弐章 事件


   事件1/関係/想う者たち


 さて、少しだけ前の話をしよう。

 万里 凪が羽田家を去った後、残された羽田と玉城の話だ。

 彼らはそれなりに仲が良く、時々こういった酒の席を設けてはいたものの、どこかぎこちないことが多かった。今回は万里 凪と飼い犬である銀之助のおかげなのか、普通に笑い話もできていたが、彼らが去った後は別であった。

「先生、何かあったのかね」

 羽田は、万里を見送ってから居間に戻ってすぐさまにそのような言葉を呟いた。

「さぁ。私は彼については深く知りませんので。羽田さんのほうが彼については詳しいでしょう? 何故あのような嘘をつくか教えてもらいたいものです」

 嫌味のように聞こえる言葉に、羽田は眉間に皺を寄せながらも、何故万里があのような嘘をついたのかを真剣に考えることにしたらしい。

 玉城はというと、二本目の〝十四代純米大吟醸 龍泉〟の封を切ろうとしていた。

「駄目だ、わからねーや」

 羽田は短い時間で音を上げて、自分の妻へと「酒をくれ」と叫ぶように言った。

「まぁ、いいではないですか。あの方はどうやら、人に好かれるような性格をしているのですし、いくら嘘とは言えこちらが腹を立ててしまうような嘘ではない」

 まるで万里を擁護するような発言をする玉城に、驚きの表情を浮かべながら、だがしかし羽田は玉城のその言葉に意見を唱えた。

「玉城さん、あんた勘違いしているよ」

 封を切り、酒をグラスに注ぎながら玉城は「ほう」と片眉を上げた。

「何が間違っているのか教えていただけますかな?」

 性格のせいなのかはわからないが、玉城の言動の一つひとつは、僅かながらでも相手を苛つかせるものである。さすがに八年近く関わりのある羽田であっても、その点だけは何度も注意して改善するように言ったのが、全く改善されずに今に至っているのだ。

「玉城さん、まずはその言動とかを改善しなよ」

「質問に答えていないのでは?」

 相変わらずの態度に羽田はため息をついたが、もうそれ以上言うつもりはないのか、先程の話の続きを始めた。

「玉城さん、先生はね、人に好かれるとは、少し違うんだよ」

 羽田の声のトーンが少々下がる。それはまるで、辛い思い出を振り返るような悲しい表情をしていた。

「あの人は、そうだね……」

 羽田は、二年の付き合いでしかない万里を語った。

「空っぽなんだよ」

 ちびりと、僅かな笑みを浮かべながら、玉城は酒を一口飲んだ。


   事件/2


 羽田さんの家での飲み会から数日が経った。銀之助の衝撃的な正体を知った後も、私と銀之助は相も変わらず、互いに心地よい距離を保ちながら生活をしていた。

 そこで、前は銀之助(犬バージョン)についての生態について語ったので、今回は銀之助(人間バージョン)の生態について語ろうか。

 こいつは、やはり犬のときと同じで、上品なやつであった。食事をしているときも何故か、上品さを醸し出している(食い意地は張っているが)。ちなみにドックフードを食べるときはスプーンを使って食べている。人間の姿のときにドックフードを食べているのを見ると、如何せん違和感がありすぎて困ってしまう。

 また、銀之助は犬のときとほとんど行動が変わらない。人間の姿のときに着物を脱いで風呂場に来るし、私が目のやり場に困っていても奴は気にも留めなかった。風呂上りは風呂上りで、自分の長い髪を乾かすように言ってくるし、いつものように梳かせとも言ってくる。これではどちらが主なのかもわからないような状態であった。最初こそ銀之助が人前でこの姿になりはしないかと不安ではあったが、そんなことはなかった。奴は奴で警戒しているのかもしれない。人間の姿でのんびりと昼寝をしているときも、誰かが訪ねてくるといつの間にか犬の姿に戻り、変わらず昼寝をしているときもあった。 

 とりあえず、こいつは人間のような姿をしているときも、やはり銀之助なのである。

 さてさて、そんな銀之助に、私は前の花の匂いについて質問をしたことがある。「どこかの花畑にでもいたのか? いたのなら、そこに連れていってくれないか?」と尋ねたが、銀之助は「何を言っておるのだ主殿よ。とうとう頭が腐りだしたのか?」などと、辛辣な言葉を述べ、黄金の瞳を嫌そうに細めていた。

 夜、私が執筆作業をしているときは、奴は縁側で月を明かりにしながら本を読んでいることが多かった。

 だが、稀に……奴が夜の縁側にいる時に、微かに香るときがあるのが、如何せん不思議であった。

 銀之助は月光を体に受け、静かに本を読むことが非常に多かった。奴は何でも読んだ。絵本から始まり、哲学的な小説まで分け隔てない(理解しているかどうかはわからぬが)。

 そのときの姿は、月光の女神とでも言おうか。まさに、私が以前にも語っていた完成された女の姿であった。

 ちなみに、今私がこの銀之助について語っているときが、まさにそんな夜の時であった

「銀之助よ」

「……」

 銀之助は無視して月を見上げていた。細い三日月と同じ色をしている黄金の瞳は、憂いを帯びていた。

 ここにはいない誰かを求めるようで、だがどこか拒絶しているように。僅かに花の匂いは香る。

「銀之助」

「なんじゃ、主殿よ」

 ゆっくりとこちらに銀之助は振り返る。

 銀之助は私を慈しむように見つめた。その瞳は、僅かに潤んでいた。

「どうした、いつもよりも憂いが増しているぞ?」

 月を見上げ、物悲しいような表情をすることはあるが、今日は特にひどかった。

「何でもないのだ、主殿よ」

「……ならば良い。だが、私はお主の飼い主であるのだ。何かあったら言うのだ、いいな? お前は喋れるのだからな」

「……そうか。では聞こうか。主殿よ、孤独とはどういうものだ?」

 哲学的な質問とも取れるだろう。私も、そして銀之助も、本当に孤独な者からすれば、恵まれているに違いない。だが、銀之助はそのような答えを聞きたいわけではないのだろう。

 まるで、私のことが見透かされているようだった。

「そうだな。耐え難いものだ」

 銀之助は声を上げずに静かに笑った。

「主殿が言うと、説得力がないな」

 その笑みは、〝あの〟笑みを思い出させるようで、私の胸に突き刺さる。

――アナタハ、ダレモ、ノゾンデイナイモノ。

 あぁ……まるで、夢のように、それは現の悲恋であった。


   事件/■□■


 私は那美と学生時代から付き合い始め、そしてその関係は社会人になっても崩れることはなかった。無理のない関係は、結局互いにとってよい結果を生んだと言っても過言ではない。

 ただ一つ悪かったことといえば、数年間付き合っていて、中々結婚に踏み出せなかったことぐらいだろう。

 しかし、そんな私に結婚を催促することもなく、付き合ってくれていたことには今も感謝している。

 那美はそれほどまでに寛容で、そして、彼女はその繊細で壊れやすい印象とは全く違って、他者には攻撃的な性格をしていた。ここで言う他者というのは、親しくない者や物言わぬ物体に関してということである。

 私と付き合い始めのときにもその性格の片鱗は垣間見えていた。

 彼女の部屋に行くと、今まであった置物が無くなっており、「どうかしたのか?」と聞くと、「壊れたの」と簡単に答えることが多かった。今まで楽しそうに話していた友人の話題がなくなったときにも、「どうかしたのか?」と私が聞くと、「私と彼女は本当の友達ではなかったから」と、淡白に答えていた。いつしか私もそれに慣れてしまったし、彼女も当たり前のように言っていたので、気にならなかったはずだ。

 彼女は私と一緒に歩いているとき、よく夢の話をしてくれた。将来の夢というような類ではなく、その日見た夢を事細かに説明してくれていた。私は、その話が好きで口を出さずに黙って聞いた。

 彼女は、世界が壊れる夢をよく見たそうだ。

 足元が急に崩れ、暗い闇の底に沈んでいくらしい。だが、その闇は底なしではなく、途中で急にふわりと無重力のような状態になり、目の前が光輝くのだという。

 他にも、自分が空に落ちていった(表現が正しいかどうかわからないが)と言ったり、私が趣味で書いた小説の登場人物が急に現れた、など謎の夢を沢山見た。

 彼女が一生懸命語る姿は、とても愛らしかった。

 私に身振り手振りで状況を伝えようと必死で、どういった景色だったかを例えを出して説明してくれたりと、今思い出しても微笑ましいものばかりだった。

 だがしかし、彼女は私が最初に抱いた印象の通り、儚く脆い存在であった。

 彼女はよく体調を崩した。それは学生時代から変わらず、そのせいで単位が危なくなったり、仕事の有給がすぐに無くなったりと、一般的な生活を送る上では不便で仕方がないと愚痴っていた。

 那美も私と同じく専門学校に通っていた。学校を卒業したら彼女は病院の事務関係の仕事に就いた。最初こそ無理して仕事をしていたが、それが祟ったのか後半によく休むようになってしまった。

 それがまた悪い結果を生んだ。「仕事を舐めている」、「最近の若い者はだらしない」など、職場の者たちが陰口を叩くのだ。よくもまぁ本人の事情を知らずにそのようなことを口走れるものだと、当時の私は思っていた。

 やがて、それが彼女を追い込み、そんな状況下で全うな精神を保てるわけもなく、精神病院へと入院することになってしまった。

 その心の病み方は、周りの者全てを傷付けるというものだ。彼女の友人が見舞いに行っても、手が届く範囲にあるものを全て投げつけた。ひどいときは、花瓶を投げたりもしていた。

 もちろん私も例外ではなかったが、幾分他の人たちより対応はマシだったと思う。

 病院は私の職場近くだった。車の整備士という仕事は結構定時通りに終わるので、十八時に仕事を終えてすぐに病院に向かえば、一、二時間程度話すことができた。

 入院している彼女と話すのにはコツがあった。まずゆっくりとドアを開け、彼女の名前を呼ぶことで、彼女の気持ちを落ち着かせる。その後は、ゆっくりと彼女の傍へと歩いていき、椅子に座る。ここまでは普通の見舞いと変わらないかもしれない。

 だが、彼女はその行動を起すと乱暴な雰囲気は消え、瞳に涙を溜めて泣き出すことがほとんどだった。

――ゴメンナサイ

 彼女は謝ると、泣き崩れた。私はそれを宥めるように彼女の背中をさする。嗚咽を漏らしながら、彼女は自分の感情を吐露する。

――ゴメンナサイ

 何度も何度も、彼女は謝罪を繰り返す。彼女は心と共に体も病んでいった。

 私はそっと彼女を抱きしめたが、以前とは違う彼女のあまりの小ささに、とてもではないが慣れることができなかった。しかも彼女は、日が経つにつれて、更に痩せ細っていく。

「那美……」

 彼女に私は何も言えなかった。毎日細くなっていく彼女を、私はただ抱きしめることしかできなかったから。

――ネェ、ナギ

 彼女は私のことをナギと呼ぶ。昔は彼女の声で名前を呼ばれると、自然と心が和んだものであったが、彼女が入院してからと言うもの、私は彼女に名前を呼ばれるのが恐ろしかった。

 ひとしきり謝り終わると、彼女は相変わらず夢の話をしてくる。

 しかし、それは空恐ろしいものだった。

 彼女がよく見る夢は、前のものと変わらず、世界が壊れていく夢だった。しかし、細かい箇所で、それは変わっていた。

 足元が崩れていき、人間の臓物のような赤黒いクッションに落ちていくのだそうだ。それは腐臭を放っており、気味悪くなって彼女は足掻くらしいのだが、その臓物らしきものが破裂して中身が飛び出してくるのだと言う。中身は、排泄物のようなものであったり、はたまた人の形をしているようにも見えたと彼女は言っていた。

 空に落ちていくという夢も、入院してからは変わり、腐った空に、落ちていくのだそうだ。

 彼女は、動きづらい手と足で、一生懸命に伝えようとしてくれるのだ。それが、本当に恐ろしかった。

 彼女は私が恐れているのを、喜んでいたのかもしれないし、私にも、自分が味わっている苦しみを味わわせたかったのかもしれない。それでも、彼女は私を求めたし、私も彼女を求めてはいた。

 そんなある日だ。あぁ、ある日、という表現は曖昧で、まるで自分に逃げ道を作っているようで好きではない。

 はっきりと言おう。彼女が亡くなる、一日前だ。私はいつもの通り業務を終わらせ、彼女の見舞いに訪れた。

――ネェ、ナギ

 どうした、となるだけいつもの調子で彼女に返す。

――ナギハ、ダレヲノゾンデイルノ?

 私は首を傾げた。何のことか全くわからなかった。

――ソウヨネ、アナタハ、ダレモ……

 彼女は虚ろな目と微笑みを私に向けた。

――アナタハ、ダレモ、ノゾンデイナイモノネ

 それきり彼女は喋らなくなり、私は彼女の頭を一撫でして、自宅へ戻った。

 その言葉を残した翌日、彼女の容態は急変した。

 彼女の両親から私に連絡があり、那美が暴れているとのことだった。私は仕事を切り上げてすぐに病院に向かった。

 ベッドの上で彼女は血を口から流しながら暴れていた。彼女の父親、男の医師、そして彼女の親友二人でようやく抑えているようで、彼女は意味不明な叫び声をあげていた。

 私は彼女を凝視する。

 獣のように叫び、赤子のように両手足をばたつかせているその様子は、あまりにもちぐはぐで吐き気がした。

 私は彼女の名も呼べず、ただ部屋の入り口で立ち尽くす。しかし、彼女を取り押さえている父親が私の名前を呼ぶと、彼女は私に振り向いた。

――ナギ。アナタハ、ワタシスラモノゾンデイナイモノネ

 彼女は、泣きながら笑い出した。

 病室全てを覆うように、呪うように、憎むように彼女の笑い声は響きだす。

――ナギ、アナタヲ、ユルサナイカラ

 何故、私は彼女に許されないのか、わからなかった。だが、私の両の瞳からは、涙が流れていた。

――アナタヲ、ノロッテヤル。アナタガアイスルモノ、スベテヲ、コロシテ、ヤル

 体が震える。彼女を直視したくない。それでも、私の体は彼女を直視しろと命じてくる。

――フフ、ナギ。アナタガアイスルモノスベテ、コロシテヤルカラ

 心臓が鼓動を早める。

 全身が硬直しているのに、何でであろうか、決まっていたことかのように、自然と、言葉を漏らす。

「ならば私は、お前が殺す以上に、人を愛そう」

 笑い声が失せる。

 今の彼女にとっては、絶望の言葉かもしれない。それでも私は、彼女にこう言わないといけない気がしていたのだ。

――……ホントウニ、ズルイヒト

 涙で、彼女の最後の顔は見えなかった。


事件/3


「主殿よ」

 銀之助に声をかけられ、私は過去から意識を戻すことができた。

「私を前に考え事をするなど、無礼であるぞ」

「すまぬ。少々、昔……そう昔のことを考えていた」

 昔とは言え、たった四年前のことではあるが。

「して銀之助よ、何の話だったか?」

「孤独について語っていたのだが、今は話している時間は無さそうだ」

 私が首を傾げると、銀之助は淡い白い光に包まれた。その光が収束して消えたとき、そこにはいつもの犬の銀之助がいた。

 ふむ。相も変わらず、面妖な。

 などと私がで関心していると、玄関のチャイムが乱暴に何度も鳴らされた。このような時間帯にこのようなことをするような知り合いなど持った覚えはないので、警戒して玄関に向かう。インターホンでも取り付けられればいいのだが、如何せん、出費は控えておきたい。

「どなたですかな?」

「先生! 無事かい、先生!」

 どうやら声の主は羽田さんのようだった。緊張を解くように息を吐くと、私は玄関の鍵を開けた。すると、羽田さんは勢いよく戸を開ける。

「先生、どこにも怪我はないかい?」

「羽田さん、このような夜遅くにどうされたのですか。木々も寝静まる……」

 私は懐中時計を取り出した。

「おやおや、まだ二十二時前でしたか」

「のんびりしている場合じゃないよ、先生! 野犬だよ、野犬! 野犬の群れが出てきて……!」

「野犬……? はて、それならば警鐘が鳴らされるはずだが、そんなものなどは聞こえませんでしたが……」

 警鐘が未だにこの町(村)にあることにツッコミを入れてはいけない。

「急にわーっと出てきて、作物を荒らしていって、警鐘を鳴らす前にわーっと消えていったんだよ!」

「なんと、まぁ……それでですか。羽田さんの畑の被害はどれぐらいですか? 大丈夫そうですか?」

「うちのこたぁいいんだよ! 先生は大丈夫だったかい?」

 羽田さんの表情から、本当にこちらを心配しているのがわかった。農家にとって作物を荒らされると言うことが、どれだけ大変かを知っている手前、彼の気遣いは本当にありがたい。

「えぇ、私は問題ありません。しかし何故私の心配を?」

「いや、先生の家のほうに野犬が向かって帰ったからさ!」

 はて。野犬どころか、物音すらなかったはずだが。

「なるほど。しかし私は大丈夫ですよ。野犬はここまで来てません」

「そう、かい。それならいいんだけどさ」

 羽田さんはどこか腑に落ちないという表情をこちらに向けていた。

「さぁさぁ羽田さん。明日も早いのでしょう? 途中までギンと一緒に送りますよ」

 羽田さんは頭をがしがしと掻いて、「それなら、いいんだけどさ」と言った。私は銀之助を呼び、彼を家まで送っていった。終始羽田さんは納得いかないという表情を変えなかった。

「先生、何かあったらすぐに俺に連絡するんだよ」

 苦笑すると、羽田さんの家の前に到着した。

「心配しすぎですよ、羽田さん。ところで、その野犬の群れはどの程度の規模でしたか?」

「俺が見たのは大体二十から三十頭くらいかな」

 二十頭規模、ねぇ。

 ここには野犬の類は少ないはずだ。狐や狸、熊なら良く見が、この町(村)に二年暮らしてきて、野犬に我が領土を侵略されそうになったことなどない。

「そうですか。それでは、また」

 そう言って、私は羽田家をあとにした。

 羽田さんは後ろから何か私に言いたそうな半端な声を出していたが、無視することにした。

 家路を辿る途中で、背後から淡い光が現れたかと思うと、すぐに消えた。

「銀之助、何か心当たりはあるか?」

 奴の顔を見ずに話しかけた。

「何故そう思うのだ?」

 銀之助がこのようなことを仕向けたとは思っていない。ただ、こやつは野良であった。私と出会ったときには、他の犬と喧嘩をして傷ついたのだろうと、あの獣医師は話していた。つまり、他の野良と繋がりが〝あった〟はずなのだ。

「何となくだ。違うのならば違うと……」

「違う」

 早い否定だった。

 足を止めて、奴に振り向く。銀とも灰とも取れる長い髪は月光を返し、煌いていた。そして月と同じ彩色の黄金の瞳の奥には、苛立ちにも似たような感情を孕んでいるように見えた。

「そうか、貴様がそういうのならそうなのだろう」

 短い付き合いではあるが、こやつはつまらぬ嘘は吐かぬということだけはわかっていた。

「次は私が質問しよう。主殿よ、何を怒っておるのだ?」

 銀之助は苛立ちを孕んだままの瞳で、私に微笑みかけた。その苛立ちと微笑みは私に向けているのか、それとも他の何者かに向けているのか、今の私にはさっぱりわからなかった。

「何がだ?」

「羽田と話しているときの主殿は、普段とは違い感情が漏れていたのでな。気になったのだ」

 僅かな期間でこのような化け犬に見透かされるとは、私もまだまだ未熟である。何が未熟なのかはわからず、何をもって完熟と呼ぶかもわからぬが。

「たとえ動物の仕業とは言え、しこりが残るのだ。これはいわば天災だ。彼らも野生動物の多いこの地域に畑を作っているのだから、覚悟をしているはずなのだ」

 この感情は何なのだろうか。怒りなのか、それともまた違う何かなのか。

「主殿よ。お主は少々自分以外を考えすぎてはいまいか?」

「それの何がいけない?」

 銀之助に当たるように語気が強くなった。軽く咳払いし、「すまない」と付け加えた。

「主殿よ、私は心配というものをしているのだ」

 黄金の瞳からは苛立ちは失せていた。代わりに慈しみにも似た感情が奴の瞳に宿っていた。その瞳を少しの間見つめていると、知らぬ間にこちらの毒気が抜かれてしまった。

「私はな、何も無いのだ。だから……だから私は……」

 ぽろりと、本音が漏れた。

 私は誰かのために動かねばならぬのだ。自分に何も無いから。自分から与えられるものなど、何も無いのだから。少しでも、誰かの、何かの役に立たなくてはならないのだ。そうでなければ、生きている意味など、私には無いのだから。そうでなければ、那美も……。

「主殿よ。空の器を傾けたところで、相手の何が満たされるというのだ?」

 銀之助の言葉で、ふと現実に戻されたようだった。

「……少なくとも、器を傾けた〝好意〟というものは汲んでくれるはずだ」

 奴の例え話は的確だ。

「行くぞ、ギン」

「おやまぁ。図星を突かれたことがそんなに不服か、主殿よ」

「うるさい!」

 今回だけは、私の完敗である。


   事件/4


 翌日の朝、私は羽田家へと足を運んだ。

 羽田さんが昨日言っていた通り、一つの畑はひどい荒らされ方をしており、羽田夫妻はそれらの後片付けをしている最中であった。

「おぉ、先生じゃないか」

 羽田さんが私に気付き、曲げていた腰を叩きながら伸ばした。

「おはようございます、羽田さん」

 ぎこちない笑みを彼に向けながら、畑の被害を見た。

 片っ端から稲は踏み潰されていた。また、臭いがひどい。

「荒らされ方もひどいですが、その、なんというか……」

「ははっ、そうなんだよ。あの野犬ども、ションベンとかしていきやがったのさ。こんなこと、今までなかったのにさ」

「ちょっと失礼」

 畑に足を踏み入れると、より臭いが強まる。

 足跡から見て、確かに犬であろう。それも数十頭。昨日羽田さんが言っていたことは大袈裟でもなんでもなかったようだ。

「どうしたんだい、先生?」

「いえ、何でもありません。私も手伝います」

 そう言って私は着物の裾をまくり、持って来た軍手を身に着けた。

「何言ってんのさ、先生。いいよ、汚いし!」

「羽田さん、手伝わせてください」

 羽田さんの返事も聞かず、私はもう死に絶えてしまった稲を拾い上げ、彼らが捨てている場所へと持っていく。また、許可を頂いてスコップを使い、糞尿をまた違う場所へと捨てていった。

「ありがとうな、先生」

 視線を羽田さんへと向けた。彼は快活な笑顔を浮かべていた。それが、私にとっては嬉しかった。

「そういや、ギンちゃんは?」

「ははは、途中で立ち止まったのですよ。犬は我々人間よりも鼻が利きますからね。この臭いに気付いたんでしょう」

 銀之助はここに向かっている途中、急に立ち止まり動こうともしなかった。何度名前を呼んでも、無理矢理連れて行こうとしても、あいつは「誰がここを動くものか」と金色の瞳で強く語っていた。

「ははは、そうかい! ギンちゃんは潔癖だしなぁ!」

 潔癖は言い過ぎだとは思われるが、だがしかし、当たらずとも遠からず、だ。

 羽田さんの畑は広く、ただの片付けにしても相当の重労働だ。これを夫妻のたった二人で処理をしていたのでは、それだけで一日が終わってしまうだろう。

「しかし、まぁ……」

 本当に片っ端から踏み荒らしている。隅から隅まで、満遍なくだ。まるで羽田さんに何か恨みでもあるかのようだ。

「羽田さん、何か野犬の恨みでも買ったのですか?」

「いいやぁ! 何言ってんだい、とんでもない!」

 予想外に強く否定された。

「そんなに力いっぱいに否定しなくても、祟りなどありませんし」

 ははは、と軽く笑って言ったが、羽田夫妻の表情は強張っていた。何か私は失言でもしたのだろうか。

「そっか、先生はまだここに来て二年しか経ってないから知らないんだね」

 おや、これは予想外である。何か犬にまつわる伝承でもここにはあるのだろうか。

「ここには、昔から魔犬が住んでるって噂だよ」

「なんと……はははっ」

 思わず笑ってしまった。

 ほとんどのことが科学で証明されてしまう今の時代、まさかそのような噂を未だに信じている方々がいらっしゃるとは。

「ははっ……失礼。そんなもの、ただの噂でしょう?」

「それが違うんだよ、先生」

 羽田さんは奥様の顔色を伺いながら、話すかどうかを戸惑っていた。

「羽田さん、どうか続きを話してくれませんか? このままでは私は夜も眠れない」

 踏み潰された稲を纏め、腕で汗を拭く。

「先生、本当の話なんだよ。俺がまだ若い頃にも一回あったんだ」

 羽田夫妻の表情は変わらず強張っていた。その表情を見ていると、こちらも自然と笑みを浮かべる余裕などなくなってしまう。

「俺が三十を少し過ぎた頃にね、ここに道楽で狩りをしに来る馬鹿者がいたんだよ」

 羽田さんは煙草に火を点けて、適当なところに腰掛けた。それを見た奥様はやれやれと頭を振りながら、羽田さんの右隣へと腰を下ろした。私もそれに倣って、羽田さんの左隣へと腰を下ろし煙草に火を点けた。いつの間にか嗅覚は麻痺しており、糞尿の臭いなど気にはならなくなっていた。

「そいつはいつも夜にこっそり森に入って、熊やら狐やらを撃ち殺してたんだよ」

「夜とは……昼間ならわかるのに、何故」

「あとで知り合いから聞いたけどね、『そっちの方が〝命〟を懸けている気がするから』だってさ。友人や知人にそんなことを良く言っていたらしいよ」

 羽田さんは細く煙を吐いた。

「そんでね、俺らもそいつをなんとか見つけようとしたんだけどさ、如何せんここは街灯なんてほとんどないし、相手は猟銃も持っていたからね、何とも出来なかったんだよ」

 私は煙を深く吸い、高い空へと煙を吐いた。

「そんな歯痒い期間が二、三ヶ月続いたときかな。ある日ね。森の入り口に、そいつの死体があったんだよ。それもずたずたに切り裂かれた惨い死体がね」

 羽田さんは煙草を携帯灰皿へと押し込んだ。そしてその灰皿を私へと手渡してきた。

「そんときにさ、ここに長年住んでる爺さん婆さんが、『魔犬の祟りだ』なんていうもんだからね、それからが大変さ。ここのジジババ共は、その死体の後片付けも程々に、肉やら野菜やらをそこに供え始めたんだ。そんで、俺がうちの爺さん捕まえて話を聞いたら、『昔から森を荒らす者はあんな風にずたずたにされる。だからお前も森を荒らすなよ』って言われたんだ」

 私は煙草をぎりぎりまで吸ってから、灰皿へと煙草を押し込んだ。

「結構前からここではね、そういった死体が時折出てくるんだ。理由は決まって森を荒らしていたから。ある者は山菜を必要以上に取り、ある者はここの山を買い取って更地にしようとして、またある者はただ森の生き物の命を奪おうとして、ね」

 羽田さんは立ち上がり、腰を伸ばす。

「だからね、先生。先生ならそんなことはしないだろうけど、一応言っておくよ。森に入っちゃいけないよ」

 私は軍手を脱いで、頭を掻く。

「そうは言っても、私はよく川原へと行くために森に入っているのです。あそこには大きな平岩があり、小説のネタが詰まったときにはそこで寝転がりながら考え事をしている」

 羽田さんは驚いたように目を丸めると、すぐに柔和な表情へと戻した。

「そうかい、そうかい……」

 ははは、と短く羽田さんは笑った。すると隣でまだ座っている奥様も彼につられたように笑った。

「何かおかしいことでもありましたか?」

「いや、なに。あそこは俺らが言う〝森〟じゃあないんだ。俺らが言う〝森〟っていうのはね、先生の家の裏の、ほら、ちょうど見えるだろ?」

 羽田さんが指差したのは、私の家へと向かう家路の更に奥だ。そこには確かに、〝森〟と表現するには適しすぎているほどの〝森〟があった。

 二年もここに住んでいて、あまり注意深く見たことはなかったが、よくよく見ると私の家の裏には予想していたよりも大きな山があり、そこには今は色合いも変わりつつある木々が、これでもかというほど密集していた。

「二年住んでいますが、気付きませんでした。あんなに、その、鬱蒼としている〝森〟があったのですね」

 私は立ち上がり、少しの間その〝森〟を眺めた。あんなものが裏手にあるのだから、そりゃあ野生動物も我が家をよく襲撃するだろう。

「気付かなかったのが不思議だけどね」

 また羽田さんは、ははは、と短く笑った。

 今までは完全にただの景色としてか見ていなかったので、まるっきり気付かなかった。自分の注意力の低さがより露見してしまった。

「だからね、先生。あんたがあの家に住み始めると知ったときは驚いたよ。二十代の若者が、あの森に何かしでかすんじゃないかと、ここの皆も最初はハラハラしたもんさ」

「成程。住み始めたとき、皆さんが私を色眼鏡で見ていたのには訳があったのですね」

 やれやれ、と肩をすくめ、「意地が悪いですね。教えてくれればいいのに」と言った。

「そんなこと言うと、面白がるんじゃないかと思ってね。今は先生の性格も知ってるし、話して良いと思ったんだよ」

「だから話すかどうかを少し悩まれたのですね。そんな話を聞いては、本当に夜に眠れなくなりますよ」

「はははっ、すまないねぇ」

「さて、この恐ろしい気持ちを忘れるために、この片付けに私は精を出しますよ」

 羽田夫妻は、その言葉を聞いて楽しそうに笑った。

それから私と羽田夫妻は〝魔犬〟の話など一切せずに、時折世間話をしながら、蹂躙された畑を片付けていった。それが終わる頃には、空は朱色に染まっていた。

 私は今日一日で何度伸ばしたかわからぬ腰を伸ばしながら、煙草に火を点けた。

 一仕事を終えた後の煙草は、何故こうも旨いのだろうか。

「いやぁ、悪いね先生。結局最後まで手伝ってもらっちゃってさ」

「気にされることではありませんよ。いつも晩御飯をいただいているのでね」

 羽田さんに笑みを迎えると、奥の道から銀之助がとてとてと歩いてきた。

 銀之助は泥やら汗やら何やらに汚れた私を見て、あの金色の瞳を細めた。その瞳が何を語っているのかはすぐにわかった。「汚い」であろう。

「これ銀之助。こちらに来い。貴様も汚してやろう」

 そんな冗談を口にすると、銀之助は「ぐるる」と唸り、こちらに敵意を顕わにした。生意気な奴である。

「はははっ! 先生、ギンちゃんは潔癖なんだからそんなこと言っちゃダメさ! なぁ、ギンちゃん?」

 羽田さんが銀之助に話しかけるが、銀之助はそっぽを向いた。

「あらら、俺も嫌われちゃったかな?」

 はっはっはっ、と快活に笑う羽田さん。

「先生、ご飯食べていくでしょう?」

 奥様が満面の笑みで私に言うが、私は「すみません、締め切りが近いもので」と奥様の誘いを断る。

「なんだい珍しいね、先生。先生が真面目に仕事するなんてさ」

「何を言いますか、羽田さん。私はいつも大真面目ですよ」

 着物の裾を下ろし、また腰を伸ばす。

「そうかい……先生、変なことしちゃあいけないよ。俺らは先生が大好きなんでね」

「ははは、どうしたのですか羽田さん。それでは私がこのまま死んでしまうようではありませんか」

 羽田さんは頬を掻いて、「へへ、何となくさ」と言った。

「さて、私は家へ戻ります。ご飯はまた今度ご馳走になりますよ」

「あぁ。またな、先生」

 羽田さんは相変わらずの快活な笑みを私に向けた。

「ではまた」

 羽田さんにつられて、私も笑みを返した。

 ゆっくりと歩きながら帰る途中、距離を空けている銀之助に問いを投げた。

「羽田さんが話していた〝魔犬〟とはお前のことか?」

 銀之助は何も答えることはなかった。だがその無言は、「違う」と返事をしているようであった。


   事件/5


 羽田さんの手伝いを終えて家に着くと、どっと疲れが体に押し寄せてきた。私如きでこれなのだから、羽田夫妻はもっと疲れているに違いないだろうに、彼らは笑みを浮かべていた。その屈強さが羨ましかった。

「しかし、本当に疲れた……」

 私はぎくしゃくする体を引きずるように歩きながら、汚れた着物を脱ぎ、普段洗濯物を入れるものとは別の籠に放り投げた。そして半裸のまま風呂場に向かい湯を溜め始めた。本当ならすぐに入りたいものだが、家に湯を入れてくれる者がいるわけではないので、そのような我侭も言ってられぬ。

「主殿よ、臭いぞ」

 疲れて切っている体に、銀之助の透き通るような声が容赦なく突き刺さる。

「仕方あるまいに。稲を片付けるだけならまだしも、糞尿まで片付けたのだから」

「じゃから臭いと言っておる。私はその臭いは嫌いじゃ」

「私とて好きではない」

 私は居間へと向かい、電気を点けた。まだここで寝てはいけない。今横になれば確実に寝てしまうので、何とか疲れと共になだれ込んで来る眠気と戦った。

「主殿、臭いぞ」

「お前は何度も何度も……」

 怒る気力など既になく、私はため息をついた。

「主殿よ」

「もう臭いと言うなよ。疲れた」

 銀之助は「ぐむぅ」と唸った。

 それから銀之助は何も喋られなくなった。こいつは「臭い」としか今は喋ることがないのだろうか。

 私は私で喋ることすらも出来ぬほど疲れ果ててしまっていたので、そのまま半裸の姿で、いかんと思いながらも座りながら瞼を閉じた。

 私の耳には、時を刻む居間の時計の音と、銀之助の息遣い、そして私の息遣いしか聞こえてこなかった。当然このような状況で、睡魔に抗い続けるのは難しく、私は船を漕ぎ始めた。

「主殿よ」

「なんだ、ギン……」

「湯はもう溜まったのではないか?」

「もう?」

 私は時計を見る。帰ってきて湯を溜め始めてから、既に三十分も経っていた。

「やれやれ、だ」

私は立ち上がり、バスタオルを持って浴室へと向かった。それに銀之助もついてきて、脱衣所にて服を脱ぎ、私と同じタイミングで浴室へと入った。

「銀之助よ。その姿のときに風呂に入るな」

「私は入りたい姿で入る。それのどこが悪い?」

「目のやり場に困ると何度言えば……」

「見ても良いと何度も言っておる」

 こやつに何を言っても無駄か。これ以上突っかかっても埒が明かぬと思い、体の汚れをしっかりと洗い流してから湯船に浸かった。銀之助はというと、体は慣れた手つきで洗っていたが、シャンプーで大分手間取っていた。目を瞑りながら洗うことに慣れていないからだ。

 湯船に浸かった途端に、体から疲れが抜け落ちていく。

「至福だ……」

 私がそう呟くと、私と向かい合うように銀之助が湯に浸かった。

「良い湯加減である」

 ほふ、と銀之助は嘆息する。不思議なことに、私は照れはするがこやつに欲情することはない。人の姿をしていようとこいつは犬であるからと、意識の根底でそう思っているのかもしれない。

「ギン。次からその姿で湯船に浸かるときは、タオルで体を隠すようにするのだ」

「嫌じゃ」

「するのだ、いいな?」

「〝次から〟そうすることを検討しよう」

 次から、をやけに強調し銀之助は言った。そういうようなことを言う奴は、端からするつもりなどないのだ。

 しばらく気持ちの良い沈黙が続いた。湯船が時折立てる波の音が、心地の良い子守唄のように感じる。

「主殿よ」

「なんだ、銀之助」

 その心地良い沈黙を破ったのは銀之助だった。

「前に話していた〝死〟について話せ」

 銀之助の顔を見る。風呂に入り紅潮しているが、普段通りの銀之助である。

「非常に残酷で、時に深く〝周囲〟を傷つける最低で最強の武器だ」

「うむ。そこまでは聞いた。だが何故そうなのかを私は知らぬ。私に理解しやすいよう、主殿が言う〝死〟というものを語れ」

 首の骨を鳴らして、足を伸ばそうとしたが、銀之助が正面にいることに気付き、足を伸ばすのはやめた。

「お前に理解しやすく語るためには、まずお前がどれだけ〝死〟を知っているかを私が理解しなければらならぬ」

 ただの犬ではない化け犬だ。我々人間とは大層かけ離れた〝死〟の概念を持っているだろう。

 銀之助は僅かに左斜め上に視線を向けて考えると、透き通るような声で、私の問いに答えた。

「〝死〟とは一つの個体が終わることだ。特徴としては、喋らず動かず冷たくなる。放っておけば肉は腐り骨だけになる」

「…………」

 私は銀之助が何か言葉を続けるであろうと期待したが、奴は特に続けることもなく、私の顔を見て首を傾げた。

「どうした、答えたぞ?」

 人間に化けることができ、人間の言葉を話すこともできる。知識もそこそこあるであろう銀之助の答えは、それだけだったらしい。

 確かに、〝死〟というものを物凄く簡単に説明するならば、銀之助の言うとおりであろう。何も奴は間違えてなどいない。

 しかし、奴が言う〝死〟には一切の感情がなかった。それがどうにも私は気にかかった。

「ギン。お前は目の前で命が絶えたのを見たことがあると言ったな? それは誰が死んだのだ?」

「母上だ」

 銀之助は一言で答えた。奴は私の顔をじっと見ている。奴の双眸は「それがどうした?」と先程の言葉の続きを語っている。

「母が死んだとき、本当に貴様は何も感じなかったのか?」

「くどいぞ、主殿よ。何を感じるというのだ。〝死〟というものは理解していたし、ただその個体が終わっただけであろう。何を感じれば良かったと言うのだ」

 銀之助の声に偽りの色はなかった。

「質問を変えよう。貴様は〝悲しんだこと〟はあるか?」

「ない。そのようなもの無用であろう。存在する上で邪魔になるだけだ」

「そう、か。貴様は哀れだな、ギン」

「何故哀れむのだ? 全くわからぬ。〝死〟についても答えておらぬ。答えるのだ」

 湯を両手で掬い、顔を洗う。

「仕方ない。今後お前には色々教えてやろう。喜びや幸せ、悲しみや苦しみ、色々だ。そして、最後に〝死〟というものを教えてやろう」

 瞬間、驚いたように銀之助は目を見開くが、すぐにいつもの偉そうな微笑を浮かべた。

「ふむ。良いだろう。私に教えを説くことを許してやろう」

 銀之助は湯船から出て、一旦脱衣所に向かってから、ハンドタオルを持って再度湯船へと戻ってきた。

「では主殿よ、くらげを作るのだ」

 私はため息をついて、この化け犬のためにわざわざハンドタオルでくらげのようなものを作ってやった。

 銀之助はきゃっきゃっと笑いながらそれをつついて潰す。ぶくりと泡が溢れる。

 そして私は、「それが楽しいという感情だ、銀之助」と教えてやった。 


 以前、風呂から上がった銀之助の髪を、乾かすことも体を拭くこともせずにいたところ、濡れたまま布団に入ったことがあった。それ以降私は、すぐに銀之助の体を拭いて髪を乾かしてやっていた。ちなみに、寝巻きは奴の髪色に近づけた灰桜のものを用意している。奴の銀とも灰とも取れる長い髪は、乾かすのに時間がかかる。まぁ、犬の姿のときよりは楽であるが。

「主殿よ、私はそれが気に入らぬ。うるさいのだ」

「貴様が以前に私の布団を濡らし、雑魚寝することになった恨みはまだ忘れておらぬぞ」

「主殿は小さい……」

「お前は自分の寝床が水浸しになっても許せるのか?」

「許さぬ」

 何なのだ、こいつは。

 ドライヤーをかけながら、髪を櫛で丁寧に梳かしてやった。銀之助の髪はさらさらと音を立てるのではないかという程、繊細で美しかった。

 十数分で髪を乾かし終えた頃には、銀之助は非常に眠そうにしていた。

「銀之助。風呂に入ったあと、そのまま眠るのは好きか?」

「うむ。嫌いではない」

 銀之助は甘い声を出している。相当眠いのだろう。

「寝床に入り、眠りに落ちる束の間、気持ちの良い時間だとは思わぬか?」

「うむ。思う」

「それは幸せの一種だ」

「ふむ。これも幸せというものの一つか。しかし、私が知っている幸せとは違う」

「ほう。貴様は幸せを知っているのか。今度私にお前の幸せを教えてくれ」

 ぽんぽん、と二度銀之助の頭を二度叩いて、寝室に行くぞ、と促す。銀之助はその意図に気付き、目をこすりながら寝室へと移動する。

「うむ……」

 銀之助は大きくあくびをした。

 私は自分の布団の横に、奴用の布団を敷いた。犬の姿で寝るときは毛布一枚でもあればこいつは勝手に寝床にするのだが、人の姿で眠るときはこうして布団を用意してやっている。

 銀之助は立ってはいながらも、頭がふらふらとしており、このまま放っておけばどうなるのか少しだけ興味があった。だがしかし、どうせ放っておいても崩れるように倒れ、どこかしらに体を打ち私に文句を言うと思ったので、「早く布団に入れ」と声をかけた。

「うむ」

 ゆったりとした動作で、銀之助は布団に入った。人間の子供を見ているようで自然と表情が緩む。

「明かりを消すぞ」

「うむ」

 ぱちりと明かりを落とす。

 私も銀之助に負けぬくらいの大きなあくびをして、布団に潜る。少しだけ冷たい布団は気持ちよく、すぐに睡魔が私に歩み寄った。

「主殿よ」

「……なんだ?」

「これが幸せであるか?」

「うむ。これもその一種だろうな」

 もぞもぞと銀之助が動いたと思うと、私の布団へと奴は潜り込んできた。そして私へとぴったりとくっつく。

「主殿は冷たい……」

「人の布団に入っておきながら文句を言うな」

「母上はもっと……温かかった……ぞ」

 最後に憎まれ口を叩くと、すぐにすうー、と銀之助は寝息を立てた。

「寝る寸前まで憎たらしい奴だ、まったく」

 これがこやつの言う幸せなのだろうか。

 母上はもっと温かい、か。こいつの母もこいつと同じく人の姿に化けるのだろうか。母と暮らしていたこいつは、どのようにして過ごしていたのだろうか。

「まぁ良い。今は、ただ……眠い」

 考えるのをやめた途端に、私はすぐに眠りへと落ちた。


事件/■□■


――アナタヲ、ノロッテヤル。アナタガアイスルモノ、スベテヲ、コロシテ、ヤル

――フフ、ナギ。アナタガアイスルモノスベテ、コロシテヤルカラ

――コロシテヤルカラ

――コロシテ、ヤル


 那美の告別式は粛々と行われた。参列した人々も多くはなかった。

 私は那美のご家族から頼まれ、親族席へと座ることとなった。告別式のことは正直、詳しく覚えていない。

 ただ、那美の白過ぎる肌と痩せ過ぎた体に、ひどく不釣合いな死に化粧が施されていたことだけはよく覚えている。今でも時折思い出してしまうほどだった。鮮血のように真紅に染まった那美の唇。瞼には薄いながらも自己主張が激しい紫陽花のようなアイシャドウ。それは、非常に不気味であった。

 気付けば告別式は終わっていた気がする。彼女が霊柩車に乗せられ、出棺される。その後に、葬儀に参列した人々がバスに乗り込んだ。途中告別式までしか出ない人々とはここで別れた。バスに乗ったのは、彼女の親族一動と私、私の親友と那美の親友の十六人だった。

 今思えば、何故彼女の呪いを受けておきながら、私はこのバスに乗り込んだのだろうと思う。告別式だけ出て、私は家に帰ればよかったのだ。そうすれば、彼女の呪いを間近で見ることもなかったろうに。

 霊柩車のあとに続き、バスが発進した。火葬場は二十分ほど離れた山の中にあった。そこに行くには勿論山を登っていくのだが、そこの道はしっかりと舗装されており、道自体も広かった。

 だから、今私が乗っているこのバスが、道から外れて転げ落ちていくなど、微塵も考えていなかった。

 世界が回っていた。地獄絵図のようだった。阿鼻叫喚が響き渡り、数秒後にはその〝音〟は少しずつ減っていた。その代わりに彼女に施された死に化粧の口紅と同じくらい紅い……紅いナニカが混じりだした。その紅いナニカを認識すると、今度は糞尿の臭いがした。

 私は叫んでもいなかったし、泣いてもいなかったと思う。ただ、成されるがままに転げていた。

 転落が終わったとき、私の体はひどい状態だった。怪我をしてひどかったわけではない。紅いナニカと糞尿らしいナニカが付着していたのだ。

 ガソリンの臭いとその他諸々のナニカの臭いが鼻を刺す。

――誰か、いないか?

 か細い声で、そのようなことを呟いた気がする。すると頭の中で、那美が冷たい声で答えた。

――アナタガアイスルモノ、スベテヲ、コロシテ、ヤル

 瞬間、体が震えた。

 私はすぐに生きているナニカを探し始めた。しかし、見渡す限り生きているナニカはおらず、私はそのとき絶望した。

 私だけ生き残ってしまった。私だけ、私だけが。

 頭を抱えて発狂しそうになったとき、私の名前を呼ぶ声がした。私はナニカで汚れた体で、その声の主を探した。

 二人の人間がいた。

 男と女だった。

 それは私の親友と、那美の親友だった。彼らは私を見て、「良かった」などと、自分の身のことよりも私の身を案じた。

 喜びから叫びだしそうになるのを抑え、私はすぐに携帯電話で救急車を呼んだ。救急車は私が思っていたよりも早く到着し、私とその二人を助け出してくれた。

 救急隊員から聞く限りでは、私を含めた三人、あの転落の規模から考えて、非常に軽症とのことだった。それでも、二人は骨折などの重傷を負っていた。そんな中私だけは、打撲だけだった。

 救急車の中で、あまりのストレスから私は目を閉じた。すると、すぐにあの那美の冷たい声がした。

――アナタヲ、ノロッテヤル。アナタガアイスルモノ、スベテヲ、コロシテ、ヤル

 その言葉に、私は何も言い返さずに、意識を失った。


   事件/6


 はっと目が覚めた。

 心臓は早鐘のように脈を打っており、呼吸も荒かった。そして左腕が痺れていた。

 左腕へと目を向けると、銀之助がそれを枕にしていた。霊的な何かではないかと思った私は、安堵から深く息を吐いた。

 時計は見えなかったが、体感的におそらくまだ早朝のはずだ。

 私にしては珍しく早起きだ……ではない。

 呆けている頭でこんな時間に目覚めた理由を考えた。まだ左腕は痺れている。

「あぁ、何か夢を見ていたはずだ」

 それも良い夢ではなかったはずだ。だがその内容を思い出すことは出来なかった。いいや、思い出す必要もないだろう。良い夢ではなかったのだから。

「いかんな。煙草でも吸うか。銀之助、どけろ」

 ぐるる、と唸るだけ唸って、どこうともしなかった。

 仕方なしに半ば強引に奴を腕からどけると、銀之助は薄目を開けて、抗議するように睨みつけ、また瞼を閉じた。

 今日に限っては珍しく銀之助は甘えていた。一体何があったかはわからぬが、寝る前に母の話をしていたので、もしかしたら幼少の頃を思い出したのかもしれない。

 私は頭を振って布団から出る。寝室から出ると、身震いした。秋はそろそろ冬に変わろうとしているのだろう。

 やれやれと思いながら、私は居間のテーブルに置いてある煙草を手に取った。火を点けて縁側へと出る。

 ガラスの向こうで、明るくなりかけた空に、青い月が儚く出ていた。

「月見れば 千々にものこそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど」

 誰の詩だったか。少なくとも、朝方の月に向け謡うものではなかったはずだ。

 紫煙を吐き出す。かたりと、背後から音がする。

 銀とも灰とも取れる髪の、銀之助が立っていた。

大江千里おおえのちさと

「何故知っている?」

「本に書いてあったぞ」

 私は煙草を吸いながら居間へと戻った。

「ひゃくにんひとくび、という本だ」

 ……百人の一首ひとくび。なんと恐ろしいことだ。

百人一首ひゃくにんいっしゅ、と読むのだぞ、銀之助」

「むぅ。知っておる。わざと間違えたのだ」

 銀之助は無い胸を張りながらそんなこと言った。

「主殿は月が好きか?」

 以前私が問いかけたような問いかけを銀之助はした。私は煙草の煙を深く吸い込み細く吐き出す。

「何と答えて欲しい?」

 銀之助は試すような笑みを浮かべ、「何と答えるのか興味がある」などと言った。少し考えて私は銀之助に答えを述べた。

「月は好きだ。我々に安堵を与えてくれる」

夜は人を悲観的にさせる。しかし、それでも我々は夜というものに安堵を抱き、一日の終わりを感じることでまた明日を夢見るのだ。

「太陽は嫌いか?」

 銀之助は先程と変わらぬ試すような笑みを向けていた。

「無論、好いておる。太陽は我々に希望を与えてくれる」

 朝は人に希望を抱かせる。どのような一日になるのだろう、どのようなことが今日は起こるのだろう、と。

「そうか」

 試すような笑みは失せ、銀之助は満足したような笑みを浮かべている。

「で、どうしてそのようなことを聞いてくる? 貴様から月の話をしてくるなど珍しいぞ」

「戯れだ、気にするな。私はまた寝る」

 銀之助は私をちらりと横目で見ると、寝室へと戻っていく。

 太陽は希望を与え、月は安堵を与える、か。これは以前に那美が口にしていたことだった。

「偉そうに何を言っておるのだ、私は」

 深くため息をつく。煙草はいつの間にか灰だけになっており、私は灰皿へとそれを押し込む。

――それで、ナギは太陽と月はどっちが好き?

 私はどちらも好きだ。

――もう、ズルイ人ね

 そう、さ。

 私はずるいんだ。那美。

 全てを好いてしまうんだ。嫌うことが怖いんだ。それがお前は気に入らないのだろう? だから誰も望んでいないと言うのだろう?

何もかもを好きになり、何もかもを嫌うことがない。特別なものなどない。だから優先順位などない。全てが同列なのだから。何かの優先順位を下げてでも、得たいものなどないのだから。そう……それは何も望んでいないことと、同じなのだから。

「いかんな。悲観的になってしまった。安堵とは程遠い」

 頭を二度三度と振って、私はもう一度月を見ようと探してみた。

 しかし、先程見つけられた月は、もう見つけることはできなかった。


 あれから私が起きたのは、十三時を回ってからだった。体は節々が痛んだ。翌日に筋肉痛が来るということは、まだ若い証拠だろう。

「ギン……」

 銀之助の名前を呼ぶ。

「腹が減ったぞ、主殿よ」

 朝の挨拶もなしに、銀之助はそう言った。

「私もだ」

 のっそりと起き上がって、私は台所へと向かった。奴の餌箱を探したが見つからなかった。

「ギン、お前の餌箱は?」

「ここにある」

 銀之助は頬を膨らませながら私へと餌箱を突き出した。それを受け取り、ドックフードとスプーンを渡した。

 銀之助は「よくやった、褒めて遣わす」などと貴族ぶって言った。そんな奴の頭をぐしゃぐしゃと撫で、私は自分の分の朝食である数日前に購入したパンを一口食べ、携帯電話を取り出しニュースを確認すべく、インターネットに接続した。

 特にこれと言った面白いニュースもなかったので、すぐに携帯電話をしまう。

「主殿よ、その箱は何なのだ?」

「お前は携帯電話を知らなかったのか。まぁ、なんだ……遠くの人と連絡を取るための道具だ」

「ふみゅ。ちゅまらにゅ」

「……食いながら喋るな。下品だ」

 銀之助は喋るのを止め、黙々とドックフードを喰らった。数分もかからずに餌箱は空になり、銀之助は金色の瞳を私に向けた。水をよこせ、と目で語っているのだろう。私は深くため息をついて、コップに水を入れて銀之助に渡した。

 一口で飲み干すと、銀之助は大きくげっぷをかます。私はそれを見て再度大きなため息をついた。

「貴様は見た目だけは良いのだから、それらしい所作を身に付けろ」

「面倒だ」

 銀之助は今度は大きくあくびをした。だが、そのあくびは途中で止まり、奴の頭の上にある耳がぴんと立って玄関の方角へと向いた。

「客人だな。この音は招かれざる客だ」

 銀之助の体が淡く光ると犬の姿へと戻った。それと同時にチャイムが鳴った。

「こんな朝早くに誰だというのだ……」

 文句を良いながら玄関へと向かう。

「朝早くとはこれまた面白いことを言いますねぇ」

 玄関の磨りガラスの向こうから、聞き慣れた嫌味な声がした。その前で私はひとしきり嫌な顔を作ってから、「何用かね、狐よ?」などと言ってやった。

「はぁ?」

 玉城獣医師の素っ頓狂な声が聞こえた。勿論、その声には苛立ちが含まれていた。

「これ狐よ、手を出してみせよ。人間の手を出せれば手袋を売ってやろう」

 少しの沈黙。

「ここを蹴破ってもいいのですよ」

 私はよく思うのだ。怒りと殺意というものは非常に似ている。怒りが成長すれば殺意と成り得るのだ。そして今、私の目の前でその成長が成されようとしていた。

「冗談だ、冗談」

 玄関の鍵を開けて戸を開けると、確実に何人か仕留めたことがあるような目をしている、玉城獣医師が立っていた。

 これはいかん。からかいすぎたようだ。

「すまんすまん。冗談と言っているだろうに、怒りすぎだ」

「早く銀之助ちゃんを呼びなさい。ついでに検診します」

「何のついでだ、何の」

「今日は牛の検診に来てたんですよ。で、そのついでです。いつもあなたは断りますからね」

「私ではなく銀之助が嫌がるのだが……」

「いいから呼びなさい」

 頭を振って、「銀之助!」と奴の名前を呼んでみた。奥から体半分だけを乗り出して、銀之助はこちらの様子を探る。片方だけ見えている金色の瞳は、こう語っている。「そいつを私に近づけさせるな」と。

「近づけさせるなと言っておるぞ」

「喋れる訳ないでしょう」

「いや、あの瞳が語るのですよ」

 玉城獣医師は私を馬鹿にするように見て、長くため息をついた。

「……あなたはどこまでお気楽なのですか」

 玉城獣医師は靴を脱いで、式台へと上がった。

「ほうらおいでなさい、銀之助ちゃん」

 銀之助の瞳が「気持ち悪い」と素直な気持ちを語っていた。

「お、気持ち悪いと語っておるぞ」

 玉城獣医師がギロリとこちらを睨み付ける。

 だから何故私に怒りを向けるのだ。私はただ銀之助の言葉を代弁しているだけだというのに。

「早くこちらに呼んでください」

「何度も言うが銀之助が嫌がっているし、私が呼んだところで何もならぬと思うが……」

 玉城獣医師はわざとらしく大きくため息をついた。

「あの子はあなたの言うことしか聞かないでしょう」

「私の言うことなどほぼ聞かぬぞ、奴は」

 ちらりと銀之助を見た。「早く帰れ」と怨念にも似た感情を込めた瞳を、銀之助は向けていた。

「ギン、こちらへ来なさい」

 ダメ元で銀之助を呼んでみた。銀之助は驚いたように目を見開くと、「ぐるる」と唸りながら重い足取りでこちらに寄って来た。

「何が言うことを聞かない、ですか。充分に聞いているではないですか」

 玉城獣医師は呆れたように頭を振った。しかし、銀之助は玉城獣医師を避けるようにして移動し、私の背後に隠れた。

「随分と懐かれましたね」

 これに関しては玉城獣医師も驚いたようだった。だが、玉城獣医師よりも私の方が驚いている。つい昨日まではこのようではなかったというのに、こいつの身に何が起きたというのだ。

「まぁいいです。おいでなさい」

 ちっちっちっ、と銀之助を玉城獣医師を呼ぼうとするが、当の本人は私の背後から出ようとはしなかった。

「やれやれ。仕方ありません。来なさい、犬」

 玉城獣医師は銀之助の隙をついて首根っこを掴んだ。無言の抵抗を銀之助は続けているが、その間に玉城獣医師の検診は進んでいた。

 まずは目を見て、次に歯茎を見た。更には腹を撫で、背中を撫で、最後に聴診器を胸に当てた。

 そろそろ銀之助の怒りが爆発するのではないかと思ったので、玉城獣医師を止めようとしたときに、検診は終わった。

「異常なし」

「おぉ。何と言うか、あれだな。さすが獣医師だ」

「そう思うのなら、お茶やら菓子やらを出していただきたいものです」

「はっはっはっ。それもそうだな。入ってくださいな」

 私は玉城獣医師を居間へと行くように促したが、銀之助が私の着物の裾を掴んだ。玉城獣医師が入室することを拒否しているらしい。

「これ銀之助。お前が健康でいられるのは、第一に私のおかげで、第二に私の福沢諭吉のおかげ、第三にこの玉城獣医師のおかげだ。礼は尽くさねばなるまい。一応な」

「はいはい、一応でも良いので早くその礼というものを頂いてもよろしいですか?」

「どうぞどうぞ」

 玉城獣医師を居間へと案内し茶を淹れる。茶菓子は煎餅だ。

「ほれ。粗茶であるが我慢して飲め」

「なるほど、これは確かに粗茶ですね。匂いでわかるなんて逆に珍しいくらいですよ」

 こやつは嫌味なしでは生きていけぬのだろうか。

「煎餅はそれなりに有名な店から買ったものだぞ」

「店、というよりはメーカーですね。煎餅の大手メーカー」

 皮肉ばかりを述べながらも、玉城獣医師は粗茶も煎餅もすぐに口に運んでいた。勝手にテレビを点けたりしているあたり、一応寛いでいるのだろう。

「玉城獣医師、今日は急ぐのか?」

「いいえ。あなたのところが終わったら帰る予定でしたよ」

「そうか。少しのんびりしていくと良い。私はシャワーを浴びる」

「都合よく留守番を頼みましたね。高いですよ」

「はっはっはっ。今飲んで食っているだろう」

「これは診察の礼では?」

「礼は粗茶の一口と煎餅の一口のみだ」

「やれやれ。屁理屈だけは一人前の小説家ですね……いいですよ、さっさと戻ってきてくださいね」

 玉城獣医師は肩をすくめる。玉城獣医師に口で勝ち、私はタオルを持って鼻歌交じりで浴室へと向かった。

 後ろから「銀之助ちゃん、あれに付いて行くと汚れますよ」などとどこかの狐が私の悪口を言っているのが聞こえたが、何も言わないことにした。


   事件/6/狐と犬


 万里が浴室へと向かった後、テレビの音だけが居間を支配していた。それが気に入らないのか、それとも万里がいなくてつまらなくなったのか、銀之助は寝室へと戻ろうとした。

「銀之助ちゃん、どこに行かれるのですか?」

 銀之助は玉城をぎろりと睨み付けた。

「私は万里さんと違い、あなたが話してくれないとわからないですよ、銀之助ちゃん?」

 銀之助の金色の瞳に怒りが宿った。

 無理矢理言葉を付けるとしたなら、「黙れ」であろう。

「くっくっくっ。随分とまぁ愛らしい。すっかり丸くなったものですね」

 玉城は茶を啜る。

「銀之助、ねぇ……」

 玉城は立ち上がり、銀之助をちらりと見た。銀之助は反吐を吐くように「ふぇっ」と鳴くと、寝室へと向かった。

「やれやれ。本当に変わってしまいましたねぇ。あれではまるで〝人〟のようだ」

 そう言って勝手に茶のおかわりを淹れ出した。


   事件/6/2


シャワーを浴びていると、ふと、昨日銀之助と話していたことを思い出した。

「母が目の前で死んだ、か」

 目の前で母親を喪った銀之助。〝死〟に何も感じぬというのは、本当であろうか。

 いや、それに関しては後でじっくり考えるとして、だ。

「締め切りは明日だ。これは事件だ」

 解決編のプロットを電話で話したのが、つい先週だ。そのときには半分出来ているという話をしている。実際は半分も出来ていない。このままでは、殺されるかもしれない……!

「いかん。とにかく、とにかく書かねば」

 湯を止め、ひどくひどく大きくため息をついた。タオルで乱暴に体を拭き、居間へと戻った。居間では玉城獣医師ともう一人が茶を啜っていた。

 その人物は、今私が誰よりも会いたくない人物であった。

「ビワではないか」

 短いながらも艶やかな黒髪、目は彼女の気の強さを表すように釣り上がっている。見る人次第では、不機嫌にしか見えないだろう。

 実際不機嫌なのだろうが、彼女はこの表情が通常モードなのだ。

「先生、私はビワではなく美和子みわこ、佐藤 美和子さとう みわこです」

 佐藤 美和子。世話になっている出版社の編集者で、私の担当である。私の恋人であった千草 那美の親友でもあった人物だ。

「来てましたよ」

 玉城獣医師が茶を啜りながら言った。まさか玉城獣医師をここに置いていたせいで、居留守という必殺技を使えなくなるとは……やはりさっさと追い返しておくべきだったな。

「先生、先週時点で半分出来ているのですよね。当然、全部出来ていますよね」

 ……さて、どうしようか。出来上がっているのは約四分の一だ。

「ビワよ。締め切りはいつだったっけか?」

 場を少しでも和ませようとした発言が、ビワの鋭い目を更に鋭くした。これは完全にお怒りのようだ。

「明日だこの馬鹿野郎!」

 手に持っている煎餅を手裏剣のように投げてくるビワ。当たって痛くはないだろうが、何もしないのも憚れる。では、避けられるだろうか。否、私の身体能力では避けられぬ。

私が僅かな痛みを覚悟していると、目の前に灰色の風が走る。

「ギン……」

 私は目頭を押さえた。食い意地が張っているのにも限度があろう……。

 銀之助は私に向けられた煎餅を、ボールを取りに行く犬が如くキャッチし、ばりぼりと音を立てながら食べた。

「な……凪、あんた犬なんて飼い始めたの?」

「飼っているのではない、ルームシェアをしておるのだ」

 私はいつも自分が座る定位置へと座って、煙草に火を点けた。風呂上りだからか肌寒い。銀之助は煎餅を食いきると、大きなあくびをして横になった。

「今日は冷えるな……」

 ふぅ、と紫煙を吐き出す。

「さて、私は帰りますよ。ここの粗茶は飲み飽きました。帰って美味い茶を飲みたいのでね」

 煙を嫌うように玉城獣医師は顔の前で手を振り、立ち上がった。私はまだ一回しか吸っていない煙草を、灰皿の煙草休めへと置いた。

「わざわざ見送らなくてもいいですよ」

 気を遣ってやっているのに、何故か玉城獣医師は良い顔をしなかった。

「何を言うか、玉城獣医師。友が我が家から去るというのならば、見送るのが人として当然であろう」

「私とあなたがいつ友人になったのですか。都合よくあなたの担当編集者から逃げないでください」

 玉城獣医師は座っているビワに一瞥をくれる。ビワは目つきの悪い瞳でそれを睨み返した。

「おぉ怖い怖い」

 玉城獣医師は肩をすくめて、そそくさと部屋から出て行った。

 私はゆっくりとビワを見た。先程よりも圧倒的に機嫌が悪くなっていることは目だけでなく、彼女が醸し出している雰囲気から察することができた。

 私はまだしっとりと濡れている頭を掻いて、定位置に座って煙草の続きを吸い始めた。

「何ページか覚えていますか、先生」

 忘れた、などとまた冗談を言おうとしたが、これを言ってしまうと彼女の機嫌が最高に悪くなり、煎餅ではなく灰皿やら何やらが飛んできそうな気がしたので、やめた。

「原稿用紙六十枚分であろう。確か一、二ページは多くても少なくても良かったはずだ」

「実際、今何枚できていますか?」

「十四枚」

「今日で何枚できますか?」

「二十枚」

「明日で何枚できますか?」

「十枚」

「足りません」

 煙草を灰皿に押し付ける。

「すまぬ、締め切りを三日延ばしてくれ」

 素直にビワへと頭を下げた。

「無理です駄目です有り得ません気持ち悪いです締め切りを守りなさい」

 罵倒が混ざっている気がする。

「……」

 ずずず、とビワは茶を啜った。そして小さくため息をつきながら、「そんなに、この小説書くのつまらない?」と彼女に似合わぬ小さな声でそう言った。

「どうした、急にしおらしくなって」

 ビワはまた鋭い目をこちらに向けた。

「あなたはどんなにだらしなくても、締め切りを守らなかったことは今までなかったからね」

「そうであったかなぁ……」

「そうよ。この小説書き始めてから、やたらと締め切りギリギリになったし。それに……」

 ビワは一旦言葉を切った。その後に続く言葉は、彼女が最後まで言わずともわかった。

「那美の命日に墓参りに行かなくなったしな」

「……うん」

 ビワは鋭い目を伏せる。

 こやつは感情の起伏が激しく、それが表情に出やすい。それ故か、彼女は友人の間ではムードメーカーだった。

「二年前は来たのに、どうして去年は来なかったの?」

 いつの間にか彼女は編集者ではなく、一人の友人としての顔になっていた。

「ちょっと、な」

 瞼を閉じると、あの惨劇の記憶が鮮明に蘇ってくる。

 その記憶に靄をかけるべく、私は煙草に火を点けた。

「やめてよ、煙草吸うの……」

 彼女の瞳には薄っすらと涙が浮かんでいた。その涙の原因は煙のせいなのか、それとも旧友を思い出したからか。

「行かなくなったのは、簡単な理由だ」

 天井に煙を吐く。

「知ってる。言わなくても良いよ。あんたにとっては辛い話だろうし」

 ビワはそう言ったが、私は言葉を続けた。

「……死んで欲しくないのだ、那美の親族、そして私の両親のようにな」

 私の両親は那美の一周忌の日に亡くなった。私が墓参りをしているときだった。

 彼らの死は、凄惨なものだった。玄関を開けてすぐに父親が、居間で母親がいた。二人とも腹を開かれ内臓は体外へとはみ出しており、顔は見る影も無いほどにぐちゃぐちゃに潰されていた。あの家の中に蔓延していた血の匂いは、忘れたくても忘れられない。

「信じられるか? 熊か〝ナニカ〟の獣とのことだったのだ、あんなことをやったのが」

 あのような残酷なことが出来る獣などいるものかと私は警察に食いついたが、それでも彼らの検死結果は変わる事はなかった。熊か〝ナニカ〟のせいとの一点張りだ。

 少しの間静寂が流れた。その静寂を破ったのは、銀之助だった。「ぐるる」と唸って私の着物の裾を咥えた。

「そういや、その子の名前は?」

「銀之助だ。メスであるぞ」

「相変わらずあんたのネーミングセンスはおかしいね」

 ビワは銀之助の頭を撫でようと奴に近づくと、銀之助は金色の瞳でビワを睨み付けた。「触るな」と意思表示をしているのだろう。

「あんたに似て全く可愛くないわ」

 銀之助は「やれやれ」とでも言いたげな瞳をビワに向けると、彼女に尻尾だけ擦り付けて「ふぇっ」と吐き捨てた。

「ねぇ、この子ってさ」ビワはひくひくと目尻を痙攣させ、「やっぱり全然可愛くないんだけど」と続けた。

「はっはっはっ、気付いたか。その通り、こいつは可愛くない」

 銀之助は抗議の唸りを上げ、寝室へと戻っていった。

「あれでも懐いたほうだ。というより、今日急に懐きだした」

「何それ、意味わかんない」

 彼女は立ち上がり、私をいつもの鋭い目で睨みつけた。

「三日後、また来る。その時に出来てなかったら、容赦しないよ」

「三日あれば充分だ」

 私も立ち上がる。ビワは私より頭一つ分小さかった。そのせいで、ビワは私を見上げる形になった。

「三日だからね」

「あぁ、ありがとう」

 ビワは小さな声で何か呟いた。「馬鹿」と言ったのを確かに私は聞こえたが、聞こえない振りをした。


   事件/7


 ビワが帰った後、私は執筆作業を再開した。銀之助も私が真剣に作業をしているのを見てか、私に語りかけるようなこともなく、人の姿で本を読んでいた。そのおかげか、かなり集中することができ、本日のノルマ二十枚を越える二十三枚を書き終えることができた。

 パソコンの時計を見ると、二十三時を表示していた。随分と長く書いたものだ。デビューしてすぐのときでも、ここまで長く書いたことはなかった。

「ギン、腹が空かぬか?」

 銀之助はぎろりと金色の双眸をこちらに向けた。

「今は喋れるのだから、自分の意思は言葉で表せ」

「主殿よ、私は怒っておる。この感情は教えられることもなくわかる」

「何を怒っているのだ?」

 私は強張っている体をほぐしながら銀之助に聞く。

「主殿は私の食事を忘れている。何度か声をかけたが、何も反応しなんだ。これは侮辱である。私はそれに非常に憤慨しているのだ」

 頬を掻く。私に気を遣い話しかけなかったのではなく、話しかけられたのに私が気付かなかっただけか。

「すまぬ。集中しすぎて忘れてしまっておった。詫びの証として、今日はお主の好きなソーセージをやろう」

 銀之助の金色の瞳が輝く。

「そういうことならば、まぁ、許してやらぬこともない」

 ふふーんと、銀之助は胸を張って言った。こいつはいつの間にそのようなことまで覚えたのか。

 人の子の成長も早いというが、獣の成長はそれ以上のものらしい。この場合、銀之助を一般の獣と同じに考えていいかはわからぬが。

 キッチンへと向かって、朝(昼)に食べたのと同じパンを咥えながら、銀之助の餌箱にいつものドックフードとソーセージを二本入れて机の上に置いた。

 定位置に腰を下ろしてテレビを点けた。ニュースは面白くもなく、深夜のドラマは中身が何もなかった。数十分チャンネルを回していたが、どの番組を観ても得られるものが無いと思い電源を落とす。

 ちらりと銀之助を見ると既に全てを平らげていた。こいつ、ぶくぶくと太っていくのではなかろうか。この美しい姿が太ることで醜くなることは、何と言うか……耐え難い。

「お前は太ったりせぬのか?」

「無駄なものは全て排除しておる」

 ……出すものは出しているということであるか。成程、聞きたくない話であった。

 テレビを消すと部屋は無音になった。昔は別段気にもしなかったが、何故か最近このような音の無い空間は耐え難い。

「おい、銀之助。お前は何を読んでおったのだ?」

 げぇっぷ、と奴は大きなあくびをした。

「げっぷで返事をするな無礼者め」

「理不尽な話、という本だったはずだ」

「あぁ、あれか」

 多数の〝病んでいる〟と言われている作家の短編を纏めたものだ。私の作家仲間の一人もこれに参加しており、これは献本としてもらったものだ。読んでみたが確かに病んでいる作家が書いた話であると納得できるものだった。

「面白かったか?」

 銀之助は宙を見る。

 奴がなぜこのような行動をしたかはよくわかる。この本は、非常に感想に困る本である。

「わからぬ」

「そうか、それならそれで良い」

 煙草に火を点けて、茶を淹れるべくキッチンへと向かった。昼から茶葉を変えていないことを思い出し、急須の中身をごみ箱に捨て、新しい茶葉を急須に入れる。

「銀之助、貴様も飲んでみるか?」

「茶、か。うむ、飲んでみよう」

 茶を二つ分淹れ、銀之助に渡す。

「熱いから冷ましてから飲め」

「うむ。冷ます、とはどうするのだ?」

「……そう言えばお前に熱いものを与えたことはなかったな」

 私は冷ます方法を二、三個教えてやると、銀之助の頭を撫でてみた。銀之助は嫌がることもなく、それをただ受け入れた。

「どうしたのだ、銀之助。昨日までのお前なら触れようとしただけで逃げておったぞ」

「ふむ……わからぬが、主殿には触れられても不快な気分はせぬとわかっただけだ」

 銀之助はまだ冷めぬ茶をじっと眺めながら言った。何が奴の心変わりの原因になったかはわからぬが、悪い傾向では決してない。

「どこでそう思った?」

「昨日の夜だ」

 記憶を辿る。

 そうか、布団に潜り込んだときか。あのときにあいつは母親の事を言っていたな。そこから、私と母親に何かしら近しいものがあると感じたのかもしれないな。

 銀之助はちびりと茶を舐めた。

「舌が痛い」

「それは熱いというのだ」

「熱いぞ、主殿」

「そうか、もっと冷ませ」

 銀之助は茶を冷ますためにふーふーと音を立てながら息を吹きかけている。頬杖をついてその様を見ていた。銀之助の耳はぴったりと倒れていた。

 確かあれは犬が不安なとき、もしくは落ち着いているときの感情の表れと、本に書いていた。

「銀之助、今どんな気持ちだ」

「うむ……ぬぅ、こう、ほかほかしている気持ちだ」

 それは温かいものを飲もうとしているからじゃないか、という言葉は飲み込むことにした。

「お前の言葉で現してみろ」

 こいつはもっと自分の気持ちを口にして現すべきだと思った。

 銀之助は「むぅ」と言葉を探すように唸った。

「あれだ、風呂に入っているときに似ているのだ。湯に浸かっているときだ。胸の中に、温かい空気があるのだ。それは吐き出してもなくならぬ。体の内に残るのだ。それがとても好ましい」

 自分の顔が綻ぶのが、よくわかった。

「ギン、それは安堵……安らぎを得ているときだ。わかるか、安らぎだ」

 また銀之助の頭を撫でた。銀之助は両目を閉じて「ふぬ」と心地良い声を出した。

「そういえばギン、お前のその耳は引っ込められぬのか?」

「……母上は出来た」

 母上、か。

「お雨の母とはどのような方だったのだ?」

「もっと頭をさするのだ」

 さする、か。この行為は撫でるというものだが、奴の頭の辞書には撫でるという言葉が載っていないらしい。

 頭をひとしきり撫でると、銀之助はまた茶を舐めた。

「苦い」

「はっはっはっ、まだ貴様は子供舌なのか」

「馬鹿にしているのか?」

「馬鹿にしているのではない。からかっているのだ」

 銀之助は少し間を置いた後、「私は怒って良いはずだ」と口にした。

「すまぬな。で、お前の母親とはどういった方なのだ」

 銀之助は茶を飲み始めた。飲む度に渋そうな顔をしていた。

 私は銀之助が母親のことを話すのを待っていたが、銀之助は話そうとしなかった。

「話したくないのか、ギン」

「うむ。母上のことは今は話したくない」

「そうか、ならば仕方あるまい」

 無理して聞く話でもない。いつか銀之助が気晴らしのように話してくれるかも知れぬ。その時を待つとしようか。

「茶を飲んだら寝るぞ、銀之助」

「……主殿よ、その前に客だ。招かれざる客だぞ」

 玄関のチャイムが乱暴に何度も鳴らされた。昨日にもこのようなことがあったはずだ。

「はいはい、どちら様ですかな?」

「先生! 無事かい、先生!」

 声の主は羽田さんだった。私は玄関の鍵を開けた。すると、前と同じように羽田さんは勢いよく戸を開ける。

「先生、どこにも怪我はないかい?」

「羽田さん、二日続けてどうされたのですか。今は木々も寝静まる時間ですよ」

 私は懐中時計を取り出しながらそう言った。間もなく日付が変わろうとしている。

「普通なら、寝ている時間ではないですか?」

「先生! 野犬だよ、野犬! 野犬の群れがまた出てきて……!」

 野犬……? また現れたというのか。

「早く先生も逃げよう! あいつら、今日は少しおかしいんだ!」

 確かに羽田さんの言う通りだ。このような時間帯に群れを成して畑を荒らすなど、一度ならまだしも、二度は有り得ない。だが、更におかしいのは……。

「羽田さん、あなたの目は、そのような輝きはしなかったはずだ」

 この人の目は、こんなに冷たい瞳をしていなかったはずだ。今の彼の瞳は、獲物を狙うような、獣の目だ。

「けけっ……」

 羽田さん……否、羽田さんらしき者は気味悪い笑い声を放つ。

「くっけけけけえけけけけけけけけけけっけえけけけけけ!」

 べきべきと体を変形させていく。

「おぉ、これはまた銀之助とは似ても似つかぬ変身の仕方だな」

 などと私は冗談めかして言ったものの、足はすくんでいた。本当ならこのような化け物を見た時点で叫んで逃げたいのだが、恐怖からか体が言うことを利くことはなかった。

「くかか……」

 獣の姿はまさに異形であった。人間を基本にした骨格ではあるのだが、腕や足の筋肉の付き方が非常に発達しているので、よく見る人間とはかけ離れていた。そして、獣特有の臭いが鼻につく。

「獣よ、何か用か?」

 頭の中では既にどのように逃げるかを思案しており、少しでもその考える時間を伸ばそうと、私は獣にそのような言葉をかける。

「……?」

 獣……いいや、これは獣人と呼ぶべきなのだろうか。このようなファンタジックな種族に会うことは小説の中以外有り得ないと思っていたが。なるほど、事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ。

「貴様……?」

 獣人は私を品定めするような瞳をこちらに向けながら「あのメスと似た匂いがするな?」そのような言葉を放った。

 あぁ、いかんいかん。あまりの超展開に、何故獣人が喋るのだという突っ込みを入れ忘れてしまった。小説の中では、長く生きているこのような獣人は、人間社会に触れる機会があって覚えるという設定が多々使用されているが、この獣人はどうなのだろうか。

「獣人よ、何故お前は人間の言葉を喋れるのだ?」

 私が獣人に聞くと、獣人は「くかか」と気味悪く笑い、真後ろに数メートル飛ぶと、こちらに背を向けて村へと消えていった。後ろからはとてとてといつもの足音を鳴らしながら銀之助が近づいてきた。チャイムが鳴ったことで犬の姿になったのだろう。

「ギン。あれはお前の親戚か?」

 私は銀之助に振り向く。

 先程の恐怖からだろうか、私はその場で立っているだけが限界で、顔のみを銀之助に向けた。

 銀之助の金色の瞳は私を見ずに、あの獣人が去ったほうを見るだけであった。それを見て、私も銀之助と同じく獣人が去った方向を見た。

「あれでは村に行ってしまうな。このような時間では羽田さんも眠ってしまっているだろう……様子を見に行かねばなるまい」

 私は独り言を吐くと、震える体でなんとか下駄を履いた。

 村へ降りようと玄関を開けると、銀之助は私の着物の裾を唸りながら咥えた。

「なんだ銀之助。行くなと言うのか?」

 銀之助の金色の瞳は、私を見上げながら「行くな」と確かに語りかけている。人間の姿でいるよりも、幾分か犬の姿のほうが感情がわかりやすいのは、勘違いではないだろう。

「離すのだ、ギン。私の見当違いだったならそれで良いが、そうではなかったら取り返しが付かぬ。〝あれ〟はきっと何かしでかすぞ」

 〝あれ〟とは勿論あの恐ろしい獣人のことだ。〝あれ〟の瞳は銀之助のものとは違い、無駄な感情を唾棄するような瞳だった。

 例えるのなら、そう……自分以外、存在価値など見出せないとでも言うような、傲慢な瞳。

「銀之助、離せ」

 普段の状態の私ならば、銀之助を振り払うことも容易くできるだろうが、私は先程の恐怖をまだ引きずっており、体に力を入れることができなかった。

「銀之助」

 銀之助も頑固であった。私をどうしても村に行かせたくはないのだろう。

――アナタハ、ダレモ

 私、は……

――ノゾンデイナイモノネ

 違う……そんなことはない。

 私には何もないから。だから、せめて私は周りの人々に幸せになってほしいと望んでいるから。その人々が幸せな姿を見ていれば、私も幸せになれる気がするから。

 だから私は、自分が空っぽでも、彼らの幸せを望むのだ。

 私は、彼らにこの状態を伝えねばならぬ。もしもあれが人を襲うものであれば、それだけであの村は危険だ。そのようなこと、私は望んでいない。

 あの村の人々は、戦う術をきっと知らない。きっとあの獣に対抗できない。私一人がそこに行った所で何もできないのは目に見えているが、囮くらいにはなるだろう。

「離せ、ギン!」

 感情は急に沸点を超え、銀之助を怒鳴っていた。

 銀之助はその声に大層驚いたのか、咥えていた着物を離して、三歩程度後ろに下がった。「ここにいたいのなら、お前はここにいろ。私は村に降りる」

 銀之助は、大きく吼えた。

 まるで家を揺るがすようにそれは響き、私に「行くな」と命じてくる。

 だがそれが何になるだろう。私にとっては全くの無意味である。たかだか化け犬一匹の一声くらいで、私のこの意志を変えられるわけがなかった。

「ギン、またあの化け物が来るかもしれん。お前は身を丸めて隠れておるのだ。お前も、私にとっては……」

――アナタヲ、ノロッテヤル

「お前も……」

――アナタガアイスルモノ、スベテヲ、コロシテ、ヤル

 ええい、美和子と那美の話をしていたせいか、やたらと那美の声がする!

「とにかく、私は行く。いいか、銀之助。とにかく、お前は隠れているのだぞ!」

 銀之助はまた吼えるが、私はそれを無視して、今度こそ村へと向かって足を進めた。


 少しだけ早足で進んだからか、私の家から一番近い羽田さんの家には、二十分ほどで目視できる位置までは来られた。しかし、既にむせ返るような獣の臭いが漂っていた。

――フフ、ナギ

「羽田さん……」

 不安を隠しきれずに、私は名を呼んでいた。

――アナタガアイスルモノスベテ、コロシテヤルカラ

 早足から駆足へと変わり、羽田さんの家に向かった。近くには玉城獣医師のジープも停まっている。

 我が家を去った後にでも羽田さんに捕まって、酒盛りでもしていたのだろう。あの狐獣医師が酔い潰れていることなど有り得ぬだろうし、例えそうだとしても、このような獣臭い中で悠長に寝こけている男でもないはずだ。

 玄関の近くにまで行くと、より一層獣の臭いは強くなった。

 チャイムを何度も連続で鳴らす。見たところ玄関が壊されたりした形跡もないので、裏手から回りこまれたりしてなければ、無事ではあろう。

 ぱたぱたと奥から誰かが歩いてくる音がした。その音を聞いただけで私は胸を撫で下ろした。

 かちゃりと鍵が開くと私はすぐに戸を開ける。鍵を開けたのは奥様であった。

「奥様、旦那様と玉城獣医師は?」

 すぐに奥様にそう尋ねると、奥様は「わっ!」と驚き、彼女は自分の胸に手をやった。

「なんだ、先生じゃない。旦那と玉城さんなら、今畑を見に行ってるのよ。この臭いでしょう? また来たんじゃないかって……」

「どこの畑に行きましたか?」

「周りの畑は大丈夫だったから、一番遠いところだけど……先生は来させるなって……」

 奥様の言葉を最後まで聞かずに、私は駆け出した。奥様は私が駆け出すと同時に「あっ」と声をかけようとしていたが、私は聞こえないフリをして、「ありがとうございました! 奥様は戸締りをしていてください!」と言った。

 一番遠い畑とは言っても、羽田さんの家からは走って五分程度だ。私は久しぶりに全力で走った。

 走れば走るほど、獣の臭いは強くなる。吐き気を催すくらいに、それは臭かった。

 五分経って畑に着くと、羽田さんと玉城獣医師の背中を見つけた。二人は私の足音に気付くと、驚いたようにこちらへ振り向いた。

「先生……」

 羽田さんが辛そうに顔を歪めていった。それを見て、玉城獣医師は何も言いはしなかったが、不機嫌そうに私を睨み付けた。

「ご無事でしたか」

 二人の無事な姿を見て、私は今まで不足していた酸素を大きく吸い込んだ。一度だけでは落ち着かず、何度も何度も。

「良かった……」

 私がそのような言葉を漏らすと、玉城獣医師はため息をつきながら、「良いものですか、御覧なさい」と言って、顎で畑を見るよう促した。

 まだ整わない呼吸を必至に抑えながら、私は畑を見た。懐中電灯で照らされた僅かな箇所だけでもわかるほどに、羽田さんの畑はまたひどく荒らされていた。


   事件/7/漆黒


 主殿が城を飛び出したため、私は仕方なく庭が見える部屋の中で丸くなる。

 くだらぬ主殿である。私の警告も聞かずに外に出るとは。まぁ、何が起ころうと主殿ならば、生き延びるであろう。

 しかし、この姿の時には、言葉を発せぬことが非常に面倒である。言葉を発することが出来れば、主殿に危険があるからと伝えられたものだが、やれやれだ。この騒動がきっかけで、先程のように他の人間が我が城に来ても面倒であるから、この姿でいるのだがな。

 だが、何故〝あやつ〟がここに来たかはわからぬ。私を追ってきたのかも知れぬが、それならばそれで、何故ここまで間隔を空けたのだろうか。奴の性格ならば、すぐにでも私を追ってきても不思議ではないのに。

「おい、メス」

 庭から下品な〝声〟がした。

 主殿が去ってからまだ数刻しか経っておらぬのに、忙しい奴である。主殿はお前を追いかけていったのだがな。

「我の言葉に反応を示さぬとは、いい度胸をしておるな、メスよ」

 ああ、鬱陶しい。私はいつも貴様の言葉など軽く聞き流しているということに、まさか未だに気付いておらなんだのか。

「おい、どうしたんだ、ん?」

 ため息をつく。

「なぁおい。なんでお前はこんなところにいるんだ? お前の意思を無視して行為に及ぼうとしたのは、悪いとは思っているんだぜ?」

 悪いと思っているのなら、そのような態度は取れぬはずであろうに。所詮は獣の類だ。人間とは明らかに違う。このような奴に〝人間〟を説いても仕方あるまいが。

「答えろ、メス」

 私は身を起こし、姿を変えた。

「くかかっ。やはりお前はその姿が美しい」

 私の目の前にいるのは、さっき主殿が見た獣人だ。黒い体毛は荒々しく、筋骨は気味が悪いほどに発達し、そして臭い。下卑た笑みを浮かべるその表情は、体毛の奥からでも歪んでいるのがわかる。

「お前は臭い」

 口から出てきた言葉は、率直な感想であった。

「くさ……い?」

「獣臭いのだ、お前は」

 私は奴にそっぽを向いた。距離にして約三メートル。その距離でも、奴の体臭は鼻を刺す。

「く……かか、何、を?」 

 四歩ほど、奴は大股でこちらへ寄ってくる。

「喋るな、寄るな、臭いと言っておろう」

 何故今までこの者たちと暮らしていたかは、わからぬ。あぁ、いや、主殿が、あまりにも……。

「あの人間の〝匂い〟にでも当てられたのか? 確かにあれは変な〝匂い〟がする。その匂いのせいでお前を見つけるのも遅れた」

 あぁ、成程。

 私をすぐに探さなかったのではない、探せなかったのか。

「それならば、いっその事あの人間を……」

 ぎらりと、奴の目が光った。あの目は知っている。獲物を見つけ、狩り殺すことを決めた捕食者の瞳だ。

「やってみぃやケダモノ。もしそうしたなら……」

 奴を睨み付ける。

「くかか。怒ったか? メスよ、三日やろう。それまでに、我が元に戻ってきたなら、あの人間は生かしておいてやる」

 変わらない下卑た笑みを、ケダモノは浮かべた。

 怒りで煮えくり返りそうな感情を吐き出すように、私は吼える。

「オォォォォォォォォォォォン!」

「なんだ? 我とやりあうつもりかぁ?」

 奴は「くかか」と付け足すように気味悪く笑った。

「ふん、他の犬どもに主殿を襲わぬように命じただけだ。お前よりも、私の言うことを聞くであろうよ」

「くかか、そうだったな。お前の色香は他の奴らを惑わすしなぁ?」

 なんと嫌味な言い方か。まぁ捉えようによっては、それだけ私が魅力的であり、高貴な存在なのだという褒め言葉でもあるが、このような下賎な者に褒められても嬉しくないものだ。

「我の仲間の次は、人間にもその色香を使っているのか、ん?」

 私は奴の言葉を無視して、いつも主殿が箱をいじる部屋に向かおうとした。

「メスよ、三日だからな……」

 そしてあの獣は消え失せた。醜悪な臭いと、不吉な予感だけを残して。


   事件/7/2


 羽田さんにかける言葉を、私は少しの間見つけることが出来なかった。何か言葉を発すれば、それは全て気休め以下の言葉に成り下がってしまう気がした。

「ははっ……こりゃあ、ちょっとひでぇよなぁ?」

 羽田さんが私を見て、そのようなことを言った。暗いため見え辛かったが、いつもの快活な笑顔は彼の顔にはなかった。

 不安で潰れそうな程の感情を、無理矢理笑顔で覆い隠した表情。畑が荒らされたことによる、今後の生活の心配ではなかろう。まるで羽田さんの畑〝だけ〟を狙ったかのような行動。それに彼は言い知れぬ恐怖を抱いているのだ。

「羽田さん……」

 名を呼んではみたものの、やはりかける言葉は見つからなかった。

「なぁ先生。俺、なんかしたかなぁ」

 羽田さんは座り込んで煙草に火を点けた。

「俺はよぉ、中々誠実に、真面目に生きてきたつもりだよ。そりゃあ若い頃は少しだけやんちゃもしたさ。でもよ、それでも筋は通して生きてきた。この村に来て何十年も田畑を耕して、息子を大学まで行かせて、自然とも共存してきたさ」

 ふぅ、と羽田さんは紫煙を吐き出した。

「でもよ、これはあんまりだ。魔犬様の祟りにしちゃあ、理不尽すぎるだろうよ」

 ははは、とまた笑った。この笑いは先程のものとは違い、諦観を大いに含んだ笑みであった。

「先生。俺、魔犬様になんかしたかね?」

 羽田さんの顔には常に笑みが張り付いている。それはどんな時でもだ。どんな時でも彼は笑っているのだ。苦しみや悲しみなどの負の感情を隠すために。それを顕わにしたとき、他人がどんな気持ちを抱くかを知っているから。そして私は、そんな彼を見ているのが、堪らなく辛かった。

「片付けは、また明日やるよ。これはよ、俺だけでやりてぇ。邪魔しないでくれよな、先生」

 邪魔。

 羽田さんは確かに今そう言った。私などいらぬと。私など必要ないと。

「そう、ですか……」

 羽田さんは煙草を荒らされた畑を投げ入れた。普段の彼なら絶対にやらないことだ。

 私は細く長く息を吐き、玉城獣医師を見た。奴は感情の篭らぬ瞳を私に向け、すぐにまた畑へと視線を向けた。

「では、私は帰ります」

 羽田さんに頭を下げて、私はその場から逃げるように去っていった。


――アナタハ、ダレモ、ノゾンデイナイモノネ


 わかっていたことじゃあないか。

 誰も私を愛しはしない。

 誰も私を望んでいない。

 誰も私を求めはしない。

 だから私は、誰をも愛し、望み、求めるのだ。

 誰かに愛されるために。

 誰かに望まれるために。

 誰かに求められるために。

 煙草に火を点け、空を見た。大きな満月が、闇空に浮かんでいた。私はそれに向かって煙を吐いた。

 私の家の方角から、何者かの遠吠えが聞こえた。その声には、不思議と私と同じ孤独の音を感じた。

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