼光の硬さは、たとえ目の前に神が舞い降りようが妖魔が現出しようが、この人は眉根一つ動かさぬのだろうと感じさせてくれるのだった。

 あぁ、このままではまた眠ってしまいそうだ。

 小さく、男の人の声。なんと言ったまでは聞き取れなかったが、水を運んできたことを告げたらしく、老婆はまた背後に手をついて、もう片方の手で戸の影から水の入った器を引き受ける。

「……起き上がれるかね?」

 返事の代わりに半身を引っ張り起こす。体は依然重かったが、目覚めのときよりは幾分血も巡ってきているらしい。さっきは動かなかった腕も、水を受け取るためにちゃんと体の前に伸びてきた。

「ありがとう……ございます」まあるい器を受け取って、口をつけようとする。

「あまり急いて飲むなよ。喉に障るとよくない」

 ハッとして老婆の方を見返す。喉のことは、考えていなかった。

 唇に水をひたすようにつけてから、慎重に、ズっと吸い上げる。

「ぐ……げほっ」わずかに咳き込む。しかし、わずかだ。一気に飲み込んでいたらきっともっと酷いことになっていたはず。思い返せば、別段大したことを教わったわけではない。ただこの時に、私はこの老婆を信じることに決めたような気がする。

 おばあさん……。

 この人のことを、そういう言葉で認識し始めたのはこの時だった。

「あぁ……助かりました。本当に喉が痛かったのです。わざわざありがとうございます」

 と、感謝と敬愛の意を込めて、私はおばあさんに対し丁寧に会釈えしゃくした。すると、そんな私の態度のどこに不審な点があったのか、おばあさんは眉間に深くシワをいれ、細い目を一層鋭く光らせて私をめつけた。といっても、それは悪意や猜疑心さいぎしんからくるものとは思えない、ただ単純な疑問の眼差しであるように感じられたので、私自身どんなところを不可解と思われたのだろうかと、あごをさするおばあさんを眺めながらぼんやりと考えていた。

 しばらくしておばあさんは、岩のように硬い表情は崩さぬまま、さも大切ことを聞くかのように重々しく、私の目を見据えながら尋ねてきた。

「……ここがどこだか、わかるかね?」

「いいえ」質問に答える。

「ほう……」そう一声唸っておばあさんは、灰色の頭を手のひらで撫でる。「わからないことに、疑問はないかね」

「疑問……ですか?」

「どこかもわからない場所で目が覚めて、おかしいとは思わないのか」

「はぁ、そういうものでしょうか?」

 頭を掻きながら私はフフフっと笑ったのだが、おばあさんが深刻な表情を崩さないのを見ているうちに、なんとなく気まずさみたいなものを感じてシュンとしてしまった。何かまずいことをいったかしら? それともやっぱり、何があっても顔色を変えない型の人なだけなのかもしれない。

「お前さん……もしや何も……」

「え?」

「……名前は?」

「名前?」

「自分の名前は、なんというのか、わかるかね?」

 当然すぐに返事ができるものだと思っていた。

 だから名乗ろうとして、口を開いた。

 なのに、何も答えられなかった。

 開いた口から、意味を与えられなかった声だけが、ただただ「あー……」と吐き出される。

 名前? 

 頭の中、掴みそこねたものがなんだったのかを思い出そうとした。しかしそこには何一つ存在せず、空虚が満ちているばかりであった。

 シー……イィ……ンと、耳の奥で音が鳴る。

 ほんの少しだけ怖くなった。

「……わかりません」

 その返事を聞いたおばあさんは、鼻から息をいっぱいに吸い込んで、そして難儀そうに吐き出した。

 暗い部屋に、小さな灯りだけゆらゆらと揺れている。

 自分の名前をもう一度思い出そうとして、両手をこめかみに押し付ける。きっと今まで誰かに呼ばれたことのある名前……呼んでもらえれば、すぐにでも思い出せるような気がするのに。

 おばあさんの切れ長な目が、私の体を上から下へと観察する。「……お前さん、自分がどこで生まれたか、言えるかい?」

「生まれた……場所……」

 おそらく、この時だろう。この時私は、自分が何者かを何一つ提示し得ない漂流者であることに気がついたのだ。

 私は誰だろう……?

「覚えて……ないです」正直に、そう答える。胸の奥にムクムクと堪らない気分が沸き上がってくるのを感じながら……。

「そうか。嘘は言ってないね?」

 ほんの少しだけ、ゾクッとした。疑われているというのは気持ちのいいものではない。それだけで立場が悪くなってしまうような気がするのだ。

「そんな……わ、私はでも……私は……その……」

「いや、いい、わかるさ。嘘ではないね。目を見ればわかるさ……あいにくワタシらも、お前さんのことは知らなくてね……」

 肩を落とす。「そうですか……」

「ここは、山間の小さな村だ。外モノ……村の外からはオオヌマの村と呼ばれているようだね」

「オオヌマの村……ですか」もう少し落ち込んでいたかったが、直感的に大事な話が始まったと悟ったので、慌てて耳をすます。

「大きな湖のほとりだからね、オオヌマだ。しかし、ここに住み、ここで死ぬものにとっては、この場所の名前など必要ではない、そう思わないかね?」

「え……? あっ、はい……」

「君はその体で生まれ、その体に魂を住まわせ、その体で死ぬ。その君にとっては名前など大した意味ではないと、私は思うのだが、どうかね」

 あぁ、なぐさめてくれているのか。正直に言うとそこまで嬉しくはなかった。確かに私が私を認識する限りでは名前には大した意味はないと言えるだろうが、そもそも私がしょげているのは、この名前の思い出せないということそのものに対する苛立ちなのだ。

 が……しかし、気を遣ってくれたこと自体はありがたいか。

「はい……ありがとうござます」

「上々上々……」

 私はひとつ伸びをして、ふわぁっと大きなあくびをした。自分の名前について真剣に考えるために、目を覚ますためにやったことであったが、すると不思議なことにトロンと目が開かなくなってしまったから驚いた。枕元に揺れるか細い明かりでさえも、眩しく感じずにはいられなかった。

「眠いんかね?」私の変化を見逃さず、おばあさんは皿の上の灯りを一息で吹き消した。「今はまだ寝るといい。朝になれば、きっと腹も空きだすだろう……あるいは何か思い出すやも知れぬ」

「……ありがとう……ございます」そう頭を下げた私はしかし、すでについ最前目覚めた時と同じような、ぼんやりとしたまどろみに爪の先まで浸されていた。その一礼を最後の礼節として、後はもう動物のように、温い掛け布団を毛皮にしてグングンと眠りの底に落ちていく……深く、深く……。

 しかし……。

 私は目を開いた。

「すみません、おばあさん」

 呼ばれて振り返ったおばあさんは、まだ難儀そうに、戸の後ろで付き添っていたと思しき何者かの肩を借りて立ち上がったところだった。

「どうした?」

「スミレ……です」

「……なに?」

「私の名前、スミレです……それだけ……思い出しました……」

 私がそのことを伝えた刹那、誰かが声を上げていた気がする。それを発したのはおばあさんだったか、それとも背後の何者かであったか……ドタっと、誰かが立ち上がるような音も聞いた気がした。しかしそれを聞く私はすでに、あなぐらに潜る疲れた獣の一匹でしかなかった。

 やわらかな風が吹く。

 喧騒を、かき回す。

 慎ましい、草の音……。

 月明かり……。

 ……スミレ、スミレや……。

 スミレ……。

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