第6話 「ああ。舌が腐るかと思いながら食ってるぜ」

「ねぇ西野ぉ、手ぇ離してよー」


「隆弘だ」


 リリアンの言葉に反応はするものの男が彼女の願いを聞き入れる様子はなかった。手をもぞもぞと動かしても隆弘の手はびくともしない。


「ひとりで歩けるよー」


「悪いな、良く聞こえなかった」


「ちくしょう意地でも離さない気だなこの暴君め」


「さすがだぜ優等生。よくわかったな」


「今に見ておれ」


 大通りを出て少し歩くと『ハウス』ことクライストチャーチが見えてくる。もはや城といっても過言ではないゴシック様式の建築だ。古い町並みの中でも異彩の存在感を放っている。曇り空が重厚な建物を薄い影で覆っているせいで、町中にうずくまる巨人のようにも見えた。

 この周囲には観光スポットが多い。今も道路の向かい側にある赤い電話ボックスの横で、ふたり組になった警官が観光客に道を聞かれていた。

 隆弘は背が高くやたらと目立つので、手を握られているリリアンも自然と周囲に注目される。人の多い大通りなのでなおさらだ。気恥ずかしさから女が必死に手を振りほどこうともがく。隆弘のほうが力が強くびくともしない。リリアンはまだ手をもぞもぞと動かしながら横の男に言った。


「最近観光客増えたよねー」


「そうだな。先週アリスショップまでの道聞かれたぜ」


「あっ、私もあるー! なんかさーもともと多かったけど、最近来る人めっちゃ増えたよね? なんかに紹介でもされた?」


「去年日本とアメリカのアリス展に出品したらしいからな。それじゃねぇのか」


 観光客の女性が写真撮影の手を止め、隆弘を見る。それからリリアンに視線をうつし


「あれが……ロイヤルカップル……!」


 と呟き、しばらくカメラを持ったまま立ち尽くしていた。

 トム・タワーを見て『ハリポタみたい!』とはしゃいでいた女性も友人の異変に気づいて動きを止める。横の友人と同じようにリリアンと隆弘を見送っていた。恐らく2人とも隆弘の首から下をよく見ていないのだろう。

 突き刺さる視線に耐えきれずリリアンは肩を竦めた。このまま針のむしろは嫌だ。再び隆弘の手を振りほどこうともがくがやはり無駄だった。むしろさきほどよりも強く手を握られる。仕方なく抵抗をあきらめて現状に甘んじた。手をつないだまま、てっぺんにお姫様でも幽閉されていそうなトム・タワーを通り過ぎる。観光客を見守るように立っている警官の横も通り過ぎると、向いからふたり組の巡査が歩いてきた。リリアンが挨拶をすると硬い感じの挨拶を返してくれる。

 すれ違う警官ふたりを横目で追った隆弘が、しばらく歩いたあとリリアンに言った。


「やたら警官が多いな」


 リリアンも首を傾げる。


「なんかあったんかねぇ」


「お前以外にも観光客に絡まれたやつがいたんじゃねぇのか」


 隆弘の軽口にリリアンが声をあげて笑った。


「ありうるわー! 元気そうだったもんあのふたり!」


「今から警察行ってあいつらのモンタージュでも作ってもらうか? それで犯人がつかまったら感謝状かなんか貰えるかもしれねぇぜ」


 繋がれたままの手をリリアンがパタパタと揺らす。隆弘の腕も一緒に揺れた。


「えー、やだー! 私今日食事当番だからはやく家帰らないと、夏の戦利品うすいほん読み返す時間がなくなるぅ!」


「勉強する時間がなくなるって言えよそこは」


「そっちはもう確保してあるから問題ないの」


 リリアンは町の南側にある借家を借りている。オックスフォードの学生は1年と3年時にはカレッジで暮らし、2年になるとカレッジを出て借家を借りるのが普通だ。2年時にカレッジへ留まるのはよほどの理由がなければ認められない。町の借家は学生用に良心的な家賃が設定されているからだ。その家賃も大抵が友人とルームシェアをし、分担して払う。リリアンはドリーとルームシェアをしていた。家がはす向かいと言っていたから隆弘も同じだろう。

 女が手をブラブラと揺らして首を傾げた。


「隆弘は急がなくて大丈夫? 今日食事当番だれなの?」


「ああ、俺はひとりだから時間は自由だ。気にしなくて良いぜ」


「マジか。一緒に住んでくれる友だちもいねぇのかボッチマン」


「天才が孤独なのはいつの世も一緒だな」


「ポジティブシンキングにもほどがあんだろうがよ」


「事実を言ったまでだぜ」


 リリアンは男の発言を無視することに決めた。


「ひとりだと家賃高くね?」


「ウチの物件だから家賃なんかねぇよ」


 女が口をへの字に曲げる。


「おっふ……クッソボンボンめが……家事ひとりだと大変じゃないの?」


「別に。飯はだいたいカレッジで食うから準備なんかしねぇし、洗濯はコインランドリーがあるしな」


「カレッジのご飯まずいじゃん」


「ああ。舌が腐るかと思いながら食ってるぜ」


 冬のテムズ川を越えて住宅街へ入ると、落ち着いた色の三角屋根が立ち並ぶ。リリアンの住む借家は少し珍しい赤い屋根の家だ。彼女は借家を初めて見たとき、昔遊んでいたドールハウスを思い出した。動物の人形がついてくるタイプの明かりが灯る玩具だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る