第19話 「名前で呼べって何回いったらわかる」

 異変に気づいた警察官が声をあげる。


「リリアンさん! 外出は控えて下さい! どうしたんですか!?」


 警官がリリアンの肩に手を置いた。女は無理やり呼吸を整え、男の手を掴む。


「たっ、助けて、助けて下さい! ドリーが! 西野がっ……」


「なにかあったんですか!?」


「ど、ドリーが……!」


 リリアンの身体が突然重くなった。彼女が膝をつく傍らで警官もバランスを崩し、尻餅をついている。


「なっ、なんだ……!?」


 巡査の言葉にリリアンは答えられなかった。なんと言って良いのかわからない。代わりに自分が走ってきた方向を見ると、ドリーがゆっくりと歩いてくるところだった。足元がふらついている。目元からは血が出ていた。


「逃がさないわよ」


 警官の身体が完全に床へ押しつけられる。


「うぐぅっ!」


 妙な声が聞こえた。男が立ち上がろうとするもうまくできないようだ。

 ドリーが近づいてくる。

 リリアンは転びそうになりながらホテルの外へと飛び出した。

 白い霧に包まれた夜の町が、微かな月明かりでぼんやりと浮かび上がっている。吸血鬼でも出てきそうな雰囲気だ。レンガ造りの建物も、大きく枝を伸ばした街路樹も、霧の水滴がついている。リリアンが走り抜けるたびに水滴が弾けて降り注いだ。

 霧の向こうから半月が追いかけてくる。ぼんやりとした月と外灯の明かりが空気中の水滴を照らし、タイルの路上に長い影を作り出していた。

 吐く息が白い。

 服は水分を吸い込み、リリアンの動きを阻害していた。走っている間にどんどん重くなっていく。

 遠くから響く足音はドリーのものだろうか。霧の中で反響して、今彼女がどこにいるのかわからない。

 振り返る勇気はない。

 そんな暇があったらもっと遠くへ逃げなければいけない。

 西野は無事だろうか。ロビーで倒れた警官は無事だろうか。

 ドリーはリリアンを追いかけてくるから、あれ以上危害を加えられることはないと思いたい。

 彼女はやはり、もう長くないのだろうか。自分でも薬を使ってしまったのだろうか。

 まだ安全性も確認できていないはずなのに。

 得体の知れない成分がどれだけ恐ろしいか、ドリーは知っているはずだ。


「まちなさいリリアン!」


 霧の奥からドリーの声が聞こえてくる。リリアンは狭い路地をむりやり右に曲がった。転びそうになりながらアーチを潜り、短く刈り込まれた芝生の庭に足を踏み入れる。弾けた水滴が足や服を濡らした。

 リリアンやドリーが所属するオリオルカレッジだ。古城というべき風体は夜霧の中にあるとひどく不気味だ。窓の奥からたくさんの目に見られているような錯覚に陥る。建物自体が意志を持ってリリアンを見張っているような気分だ。


 ここからどこに逃げればいい?


 迷う時間はあまりない。周囲を見回しても、夜霧のせいでぼんやりとしか見えなかった。この時間は大抵の建物が施錠されている。とにかくどこか隠れる場所を探してリリアンは走り出した。

 半月とドリーが追いかけてくる。

 追跡者から逃れるように、彼女は礼拝堂の中へと逃げ込んだ。鍵をかけ忘れたのだろう。

 ドーム型の天井は格子状の骨組みが見えている。大人2人分程度の通路が祭壇まで延びていた。その両脇に木製の座席が向かい合うように設置されている。ニスが丁寧に塗り込まれていて、机がついていた。座席の上と祭壇の上にステンドグラスの窓が設置されている。霧の向こうからぼんやりとした月光が差し込んでいた。淡い光が床に木洩れ日のようなモザイクを作り出している。なにぶん弱い光なので、モザイク模様以外はビロードのような闇に覆われていた。

 リリアンは扉の鍵を閉め、その場にズルズルと座り込む。呼吸を整える必要があった。

 ここに隠れているのが見つかったらまさに絶体絶命だ。携帯電話はホテルに置いてきてしまった。持ってくる余裕などなかった。今のリリアンにできることは、どうか見つかりませんようにと、それこそ神に祈ることくらいだ。なるべく音を立てないよう祭壇の近くに移動し、座席の影に隠れる。

 ガタンッ、と扉が大きな音を立てた。


「ここにいるのはわかってんのよ!」


 また大きな音がして扉がへこむ。もう1度轟音がした後、暗がりの中で冷えた空気に流れが生まれた。濡れた草の匂いがしてくる。


「扉なんて意味があるわけないでしょ」


 ドリーの声が先程より近くで聞こえてきた。足音がリリアンのほうに向かってきた。

 彼女がジャッキーと似たような力を持っていることは間違いない。ジャッキーのものよりかなり暴力的な代物のようだ。サイコキネシスとでも言うべきか。これでは本当に超能力だ。


「どこに隠れてるのかしら?」


 リリアンの近くでベリベリと嫌な音がする。木製の座席が独りでにひしゃげているところだった。見えない鉄球にでも押しつぶされているようにヒビが入って歪んでいく。

 自分の身体にも重いものがのしかかってくるのを悟り、リリアンはたまらず悲鳴をあげた。


「きゃぁあああっ!」


 彼女の悲鳴をドリーが聞きつける。物影から逃げ出してきたリリアンの背中に見えないなにかがのしかかってきた。身体が地面に縫い付けられる。頬がひんやりと冷たかった。


「そこにいたのね」


 嘲笑まじりの声が聞こえる。ドリーは大股でリリアンへ歩み寄り、彼女の身体を蹴って仰向けにさせた。リリアンの両手は相変わらずなにかに上から押しつけられている。


「もう追いかけっこは終わりよ!」


 ホテルの時と同様、ドリーがリリアンに跨って首を絞めた。暴れようとしても足が上手く動かない。痛みと息苦しさの中、リリアンはドリーの胸元を見た。シャツのボタンが星の形になっている。

 女は上手く動かない口を無理やり動かした。


「どうし、てっ……!」


「どうしてって、アンタこの状況でわかんないの?」


 ドリーの言葉にいつもの優しさや親しみは微塵も感じられない。リリアンをバカにするように笑ったあと、彼女は両腕に体重をかけた。リリアンの気管を圧迫するためだ。

 リリアンの頬に生ぬるい水滴がパタパタと落ちてくる。ドリーの目尻から流れる赤い血だ。


「ねぇ、リリアン。ネズミが空を飛ぶところ、私も見たのよ」


 リリアンが目を見開く。ドリーの口元が笑っていた。


「バルボ教授に見せて貰いたい資料があってね。ネズミが窓から飛び出したのに驚いて隠れちゃったけど……そのおかげでアンタたちの会話がじっくり聞けたわ」


 隆弘の推測は正解だった。リリアンの身体が小刻みに震える。茶色の髪を振り乱したドリーが楽しげに囁いた。


「なんの研究をしてたのか知らないけど、随分とすごい薬を発見しちゃったみたいじゃない? それを廃棄するなんてもったいないにもほどがあるわ。アンタたちがいらないなら私がつかってあげようと思ったのよ」


 リリアンが耐えきれず小さく咳き込む。ドリーが腕にことさら力を込めた。


「機会を見計らって、教授に薬のデータと実物を出すように言ったの。仲間がいたから忍び込むのも捕まえるのも、脅すのだって簡単だったわ。ねえ、知ってるリリアン? マフィアもこの手の代物はすっごく欲しいみたいなのよ。ボクサーあがりだっていう男が三回殴ったら教授がデータを出してくれたわ。だけど薬は処分したとか言うじゃない。アンタに黙って保管してるくらいの甲斐性はあると思ってたのに! 頭にきて川に突き落としてやったわよ!」


 ドリーが大きな声を上げて心底楽しそうに笑う。


「私はね、リリアン! 教授のデータから薬を再現することに成功したのよ!」


 ミックたちを騙して薬を飲ませたのはジャッキーではなかった。ドリーがナイトクラブにリリアンを誘ったのは、隆弘の推測通り、ジャッキーたちの様子を観察するためだったのだろう。


「あ、あのっ、ナイト、クラブにあった、薬はっ! ド、リーが……!」


 女がリリアンの鼻先に顔を近づける。興奮しているのか、頬にかかる息が熱かった。


「そうよ。いいドラッグがあるっていってあいつらに作った薬を渡したの。アンタがクラブで余計な手出ししたせいで、ジャッキーがやたらとアンタに御執心なのは予想外だったわね。僕が守るとかいっちゃって、バカみたい」


 ドリーの足がリリアンの腹に乗る。下腹部に当たった膝に力をこめられ、女が思わず呻いた。

 同時にドリーの身体も脈打つ。リリアンの身体は妙な重力に押しつけられているため抵抗はできなかった。

 ドリーが片手で口を押さえ勢いよく咳き込む。指の間から真っ赤な血が噴き出した。鉄の匂いがする。リリアンの顔に生暖かい液体がかかった。


「……ドリー、なんで、自分でも、薬を……」


 口を拭ったドリーがリリアンを睨む。食いしばった歯さえも赤く染まっていて、とても不気味で醜悪だった。本当の吸血鬼のようだ。


「認められて援助をうけるには、これしかなかったのよ! ミックたちが死んじゃって、足がつくかもしれないって! こうなったのは私のせいだから、なんとしてでも結果を出して貰わなきゃ困るって! 自分の身体なら必死になるだろうって言われたのっ!」


 ドリーの目から血が溢れる。本当なら泣きたいのだろう。彼女の涙はもう涙ではなかった。汚らしい赤がリリアンの頬に落ちてくる。


「もう戻れなかった! 教授を殺してまで手に入れたデータなのよ! 認められてあんたなんか及びもつかないところにいくはずだったのに、なんで私ばっかりこんな目にあわなくちゃいけないのよ!」


 ドリーの手がまた両方ともリリアンの首にかけられた。全体重をかけてくる手とはうらはらに、リリアンの身体を押さえつける不思議な重力は弱まっている。体力がなくなってきているのだろうか。


「なんでアンタばっかりなの! バルボ教授にどうやって取り入ったのよ! この尻軽スラット!」


 ドリーの顔が嫉妬に歪む。


「教授も隆弘も、なんでアンタなんか選ぶのよ! アンタなんか他人の顔色伺って生きてる人形じゃない!」


 明らかに敵意を含んだ視線がリリアンを射貫く。ドリーの腕が相変わらず気管を圧迫していたが、リリアンは歯を食いしばって目の前の女を睨みつけた。

 冷たいアイスブルーの瞳にリリアンの苦しそうな顔が映っている。リリアンは頭の片隅で、ドリーってこんな顔だったっけ、と疑問に思った。そもそもドリーの目が水色だというのを今初めて知った気がする。

 同居していた相手なのに、今まで顔をまともに見たことがなかったのだ。人としてどうかと自分でも思う。他人の目を見るのが嫌だった。

 姉と比べられそうで。姉より劣っていることを非難されそうで。

 姉より劣っている自分は、他人の顔色を伺っていないと誰にも必要とされないような気がしていた。

 両親や教師の指示に従っていたように友人のいうことにも従っていれば、比べられることも非難されることもない。

 ヘラヘラ笑ってごまかして、いつだってその場しのぎだった。他人の顔色を伺って言葉を選んで、そんな人間を見れば誰だって人形のようだと思うに違いない。

 今リリアンは、ドリーの前で初めて感情を爆発させる。

 息苦しさとは別の理由で身体が震えた。他人に自分の言葉を伝えることがこんなに怖いことだなんてリリアンは思ってもみなかった。

 まだ人の目を見るのは怖いけれど、ちゃんと目を見て話さなければ言いたいことなんて伝わらない。


――目を見て話せば信じる気になると、あの男が言っていたから


 初めてきちんと見たドリーの顔が、まるで初対面の他人のように見える。 


「他人の研究成果横取りするハイエナより、人形わたしのほうがよっぽどマシだからでしょ!」


 ドリーの顔が赤くなった。アイスブルーの瞳が剣呑に輝く。女は右手をリリアンの首から離し、勢いよく振り上げた。

 バシン、と乾いた音がする。

 頬に衝撃が走り、リリアンの頬が痛みを持ち始める。ジンジンと痺れるような痛みだった。


「よくもっ! よくもそんなことっ! 絶対許さないわっ!」


 ドリーが喋るたび口からボタボタと赤黒いものが零れてくる。生々しい鉄の臭いがリリアンの顔全体に降りかかった。息が苦しい。口にも鼻にも苦い鉄の味が入り込んできた。


「どうせ私は長くない……! だからってタダじゃ死なないわ! アンタだけは絶対に道連れにしてやるから!」


 息が苦しい。リリアンは酸欠の魚のように何度も口を動かしたが、状況が改善されることはなかった。妙な重力はどんどん弱まっている。手足をバタつかせることはできるようになったが、拘束を抜け出すまでには至らなかった。女は朦朧とする頭で、助かる道がないものかと必死に考えを巡らせる。

 思いつくのは一つだけだ。多分酸欠でうまく頭が働かないのだろう。

 湖に差し込む木漏れ日のような深緑だけが脳裏に浮かんでいる。不思議なコバルトグリーンに、何度助けてもらったことだろう。何度庇ってもらったことだろう。

 見かけはギリシャ彫刻のように完成されていて、けれどリリアンと違って確かに生きていると思えるあの男なら。

 見ているだけで体温を感じられるあの男なら、この状況をなんとかしてくれるのではないかと、そう思わずにはいられなかった。

 身体中の酸素をかき集め、ブラックアウトしそうな意識の中でリリアンが必死に声を張り上げる。


「助けてっ! 西野っ!」


 ガシャン、となにかを踏みしめる音が聞こえた。扉が転がっているほうからだ。


「名前で呼べって何回言ったらわかる」

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