スリーピング・マジェスティ

斉藤希有介

第一部 眠れる俺と、四つの鍵

第一章 眠れる塔の上の王さま

目覚め

 その日──、サングリアル王国に90年に渡って鳴り響いていた『いびき』が止まった。騎士の国として名高い島国の、すっきりと暑い初夏のことである。


 透き通った日の差す王城の庭を、ひとりの少女が駆けていた。

 自分の背よりも高いひまわりをかついだ少女は、まだとおにもなってはいないだろう。その身を包む絹のドレスは、彼女が高い身分であることを容易に想像させる。肩まで伸ばした直毛は、夏の日差しを受けて深い銅色を思わせる光沢をまとっていた。


 少女は足を止め、王城の奥にある塔を見上げた。


「なんだろ? あの『いびき』がとまるなんて」


 静かな朝には城の外まで聞こえるその大いびきは、王都の名物にもなっていたのだが……、今朝はどうやら様子が違う。


「いってみよかな? ……んーっ、でも、水やりさまに、お花をとどけなきゃいけないし」


 サングリアルの国教たる聖輪教せいりんきょう──その司祭は、心の花に水をやる『水やり』と呼ばれ親しまれている。少女は月初めの礼拝のため、季節の花をつんで、王城内の教会へと向かうところであった。


 振り仰ぐと、大きく膨らんだ汗がひとつ、額から首筋を流れる。乾いた土の匂いが心地よく鼻をつき、庭の草花がそよ風に揺れた。葉のひとつひとつに陽が当たり、ほんのりと光を帯びている。それは城の壁に飾られた絢爛豪華なタピスリよりも、よほど美しく少女の目に映るのだった。


「でも、あのきれいな王さまと、お話ができるかもしれない!」


 そう言うや、少女は駆け出した。

 こんなお天気のいい日に、いつまでも寝ぼすけなのは損だ。

 だから、きっと──、王は目を覚ましたのに違いない。教会の入り口に山盛りのひまわりを置いて、少女は王の眠る塔へと走っていく。


       †   †   †


 血。


 いや、肉だ。

 己の手にこびりついていたのは、千切れ、どこからか飛来した騎士の肉。


 動く者のいなくなった戦場で辺りを見回すと、ひとり、水音の混じった荒い息を繰り返す騎士がいる。後から後から湧き出る涙もぬぐいもせず、まだ十代であろう少年騎士はくぐもった声で母を呼んだ。


 少年の呼吸も次第に止まり、彼もまた、ただの肉となる。

 それは、戦場の記憶だった。


(いや、これは夢だ)


 サングリアル国王ヴラマンクは自分が覚醒へと向かっていることを唐突に自覚する。

 とたん、迫真の臨場感をもって聞こえていた剣戟は潮騒の歩調で消えてゆき、累々と築かれた幾千もの屍の山は、太陽に吹き散らされる朝もやのように薄まっていった。


「ん、んぅ……」


 思わず、吐息が漏れる。

 まだ眠っていたいが、そうもゆくまい。数百年に及び続く隣国との戦も今はひとまず休戦状態だが、彼らが停戦条約など守ってくれるとは思えない。まず、何よりも痛んだ国土の回復。しかるのちに、速やかに強靭なる軍隊を編成し、隣国の脅威に備えなければならない。


「よし!」


 両腕に力を込め、体を起こした。だが、思っていたよりだいぶ楽に体が動く。寝る前はふしぶしが痛み、体を起こすのにもひと苦労していたものだが。


 と、ふと、かすかな違和感を覚える。


「ここは……?」


 視界を覆う天蓋の帳が、いつもの赤い天鵝絨ヴェロアではなく、見慣れぬ生成りのそれになっていた。


(寝ている間に攫われて捕虜にでもなったか? なら、ここは敵国の屋敷か)


 しかし、白布を通して漏れ入る穏やかな日差し、朝の匂いは、ヴラマンクの慣れ親しんだサングリアルの初夏のように思える。ヴラマンクはますます混乱し、立ち上がった。


「なんだ、この手? それに、声も」


 天蓋を開けようとし、手を止める。自分の手が自分のものと思えない。女の手のように白く柔らかな肌は、光をよく通し、ほんのり色づいて見える。

 さらには、そう呟いた声が、軽やかに高い。


 不意に恐ろしくなって、乱暴に帳を引いた。

 果たして――、そこはサングリアルの王城、その最奥にある主塔の最上階。ヴラマンクが寝室として使っていた部屋であった。


「どういうことだ? この調度、まるで見覚えが……。いや、それにこの体。一体、どうなっていやがる」


 石造りの部屋には冷気をさえぎるタピスリがかかっている。だが、その模様をヴラマンクは見たこともない。大陸から取り寄せたお気に入りのアカジュー製の家具ひと揃えも、夜長の読書の友であった三つ又の燭台もなくなっている。


 ふと、視界の隅に、何かが光ったような気がした。


「ま、まさか」


 木窓から入る日差しを受けて白く光るそれは、壁に立てかけられた巨大な盆のようにも見える。植物の蔓のような彫刻を施された縁はおそらく真鍮であろう。静かな湖面のように輝くそれは鏡だ。


 近づくにつれ、足元から徐々に全身が映し出される。

 やがて、正面に立ったヴラマンクは「フゥ──ッ」と一息つき、それから絶叫した。


「……なんじゃあ、こりゃぁぁぁ~~~~~?!」


 そこに映っていたのは豊かな深みのある金の髪をした青年だった。


 目を縁取るまつ毛は恐ろしく長い。

 白い肌は海岸の白砂の色をしているが、ほほには人らしい赤みがさしている。


 白い裸身の上に、これまた白い絹の長シャツを着ていた。ひざまであるシャツは、うっすら白糸で刺繍が施されている念の入れようである。


 がっしりした体格はまだ十代の後半だろうに、歴戦の勇士の貫録を思わせた。

 白皙はくせきの美貌、という言葉がよく似合う、精悍な美男子だ。


 吟遊楽士ぎんゆうがくしがこぞって紅玉こうぎょくとたたえた深紅の瞳は、今は驚愕に見開かれている。確かに、ヴラマンク本人である。

 ただ、ひとつ大きな問題があった。──なにせ、ヴラマンクは90歳を優に超えた年齢のはずだったのだから。

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