そりかえる 四

 ジーンと、全身に痺れが走り、冷水に浸かるかのごとくに身震いする。

 暗闇の中で、みずからの存在を探す。

 真っ暗だ……何も見えない。

 口の中がザラザラしていて、変に苦い。

 こちらを真っ直ぐに見据えていたヤキチの目だけが不自然に宙に浮いていて、暗黒の中向かい合っているような……。

 不思議だ。

 グリッと、腹に鈍い衝撃が走る。

「……んっ」

 息が苦しかった。

 うまく走れずに、水の中でもがいているような淡い幻が夢現ゆめうつつに展開して、うんざりするほど息苦しい。

 あぁもう、夢を見た後ってどうしてこんなに鈍くなるのか。

 なんだか目が開かないや……。

 突然、噛み付かれたような痛みが頭の上に。

 髪を引っ張られながら、視界は完全な漆黒のまま、無理に体を引き起こされる。

「っ……」

 そのまま、乱暴に私の体は投げ出された。

 倒れる自分を支えるために、腕を伸ばそうとした。が、動かなかった。手首のところに、蔦でも絡んでいるのかしら……。

 鼻がムズムズする。

 意識がまた遠のいて……。

 が。

 ごりっと、鈍い音。

 固い壁に頭からぶつかったらしく、まどろむ頭が痛烈に揺すぶられる。

 目からチカッと、星が飛んだ。

 い……。

 痛いっ!!

「っむーーーー!!!?」

 叫んだはずの私の声の、異常なまでのくぐもりに気がついたとき、私は初めて目を見開いた……。

 否。

 見開こうとした。が、そのまぶたが異様に重たかった。まるで外側から、何かに押さえつけられているかのようである。

 無理矢理に、目を開く。

 ………………真っ暗だ………………。

 目を開いたのに、何も見えない

 夜なのか?

 ここは……どこだ?

 まぶたにまつ毛が変に絡みついて、ヒリヒリする。

 頬に、硬く冷たい地面の触感。 

 ばっと、顔を上げる。

 やはり何も見えない。

 アゴが痛い。

 体を起こそうと身をよじらせると、全身にギシギシと痛みが走った。そうか、私は崖から落っこちて、それで……。

 あぁ、痛い。あっちこっち痛い。

 わけもわからず右や左を見る……見ようとするが、もはや自分がどこに目を向けているのかさえわからぬほどの真っ暗闇。私が今、目を開いているのか閉じているのかさえわからなかった。

 虚空の中に、一人ぼっち。

 ……いや。

 ひょっとして、私の目がおかしいのか。

 まさかまさか、目が潰れちゃったなんてことないだろうな。

 グラグラと頭が揺れているのを感じながら、目をこすろうと、ごく自然に腕を伸ばす……が。

 ギリっと、手首が痛む。

 ……?

 おかしい。

 うつ伏せになっているはずなのに、背中の後ろから、腕を引っ張ってくることができない。

 指先をクリクリと動かしてみると、私の帯のゴワゴワした感触はわかった。が、しかし、肝心の腕が動かせない。必死に頑張っても、背中の中ほど以上までは手を引き上げられない。両手の小指同士がなんとか触れるくらいのことしかできない。

 何かが背中の後ろで手首に絡みついていて、動かせないのだ。

 ……あれ?

 二、三度、力を入れて踏ん張ってみるが、細い縄じみたものが手首にキツく食い込むばかり。とてもとても、私の力で無理矢理引きちぎることなどできそうにない。

 ……?

 いよいよおかしい。

 手首もそうだが、口がおかしい。

 閉じないのだ。

 何かが口の中に詰まっていて、踏ん張っても踏ん張っても、「んーっ、んーっ……」とくぐもるばかり……ザラザラしたのは、コイツのようだ。

 どうしたんだろう。

 しばらくは首をやたらと動かしたり、口の中のものを噛みちぎろうともがいてみて、私は今、ほとんど何もできないということを理解する。足はどうやら動かせるみたいだけど、代わりにそこはジンジンと、動かすたびに強烈に痛む。落ちた時に手ひどく打ち付けたのだろう。

 あぁ、そうだ。私は落ちたんだった。

 あの時私の足に触れたカエルを思い出して、ゾワゾワっと鳥肌を立てる。

 もう、最悪。

 あぁ……それで私は落っこちて、気を失って……そしてその間夢を見ていて………えっと……。

 五石とヤキチと、雨と篠笛。

 そして、ヤキチに睨まれていることに気がついた私は、目が覚めて……。

 また反射的に顔を手で触ろうとして、手首に紐が食い込んだ。

 ……縛られている。

 ハッとする。

 私が完全に目覚めたのは、この時だろう。

 床に顔をこすりつけると、目の周りにはどうやら布が巻かれているらしい。

 口には何か大きくて柔らかい布が詰まっていて、吐き出せない。

 ……ゾワッとする。

 なんだかとてつもなく、マズイ状況にいることに気づいたから。

 こ、ここはどこだろう……?

 まさか人さらいか?

 それとも……。

 じわじわと、恐怖が思考を侵食する。今自分が置かれた状況を知りたくても、ほとんど微動だにできないこの無防備さ……。

 冗談じゃない。

「む……んーーっ!!!」

 耐えかねて、一声、唸る。

 溜まったよだれがあふれ出す。

 ……その時である。

 首筋に、生ぬるい何かが触れた。

 全身がすくみあがる。

 体の筋という筋に力がこもった、それのまた痛かったこと……やっぱりあっちこっちいたんでるんだ。あの高さから落ちたのだし、当然である。

 が、それでもなお、力を抜くことはできなかった。

 体に触れた何かが、首の両側をピクピクと這いずって、喉を押す。

 それが人の手であることに気がついた私には、もはや考える余裕はなかった。

「……っーーーー!!!??」

 虚空の中、私は叫び声を上げた。

 そのまま無我夢中で暴れまわる。

 無駄を承知で、声を絞り出した。

 手、足、背中、頭、腹……痛くないところなど一つもなかったが、それでも、自分をかばう余裕なんてなかった。

 動かせない腕を必死でほどこうと、懸命に肩を揺すぶる。

 だ、誰だ?

 何をしている?

 た、たたた、タスケテェ……。

「んーっ! んーーーーーーっ!!?」

 バタンバタンと、手足や背中を地べたに何度も打ち付ける。

 どうしようどうしようどうしよう……。

 首を締めんばかりに私を掴んでいた指先が離れた。

 浅ましく安堵する。

 だが……。

 一刹那、ぶわっと顔に、風を感じた。

 おそらくは瞬きにも満たないであろう短い時間のうちに、全身が冷たい恐怖で貫かれる。

 この感覚、私はどこかで知っている。

 このあと何が起きるかも……。

 未だ漆黒の視界に、ありえもしない、拳の幻影。

 縮こまり、そして……。

 想像をはるかに上回る衝撃が、横っつらに打ち付けられる。

「……っ!!?」

 ビリビリと全身が震えた。

 頬が裂けたのではないかと疑うような、ヒリつく熱さ。

 顔を押さえようとして、また手首に紐が食い込む。

 ……殴られた。

 それは、単純な痛み以上に深長な意味を含んだ一撃だった。

 もはや最悪の事態に追い込まれていることに疑いなし。

 じんわりと漏れ出した涙は、しかし、流れることなくまつ毛に絡んで目をくすぐる。

 私は今、縛られている。

 捕まっている。

 顔もわからぬ、極悪人に。

 子どもの私を、ためらいなくあれだけの力で叩ける人の、手の内に。

 倒れていた私を勝手にひっ捕まえて、勝手に縛りつけて、勝手に触って、簡単に殴りつける……あまりにも横暴で、信じられないほど自分勝手で、それでいて不気味なくらいに力強い、その悪意。

 恐れるなという方が無理というもの。

 耳元にこそばい息が吐きかけられて、総毛立つ。

 はぁ、はぁっと風が吹き掛かるたびに、呼吸もできないほどに震えが走る。

 ひどい臭い……。

 なんて、不愉快。

 かかる息から、毒気がジワジワと、肌から胸に染み込んでいく。

 その近さ。

 見えないがゆえに、感じる距離感。

 次の一撃が今にも飛び出してくる感じがして、こわばる体を抑えられなかった。動かせないことなどわかりきっているはずなのに、何度も何度も、腕を伸ばそうと躍起になっていた。

 苦しい中で、ひと呼吸さえできずにいた。

「よう……スミレやぁ……」

 やけに低く、野太い声。

 ズキッと、胸が締め付けられた。

 その声の主を、私ははっきりと覚えていたから。

「俺がわかるな? おい?」

 …………タツミさんだ…………。

「なぁ……なんでお前、勝手に逃げてくれやがって……」

 また、悲鳴。

 やめたほうがいいことなどわかっていた。

 泣いてしまってから、必死で自分を止めようとした。

 でも……無理だよ。

 だって、こんなに怖いこと、初めてだ……。

 タツミさんが……あの、タツミさんが、私を縛っている。

 それをなぜかと考えられるほど、冷静でいられるはずがなかった。

 なんで私がこんな目にと、何度も何度も繰り返されるばかり……。

 腹に一発、強烈な蹴り込みが。

 ノドが弾け、呼吸が止まる。

 全身に痺れが走って、押し出された空気が、くつわに邪魔されて喉を痛める。

 その信じられない苦しさに、毛先に至るまで泣き出したように感じたその瞬間。

 私の鼻が、爆発した。

 ……っーーーーーー!!!!?

 すぐに髪を引っ張られて、体を無理やり起こされる。

「ん……んんんん……っ」と、漏れる嗚咽を聞きながら、確かに笑う、タツミさんの声。

「はは……やっぱりだ……やっぱり……スミレだ……」

 頬に大きな手が這って、ギチギチと押さえつける。

「俺はなぁ……ずっと待ってたんだぞ?」

 無理矢理に、仰向けに引き倒された。

 ……死にそうなくらいに、震えが止まらなかった。

 痛い。

 痛い。

 いたい!

 不安などという言葉では生ぬるい、実現された悪夢。

 その中で、真っ暗な世界のあまりの頼り無さ。

 助けてぇ……ギンジさん……。

 たまった唾が、うまく飲み込めずに喉を塞ぐ。

 タツミさんの手が、服の上から体をまさぐっている。

 目隠しをされた私にとって、それがどれほどおぞましかったか……。

 見えないってことが、これほどまでに怖いとは……。

 その手が今にも私を打ち据えようと……痛い目にあわせようとたくらんでいるように感じてならなかった。

 呼吸をやけに近く感じる。

 タツミさんの顔が、常に鼻先スレスレに浮いているような気がして、まともに息を吸うことさえできなかった。

 何をされるか、いつされるかがわからないということが、これほどまでに神経をすり減らすとは。

 無駄だとわかりながらも、必死に手を解こうとするのを止められなかった。

 彼の手が少し動くたびに、錯覚かも知れぬ呼吸を肌にひと吹きでも感じるたびに、何度も何度も手を伸ばして払い除けたくなって、そのたび腕が縛られているという事実が……どうしようもない無力感と、そこから生じる絶望的な悲愴感がひしひしと心を蝕んでいく。

 腰のあたりの、おそらくは転落の折に痛烈に打ち付けていたのであろうところを掴まれて、体が縮こまる。

 見えないがゆえに、どこまでも大きく感じる存在感。

 とにかく一寸でも離れたい……のに、離れられない。

 まるで彼に、飲み込まれてしまったかのよう。

 ダメだ……歯向かってはいけない。

 抵抗してはいけない。

 叫んではいけない。

 泣いてはいけない。

 そしたらきっと、もっとひどい目に遭う。

 今、私はどこにいるかわからない。だけど、少なくともおばあさんの屋敷なんかではないはずだ。この地面の感じ、私が落っこちたであろう草むらとは明らかに違うもの。つまりはこの人は、きっと倒れていた私をどこかへ運び出したに違いないのだ。誰にも見つからず、私に尋問できる……あるいは、暴行をはたらける秘密の場所へ。

 今や私の命は、彼の手に。

 タツミさんが私に何をする気なのか、わからない。

 もし彼が、私を殺す気なのだとしたら……。

 合わない歯の根が、ガクガク震える。

 いやだ。

 そんなのいやだ。

 こんな怖いままで、死にたくない。

 何も思い出せないまま、逝きたくない。

「俺には……こうする権利があったのに……」

 ぼそっと、驚くほど近くで、タツミさんの声。

「記憶がないだと……ふざけやがって……」

 太ももに、爪が食い込む。

「っ……ぅ……」

 その指が、這い上がる。

 その時だ。

 何かとてつもないほど、気味の悪い感覚に襲われた。

 今までだって十分に怖かった。

 だがこれは今までとは違う、もっと深刻で、もっと汚らわしい、邪悪な恐怖。

 股の間に指が這う。

「お前はスミレだ。そうだろ? そうだろう……」

 そのままググッと、強引に股を開かされた。

 その瞬間。

 クッキリとカエルの姿が、目に浮かんだ。

 タツミさんとそれが、重なった。

 見えない怖さと触れてる恐さが、全身を突き刺した。

 理性が全て、吹き飛んだ。

 何が何だかわからないまま、きっと私は暴れたのだろう。

 殴られているのか、それとも私が蹴ったのか。

 わからぬほどに、身をよじらせた。

 逃げようとした。

 無理なのに。

 バカな私に襲いかかったのは、当然のように、暴力の嵐。

 微塵の躊躇もない、蹴りの連打。

 この人は、私のこと、少しも気遣うつもりがないのだ。

 鈍い、痛み。

 まずは、頬。

 すぐに、腹、胸。

 顔面。

 足。

 腕。

 腹。

 顔。

 耳。

 顔。

 頭。

 顔。

 横腹。

 顔。

 容赦ない、蹴りの嵐が降り注ぐ。

 腕は……伸ばせない。

 体を庇って丸まり込んだために、見えない蹴りが脚へと当たる。

 そこが一番痛かった。

 骨が砕けたかと思うほど、痛かった。

 大きな石で何度も足を打ち据えられているような、赤を思わせる激痛。

 圧殺された悲鳴が、しかし、次から次へと襲う痛みに踏み散らされていく。

 もはやどこが痛いのかさえ、わからなかった。

 必死で背中を向けようとしても、体は思うように動かなかった。

 全身が熱い。

 胸の奥が煮えている。

 やめてやめてと叫んでも、歪んだ声が響くばかり。

 耐え難い痛みを、耐えるしかない、この状況。

 こんな地獄が、あっていいのか。

 息ができない。

 口に詰められた布が、信じられないくらいに、苦しかった。

 タツミさんの声が、途切れ途切れに降り注ぐ。

「……お前が……! くそ……どうして……お前だけ……俺……一人だけ…‥!!」

 怖い。

 こわいこわいこわいこわいこわい。

 痛い痛い痛いイタイイタイ……。

 熱い。

 想像を絶する恐怖だった。

 頭がどんどん小さくなっていくように感じる。

 見えないことが、悪夢を助長していた。

 あぁ、どうして……どうしてもっと早く、この人の危険さに気がつかなかったんだろう。この人の、私への異常な執着を感じ取れなかったのだろう。どうして、村にさえ行かなければ会わずに済むなんて思ってしまったんだろう。どうしてずっと、誰かの目の届く場所にいられなかったのだろう。

 なんでこっそり冒険なんてしたんだ。

 なんで一人で危ない崖を上ったんだ。

 バカ、バカ、ばかぁ……。

 むせ返る咳さえも、くわえさせられた何かに飲み込まれ、何度も喉を傷つける。

 キーンと、大きな音。

 右の耳で、何かが破裂したような気が……。

 酸っぱい匂いが鼻の中に広がっていた。

 いたいよぉ……。

 くるしいよぉ……。

 だれかぁ……。

 どれくらい、そうされていたのかわからない。

 わからないが、暴行はいつしか止み、その頃には私は、ドロドロの恐怖だけを体に残したまま、すっかりと抵抗の気力をへし折れられていた。

 体がしびれ、心はくたびれていた。

 汗か涙か鼻水が、それとも血かも知れないもので、意思も記憶もふやけていた。

 赤い香りが、口の中の布に染み込んで舌をく。

 顔がブヨブヨになってしまったような感じがした。

 とにかく、苦しくて仕方がなかった。

 空気が濡れているかのように重たくて、胸が痛むほどに力を入れなければ、呼吸さえもままならないのだ。

 もう、指先一つ動かす体力は残っていないというのに……ひと呼吸ひと呼吸、ズズっと無理やり息を吸って吐き出すのは、果てしなく疲れる。その作業だけ、強いられ続けている。

 ……最悪だ。

 こんな気持ち、最悪だ。

 また彼の手が、足に触れる。

 疲れ果てた私の体を、なおもなおもむしばんでいく。

 先ほどと同じ恐怖が襲ってきても、もはや少しも動けない。

 ヤキチの顔したカエルが、舌を伸ばす幻想。

 舐められても、何もできない。

 おぞましい。

 再びぐっと、股を開かされる。

「……んぐっ……ぐ……」

 胸のあたりが、ムカムカし始めた。

 鼻がジンジンして、恐ろしく不愉快だった。

 この人は……何をしているんだろう。

 これほどの痛みを私に与えた彼のすること全て、おぞましくないはずはない。

 その人の手が、今、私の股を這っている。

 今から私は……何をされて……。

「なぁ、わかるよなぁ?」

 おぞましいほど低い、男の声。

 耳がおかしくて、さっきよりも聞こえない。

 潰れた鼻と、塞がれた口……空気がどこまでも濁って感じる。

「俺が何をするか……これはなぁ……」

 わかるわけないだろう……。

 せめて……。

 せめて目か口か、自由にして欲しかった……。

 見えないのが嫌だった。

 まともな空気を、吸いたかった。

 ……ぐすっ……。

 怖かった。

 恥ずかしかった。

 恐ろしかった。

 怒りもあったろうに……それを押しつぶすほどの恐怖の中にいることが、悔しかった。

 あぁ、痛い。 

 もういやだ……。

 もういやだよぅ……。

 うちに帰して……。

 はぁ、はぁ、と、タツミさんの荒い呼吸。

 のしかかる、体の重さ。

 強引に持ち上げられた脚が、ジンジンと痺れ出して、燃えるように痛み出す。

 そこにピタッと、何かが当たる。

 冷たいのか、濡れているのか、わからぬものが……。

 そして……。

 ドンっと、鈍い音。

 カラーンと、何かの落ちる音。

 叫び声。

 驚く声。

 喚く音。

「た……タツミぃ!!!」

 タツミさんの腕が、私から引き剥がされる。

 ガラガラと、何かが落ちる。

 獣のような誰かの咆哮。

 女の人の高い悲鳴。

 バシっと、顔に衝撃。

「や、やめろぉ、タツミ!!」

 叫び声。

 すくむ私に、またしても何度も何度も蹴りの応酬。

 一撃アゴに当たって、グラグラと世界が揺れた。

「マキ! そ、その子を……早く!!」

「は、はい!」

 そのうちに、ずるっと体が引き寄せられて、視界が急に、蘇る。

 最初にこの目に飛び込んできたのは、憤怒の形相。

 誰かもわからぬほど、真っ赤に燃える、タツミさんの顔。

「……んっ!!?」

 あまりの恐ろしさに、クラクラと倒れそうになる。

 這って逃げようとする私の体を、白い着物が抱き寄せる。

 その中に、夢中で潜り込む。

 痛みも忘れて……。

 あぁ、だけど。

 そのタツミさんは、ギンジさんと他、一度おばあさんの屋敷で見た大きな人と、それに初めて見る、痩せた男の人の三人がかりで地べたに体を沈められている。

 助かったのだ……。

 それがわかった時に私の目から溢れた涙は、いかほどだったであろう。

 きっと喧騒に飲み込まれて、誰の耳にも届かなかったであろうとも、私は泣いていた。

 全身で、泣いていた。

 開放の喜びに、安堵に、指先まで涙を流しているような気分だった。

 胸が、熱い。

 体から汗が噴き出して、恐怖が浄化されていくようだった。

 霞んだ視界に、マキさんの顔。

 心配に顔を歪めながら、口に詰まった何かを取り外してくれる、優しい手つき。

 あぁ、ありがたや……。

 唾液と血の混じった布が、糸を引いて吐き出される

 ゲホゲホと、嗚咽を込めて幾度も咳き込む。

 それの気持ちよかったこと……。

 今までずっと、タツミさんの息ばかり取り込まされていた気がしていたところに、初めて冷たい外気を吸い込んだ気がした。

 例え記憶が戻ったとしても、これ以上の安心などありえないと言い切れるほどの、激しい安堵。

 解放。

「返せぇーー!!!!!!」っと、一際大きな、怒号が響く。

 あまりの剣幕に、再び目の前が真っ暗になる。

「そいつは俺の……俺のぉ……!!!」

 噛み付くように、耳をつんざく。

「離せぇ!! 貴様ぁ!!!」

 なおもなおも、彼は叫ぶ。

「俺にも……俺にもぉ……おぉ……!!」

 グワっと、一瞬だけ取り押さえる手を逃れたタツミさんが、獣のように私に飛びかかる。

 その威容の恐ろしかったこと……。

 太い腕がまた、脚を掴む。

 ジワっと股の間が熱くなった。

 慌てた男たちが、彼を必死で引きずり戻す。

「返せ!! 返せぇ!!!!」

 男たちに取り押さえられながらも、執念深く私を引っ張りこもうとする彼の手を、マキさんが懸命に引き離す。

 フラフラと、全身から力が抜けていく。

 ギンジさんの一蹴りで、その手が私から離れた。

 マキさんが、すぐに私をかばうように抱きしめる。

「やらせろぉ! なぜ俺に……やらせんのだぁ!!」

 そう吠えるタツミさんの目に、浮かんだ涙に、怖気おぞけが走る。

 ……そして。

 急に、この状況からは考えられないくらいの安堵感に胸が満たされたかと思うと、唐突にまぶたが重たくなった。

「ずるいぞ! お前らだけ……どうして……」

 カイリに言わせれば、ひゅーすとーん、だろうか……。

 はははははは……。

「本当はお前は……お前は俺のぉ……畜生……」

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