第8話 祓魔の人間、鬼の少女

 鬼の子の首に嵌められていた、群青色の首輪とそこから繋がる同色の鎖。これらがあの子を苦しめている原因なのは明らかだった。

 そして、それを使って鬼の子を苦しめている何かがいるのも確かだった。だから俺は鎖の先を追って来た。その何かを見つけ、鬼の子を苦痛から解放させる為に。

 だが、まさか、


「アンタ…人間か?」


 その相手が、自分と同じ人間種だとは思っていなかった。

 立ち上がったその男、きちっとした僧衣を着込んだ中年の人間は、俺の言葉にニタリと不敵な笑みで反応した。




      ーーーーー

「何者だよ、アンタ。いや、その前に…」

 住宅街の端にある広場で見つけたその中年の男へ歩み寄る。聞きたいことはあるが、今はそれより先に優先することがある。

「離せよ、その鎖。それのせいだろ、あの子が苦しんでんのは」

 男の右手が握っている鎖の末端を指さす。

「……」

 しかし、男は俺の言葉にニタニタと気色悪い笑みを浮かべるだけで、鎖を手放そうとはしない。

「…離せっつってんだろ」

 歩み寄り続け、距離はもう十メートルほど。

「私はね」

 そこまで近づいて、男はにやついた表情のまま口を開いた。俺も立ち止まる。

「死霊が君を殺せなかった場合の保険として、あの鬼を向かわせたんだよ。少なからず弱った状態であれば、追い打ちで殺せると踏んだからね」

 ジャラジャラと鎖を片手で弄び、男は立ったまま楽しそうに続ける。

「だが、あの鬼は本当に役立たずだ。まさか逃げ出すとは。だから罰を与えてやったんだよ。こんな風にね」

 男がぐっと鎖を握り込むと、そこから不可視の何かが伝っていく。あれが鬼の子を苦しめてたやつだろう。今頃、置いてきたあの子はさらに苦しんでいるわけだ。

(二十倍!)

 問答無用でぶん殴る理由としては充分に過ぎた。

 全身に“倍加”を巡らせ、一歩で男の眼前まで迫る。コイツが何者かは、叩きのめしたあとで訊けばいい。

 そう思い、二十倍の拳を男の顔面目掛けて放つ。

 ゴッ!

(…っ!?)

 俺の拳が男の顔面に触れる寸前、逆に俺が殴打のような衝撃を頬に食らい真横に吹っ飛んだ。

 何が起きた?

 疑問を抱えながらも滞空中に態勢を整え、着地と同時に距離を置く。

「危ないな、まったく血の気の多い子供だ」

 白髪混じりの短い髪を片手で掻き上げる。

「……」

 目を見開き、視覚に捉える。

(くそ、まだいたのかよ…!)

 死霊。僧衣の男の両側に二体、主人を守る騎士のように控えていた。俺を吹っ飛ばしたのはあの二体の内のどっちかか。

「お前が、人を殺して死霊を生み出し、それを操ってたクソ野郎か。こんなとこで会えるとは思ってなかったよ」

 死霊二体の動向を窺いながら、中年の男へと言葉を投げる。

「まあ、全てではないが、大半は私が殺したね。それは否定しないよ」

死霊使いネクロマンサー…アンタの持つ『異能』が、それか」

 死霊を生み出すこと自体は何の特異能力がなくても出来る。ただその死霊を意のままに操っているということは、なんらかの力を使っていることに他ならない。

 ただ、人々の望む数多の『想像』においても、怨霊を自在に操ることを大多数が望んでいるとは思えない。

 だが、大多数が望まなければ力は力として具現されないし、人に『異能』という形で付与されることもない。

 人間の多くは、死霊使いなんて能力モノを欲するのか?殺された人間の霊を自分の思うがままに操りたいなどと思うのか?

「違うね」

 そんなことを考えていた俺へ、僧衣の男はニタニタとした薄気味悪い笑みを張り付かせたままで言った。

「死霊使い?そんな下卑た力ではないよ。むしろその逆に位置すると言ってもいい」

「逆?」

「君は、祓魔師ふつましというものを知っているかな?」

 聞き覚えはない。響きからして、退魔のような意味合いだろうか。

 俺の様子を見て知らないらしいと判断した男は、白髪混じりの頭を掻き上げながらこう続ける。

「なら、エクソシストは?これなら聞いたことくらいあるだろう」

「…悪魔払いとかするヤツか。日本でいう坊さんみたいな人のことだろ」

 映画とかで見たことはある。実在するとは思っていないが。

「そう。祓魔師とは、すなわちエクソシストのことだよ。そして、私のことでもある」

 両手を広げて、自慢げに自らを祓魔師エクソシストと名乗る人殺しを俺は睨みつける。

「ふざけんなよ。人を殺して出た死霊を自分の好き勝手に操ってるクズが。悪魔払いどころか、アンタが悪魔みてえなもんじゃねえか」

 吐き捨てるように言い放つも、男は笑みを崩さずに両手を広げたまま、

「悪魔を祓う力があるのなら、悪魔を従える力もある。そう考えられはしないかい?私はそれを実践したまでだ。死霊も悪魔祓いと似たような手順で消せるからね。となればその手順に一つ手間を加えるだけで、醜い悪意と殺意に塗れた死霊に首輪を付けることが出来る。こんな風にね」

 男が片手を振ると、両側に控えていた死霊が同時に動き出す。

 一体は俺へと迷わず接近し、一体はその少し後ろから距離を取って腕にあたる黒い部分を振るう。

「っ!」

 三十倍で身構え、まずは先に接近してきた死霊の動きを見る。ドス黒く染まった人影の、腕の辺りから夜の暗闇を塗り潰す赤が噴出した。

 照らす赤は熱を持ち、メラメラと音を放っていた。

 火を操っている。となれば、おそらくコイツの“死因”は焼殺!酷い殺し方をしやがる。

 そうなれば、消去法で後ろにいる一体はさっき俺を殴り飛ばした殴殺の死霊。あの感じからすると、殴られる衝撃を遠隔から飛ばせるようだ。

 木刀はもう無い。どっかにすっ飛んで行ったからな。日和さんに怒られるかもとか一瞬思ったが、それどころじゃない。

 さっき倒した銃殺死霊と同じレベルの死霊二体を、素手で倒すってのは、

(ちょっと、無理じゃねえか…?)

 全身が痛む中、突き出される燃えた腕をかろうじて回避し、後方から放たれる殴打の衝撃を腹に受けて息が詰まる。

「かはっ」

 次いで二発、強化されたはずの俺の肉体に芯まで通る強烈な殴打が入る。

 動きが止まる。眼前には燃える死霊。不味い。

「ああああ!!」

 叫び、痛みを強引に押さえつけて解放する腕力五十倍。

 迫る焼殺死霊の燃える腕を火が燃え移る前に全力で弾き、黒い胴体の鳩尾に当たる部分へ向け折り曲げた腕で肘撃を叩き込む。

 死霊の腕を振り払った左腕の筋肉が千切れ、一撃を与えた右腕が反動で痺れる。痛みごと腕の感覚が薄れる。

(駄目だ、勝てねえ)

 力が入りづらくなってきた両足を意識しながら、思う。

 今の俺じゃこの二体を同時に相手しても勝てない。このままじゃ死ぬ。

(死霊を操ってるのはあのクソ野郎だ、たった今そう言ってたしな。なら)

 奴を倒せば。殺すまではいかなくとも、せめて意識を奪うことが出来れば。

 それしかなかった。それ以外に策はない。それでも駄目だったら、諦めて死霊二体を死ぬ気で倒そう。

 そう考えて、俺は目標を切り替える。

 僧衣の中年の男。その少し前に殴殺の死霊。焼殺の死霊が怯んだのを見て再び殴打を飛ばそうとしている。

(触覚三十倍、脚力四十倍、それ以外はいらねえ!)

 体力の消耗的にあまり広い範囲での“倍加”はもう使わない方がいい。最低限の強化だけを施して、男を睨みつける。

 地面を踏み砕いて飛び出す。

「私はね。祓魔師としての能力を持っているんだが、正確には魔に対する処遇を決める力というのが正しいんだよ」

 男が一歩も動かずに余裕の現れか何か話を始める中、俺は男の前にいる死霊へ視線を固定していた。

 あの殴打の衝撃は視認できない。だが、回避する方法はある。

(…来るっ!)

 勢いのついたまま片足でブレーキを掛けて右半身を前に出すように体勢を変える。それで顔面と胴体に向けて放たれた殴打を避ける。

 見えなくても、衝撃が来る直前の風圧は感じ取れる。三十倍にした触覚なら、肌に触れる前にその予兆を感じ取れる。紙一重だが、これでも避けるには充分だ。

「人に害成す魔に対し、私のような力を持つ者が罰を行使する。基本的には祓うのみであって、それ以上のことをしたりはしない。個人の力量に左右されるからね、悪魔祓いは祓魔師なら誰にでも出来る技でもあるし」

 殴打を避け、脚力任せに死霊を蹴り飛ばす。広場に等間隔で植えられた樹の一本に激突し、僅かに動きを止める。気色悪い笑みを浮かべて話し続ける男は目の前。

「っ!」

 背後から背を焼く熱量と光を感じ、横に跳ぶ。直後に火柱が上がった。

「あぢっ」

 焼殺の死霊が肘撃のダメージから復帰していた。人間相手だったらあれ一発で当分動けないはずなんだが、やはり死霊にそんなものは通用しないか。そもそも痛みを感じているのかすら疑問なところだ。

「祓魔師とは、すなわち“魔に罰を下す力”を持つ者、いや家系の者というべきかな。人にとっての『魔』であれば、私は『罰』という形で力を使える。たとえ、相手が実際に人に害を成していなくともね」

 悪魔を筆頭とする魔性種。

 凶悪な魔界の獣である魔獣種。

 人に恐れられ忌み嫌われてきた鬼の因子の鬼性種。

 神話に記載されるクラスでの規模で力を持つ魔神種。

 俺の知ってる『魔族』の種類はこれだけだが、ヤツはこれらの魔に属する人外に対して強力な力を使えるってことか。

 男の最後の言葉に含まれていた意味を理解し、俺は口に出す。

「あの鬼の子、やっぱり人に害を与えていたわけじゃなかったんだな。アンタに首輪をされて、仕方なくって流れか」

 両腕に火を纏わせて焼殺の死霊が動く。

 左腕筋力五十倍。もう左手こっちは捨てるつもりで行こう。

「『魔族』の中にもあんな役立たずはいるものだね。どれだけ痛めつけても死霊の生産を手伝おうとしなかったから、場所だけ隠形術で隠させてあとは適当に放っておいたんだが。やっぱり縛り上げて転がしておくべきだった」

 死霊の生産。拷問。人殺し。

 それを鬼の子は拒んだ。会った時にボロボロだったのはこの男にやられたからか。

 少しほっとした。やっぱり、あの子は人に害成す存在じゃなかった。『魔族』と呼ばれる枠組みにいても、人に悪意を持つ者だけじゃなかった。それが嬉しかった。

 同時に、目の前の男が本当に同じ人間なのか不思議になった。

「何が目的だ。死霊にされた連中は、同じ人間だったんだぞ」

 火炎放射のように迫る火を左腕で防ぎ、そのまま五十倍で死霊の右腕を砕く。手の骨に違和感があったが、まだ使える。

「目的なんていくつかあるよ。聞きたいかい?まず第一に、人を殺すのは楽しい。色々な殺し方を試すのはとてもワクワクするよ」

「やっぱ狂ってんのかよゴミクズ野郎がッ」

 裏拳で死霊を殴り飛ばす。五十倍強化の左拳は二撃目でとうとう骨が折れた。元々消耗してた上に今日一日で力を使い過ぎてたせいもある。だがまあ、振るうだけならまだ使える。

 殴打の死霊もまだ距離がある。これで俺が男をぶん殴るのを邪魔するヤツはいない。

「まあ聞き給え。第二に、魔を使うのが楽しい。人より大きな力を持つ連中を好きに扱えるんだぞ?これほど愉快なことはない。そう、こんな風にね」

 男がジャラリと右手に持つ群青色の鎖を掲げた。

 ふっ、と。三十倍維持の触覚が右側頭部に風を感じた。

 反応が遅れ、俺は強烈な蹴りを頭に直撃させた。

「ぐ、あがっ!」

 受け身を取りながらも二度ほど地面を跳ねて、揺れる頭で片膝をつきながらどうにか平衡感覚を失わず着地する。

「この状態で死霊生産をやらせてもよかったんだけどね」

 楽しそうに言う男の前には、全身ボロボロでふらふらと体を揺らす少女が立っていた。

 所々が破れた墨染めの黒装束。額に小さな一本角。首に嵌められた首輪から繋がる鎖は男が持つ末端まで伸びていて、首輪は時折火花のようなものを散らしながら少女の首で微振動している。

 鬼の女の子。俺に蹴りを浴びせた少女は、頭を押さえる俺を無表情で眺めていた。

「ぜい、は、ぁ…っ。げほっ。くそ…お前、まさか」

 痛みと疲労が限界に達しつつある中で、俺は鬼の子の目を見た。

「……」

 違う。最初に見た目じゃない。

 あの、怯えていた目。敵意を持たない目。感情を直接伝えてくるような純真な目。それが、今は無い。

 ひたすらに淀んだ、光を灯さない瞳。

「いい加減に、しろよこの野郎!」

 無事な右手を地面について、過負荷で震える両足でどうにか立ち上がる。

「その子が何したってんだ。やりたくないことやらせてんじゃねえ。解けよ、その首輪と鎖」

 本人の意思を無視して動かされているのはどう見ても明らかだった。あの鎖を通して、男が鬼の子を操っているんだ。死霊と同じように。わざわざ鎖で繋いでいるのは、鬼性種が概念種である死霊以上に扱いが難しいからだろうか。

「君は、自分の犬が首輪を嫌がっているからといってそれを外して散歩に連れ出すのかい?」

「ああ…もういいや。テメエとは根本的に話が通じない。本当に人間なのか?」

 せっかく引き離した二体の死霊も、また僧衣の男の周囲へと戻る。意識の無い抜け殻のような表情で操り人形にされている鬼の子も加わり、状況はさらに悪化した。

「そう。それだよ。第三にそれが入る」

 祓魔師の男は、答えるつもりが無いと思っていた俺の疑問におかしな形で答えた。

「私は人間が嫌いだ。よって、自分自身も嫌いなのだよ。いっそ、人という存在から脱して別の存在になりたいとすら思う」

「だから、自分の周りを人外で囲って満足しようって魂胆か?いっそ死んでテメエが死霊になれば本懐だろうによ」

「いやいや。こんなのは最終目標までの段階の一つでしかない。どうせなら、死霊なんていう生前の残り屑になるよりも、もっと上の存在に成りたいからね」

「あ?」

 何を言ってんだ、コイツは。

「まあ、君に言ったところでどうにもならないからね。とりあえず、どうしようか。死ぬ前に死に方を選んでくれれば、その通りの殺し方で上手いこと死霊に変えてあげるけど」

 一歩も動かず、祓魔師は人外のみを使役して俺を追い詰める。

 前衛に、鬼の子がじりじりと歩み寄る。そのやや後ろから二体の死霊。

 一度態勢を立て直そう。逃げて、対策を練って、万全の状態で挑み直そう。

 そう考えた。いや、考えていた。

 鬼の子が出て来るまでは、そう考えていた。

(逆だな)

 強靭な肉体と身体性能を持つ鬼性種の少女が、拳を握って走る。その背後で群青色の鎖がジャラジャラと音を鳴らして引かれる。

 それを黙って見据えながら、思う。

(逃げるのは、俺じゃない。逃がすべきは、)

 大振りな少女の拳を受け流し、脇を潜って背後に回る。

 無事な右の拳を握り締める。

 俺が出せる“倍加”の限界は大体五十倍。反動とかを考えに入れた時、そのぐらいが限界だと決めたんだ。

 だから、それ以上は危険域。使用には体の破壊を伴う。

 だから、体がぶっ壊れてもいいなら、それ以上は使える。

 だから、使う。

 俺が逃げるよりも、逃がしたい子がいたから。

(八十倍だ。これで壊れなきゃ嘘だぜ)

 少女が振り返るより先に、強く強く拳を握る。

 そして、振り下ろす。地面へ向けて。

 地面に垂れた、群青色を放つ鎖目掛けて。

 バゴンッッ!!!

 落とした右拳を中心に地面が大きく陥没し、同時に腕が腕としての機能を失う音が響いた。

「あ、ぁぁァアああああああああああああ!!」

 ベキンだかブチンだか、はたまたそれ以上の生々しい音が腕の内部で爆発し、指に始まり拳、腕。肘から下の部分は全て本来の形から大きく歪んでしまった。

 砕けた骨が肉を突き破り、指はおかしな方向へ曲がり折れ、皮膚が破れて千切れた筋肉がたわんだワイヤーのように飛び跳ねる。

 我ながらグロテスクな光景だった。痛覚が痛覚として認識される上限を突破したかのように、感覚が消えた。腕は既に俺のものではなく、まるでマネキンの腕をくっつけたような感覚。

 だが、その甲斐はあった。

 右腕を代償に得た力で叩きつけた鎖は、粉々になって切れた。それにより、鎖を通じて傀儡のように操られていた鬼の子の意識も戻る。

「―――あ、ぅ」

 振り向きざまに俺へ一撃をくれようとしていた鬼の子は、直前で意識が戻り動きをぴたりと止めた。

「逃げろ。早く」

 端的にそれだけ言った。それだけしか言葉に出来なかった。出来ることなら喉が裂けるほどに絶叫し、蹲って腕を押さえていたかった。

 でもまだだ。この子が逃げるまでの時間くらいは稼いでみせる。両腕がもう使い物にならなくなったが、まだ両足は比較的無事だ。なんなら噛みついてやったっていい。

 身動き取れずにいる鬼の子に、視線で逃走を促す。乱暴に突き飛ばしてでも逃がそうと思ったが、両腕はそれすら出来ないことに気付いてやめた。

 もうまともに戦うつもりは無かった。鬼の子が逃げ切るまでの時間を稼いだら、あとは必死に俺が逃げる番だ。逃げ切れるわけはないと思うが、家の近くまで行ければ日和さんに助けてもらえる。めちゃくちゃ情けないし迷惑な話だが、あの人に頼るしかもう生き残る術がない。

 そんな考え事をしていたせいか、それとも意識が薄らいでいたからか。

 同時に迫る死霊の火炎と殴打に、体が反応し切れなかった。

(避けられな―――)


 腕を、引かれた。





      ーーーーー

「はぁ、はあ…っ、ふうっ!」

「……」

 少し、意識が飛んでいたようだ。

 気が付くと、俺は小柄な女の子に引き摺られていた。

 墨染めの黒装束を身に纏う少女。額に小さな一本角の生えた、鬼性種の子。

 壊れた両腕に対する配慮か、少女は俺のシャツの裾を引っ張って俺を引き摺っていた。

「…お、まえ…」

「ぁ…よかった」

 どうにか声を発すると、それを聞き取った少女が安堵の表情で俺を地面に横たえた。

 腕を使わずに上体を起こすと、その女の子…鬼の子は、俺の横にしゃがみ込む。

「お前が、助けてくれたのか。悪いな」

「逃げてください、早く」

 俺の言葉を無視するように、鬼の子は俺の顔を見てそう言った。

 意識を失う直前、俺が放った言葉と同じこと。

「おい、俺はどのくらい気を失ってた?」

 お互い相手の言葉をまったく尊重していないやり取りだと思ったが、ひとまず状況を理解したい俺は、鬼の子の言葉にそう返した。

「…、ほんの数分程度です」

 何か言いたげに口を半開きにしたあと、それでも鬼の子はしっかり答えてくれる。

「そうか。数分…」

 周囲を見てみる。

 夜ということもあってよくわからないが、おそらくあの広場からはまだそう離れていない場所の道路。その端に俺と鬼の子はいた。

「逃げ切れるか。おい、鬼の子。俺の背中に掴まれ、全力で逃げるぞ」

 両腕は機能しないので背負うことはできないが、背中にしがみ付いててもらえばあとは脚力任せで余力を使って“倍加”で共に逃げることはできる。

 鬼の子も、見た目ボロボロではあるが俺をここまで引き摺ってくるくらいの力はあるようだし、やはり鬼性種の性質である強靭な肉体構造と自己治癒能力は予想以上に活きているようだ。

「はい、今なら…きっと逃げ切れます。だから早く」

「ああ、だからお前も」

 言い掛けて、気付いた。

 少女は諦めている。諦観の表情で、俺を見ていた。

「お前、逃げる気がないのか?」

 あの祓魔師にこれだけ酷い目に遭わされていながら、鬼の子はこの千載一遇とも言える逃亡のチャンスを捨てるつもりだ。

 何故。

 どうして。

 わからない。

 そんな俺の心中を察したのか、鬼の子は薄く自嘲気味に話す。

「わたしは、隠形術を得意とする鬼です。ただそれだけに特化した存在といっても過言ではありません」

「知ってる」

 それは日和さんからも聞いていた。隠形術、身隠しの力の使い手。

 俺ですら五十倍でようやく捉えられるくらい、この子の力は強力だ。いや、ひょっとしたらこの子は本気を出してすらいないのかもしれないが。

「さっき、貴方に鎖を破壊してもらった瞬間、死霊に襲われそうになってた貴方を目の前にして、貴方の腕を引きながら隠形を使いました」

「それでここまで引いてくれたのか」

 鬼の子はこくりと頷く。

「はい。だから今のわたし達は、誰からも見えないし、聞こえないです。触れることはできますが、たとえそれが出来たとしても触れたことすら記憶から消えます」

「すげえな。なんだそれ」

「わたしの隠形術は、少し特殊ですから。なので今は大丈夫です」

 今は、という部分が妙に強調される。

「…長くは続かないのか?」

「いずれ見つかります。わたしには、これがあるので…」

 そう言って、鬼の子は片手を首へ持っていく。

 そこには、群青色に光る首輪と、そこから途中で千切れた鎖が半端に垂れている。

「一時的に壊れはしましたが、契約というのは元々概念的なものです。この首輪と鎖も、力の脅威を具現しただけのものであって、契約そのものを破壊したことにはならないんです。だから」

 チャリ、と指先でいじった鎖が淡く光を放つ。千切れた末端の部分が、少しずつ修復され伸びていくのを俺は茫然と見ていた。

 このまま、おそらく鎖は再びあの男の持つ群青の鎖と再連結され、契約の効力を取り戻す。

 無駄だった。意味が無かった。

 そんな思いが頭の中を埋め尽くす。

「そ、んな…。くそ、駄目なのかよ」

 知識が足りなかった。俺自身、概念種との契約を結んだ者でありながら、その本質をしっかり認識していなかった。

 甘かった。形あるものさえ壊せば、それでいいのだと思い込んでいた。

「だから、あの…逃げてください。わたしは大丈夫、ですので。えと」

 先輩に気を遣う後輩のように、身振り手振りで鬼の子は俺を慰める。

「このままだと、契約が再度発動してしまいます。そうなれば、いくらわたしの隠形でも見つかってしまうんです。あれは、わたしの意思と能力を無効化してしまうので…」

「…どうすればいい」

「え?」

「その契約。どうすれば完全に破棄できる?あのクソ野郎を殺せばいいのか…?」

 人殺しは、したことがある。

 だから必要とあらば殺せる覚悟はある。

 俺は人間だが、人間だけの側にいるつもりもない。

 もちろん、人外が人間を苦しめていたら、俺はその人外を許さない。

 だが、その逆だって俺にはある。

 これまでだってあった。それが今回もあっただけのことだ。

 この鬼の子を見捨てることは出来ない。そんな選択肢は最初から無い。

 必ず助ける。

「…確かに、強制契約を強いている相手が死ねば、契約は解除されると思います」

「そうか、わかった」

 立ち上がる。

 折れた左腕がぶらりと垂れ下がり、グチャグチャになった右腕から血が滴り落ちる。

「でも、やめてください…」

「…」

 しゃがんだままの鬼の子を見下ろす。俺の無言を、少女はどう受け取ったのか、

「感謝、してるんです。たぶん、人間に対しては初めて、です。わたしのことを知っている人からは、いつも追い回されたり罵倒されたりしてましたので」

 鬼は敵、憎むべき存在。鬼は人を襲い、攫い、喰らう。

 そういう認識が、人間にはあるからだろう。だから鬼は人間からは『魔』として見られる。駆逐すべき怨敵だと見なされる。

「だから、嬉しかったんです。貴方がどういう思惑でわたしを助けようとしてくれたのかは、わかりませんけど…でも、どんな打算があったとしても、わたしは嬉しかった。初めて、優しくしてくれた人間だったから…」

 思惑、打算。

 鬼の子にとってはそう見えたのだろう。そりゃそうだ、人ならざる者を無償で命懸けで助けようなんて、普通なら思わないだろう。そこに何か、利益となるものがあるならまだしも。

 どう思われたって俺は構わないし関係ない。

 だが、鬼の子にとっては違ったらしい。

「だから、逃げてほしいんです。貴方にとっては面白くないでしょうけど、このままだと貴方は殺されて、しまいます。死んでしまったら、なんにもならないですよ」

 命あっての物種、彼女はそう言いたいらしい。

「悪いな。俺にとってはそうでもない」

 ここで俺があの祓魔師と刺し違えることでこの子が助かるのなら、まあ命を懸ける理由にはなる。理解はされないだろうが、俺にとっては意味あることで価値あるものだ。

「どうして…」

 案の定、鬼の子はわけがわからないといった表情で俺を見上げた。

「……」

 しかし、次の瞬間に鬼の子はゆっくりと立ち上がり、それでも身長差がある俺の顔を上目遣いで覗きこみながら、

「なら、また来てください」

「…は?」

 おかしなことを口走った。

「え、なにそれ。どういうこと?」

 まったく意味がわからない。さっきまでの鬼の子と、今の俺は同じ表情をしているだろう。

 それくらい理解ができなかった。

 俺の動揺には構わず、鬼の子は答える。

「今は絶対に駄目です。死霊二体も相手にして、そんな大怪我で勝てるわけないですから、絶対に死にます。それに、わたしももうすぐ…」

 見れば、鎖の修復は着々と進んでいた。もうじき完全に契約は元に戻るだろう。

 そうなったら、また鬼の子は自我と意思を押さえ付けられて傀儡人形にされてしまう。

「だから、傷を治して、万全の状態になったら。そしたら、あの人からわたしを助けてください。それまでは、絶対に来ないでください」

 それは彼女なりの妥協か、あるいは自らが助かる為に考えた最善の道か。

「そんな状態であの人に挑んだところで勝ち目はありません。勝手に死なれてしまっては、わたしだって困ります」

 鬼の子は淡々と言う。

「貴方が無駄死にして、あの人の死霊にされてしまうのはわたしにとっても面白くないです。だから約束してください、傷が完治するまでは関わらないと」

 鬼の子は自分本位なことを無機質な声音で言う。

 鬼の子にとって、俺の存在は自分が解放される可能性を持った人間だ。こんなところで無意味に死なれては、せっかくのチャンスが潰えてしまう。彼女にとっても、この場は俺が逃げおおせて再度勝ち目のある戦いを挑んでくれた方が都合がいいのだろう。

 あくまで鬼の子は自分のことだけを考えている。

 自分が助かることだけを考えて話している。

 俺のことはどうでもいい。ただ傷を癒して万全の状態でなくては勝ち目が薄いから、今は逃げてほしい。

 気にしているのは俺の安否ではなく、自らの保身。

 どこまでも自分本位。

 そういう体裁を形作って、鬼の子は話す。

「なので、あの…早く行ってください。本当にそろそろ限界です。契約が再度発動してしまいます」

「…ああ。わかったよ」

 顔がにやつきそうになっているのに気付き、俺はそのまま鬼の子に背を向けた。

「んじゃ、約束な。傷を治して、あの野郎をぶっ飛ばして、助けに行くよ」

「約束は…いいです。では」

 背後で鬼の子の気配が遠ざかる。おそらくはあの祓魔師のところへと戻ったのだろう。どの道すぐに居場所もバレただろうし、自分から戻ることで意識を俺から遠ざけようとした意味もあるのだろう。

 使い物にならない両腕をだらりと下げて、俺はボロボロの体に鞭打って脚に力を込める。

 目指すは学校。そこにある女子寮の一室。

 治癒を得手とする妖魔のハーフさんに、傷を治してもらう為に。

「……」

 人のいない夜道をできるだけ気を付けながら走る。

 ふと、口元が緩んでいることに気付いた。やっぱりにやついてたか、俺は。

 今日一日だけで多くの収穫があった。

 死霊を生み出し操っている犯人、その能力。他にも細々と色々。

 なにより、あの鬼の子。

 嘘や演技がへたくそで、自分よりも他人を優先する優しい子だっていうのが、よくわかった。

 どうも、本音を言わない時にあの子はいつも表面上に現れている感情が消えるらしい。瞳に乗るそれも、表情に出るそれもだ。

 全て消えた、真顔の鬼の子の口から出た言葉は、少しも俺に発言を信じさせるだけの力を持っていなかった。


『だから、傷を治して、万全の状態になったら。そしたら、あの人からわたしを助けてください』


 この両腕、全身の傷。

 普通に治療して、完全に治すとなれば何ヵ月かかると思っているのか。その間に自分が用済みで殺されることだってありえるかもしれないのに、助かりたい割には随分と悠長なことだ。


『それまでは、絶対に来ないでください』


 そうじゃないだろ。本当に自分のことだけ考えて助かりたいと思ってるなら、その言葉はおかしいだろ。むしろ、『すぐ来てください』くらいじゃないとおかしい。

 挙句、これだ。


『んじゃ、約束な。傷を治して、あの野郎をぶっ飛ばして、助けに行くよ』

『約束は…いいです』


 傷が完治するまでは関わるなと俺に約束させようとしておいて、俺が助ける約束をしようとしたらしなくていいとか言う。

 どうすりゃいいんだ。思わず吹き出してしまいそうになった。

 おそらく、あの子はもうこの一件に俺を関わらせないつもりだ。

 人に虐げられてきながら、人の身を案じる人外。たった一人で、何も頼れるものがなくて、泣きたいくらい辛いはずなのに、それでもあの子は助けを求める言葉を一つたりとも発さずに逃げてほしいと言った。

 やっぱり同じだ、と思う。

 人間も、人外も、見た目がどれだけ違っても、中身は同じだ。

 もし人外が、言葉も意思も通じない獣のような存在しかいなかったのなら、きっと俺もこんな考えを持つこともなかっただろう。

 もし俺がかつて言葉を意思を通じて仲良くなったあの人外の少女との思い出がなかったら、こんな身を削ってまで人外と関わろうとは思わなかっただろう。

 だけど、結局それは仮定の話だ。たらればと同じこと。

 事実として人外には人間と同じように心があり感情がある。

 事実として俺はかつて人外の少女と仲良くなり、そして誓った。

 そこに『もしも』なんて言葉が介在する余地はない。

(助けるよ、必ず助ける。約束したもんな、お前と。なあ)

 俺は約束事は絶対に守るように心掛けている。たとえ相手が了承していなくても、俺は俺自身にも同じように約束してるんだ。だから守る。

 痛みと失血でふらつく頭を振るい、一直線に俺は走った。

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