瀬良と葛貫

いつもの当たり前

 桜は咲いてからすぐに散り、コンクリートにこびりついていつもの道を薄くピンク色に染めた。


 この道を僕はもう何十回、もしかしたら何百回と通っている。美しいものを踏みつける罪悪感も、その儚さに胸を焦がすのも、当たり前の中に沈んでいつの間にか忘れてしまった。


「おはよう、クズ」


 その道を辿ると葛貫がいる。毎朝毎朝いつも同じ場所。僕の家からの道、葛貫の家からの道、ぶつかり合ってT字になった所の角。そこに伸びた電柱の前にあいつはいつも立っている。こんなにいい天気だというのに、葛貫の顔は下を向いていた。いや、あいつに天気は関係ない。いつだって、俯いたままの葛貫。


「おはよう、瀬良くん」


 僕の声に気付き、何の感情も乗せない表情で葛貫は前を向く。今日も僕は”瀬良くん”だ。誰にでも無く苦笑して、そのままどこに顔を向けるべきか分からずに電柱の上、カーブミラーを見上げた。そこには僕らがいる。葛貫の真っ黒な頭、地面に広がるピンク色、そしてこっちを見る僕が凸面で歪みながらも黄色い枠に収まっている。僕は歪んだ僕と見つめ合った。変な顔しやがって。お互いに声もなく、小さく小さく呟いて、枠の外の僕はそれら全部に背を向けて歩き出す。少し遅れて葛貫が追ってくる足音がした。それからしばらく無言で歩いたけれど、葛貫が僕に追いつく気配はない。


「クズ、早く歩けよ」


 後ろを振り返ると数歩戻ったところに葛貫がいた。僕が声をかけると俯いていた顔を上げ、けれど目があうとすぐにまたぐずぐずと顔を沈めていってしまう。ごめん、と消え入りそうな声の謝罪。なんなんだよそれ。思わずため息をついた。


 ため息をつくのが大人だと思っていた時期があった。只々底抜けに明るい周りの賑やかさを遠巻きに見て息を吐くのがかっこいいと思っていた。そうだ。僕がそうするとクズは目ざとく抗議してきたものだった。ため息吐くと幸せ逃げるんだよって。ピンクの歯茎剥き出しにしてさ。


 クズ、あのときの事まだ覚えてる?


 振り返り、口を開こうとして諦める。今の葛貫。僕の目を見ようともしない。


 僕らの登校はいつもこんな感じ。葛貫は何も言わないし、僕は何かを言おうと口を開いたところでそのまま諦めてしまったりする。今の相手には何も伝わらない。そうやって、絶念する。


「……桜、ほとんど散ったね」

「うん」


「花びらはいいけど、毛虫が降ってくるのは勘弁だよね」

「うん」


「クズ、虫触れたっけ」

「うん」


「可愛げ無いな。女子なのに」

「……うん」


 だからたまにする会話も、ほら、こうやってどうでもいいことばかりだ。


「瀬良、っはよー!」


 自転車に乗った有馬がすれ違いざまに挨拶を投げてそのまま走り去っていく。地面を覆っていた桜はくるくる高速で回るタイヤに巻き込まれ、そこからすぐにこぼれてふわりとあいつの後を舞う。


「おはよー」


 僕はどんどん小さくなる有馬にきっと聞こえていない挨拶を返した。いつもの光景。あいつとすれ違ったってことはもう校舎が近い。


「瀬良!お前また挨拶無視しただろ」


 校門をくぐると有馬が走って来てそう言った。屈託の無い笑顔。責めるような言葉でもあいつにとってはじゃれつきの一環なのだ。


「無視してないよ。有馬が走ってくから聞こえなかっただけだろ」


 なあ、クズ。


 そう振り向いたけれど、葛貫の姿はもうどこかに消えていた。


「……だっせ、振られてやんの」


 そうわざとらしく笑いをこらえる有馬の頭をとりあえず強めに小突いておき、周りを見回す。けれど葛貫の姿はどこにも無い。


「……あいつ、いつもどこに消えてるんだろう」


 そう呟いた僕を有馬はじっと見てから、知らね、と一言口にして笑った。



「おはよー、瀬良!」

「瀬良くん、おはよー」


 教室に入ると、いろんなところから挨拶が飛んでくる。おはよう、おはよう。僕もそれに返すように挨拶をしながら自分の机へ向かう。


「おいおい、俺にも挨拶しろよ!」

「あ?有馬いたのかよ、気付かなかったわー」

「ひどい扱いの違い!」


 一緒に入って来た有馬は朝からヘラヘラと忙しそうだ。僕が机に辿り着いてもあいつはまだ入り口付近で人の笑顔の中心にいる。


 そして葛貫の机はまだ空いたままだった。


「おはよ、瀬良」


 僕の左、机に腰掛けて友達と喋っていた日高が微笑をたたえてこちらを見る。小さな顔へ左右対称にバランスよく配置された目鼻、口。すらりと伸びた長い手足。綺麗だな、と思う。一日の最初に外に出て、太陽に日を当てられた時、ああ朝だなって思うのと同じくらい自然に、そう思う。


「おはよう、日高」


 僕がそう返すと日高の周りの女子たちも次々に声をかけてくる。おはよー瀬良くん、おはよう、おはよう。


「おはよう。ねえ、クズってまだ来てない?」


 僕がふっと挨拶の流れでそう聞くと、瞬間、にぎやかだった彼女たちの周りがしん、と静かになる。あ、しまった。その静けさを感じて僕は急いで謝罪する。ごめん、なんでもない。なんて。


 するとすぐに空気は綻んで、変な瀬良くんーって女の子たちは姦しさを取り戻して僕を笑った。僕もそれにあわせて笑う。笑いながら、ちら、と葛貫の姿が頭に浮かんで、片頬がピクリと震えた。


 葛貫がやってきたのはホームルームが始まる直前だった。静かに教室に入り、静かに机につく。周りの同級生は変わらず賑やかなままで、誰も葛貫の存在に何の反応も示さない。笑顔を向けることも、嫌な顔をすることも、何にもない。毎日毎日、こうである。


 だからもしかしたら僕にしか見えてないのかもしれない、なんてありえないことを結構本気で考えてしまう。静かな葛貫。周りの喧騒に掻き消されて、気付いたらいなくなっていそうだった。僕はそうなったときのことを想像して、何だかヒヤリと胸が冷えるのだった。



「クズ、帰ろ」


 ホームルームが終わり、鞄を肩に提げた僕は葛貫の机の前に立つ。葛貫はうん、って聞こえるか聞こえないかくらいの返事をして、急いで鞄に残りの荷物を詰め込んだ。


 同級生たちがたまにこちらをちらちらと見ているのが分かる。どんな顔をしているのかは見なくても大体予想できた。いつものこと。だから一々確認することもない。


「おー、瀬良!また明日!」


 扉を出ようとすると、近くにいた有馬に呼びかけられる。きっとこいつはもう少し誰かを笑わせてから帰るのだろう。


「また明日」


 僕はその笑顔になんだかほっとして挨拶を返す。有馬の周りからもまた明日、って挨拶が飛んでくる。


「あ、葛貫さんも、また明日!」


 そう有馬に呼びかけられた葛貫は目をまん丸に、怯えたように体を硬くして口を開く。また明日って、掠れた小さな声で。その後に葛貫に向けられるのは、周りからの挨拶ではない。暗い黒目の、まるで観察されるような目線だけだ。僕はそれに気付かないふりして、クズ、行くぞなんて教室を足早に出る。掠れて上擦って、変な声だった。少ししてから葛貫が追ってくる足音がした。僕は今日何度目かのため息を大きく吐いて、足を進めた。


 行きも帰りも大して変わらない。僕はどうでもいいことばかり口に出し、葛貫はそれに頷くだけ。たまに葛貫から話を振ることもあるが、それも大概どうでもいいことだ。


「……昨日の本、読んだの?」


 ほら。こうやってどうでもいいこと。


「昨日の本って、ああ、あのエロ本ね」


 振り返れば葛貫は何か言いたげに前を向いていた。口元が微妙に動いて、けどそこからはなにも出てはこない。


「読んだよ、つまんなかったけどね」


 僕はまた昨日のように腕が熱くなるのを感じ、前を向いて葛貫から逃げた。じりじりとする心臓が不快だった。


 葛貫はそっか、とだけ呟いて、そこから何も言葉は聞こえなかった。


 いつもの静寂。僕たちは2人だけで歩く。何をしていいのか、何を話すべきかも知れずに。


 顔を回して後ろを見た。葛貫は相変わらず少しだけ遠い。いつもの距離だ。そう思って僕はどきりとする。この距離までもが”当たり前”になってしまったことに気が付いたから。葛貫はそんな僕の痛みには無関心にふらふらと歩いていた。僕との距離を詰めないように、ふらふらと。


 だから僕も無関心を決め込んで、前を向いて歩いた。道に転がる桜を数える。22枚を数えた。そこで、僕たちの間にはこれが何枚分あるのだろう。なんてふと思い、なんかクサイなってひとり恥ずかしくなった。同時に胸がぎゅっと小さくなった。


 そこからまた9枚数えた。訳がわからなくなって、なんだか息が詰まって、数えるのをやめた。



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