ムンク「浜辺の少女」は吸血鬼だよ

麻屋与志夫

第一部 第一章 浜辺の少女


 駅まで、歩いてしまった。


 デスペレートな気分に陥りふらふらと歩きつづけた。

 ガックリと落ち込んでいたので、どれほどの時間が過ぎ、どれほどの距離を歩いてきたのかわからない。街の風景など目に入らなかった。

 

 こんな時、慰めてくれる恋人でもいたら、とぼくは――漠然と恋人なしのじぶんを憐れんでいた。別にブ男ではない。自負はある。剣道で鍛え抜いた百八十センチの体格は見劣りしないはずだ。


 それなのに、美術部で油絵を描いているという、スピリチャルな面と剣士としてのイメージのアンバランスが、女の子の警戒心を呼びおこしてしまうのかもしれない。


「皐くんは、なに考えているのかわからない」

 

 ようやくデートまでこぎつけた女の子にもそういわれてしまう。


 ようするに、おもしろくない男なのだろう。いまも、東日本大学合同美術展の校内予選に、もれただけで茫然自失、ふらふらと街をさまよいながら、駅まできてしまった。


 美術展にはいつも落選。好きになった子には失恋をくりかえし、冴えない男のぼくは、ボウットいつものプラットホームに立っていた。


「ついてきてはダメ」


 ぼくははあたりを見回した。


 耳の奥に直に声がひびいてきた声。どこから、聞こえてきたのだろう。落ち込んでいるぼくを励ますような凛とした声だった。でも、悲しいことには、キョゼツの言葉だ。


 16時17分発の列車はまだ到着していない。通学列車だ。時間まぎわになれば、高校生でラッシュとなる。いまのところは人影もまばらだ。


「ついてこないで」


 若い女性の声はさらにつづいた。


 潮騒が、その澄んだ声の回りで、BGのように聞こえている。たしかに、海辺の波の音だ。波の音などするはずがない。ここは海のない栃木県は宇都宮のJR駅。日光線のプラットホームだ。


 世界文化遺産の日光までいくローカル線だ。外人の観光客がちらほら見える。この声は少女だ。ホームに少女の姿は……。


 レコーダーで潮騒のアルファ・サウンドでもきいているのだろうか。海岸にひいてはよせる、時の流れのなかで太古よりくりかえされてきた、白い波頭の砕ける音がしていた。


 ぼくは海辺に立っているような錯覚に陥った。


 鈴をころがすようなハイトーンの声の主を求めて、ぼくの視線がホームを探索していくと……いた。それらしい少女のシルエットがホームのはずれに。


 遥か彼方の後ろ姿だけの少女。「日光」の方角を見ている。

 潮風でもうけているようにワンピースのすそがゆれている。

 あそこだけ潮風が吹いているのだ。あまりにも、アンリアルな思念だった。でもそのおもいを素直に受け入れてしまっている。少女には、そう信じさせる風情がある。


 あれは――ムンクの〈浜辺の少女〉の後ろ姿だ。


 若者をうっとりとさせる清々しい後姿だ。

 長いワンピースの裾が風に揺れている。

 でも……とても声がとどく距離ではない。長い金色の髪。遠く沖合を見つめている姿。ふりかえって、こちらをみてもらいたい。――若者を虜にする、まだ顔をみていない、美少女の神秘的な立ち姿。


「ついて……こないで」


 こころに直接ひびいてくる。声だ。

 白いワンピースなのに青味をおびた色。長いこと着ているので布地が薄青く色変わりしている。そう感知するのは、ぼくが野州大学の油絵専攻の学生だからだ。

 剣道で鍛え上げた体からは、ぼくが画家志望であることを想像できるものはいない。


 ぼくの繊細な感覚を知るものはいない。 

 あれは……浜辺の少女だ。毎日のように美術部の部室で観ているムンクの傑作。もちろん、複製画だが、ぼくは好きだ。


 スレンダーなウエスト。いまどき、あまり見かけない長めのワンピース。薄茶色の革のベルト。色褪せていた。すべてが古風だった。


 

 だがなんと清楚な姿なのだ。正面から浜辺の少女の顔を見たい。


 顔だけがわからない。体からは清冽な雰囲気がにじみでている。ギュッとこの胸にだきしめたい。少女の顔が見たい。その思いだけでつけてきた。

 ストーカーまがいの行動だ。いや、ストーカーそのものだ。


 彼女が降りたのは、なんと鹿沼駅。

 宇都宮をでて鶴田、その次の駅だ。わずか14分。

 

 宇都宮の郊外といってもよい。だから、ときおり両市の合併問題が持ち上がる。

 鹿沼と宇都宮の間にLRT(次世代路面電車)を走らせる計画もある。鹿沼はぼくの住む街だ。その偶然に……後姿しか見ていない少女への想いは、さらに強いものとなった。


 少女には影がなかった。


 背中までとどく金髪が風にゆらいでいる。夕焼けに向って歩いている。長い影が歩道に映るはずだ――。

 それなのに、少女には影がない。影がない。どういうことなのだ。影がない。彼女は存在しないのか。悪寒に襲われた。画家志望ではあるが、祖父に子どものころから剣道を厳しくしこまれている。


 皐家は、古流剣法〈死可沼流〉を受け継ぐ家柄だ。剣士の誇りに冷気が走る。間合いに入っている。この距離であれば、ぼくは彼女の影を踏むはずである。いつでも打ち込める。


 彼女に息がかかるほど接近している。長い髪が夕風をうけている。風になびいている。ゆらぐ髪の向こうに茜色の空が見えている。

 朱の太陽が山の端にかかっている。


 それなのに、ない。影がないのだ。


 なぜだ。なぜなのだ。西日を真向いからうけている彼女の影は、ぼくのの足元に達しているはずだ。


 それなのに、影が歩道に映っていない。彼女を追い越した。ふりかえった。少女がいない。少女の気配が消えた。背筋を悪寒が走った。この瞬間では、完全にぼくの負けだ。真剣だったら斬り倒されている。


 少女が消えてしまった。


 そんなことは、現実にはありうべきことではなかった。


 現実には、起きるはずがない。恐怖のあまり叫びだしたかった。このぼくが恐れている。この場から、走りだしたい。逃げだしたい。

 

 ぼくは恐れている。おののいている。


3 


 ……ふふふ、とぼくの耳たぶに熱い息がかかる。

 チクンと首筋に痛みを感じた。針で軽くつつかれたような痛みだ。

 ちょっと唇が触れただけらしい。

 それでもぼくは電流が流れたようなショックを受けた。


「ついてきたのね。ワルイコ」


 澄んだハイトーンの声。少女はぼくの背にはりつくように立っていた。


「わたしは少女ではないのよ」


 だが……、顔はいかなる画家の天才をしても絵がきえぬ美しさだった。しいて、西洋絵画のなかにそのカテゴリーを探すならば。フェメールの〈青いターバンの少女〉に似ていた。心にしみこんでくる。なつかしい、けがれをしらぬ……。おののくような清純な美しさだった。


 それなのに、少女ではないという。

 からかわれているのだ。いつのまにか髪は黒く。肌も色白の日本人のものにかわっていた。


「あなたは……」


 大きな黒い瞳でみつめられてブルット身震いした。

 ああ……こんなにきれいな瞳をしている少女がいる。

 きみは……と少女に呼びかけることがはばかられた。

 確かに、とても少女とは思えない。大人っぽく感じられる美少女だ。


 黒い瞳がぼくの影を映していた。じっと恥ずかしいほど見つめられた。


 少女を抱きしめたかった。この腕に少女をぐっと抱きしめたい。

 鼓動が高まり、少女に聞かれるのではないかと恥ずかしかった。


 ぼくはさきほどまでの、デスペレートな気分、暗い思いからすっかりぬけだしていた。それどころか、胸がわくわくしていた。


 彼女に夢中になっていた。

 


 世界はこのとき反転した。

 

 とても、現実には起こるはずのないことを体験している。素直にそれを受けいれていた。起こるはずのないことが。起こっているのだ。

 ぼくはこのとき恋をした。つきあいたい、そしていつまでも一緒にいたい。そばを離れずにいたい。ついに、めぐりあった。ぼくの運命の女性だ。そう想う少女とめぐりあった。


 これからは……。いつもこの少女のそばにいたい。……毎日、ずっと、永遠に彼女と暮らしたい。彼女の顔を見ていたい。彼女を身近に感じていたい。

――この時はまだ、彼女にとって〈永遠〉ということが、どういうことか、わからなかった。これからは二人で〈時〉の流れを渡っていく、とこころに決めていた。


「この街もずいぶんかわったこと……。あんなところにホテルなんか建てたりして」

 少女は視線を川向こうに向けた。ぼくはまだ少女に熱い視線を向けている。停車場坂の麓。府中橋を渡る。白亜の壁面に残照をあびて朱にそまった建物がある。


 白鷺が茜色の空に舞っている。純白の羽が茜色の淡い光のなかで羽ばたいている。黄昏の光のなかを飛翔していた白鷺の数羽がホテルの屋上に止まった。

 なにも観光資源のない貧しい街だ。白鷺は市民に歓迎されている。この黒川の上流、見野地区には白鳥も飛来している。マスコミの話題になってくれることを市民は望んでいる。


「白鷺がくるようになったのね。静かな街ですものね」


 河畔に在るのでリバサイドホテル。


「だれかに見られている……何が起きても、ついてくる勇気はある?」

 ぼくもチクチクするような視線を感じた。距離はある。どこか遠くからそそがれている悪意に満ちた、刺すような視線だ。額に突きがくる。面を打たれるような気だ。こげくさい。危険だ。


 無言で少女の後を追った。たしかに二人を注視しているものがいる。

 ホテルの最上階にあるレストラン『ソラリス』の卓に二人でついた。


「カプチーノ」

「ぼくもおなじもの」

 ウエトレスが去っていく。レストランの壁に、ポスターがはられていた。〈デスロック『サタン』凱旋公演〉ヴォーカルの福沢秀人の出身が鹿沼なのだ。そして彼とぼくは北小学校から西中学までの九年間一緒だった。

 

 親友といっもいい。

 ちょっとの間でも、会えることを望んでいた。

 でも、秀人から連絡のメールは入っていない。超いそがしいのだろう。

 

 震災地東北ツァーの前夜祭を、一夜限りの公演として黒川の河川敷でやるのだ。ツァーのついでに、鹿沼にも寄るというのが、ほんとうのところなのだろう。そういえば、歩道のパイプ製のガードレールにも〈歓迎サタン〉の幟が立ち並んでいた。

 

 ぼくはポスターを眺めていた。


 少女を正面から見るのが照れくさかった。秀人のデスロックに思いをはせていると、少女が話しかけてきた。

 二人で向かい合って席についたのに、なにを話したらいいのか、戸惑っていた。胸の鼓動がはやい。ときめいている。


「さあ、この街のことをきかせて」

 こころにひびいてくるきれいな声だ。天使の歌声を聴いているようだ。

「ひさしぶりなのよ……」


 少女は、なつかしそうにピクチャウインドウから眼下の川を見下ろしていた。

 澄んだ流れ。清流といってよかった。街の中央を川底までみえるような澄んだ川が流れている。ゆったりと蛇行しながら鹿沼の街を流れる川。

 白鷺や小鳥が水面をとびかっている。河川敷は広々とした公園になっている。いろいろな遊具がある。子どもたちが、ブランコやすべり台で遊んでいる。離れているので声は聞こえない。


 コスモスの咲きかけているロータリーの周囲を散歩しているひとたちがいる。去り行く夏の平和な夕暮れ時。


「黒川。黒い川。たしか……そんな名前の川だったわね。わたしの名前は、過ぎいく夏をなつかしみ、夏子。黒川夏子。平凡な名前かもしれないけど、どう……お気にめした」


 彼女はひとのこころをよめる。

 予知能力でもあるかのように。

 こちらのこころをよんでしまう。

 スペックホルダーなのか? 

 未来がみえるのか。


「ひさしぶりなんて。あなたはまだ少女だ。ぼくをからかっているのですか」

「わたしは少女ではないの。わたしは――吸血鬼なのよ。そして、あなたが思っているよりも、はるかに年上よ。わかる……?」

「――わかります」


 思わず応えてしまった。ぼくはすこし声が高くなっていた。


「隼人さん。わかって、もらえてうれしいわ」

「ぼくの名前をどうして」

 夏子がぼくの耳に唇をよせてささやく。

「わたしは…………バンパイア。100と数年ぶりで故郷の鹿沼の土が恋しくてもどってきたのよ。わたしは時の旅人。時空を超えたもの。……隼人、ムンクのような絵描きになりたい? してあげられるわよ。隼人がつけてきたときから、リンシードオイルの匂いがしていたわ。あなたが絵を描いていることはわかっていた。わたしには皐隼人。あなたを日本のムンクにできるのよ。だって……わたしは隼人が思ったように〈浜辺の少女〉。そしてムンクの銅版画。〈吸血鬼〉のモデルですもの」


 ぼくはムンクの描いた〈女の髪に埋まる男の顔〉を思い起こした。

 男のあの恐怖。あれはほんものだった。

 ほんものの吸血鬼に会った恐怖の顔だったのだ。

 少女であって、そして吸血鬼。

「叫び」のあの頬を両手で押さえている顔。

 赤い空を背景にゆがんでいる顔。

 吸血鬼を見てしまった男の恐怖の顔。

 吸血鬼を愛してしまった。体験からくる恐怖だった。美しい恋人は、この世のものでない。吸血鬼。女であって、吸血鬼。秘密を知ってしまった恐怖。


 長く横にのびてきた髪に埋まり恍惚として恐怖する。

 あの死への招待にふるえる顔。

 吸血鬼の髪にからめとられたおののきとよろこび。男の心象が隼人の心にひびいてきた。

 あれはまさに、吸血鬼に恋した男の顔だった。

 そして……なんとしたことか。

 ぼくもまた夏子に恋をした。好きだ。ずっとまえから好きだった。ずっとまえから、つきあっていたような気がする。

 男をとらえた金髪が……いま……たゆたゆとのびてぼくに迫る。

 髪の色は……黒髪にかわっていた。

 美しい。

 夏子さん。あなたは美しすぎる。

 金縛りにあったように身動きできない。

 風景がゆらぐ。

 卓と椅子、コーヒーカップ、あらゆるものから現実感がうすらいでいく。

 

5


 夏子は、とほうもない歳月を生きている。少女の顔のおくにはどんな顔がひそんでいるのだろうか。ムンクの「女の髪に埋まる男の顔」の目でぼくは彼女をみつめた。


「こわがらないで。あなたの血を飲み干すようなことはしないから。わたしは血を吸うことのできない吸血鬼なの。わたしは、美に賭ける若者の精気を吸って生きていける、変わり種なの。マインド・バンパイアなの」


 夏子がほほ笑む。不死の少女のさびしそうな笑みだった。


「もっと街をよくみてみたいわ」

 街のたたずまいを見晴らしたい。全景がみたい。というのが夏子の希望だった。屋上にでることにした。エレベーターの前で肩をならべる。 

 夏子の髪からバラの香りがただよってくる。

 夏子の髪に顔を埋めてもっと匂いをかぎたい。

 夏子の肩に手をかけたい。

 ひきよせたい。

 キスしたい。

 乳房に触れたい。

 健康な若者の慾望がわきあがる。

 夏子をだきしめたい。


 階下から上がってきたboxにはふたりの男がのっていた。

 夏子をみて男たちが両脇にのいた。

 原色の派手なアロハとポロシャツの男たち。

 ポロシャツはユニクロ製ではない。

 こしゃくにもブルックス・ブラザーズ。

 それも金の羊の刺繍が胸にある古いタイプのものだ。

 ふたりは陰惨な体臭をただよわせている。

 ふいにポロシャツ男が夏子の腕をしめあげる。

 ほほに傷がある。爬虫類をかんじさせる青黒い肌。

 にたにた笑っている。


 停車場坂で感じた視線はこいつらのものだった。

 狙われていた。アロハ男は夏子とぼくのあいだに割ってはいる。

「田村。このねえちゃんに、つきあってもらおうか」

「屋上でかわいがってやろうぜ。鬼島」

 夏子の腕をとらえたポロシャツ男が鬼島。アロハが田村。

 ぼくをまったく無視したことばのやりとり。

 いままでのぼくと夏子の会話。コーヒーを飲みながら二人が交わした会話。

 異界について交わされた会話。とは、なんというちがいか。あまりにも、ゲスな言葉だ。

 ぼくは体も精神も剣道で鍛え上げていた。

 だからこそ、だれにも脅かされたことはなかった。

 だが、修羅場をくぐったことはない。

 体がふるえた。

 それでも鬼島の腕に組みついた。

 剣士としての誇りからだ。

 夏子を守ろうとする健気な勇気からだ。


「夏子さん。逃げて」


 ドアが開いた。どっと屋上にでる。


「バカが」


 鬼島の手が隼人の首をないだ。よけた。つぎの瞬間ぼくは鬼島の流れる腕を逆にとる。

 鬼島を投げ飛ばした。

 しかし、鬼島は両足で着地をきめる。ニャッと笑う。ナイフをとりだす。


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