恋人


 意識が、覚醒した。汗で濡れた前髪を掻き上げて、テュランは大きく息を吐いた。


「……サイアク、だな」


 嫌な夢を見た。古い記憶だ。思い出したくもない、幼い頃の傷。

 信頼していた少女に裏切られた、あの――


「――ッぐ、うあぁ!!」


 突如、激痛がテュランを襲った。びくりと身体が痙攣し、咳き込むように肺の中の空気を吐き出す。左手に宿る痛みが、やがて胸元まで這い上がり心臓から全身へと駆け巡る。

 沸騰した血液が細胞を焼き、四肢が根元から引き千切られるような感覚に恐怖を覚えた。


 息が、出来ない。涙が滲んで、視界がぐにゃりと歪む。


「テュランー? そろそろ起きなよ……テュラン!?」


 ノックも無しに、誰かが部屋に入ってくる。悲鳴じみた声で名前を呼びながら、その誰かはテュランの傍に駆け寄ってきた。

 無意識に、手を伸ばす。体温の低い小さな手が、力強く握り返してくれる。


「テュラン! だいじょうぶ!? 痛いの、どこが痛い?」

「だ、いじょうぶ……」


 大丈夫、ここはあの無機質な場所ではない。人間の大人達はどこにも居ない。何度も繰り返し自分に言い聞かせて、気を逸らせようと辺りを見回す。

 見覚えがある部屋だった。そう、確か日当たりが良くて清潔感があって。景色も良くて昼寝に丁度良さそうなソファがあったから。寝転がっていたら、そのまま本当に寝てしまったのだった。


「だ、だいじょうぶー? お、お薬持って来ようか?」


 傍らに膝をつくのは、もちろんあの少女ではない。真っ白い髪に、海色の瞳。ソファの縁に両手を置いて、心配そうに見上げてくる様子は飼い慣らした小型犬に似ている。 


「……大丈夫、だ。いつものヤツ、だから」


 痛みは徐々に引いていく。上体を起こして自分の身体を見下ろすも、怪我など一つも負っていない。ファントムペインと呼ばれるこの幻覚は、テュランが抱えるトラウマが生み出した副産物であった。

 まだ幼かった頃の、あの時の記憶。確かまだ五歳くらいだったから、十二年も前のことだ。テュランは人外を収容する施設で生まれ、あの少女と出会った。二つ程年上で、気弱だったテュランの世話をしてくれたから、彼は彼女を『おねえちゃん』と慕っていた。血の繋がりは無い。

 そんな彼女に、逃げようと言われ。手を引かれて、迷路のような通路をひたすらに走った。しかし、テュランは途中で転んでしまって、そこで立ち上がれなくなって。

 必死に掴んでいた手を、振り払われてしまったのだ。


「サイアク……」


 再び、呟く。少女はテュランを見捨て、下りかけたシャッターを潜り抜けて行ってしまった。それ以来彼女の行方も、生きているのかさえわからない。もう、どうでも良かった。忘れてしまいたかった。

 だが、この苦痛が忘れさせてくれない。擦りむいた膝よりも、振り払われた手の方がずっとずっと痛かった。

 その痛みは自らを引き金にして、テュランの身体に刻まれた『全ての痛み』を呼び起こし、彼を苦しめ続けるのだ。

 今も、まだ痛い。


「テュラン……? 本当に、大丈夫? 顔色悪いよ……」


 ぺたぺたと、頬を触れる手が優しい。


「……心配すんな、ヴァニラ。俺は大丈夫だから」

「で、でもぉ」


 テュランが大丈夫と言っても、ヴァニラの表情は暗い。でも、『恋人』にそんな表情をさせてしまうのはなんだか居心地が悪い。

 だから、ついついちょっかいを出してしまいたくなって。


「何だよ、それとも……オマエが慰めてくれたりするの?」

「へ? わ、わわわ!」


 ヴァニラの手を包み込むように掴むと、そのまま力任せに引き寄せてみる。不意を突かれた小柄な身体はいとも簡単に倒れ込み、互いの吐息が顔に触れる程に距離が近付いた。

 つまり、彼女はテュランの上に跨るように乗ってしまったわけで。


「ちょ、ちょっと!? ななな、何、何を!」

「何って……この状況ですることなんて一つしか無くね?」


 逃げられないように、細い腰に腕を回す。もう片方の手で柔らかな白髪を撫でながら、色気も無く喚き立てる唇に舌をわせてみる。飴でも食べたのだろうか、甘酸っぱい苺の味がした。

 たったそれだけ。ちょっとからかっただけで、ヴァニラの顔面が真っ赤になった。


「こ、ここコラー! まだ昼! お昼だから!!」

「じゃあ、夜なら良いのか?」

「そういうことじゃない! ていうか、こんな場所で盛るなバカ!」

「わかったわかった、ベッドが良いんだろ? でもたまにはこういう場所もありじゃね? 毎回同じだと飽きるじゃん」

「それ以前の問題だからって、きゃああ!! どこ触ってんのよ! 変態!」

「いってぇ! コラ、耳は引っ張るな!!」


 テュランの耳を引き千切らんばかりに引っ張るヴァニラ。尻尾でなかっただけマシだが、これはなかなかに手酷い。

 耳と尻尾は敏感で、ワータイガーの弱点なのだ。


「ったく……トラウマに怯えるカレシに対してヒデェ仕打ちだな、おい」

「彼氏を心配してる彼女に襲い掛かってくる方が悪いんでしょ、この猫科!」


 猫科……間違ってはいないが。


「ネコじゃなくて、トラだっつの。なら、オマエは犬科だな」

「犬じゃない!」


 一瞬だった。腕の中に居た筈の恋人が、瞬きの間に真っ白な毛むくじゃらになった。


「狼よ、バカ虎!」

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