3 ラジオやろうぜ



 五月下旬 金曜 十七時二十二分


 言わずと知れた日本一暑い街、雑ヶ谷。

 日本の地理には余り詳しくないなあと言う方の為に説明しておくと、大体ロシアとアメリカとオーストラリアと中国の間にあると思って頂ければ間違いない。

 場所は、その雑ヶ谷の駅から徒歩数十分の距離にある雑ヶ谷高校の一年三組。時節は五月の終り、放課後と呼ばれる時間帯のことだった。


「……誰も、いない……?」


 いわゆる日直の一週間バージョンである《週番》の仕事として教室のゴミ袋を保管庫に運び、ついでに《学級誌》を数学準備室の担任に届けて来た雑ヶ谷高校一年長江恭平が教室の扉を開けると、そこには誰もいなかった。


「……えっと……」


 普段なら机でだべっている女子達も、それに群がる男子共も、それから当然『長江君、これもやっといて』と仕事を押し付けて来たあの女子も、雑ヶ谷の蒸し暑さに追いやられどこかへ行ってしまったのかもしれない。


「……ええっと……」


 空っぽだけが転がるガランとした教室の中、ぽりぽりと頭を掻く音が耳に響いて。


 ――さあ笛舐めだ! 大事な大事な笛舐めチャンス! とっても可愛い御園さんのアルトリコーダーを軽くペロペロしたり、接唇する部分を己のそれと交換したりする絶好のチャンス! もしくは御園さんの机や椅子に生尻を押し付ける事すら可能だぜ! と胸の中のオーケストラが騒ぎ立てる。


「……いやいやいや、ないないない……」


 サン、ハイ!とこちらに向かってタクトを振るうオーケストラの指揮者に苦笑いを殺しながら、恭平はゆっくりと自席に歩み寄った。すると、強烈なティンパニーがドンタンドンタンと鳴り響いて。


 おいおいおい! 何をやってんだよ馬鹿野郎! 放課後! 誰もいない教室! 何年ラジオ聞いてんだ! ここで何もしなかったらリスナー失格! むしろその様子を録音しろ! そんなんだから一つもネタを採用されないんだよてめえはよっ!


 そうは言っても、だ。


 確かに長江恭平が中学時分から愛聴してきたタイプのラジオ番組において、その手のネタは多くある。少年時代の抑えきれないリビドーとの葛藤、そして訪れる悲しい落ちとそこから繋がる地獄の学校生活。布団の中で芋虫みたいに笑った数々の秀逸な自虐ネタ。

 あるいはそういう衝動的童貞行為を録音した投稿戦士達。

 目の前に、その仲間入りをするチャンスが訪れたのだ。

 いや。でも、しかし。ほら、笛とかないじゃん? 教室に。美術選択だし。ていうか、あったとしてもだよ。


「……ネタはネタだし」


 口の中で呟き、机に引っかけてあった鞄を掴む。だって長江恭平は常識人だから。


 おぉっとぉ!? とか言いながら、鞄を掴んで!? 全裸ですかっ? 全裸で!? 校庭に向かって、くねくねのものまねと洒落込んじゃいます……っ?


「あっ!」


 心の声を遮って、地声が出ていた。なにせ横隔膜の震えを押さえきれないくらいの衝撃が、長江恭平の脳みそをシェイクしたもんだから。


「…………え?」


 目の前に存在する有り得ない光景に視界を瞼で遮断する。何度も。意識的に。高速で瞬きを繰り返す。

 その間も、視線はそこに釘付けのまま。

 御園みその志桜梨しおりさんの机の上にポンと置かれている、スマホケースを見つめたまま。


「……ふぅ……」


 天井を仰ぎ、息を吐き出す。


 例えば、目の前にきっと家ではピアノを弾いているに違いない御園さんの細くて綺麗な白い指が這い回っているスマートホンがあるとする。例えば、そこに己の手の平を乗せるとする。すると、御園さんの指、スマートホン、己の手の平が時間軸を置いて直列に繋がるわけだ。

 そして明日、あるいは早ければ数十分後、忘れ物を取り戻した彼女は掌の上で再びスマートホンを弄るだろう。

 それは最早御園さんがこの掌をこちょこちょしているのと同じではないだろうか。成程、同じだ。同じである。いわんやもしも、それが己の『手の平』で無い場合――


「――大事件だ」


 身体中から汗が噴き出す。鼓動が早まる。気づけば呼吸を忘れていた。

 次の瞬きが終わると、すでに彼の身体は御園さんの机の脇にあった。視線を素早く教室の入り口、窓の外へと振る。誰もいない事を確認してもなお、慎重に事を進めなければならない。

 鞄を肩にかけ直す。

 その際、あくまで偶然、偶然にも恭平の鞄が御園さんの机の上ギリギリを通過する形となり、ぽこんと何かをかすめたりした。


「……おや?」


 もしかして何かに当たったかな? あれあれどうしてこんなとこにスマホが置いてあるんだろう? 忘れ物かな? ああ、忘れ物か。誰のかな?


 じっと廊下を見つめる。誰も来ない廊下を。


「……盗まれたら、大変だ」


 口からこぼれた天才的な言い訳に、脳味噌が震えた。


「届けた方が、きっといい」


 頷く。完璧だ。余りに出来過ぎた偶然――僥倖。


 教室の中に落ちていた所有者不明の落とし物を、週番である長江恭平が、担任の元に届けるのだ。ただそれだけ。途中、ちょっとだけトイレに寄る可能性はあるが、それはもう生理現象だから仕方が無い。

 頭に浮かんだのは『完全犯罪しんせつ』の四文字。『この落とし物をきっかけにして仲良くなる』などという真っ当なラブコメストーリーが一ミリたりとも浮かばなかった辺りは、さすが深夜ラジオ愛好家と言ってもいいだろう。

 正々堂々と当たって砕けるよりも、性か死かのチャンスに賭けるのだ。


「……と、いうわけで――」


 振り向く。一度決断したのなら行動は素早くあるべきだ。兵は神速を貴ぶとか言うし。

 長江恭平は、生まれて初めて勝利に向かって右手を伸ばした――――が。


「……ぇ?」


 それを目にした瞬間、彼の身体は硬直し、桃紫に染まっていた思考は完全に停止した。


「…………これ……?」


 誰もいない放課後、梅雨直前の重たい夕焼けが差し込む机の上。そこで偶然にも開いてしまったスマホケースの内側に――


「――ちく……び?」


 そう、紛れもなく乳首。スマホケースの内側から、ふくよかな男性のおっぱいからこぼれるつぶらな乳首がじっとこちらを見つめているのだ。


「? ……馬鹿……ステッ、カー……?」


 そう、その乳首の正体とは天才ネタ職人達がしのぎを削る『いたずら馬鹿騒ぎ』のコーナー内でネタを読まれたモノだけが手に入れられると言う、パーソナリティーの上裸に墨で書かれた似顔絵入りの小さなステッカー。恭平の様な末端投稿者にとっては、誰かがツイッターに上げた写真でしか拝んだ事の無い宮廷直属ピエロの証明書。


 それも、一枚二枚じゃない。ブレーメンの音楽隊の様に折り重なったたくさんの乳首が、にっこりとこちらを見つめているのだ。 


「嘘……だろ……?」


『学園のマドンナ』こと御園志桜梨とは、勿論お嬢様である。地域でも金持ちが住むとされている雑楽坂奥の一角に自宅があり、その家に掛かっている表札がずばり『御園ビル』と言う様な、そういう女子だ。


 中一の時から垢抜けていてそれでいてふんわりとした雰囲気で、若干丸顔なのを気にはしているものの人並み以上に小顔であり、地味目で大人しいのに意外と天真爛漫で気立てが良く、そして何よりとっても上品なのだ。彼女を取り巻く友人もみな花の様に美しく、その中で笑う時は丸めた拳で八重歯を隠してころころ笑うし、髪は当然艶のある黒のロングストレート、スカート丈も短すぎず、吐く息は椿にして、扱う言葉は官能的なオルゴールの様。


 それが、そんな彼女が、過度な下ネタや悪意ある芸能人いじり等の世の中イケてない組の被害妄想症候群が頻発する深夜ラジオなどを聞いているわけがない。ましてやそこにネタを送って読まれているなど、そんなワケがないのだ。


 右手に乗せたスマホを、そこに貼られたステッカーをまじまじと見る。


 でも、このステッカーは当然非売品だし。何かのきっかけで手に入れたとしても、とても女子高生がスマホケースに貼りつけるような代物じゃ無い。

パーソナリティ曰く、『リスナー以外にはなんの価値も無いゴミそのものを作った』のだから。


 じゃあ――やっぱり?


 恭平の脳裏をいくつもの有名ハガキ職人さんの名前が廻っては消えていく。《明日七時に起こして》さん、《ぬけるそら》さん、《インフィニット男爵》さん、《電撃引退》さんエトセトラエトセトラ――これだけのステッカーを獲得しているだろう超有名職人達のラジオネームが。

 だが、しかし。まさか。


「……御園さんが?」


 あの中に?


 ――と、その時。


 ガラリ。


「……あ――」

「……え」


 夕闇の中、電撃的に振り向いた男子と扉を開けた女子との目が合う。


 開けた扉から風が吹き抜け、窓辺のカーテンが二人の運命にはらりと揺れる間に、彼女の下膨らみの半月目がゆっくりと恭平の掌の上に吸い寄せられ――。


「うわああああああああああああっ!」


 という小柄なおかっぱ頭の絶叫と強烈なタックルに吹き飛ばされた恭平は、


「……誰っ?」


 という突込みを今際の際に呟いて、机の海にダイブしたのであった。


 ――そして。


「……ちょっ! ちょっと待ったああああああっ!」


 二秒で正気に戻ると同時、恭平の手から空中に浮かんだスマホをバシッと掴んでターン&ダッシュで教室から逃げ出したおかっぱ少女を、机の波から飛び起きた長江恭平が追いかける。


「まっ……ちょっ!」


 慌てて廊下を見れば、すでに彼女の小さな背中は昇降口へ繋がる廊下に突っ込んで行く所。決して運動が出来る感じでは無いドタバタとした走り方だが、必死に逃げる彼女はそれなりのスピードで。


「待てってば!」


 放課後、誰もいない教室から両手で胸元を押さえて飛び出してきた真っ赤な顔の女子と、それをしつこく追いかける男子。言葉だけなら色々と勘違いしそうなシチュエーション。そんな通報されてもおかしくは無い形相で走ってもなお、十センチほど背の低い女子に追いつけない程度の全力疾走をかましながら、恭平は脳味噌フル回転で思い出す。


 ……で、誰だっけ、あの子。


 見覚えはある――気がする。脳内シアターが映し出した《ドキュメントオブ御園志桜梨》、珍しく『あっはひぃっ』と大笑いしながら廊下を歩くある日の彼女の肩の下辺りにちょこちょこと見切れていたおかっぱ頭。その形が、目の前を走っていくキノコ型と一致する。


 ……名前、名前。


 だめだ。思い出せない。いや駄目じゃ無い。思い出せ。このままじゃ自分はクラスの女子のスマホを盗み見ようとした変態の汚名を着させられてしまう。

 思い出せ。あの子の特徴。おかっぱ。それから目の下の薄い隈。闇を感じる目付き。思い出せ、あの子は誰に何と呼ばれていた? その時どこで何をしていた? ああそうだ。あの子はさっき携帯電話を――


「ま、待て! 泥棒! 俺のスマホを――!」

「嘘を吐けッ! これは私んじゃ、この変態がッ!」


 怒られた。クラスの女子に変態の汚名を着せられた。でも問題は無い。背後に叫んだ分、二人の距離は縮まったから。


 ――で、あいつは誰だ。

 思い出す。あの子の特徴、知っている事。

 階段を五段ジャンプで飛び降りた瞬間、頭に閃光が走る。

 どうして忘れてた。あの子はステッカーの持ち主だ。つまり、有名な。

 そう。あの子は――。

 校舎の外へと逃げ出した少女の背に、長江恭平は叫んだ。


「か、かんざしさん! 待ってください! 《かんざし一筋三十年》さん!」

 どうして、その名が出たのかは分からない。無理矢理理由をつけるなら、数居る有名職人の中で同年代の女子かも知れないと頭のどこかが思っていたからかもしれないが。

 その瞬間、半裸男の写真を抱いて逃げていた女子はビタッとその場に足を止め。


「……な、ななな……なん、だと?」


 ぎぎぎっとブリキの玩具の様に振り向いた彼女は。


「おっ、おまっ! さては見たな! ひ、人のスマホの中身を見たんだな! 彼氏かっ! お前が私の王子様かああぁぁっ!?」


 などと意味不明の叫びを上げるや否や、彼女を追いかけようとした恭平に向かって、踵から身体を捻って突っ込んでくると。


「返せっ! 私の純潔を! 勝手に、無理矢理っ! 秘密を握ってっ! 卑怯だぞっ!」

「……っ!? ほ、本物っ!」


 目を白黒させたままわーわーと顔面を指差し糾弾してくる少女の手を、興奮の絶頂にあった恭平はグワシっと両手で握りしめ、今週散々笑わせてもらった彼女のネタを口にする。


「お金ならお支払いしますからっ! お金ならお支払いしますからっ!」

「ひぃっ! い、いらないっ! いらないからっ! やめっ……離せ! 離して! 離さんかいこらぁっ!」


 スパーンと鋭い音が鼻の頭で弾けたある日の放課後。長江恭平の青春の一ページ目が開いた瞬間であった。


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