第21話 「わかったから、思いっきり泣いちまえ」

 オリオルカレッジでの騒動の後、ふたりは軽い事情聴取を受けた。家に帰る途中でリリアンが隆弘に言う。


「見せたいものがあるんだけど、今から私の住んでた借家に来てくれる?」


 男はタバコを取り出すと、口に咥えて火を付ける。煙を吐き出した後で彼女の問いに答えた。


「かまわねぇぜ」


「じゃあついてきて」


 ドリーとジャッキーの死因は現在調査中との事だ。留置所で死んだ3人と状況が酷似しており、隆弘とリリアンに妙な疑いがかかることはなかった。それでも、日を改めて詳しい話を聞くことになるとアーマンは言っていたが。

 ふたり並んでセントアデレート警察署を出る。そのまままっすぐ橋を渡って借家に向かった。

 リリアンは既に大家に立ち退きを言い渡され、現在荷物を纏めている最中だ。次の借家はまだ決まっていない。医学専攻のリリアンはあと3年、借家生活を続けなければいけなかった。講義もあるし、ひとりで家事をこなすのは苦しいだろう。できれば同じ医学部連中にルームシェアを頼みたい。今の所条件に見合う物件は見つからなかった。この場合学校に相談すれば早々にカレッジの空き部屋を提供してくれるかもしれない。宿のことは明日にでも学校側へ相談しよう。

 思考を中断し、リリアンが借家のバックガーデンに隆弘を招き入れた。


「こっちだよ」


 シマネトリコを中心に紫色のエリカや黄色いユリオプスデージー、赤と白のストックが咲き誇っている。ディンゴドラの合間を縫うようにタイルの道が敷かれ、ベアグラスが風に揺れていた。シダやラベンダーが原生の印象を与えるように植えられている。小さな森のような印象を受けた。イギリス風景庭園の手本のような庭だ。

 隆弘が庭をグルリと見回して感嘆の声をあげる。


「こっちも随分手入れされてるな」


「ありがとう」


 リリアンは彼を案内するようにタイルの道を進んでいった。歩くたび霧の水滴が服を濡らしていく。タバコの煙を空中に吐き出した隆弘が彼女に尋ねた。


「見せたいものってのはこの庭か?」


 シマネトリコの根本へ辿り着いた女がしゃがみこんで隆弘を手招きする。

 男が近寄ってきたのを確認して、リリアンは手もとのベアグラスをかき分けた。


「これ」


 季節外れの黒いユリが一輪、ぽつんと佇んでいる。花弁の先にいくほど赤く、中央にいくほど黒いグラデーションは不気味な印象を受けた。

 隆弘は女の横から花をのぞき込み、不思議そうに首を傾げる。


「こりゃ、ユリの花か? こんな色は初めてみるが」


「ブラックジャックっていう種類の変種だよ。バルボ教授は趣味で花の栽培もやっててさ。これは偶然できた新種のユリ。まだ発表してないから、私も教授もただ『リリー』って呼んでた」


 男がタバコの灰を携帯灰皿に落とす。


「ふーん」


 リリアンが何をいいたいのかよくわかっていないようだ。

 隆弘の視線が赤黒いユリに集中している。女は一度深呼吸してから、ゆっくりユリの花弁をなぞった。


「ドリーは薬っていってたけど、バルボ教授が二ヶ月前に発見したのは、このユリなんだ」


 隆弘の視線がリリアンに移る。


「は?」


「二ヶ月前、このユリの根っこをちょっと囓ったネズミが私たちの目の前で空を飛んだんだよ。私が預かってたのは薬じゃない。このユリなの」


 二ヶ月間、何度も燃やそうと思った。結局ズルズルとここまできてしまった。

 リリアンの身体が震える。声も震えているのが自分でわかった。


「ルーベンが死んで、形見みたいになっちゃって、ますます処分できなくなって、でも、きっと、ジャッキーもドリーもこいつのせいで死んだんだ……こんなもの、ないほうが良いよねっ……」


 花弁をなぞっていたリリアンの手がユリの茎を掴み、勢いに任せて地面から引き抜く。ズルリと地中から出されたユリが赤黒い花弁を妖しく揺らした。

 女が隆弘に向って左手を差し出す。


「ライター貸して」


 隆弘がポケットからライターを取りだし、リリアンに渡した。彼女は蒔絵のついたライターを握りしめる。赤黒いユリを土の上になげつけ、火を付けた。 火を纏った花が見えない手に握りつぶされていく。見ていてとても痛々しい。赤黒い花弁はまるで元々燃えていたかのように、すぐ火の中に溶けてしまった。

 白い煙がゆるやかに、夜霧の空に上がっていく。

 隆弘がタバコの煙を吐き出した。


「……まるで送り火だな」


 女が鼻を啜って震え声を出す。


「日本のお盆だっけ」


「よく知ってるな」


「友だちに教えてもらった」


「そうか」


 花が黒い炭になる。埃か土のようになったそれから、まだ少し煙が出ていた。

 花が燃え尽きたのを確認してリリアンが立ち上がる。隆弘はまっすぐに彼女を見据えていた。


「ひとついいか」


「なに?」


 女が首を傾げる。隆弘は半ば睨みつけるように彼女を凝視していたが不快ではなかった。

 彼の目は優しい色をしている。


「ドリーもジャッキーも、お前のせいで死んだわけじゃねぇ」


 きっと本人が優しいからだとリリアンは思った。


「……うん。ありがとう」


 それから彼女は花の炭を足で踏みつけ、完全に消火する。煙が夜霧に混じり合って消えていった。

 リリアンは煙なのか霧なのかわからない白い空気を目で追っていく。


「ごめんね、こんなことに巻き込んじゃって。もう迷惑かけないようにするから……恋人は誰か、別の人を捜してくれる? 西野を退屈させない人、探せばいると思うよ」


「……隆弘だ。覚えてたのか、それ」


「だって、結構インパクトあるよ。『壊れないオモチャが欲しい』って」


 女がクスクスと笑う。隆弘は顔を赤くして、タバコの煙を吐き出した。


「少し話したいことがある」


「なに?」


 リリアンが首を傾げた。男は咥えていたタバコを携帯灰皿に押し込み、新しいタバコを取り出す。


「……ジャッキーとは、イートン・カレッジからの知り合いだってのは話したよな」


 女が頷く。


「なに、本当にイートン校では恋人同士だったとかなの? だから『壊れちまったら意味ねぇ』って?」


 冗談めかして言うと、隆弘が短い笑い声をあげた。


「馬鹿野郎、よく覚えてたな」


 男が言葉と一緒にタバコの煙を吐き出した。


「1年の時から2人してカレッジャーでよ。成績は俺が一位であいつが二位ってのがオヤクソクだった。最初はそれなりに仲良くやってたつもりだったんだがな」


 深緑の瞳に睫毛の影ができる。リリアンは切れ長の目をじっと見つめていた。少し前なら目を逸らしていただろう。けれど今目を逸らすのは失礼な気がしたし、この男の目を見るのは嫌いではなかった。


「あいつは親に一位になれって言われつづけてたみてぇだ。そのうちプレッシャーで身体壊して、自宅療養になっちまった。その後の学校生活は、正直張り合いがなかったな。退屈だった。俺がジャッキーを蹴落としたって噂が流れたし、大学で再会したときにゃあ思いっきり睨まれたから、あいつも俺のせいだと思ってたんだろうよ」


 コバルトグリーンがまたまっすぐ女を射貫いた。彼女もまっすぐ見つめ返す。


「俺はあいつの挫折を自分のせいだと思ったことはねぇし、これからも後悔しないぜ。ただ、あれからずっと退屈だったし、張り合いがなかったから……アンタなら、壊れないと思った。ずっと張り合えると思ったんだ、リリアン」


 名前を呼ばれた女が少し考え込んだ。考えて、彼の『壊れないオモチャ』という言葉の意味を理解し、苦笑する。


「それ、『お互いに高めあえる相手がいい』って言えば良かったのに」


 すると彼は口をへの字に曲げ、タバコへ軽く歯を立てた。

 そのせいでタバコが上下し、煙をまき散らす。子供がストローを噛むような反応だ。


「そんなん、寂しがってるみてぇでカッコ悪ぃだろ。西野隆弘様だぞ」


 実際張り合える相手がいなくて寂しがっていると思うのだが、言わないほうが良さそうだ。

 リリアンは少し声を出して笑った後、静かに目を伏せた。それから改めて男を見る。


「あのね、私の話も聞いてくれる?」


「ああ」


 隆弘がまたタバコの煙を吐き出した。可愛らしいデザインのシャツが水滴を吸い込んで濡れている。

 女は湿ったシャツに浮き上がる男の筋肉をぼんやりと見ていた。


「……私、5才年上の姉さんがいてさ。ジュリアンって名前なんだけど、この姉さんがめちゃくちゃ優秀でね。勉強は当り前だし美人だし、明るくて友だちも多くてマジチートって感じなの」


 隆弘はリリアンの話を黙って聞いている。


「姉さんめちゃくちゃ優秀だからさ……私なんかいくらテストで良い点とっても表彰されても、姉さんが先にもっとすっごいレベルでやってんのね。親にもさんざん姉さんのほうが優秀だって言われたよ。姉さんはもっと頑張ってるんだから、お前も頑張れって」


 テストで良い点をとっても、母に言われるのは


『お姉ちゃんはもっと頑張ってたわよ』


 という言葉だ。満点をとってやっと


『さすがジュリアンの妹ね』


 と頭を撫でられる。

 常に満点だ。テストは満点でなければ褒められないし、満点以外は価値がない。姉のジュリアンが常に満点だったからだ。


『さすがジュリアンの妹ね。姉妹そろって優秀だわ』


 褒められるときの言葉はいつだって同じだった。


『お姉ちゃんはもっと頑張ってたわよ。少しは見習いなさい』


 怒られる時の言葉もいつだって同じだった。


『あなたはジュリアンの妹なのよ』


 リリアンはなにをやっても姉に敵わなかった。


「頑張らないとね……姉さんと同じくらいの結果を残さないと親に見はなされるのはわかってた。私がオックスフォードに入学したとき、親がなんて言ったと思う?『お姉ちゃんはケンブリッジだったけどあなたはオックスフォードでいいの?』だってさ」


 別にオックスブリッジに優劣があるわけではない。親にとってリリアンは、ジュリアンの後を追う存在だったというだけのことだ。


「リリアン・マクニールはジュリアン・マクニールのスペアなんだよ。優秀じゃなきゃスペアとしての存在価値がない。もっと頑張れってずっと言われてきた。頑張ってるねって言われることもあったよ。でもそのあとに必ず、親だって先生だって親戚だって、同じ言葉が続くんだ。さすがジュリアンの妹ねって。 頑張ってるねって言われるのは、私にとって、姉さんには敵わないねって言われてるのと一緒なんだよ。今まで私を頑張ってるねって褒めてくれる人は、『姉さんのスペア』の私を褒めてくれる人しかいなかった」


 だからリリアンは努力していると言われることや頑張っていると賞賛されるのが嫌いだ。いくら頑張ったってリリアンはジュリアンに敵わない。

 ならいっそすべて投げ出してしまったほうがいいと思うのに、親に見放されるのが怖くてそれすらもできない。いつまでたっても独り立ちできない。できそこないのひな鳥だ。

 ずっと誰かに、『リリアン・マクニールだから』という理由で愛して欲しかった。親でさえも『ジュリアンの妹だから』と言い放つこの自分を、『君が君だから』という理由で愛してくれる人が欲しかった。

 リリアンが男性同士の恋愛に惹かれたのは性別という壁を乗り越えて結ばれる彼らを羨ましいと思ったからだ。女だからとか綺麗だからとか、そんなものを超越した愛が紙媒体の、あるいは電子空間の中に広がっていた。


『あいつだから好きなんだ』


 その言葉を何度目にしただろう。

 『頑張ってるね』とか『綺麗だね』とか、必ず『さすがジュリアンの妹だ』と繋がっていた言葉なんかより、それはとても素敵な気がした。


「私が頑張るのはね……そうしないと見放されるからなの。誰にも見向きされないのが怖いから頑張るの。ドリーと一緒なんだよ。素直に頑張ってるって胸を張れない分私のほうが面倒くさいと思う」


 男はまっすぐリリアンを見ている。彼の吐きだしたタバコの煙は霧に混じってすぐに消えてしまう。


「……お前は、その姉に勝てなくても壊れなかったんだろ」


 女が首を傾げた。隆弘がまた煙を吐き出す。


「なら、俺はそれがいい」


「……私より、姉さんのほうが優秀なんだよ? 姉さんのほうが張り合いあると思うけど」


「その姉は俺に勝てなくてぶっ壊れないって保証があるのかよ?」


 彼が瞬きもせず言い切った。リリアンは思わず、声を上げて笑う


「すげぇ自信だな!」


 隆弘は口をへの字に曲げて鼻を鳴らした。


「当然だ」


 リリアンは頬を掻いて、照れくさそうに笑う。


「頑張ってるの褒められて、初めて、嬉しいかもしれない。今」


「そいつはよかったな」


「うん。ありがと」


「別に思ったことを言っただけだぜ」


 女の顔が熱くなる。


「えへへ」


 それをごまかすようにまた笑い声をあげた彼女は、直後ピタリと動きを止めた。


「……嬉しいなぁ……」


「そうか」


「西野と知り合いになれてよかった」


「隆弘だ」


 霧の流れが速くなっている。半月は霧の奥でぼんやりと淡い光を放っていた。


「……だけど、ねえ」


「なんだよ」


 隆弘の言葉に、女は大きく息を吸い込んだ。


「私、バルボ教授と付き合ってたんだ」


 男がタバコの煙を吐き出す。表情に変化は見られなかった。


「そうか」


「……驚かないの?」


「教授を殺したんじゃねぇかって言われたとき、教授をファーストネームで呼び捨てにしただろ」


 リリアンが力なく笑う。


「ああ、そうだった」


 隆弘は笑わなかった。


「バルボ教授は確か妻子がいたな」


「うん。だから、私は不倫相手だね」


 女が花の灰を蹴飛ばす。ふわりと焦げ臭いものが舞い上がって彼女は少し咽せた。


「都合のいい女だったと思う。メールも電話もこっちからしたって返事はこないし、向こうからくるのは用事があるときだけでさ。一緒にでかけてくれたのはスラウの別荘に1回きりで、それも研究と花の世話の手伝い込みだったしね」


 それでも、ルーベンがいう言葉がリリアンはとても嬉しかったのだ。


『私は君が好きだよ。君は君のままで充分魅力的だ。私は、君が君だから好きになったんだ』


 彼女が言って欲しかったことをいくらでも言ってくれた。都合良く動かすための方便だったのだろう。心のどこかで気づいていたはずなのに、あまりにも心地よくてみないフリをしていた。

 彼が死んでからは死人を悪くいうことの罪悪感も加わって、ますます直視できなくなった。今も感情の整理がついていない。


「都合の良い女だったけど、ちょっとは大事にしてもらってたし、楽しかったこともあるの。全然ダメな関係だったけど、ごめんね……私、西野の女にはなれないよ……思い出を踏みつけるようなことはできない」


 我慢していたはずの涙で視界が揺らいだ。顔だけが異常に熱い。


「だって、ルーベンがいなくなって、まだ、二ヶ月しか、たってないんだもん……!」


 隆弘がタバコの煙を吐き出して空を見る。煙が高く上っていくのをリリアンも見た。男はほぼ灰になった吸い殻を携帯灰皿に詰め込むと、ため息と煙のまじったものを吐き出す。


「わかった」


 それだけ言うと男がリリアンの肩を乱暴に抱き寄せた。弾みで目にためていた涙がこぼれ落ち、女は驚いて瞬きをする。口を開けて隣にいる男を見上げると、彼はリリアンの頭を乱暴になでた。クシャリと耳元で軽い音がする。

 そして、低い優しい声が聞こえてきた。


「わかったから、思いっきり泣いちまえ」


 女の顔がまた熱くなる。目頭が燃えるような気がした。同じくらい熱い液体が目の両脇から溢れだし、頬を濡らす。


「……ぅ、うぇっ……」


 濡れた頬が風に吹かれて冷たくなり、また熱い液体が目からふれ出てきた。そうして熱が奪われる。

 涙の道とはうらはらに、目頭と顔の熱は引く様子がない。涙の道だけがやけに冷たかった。


「うぇ……、うあぁああああああああぁあああぁああ! あああああぁあああああああ! ああああああああああっ!」


 隆弘はいつまでも泣き叫くリリアンの肩を抱いて、彼女が疲れて泣き止むまで、ずっと横で見守っていてくれていた。

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