第4話〔2〕手折られた花

 

 

 

 

 

 ヒースブルグは寒冷な土地柄であったので、真夏となっても日差しがそれほど強くない。

 

特に厚着をしていなければ、汗ばむほどの暑さではないし、至極快適な気候であった。

 

 翌日、ニアは城主の言い付け通り、モモとルナを連れて街へ出かけることにした。

 

城仕えといえども月に一・二度、こういった形で休日をいただくこともある。

 

事のついでではあったのだが、今回はこの3人にその順番が回ってきたというわけだ。

 

 朝、彼女らは街着をよそおい、充分に陽が昇ってから街への馬車へと乗りこんだ。

 

 

ルナ「街へ行くの、久しぶりだにゃ」

 

 

モモ「どこに行くの?」

 

 

ニア「宝石屋さんに行くのよ。

他には、まあ色々と、ね」

 

 

 送りの箱馬車の中で3人は会話をはずませつつ、片道1時間ほどの道のりを過ごした。

 

 ルナは動きやすそうな七分丈のパンツドレス。

 

モモはリリィからゆずってもらったらしいフリルの付いたミニワンピース

 

ニアは落ち着いた柄のジャンパードレス。

 

 この日ばかりは皆メイド服を取り置いて、つかの間の休息を楽しむのだった。

 

 

ルナ「映画観に行くにゃ!」

 

 

ニア「ええ、いいわよ」

 

 

モモ「…………」

 

 

 そういえば、この顔ぶれでおしゃれをして出かけるのは初めてであったか。

 

いつもと違う私服姿の2人を、モモだけはまじまじと、しかしあまり大げさにならぬ程度に見つめ回していた。

 

 街に着くまでに最初の目的地が決まり、市門をくぐり入って目抜き通りの手前で馬車を降りる。

 

ここでモモと出会ったのがもう半年ほど前になるのだろう。

 

オルブライト公爵が治める街はいつ訪れてもにぎやかだった。

 

 馬車をメルヴィル城へ帰して、ニアたちは映画館を目指した。

 

荷物で手がふさがる前にまずは物見遊山をすませておこうという算段であった。

 

 ニアを先頭に、ルナがモモの手を引いて、人ごみを行く。

 

レストランやショップが立ち並ぶ中に、“映画館オデオン”と書かれた看板がかかげられた建物を見つけて入館した。

 

 映画と言っても、モモがいることを考慮すると、観るのは子ども向けのアニメーション。

 

主人の身にふりかかる災難を、執事が次々とふりはらってゆく、という内容のものだ。

 

この執事というのがとんでもない男で、通せんぼをしてきた役人にわいろをつかませるわ、山道を占拠する山賊どもを戦車で蹴散らすわ、あげくの果てに爆撃機を持ち出して、敵対する軍勢をことごとく爆滅してゆく始末。

 

ところが、最後の最後で主人みずからが敵の親玉と対決し、ぼろぼろになりながらも見事とらわれの姫を救い出してハッピーエンド。

 

 声やセリフは一切なく、スクリーンのかたわらのスピーカーから終始オーケストラが流されていただけの15分程度のシネマトグラフだったが、3人は大いに楽しんでいた。

 

 

ルナ「あんな執事いるわけないにゃ~♪」

 

 

モモ「また見たい……」

 

 

ニア「ふふ、面白かったわね」

 

 

 映画館を出ると、皆満足した顔でさっそく今観た映画の感想を言い交わす。

 

たわいなく、かしましやかにおしゃべりをする3人は、姉妹のようにも見えるだろうか。

 

 陽が高くなり、そろそろ城主から任された用向きのことも念頭に置きながら、ニアたちはオートモービルが行き交う道のかたわらを歩いてゆくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

アステル「ペテュニアっ」

 

 

ペテュニア「アステル様、いかがなさいました?」

 

 

アステル「ほら、赤リンゴだよ。

でも、かわがじゃまなんだ」

 

 

 ペテュニアがアサシンらしからぬ仕事のために、メルヴィル城へ潜入して早くも3ヵ月が過ぎていた。

 

人さらいなどたやすいこととあなどっていたが、思った以上に城の警備がしっかりしていて、計画がなかなか実行に移せない。

 

 わけても副兵長のルドベキアというワニの亜人がつわものらしく、どうやら彼女だけはこちらを警戒しているようなのだ。

 

もしかすると自分の正体がすでに見すかされているのではないかと心配もしたが、そういった中でアステル本人になつかれたというのは幸運だった。

 

ハウスメイドの見習いとして寝室の清掃を任されていても、彼のほうからわざわざこうして話しかけてくれるのだから。

 

 

ペテュニア「では、おむきいたしましょう」

 

 

 手に持っていたモップを部屋のすみに立てかけておいて、ペテュニアは思わずスカートの横すそをたくし上げようとしてしまった。

 

メイド見習いの仕事もうまく演じていると思っていても、こういう時に修行のくせが出てしまうものだ。

 

これから誘拐しなければならない男の子に危うく、ももに隠したを見せつけて不信感を与えるところであった。

 

 あわててスカートを手放し、始めからそうするつもりであったとばかりに、エプロンの前かけで両手をしつこくふきしだく。

 

 

ペテュニア「アステル様、調理場へまいりましょう」

 

 

アステル「うんっ」

 

 

 彼を連れて部屋を出ると、長廊下を奥へと進んだ。

 

少しでも気を抜くとぼろが出そうで、全く落ち着けない。

 

 

アステル「ペテュニアは……その、何のあじんなの?」

 

 

 隣に並んで歩くアステルが、片手に持ったリンゴでお手玉をするふりをしながら、聞きにくそうに聞いてきた。

 

 

ペテュニア「巨人族の亜人でございます。

とは言っても、曾祖父そうそふがそうであったというだけで、もうほとんど血は受け継がれてはおりませんが……」

 

 

アステル「そうなんだ、だから背がたかいんだ」

 

 

 いく度かたずねられるであろう質問に、用意しておいた回答を笑顔で返しておくペテュニア。

 

 ふと、彼はリンゴを持たぬほうの手で、こちらの手をにぎった。

 

よくよく考えてみれば、城主の家人をのぞけば、犬の頭であったりネコの顔であったり、角を持っていたりウロコを生やしていたりする者ばかりだ。

 

そのような亜人たちが暮らす城の中にあって、自分のような人間の姿であるメイドは、彼にとってはめずらしいことなのかもしれない。

 

 

ペテュニア「はい、そうなのでございます」

 

 

 親しみをこめてうなずいてみせると、彼はこちらを見上げて満面の笑みをよこした。

 

もしかすると彼の中では、自分は母や姉のような存在となっているのではないか。

 

多くの不安は確かにあったが、このなつかれ様をかんがみれば、機は熟していると見ていい。

 

あとは城兵と、そして城主の動向だった。

 

 この城のあるじ、つまりアステルの父デュランタ・メルヴィルは、その妻アイリスともども忙しいらしく、出入りが極めて予測しづらい。

 

聞いた話によると、何でもペテュニアがここへ来る少し前に、デュランタの弟家族に不幸があったということなのだ。

 

その関係で城主デュランタは城を留守勝ちにしていた。

 

 色々と予測しづらいことばかりで、誘拐の計画さえまともに立てられないでいたのだった。

 

 ペテュニアは調理場へアステルを連れて入ると、おけの手水ちょうずで手を洗ってから彼のリンゴを受け取る。

 

包丁立ての包丁をひとつ手に取って、調理台のへりにおしりからもたれかかると、その刃をリンゴにそわせた。

 

 こなれた手つきで皮をむき始めるペテュニア。

 

同じようにおしりから調理台へもたれかかり、かたわらからアステルがまじまじと彼女の手もとを見つめてくる。

 

 

アステル「……ふふふ、つなげてみせて?」

 

 

ペテュニア「かしこまりました」

 

 

 スカーフやネクタイを結んだことがなくとも、刃物のあつかいならばお手のものだ。

 

ペテュニアはみずみずしいリンゴのその赤い皮を、ペティナイフでどんどん切りつなげてゆく。

 

皮の先が床に着きそうになると、彼が素手でつまみ上げてしまった。

 

 

アステル「うわ、ながぁい!」

 

 

ペテュニア「ふふふ……♪」

 

 

 全ての皮をむき終えると、彼はそれを両手でかかげて、まるでリボンテープのようにひらひらとひらめかせて遊んでいた。

 

その場でターンをして子どもらしい声を上げる幼子の姿に、ペテュニアも知らずに笑みをこぼす。

 

 

ペテュニア(いけない……)

 

 

 ふと、自分に課せられた任務を思い出し、彼女は我に返った。

 

この子との時間が増えるほどに、自分の中にあるやいばみたいなものが、にぶくなまってゆく感覚におちいってだめだ。

 

信用を得るのは悪いことではないが、必要以上のなれ合いは自らをほろぼす結果になる、と、師父から教わってはいた。

 

 だからこそ、こんな所はさっさとおいとまをして、慣れないメイド仕事などから解放されたいとまで思い始めているのだった。

 

実際、ペテュニアはあせっていた。

 

それらそういった理由もあって、彼女は少し強引にでもことを決行すべきという思考になってしまっていた。

 

 そして、チャンスはこの夜遅くにやって来た。

 

大帝本国からの召集を受けて、ルドベキアを含む城兵の半数がしばらく城を空けることになったのだ。

 

つまりはいずこかの地で、戦争が起こったらしい。

 

 要請に応じて彼女らが向かった戦地はくわしくは知れなかったが、この機を逃せば次はあるかも分からない。

 

ペテュニアは皆が寝静まるのを充分待ってからベッドを抜け出し、同室の者に気付かれぬよう身仕舞いをすませた。

 

 用心して部屋をあとにし、足音をしのばせて月明かりの窓影が落ちるうす暗い長廊下をゆく。

 

城兵のいない城の中、目標の部屋の直前までは、運良く誰とも会わなかった。

 

 アステルの寝室、そのドアの前までたどり着き、心を決めてノブに手をかけた、瞬間。

 

 

声「アイリス……?」

 

 

ペテュニア「ハッ……!」

 

 

 心臓が飛び上がる思いをした。

 

十歩先の暗がりから男の声で呼びかけられてしまったが、城内にいる男性は2人しか知らない。

 

この部屋の中にいる8才のアステルか、

その父、デュランタ・メルヴィル子爵。

 

 しくじったと言うほかない。

 

闇にまぎれ、誰と悟られずに事を成すのが我が仕事、

だったというのに。

 

 ペテュニアが苦々しくそちらをうかがうと、その人は暗がりの中をこちらへやって来た。

 

城主だ、残念なことに。

 

 

デュランタ「ああ人違いか。

しかし、私の妻でなければ君はこの部屋に何の用が……」

 

 

【ズン……!】

 

 そうするより方法がなかった。

 

迷っている時間がなかった。

 

ここで騒がれて皆を起こしてしまえば、計画は完全に失敗したとなるだろう。

 

 もとより自分はアサシンだ。

 

積もり積もったいら立ちも手伝って、隠しナイフを取り出して切っ先を彼の横腹へ刺し入れる動作は、驚くほどなめらかだった。

 

 

デュランタ「……かっ」

 

 

 仕留めた男の上体が、一瞬の死に気付いてびくんとひとつ波打った。

 

ナイフは確実に、眼前をふさぐ男の心臓まで達していた。

 

最期の力でこちらの腕をつかみかかって来たようだが、抵抗はそこまでだった。

 

 ペテュニアが凶器を引き抜くと、彼の体がゆっくりくずおれる。

 

倒れる彼を少しでも支えておいて音を立てぬようにしたかったが、いかんせん大人のなきがらというものは重い。

 

【ドサリ……ッ】

 

 倒れ伏したデュランタ・メルヴィル子爵。

 

ペテュニアは自分の手が血にぬれた感触を覚えながら、ナイフをスカートの下にもどした。

 

 

声「父上……?」

 

 

 さらに都合の悪いことには、今の物音で室内の者が目を覚ましたらしい。

 

ここまで来たら、とペテュニアは、半分やけ腹になって開き直り、イチかバチかの勝負に打って出ることにした。

 

ドアを勢いよく、しかし努めて静かに開け、部屋へ入ってすぐさま閉める。

 

 

アステル「……だれ?

母上……?」

 

 

 わざとがましく呼吸を乱し、彼女はベッドの上から声をかけてきたアステルへとあわてた様子で近寄ってゆく。

 

 

ペテュニア「アステル様……ぞくでございます!

城内に何者かが侵入いたしました……!」

 

 

 8才の子どもとはいえ、貴族の子息に果たしてこんな奇策が通じるものなのか。

 

いずれにしても、すでにミスをおかした彼女には、力尽くで彼を連れ出すしか選択肢はなかった。

 

 

アステル「ペテュニア!?

ぞく……って?」

 

 

ペテュニア「説明はあとでいたします。

わたくしは、アステル様を安全な所までお連れするよう言い付かってまいりました。

一緒に来て下さい!」

 

 

アステル「…………」

 

 

 その表情は暗くてうかがえなかったが、寝巻き姿の彼はためらい勝ちにかけぶとんを払いのけると、ベッドの上で立ち上がった。

 

 

アステル「わ……分かった」

 

 

ペテュニア「失礼いたします」

 

 

 日々、なつけていたのが功を奏したのだろう。

 

少々強引な狂言にも、彼はすんなりと従ってくれた。

 

 信用を得たところでペテュニアは、アステルをすくと抱きかかえて窓のほうへ向かう。

 

テラス窓を開け放ち、バルコニーへ抜け出ると、手すりの上へまっすぐ登り立った。

 

 

ペテュニア「恐いですか?」

 

 

アステル「んーん、平気」

 

 

ペテュニア「しっかりお捕まり下さい」

 

 

 首もとに巻きつかれた幼子の細腕に力がこめられる。

 

 4階。

 

月明かりはあれど、辺りは暗闇。

 

メイド姿のアサシンは周囲をひと度め回して、逃走路を確認した。

 

そうしておいて、彼女は標的をしっかりかかえたまま軽やかにその場を飛び出した。

 

 地上に降り立ち、並木とコロネードの影を駆け抜け、望楼上の物見に気取けどられぬよう表門の脇戸を開けて外へ。

 

城壁ぎわで呼吸を整え、千切れ雲が月をすっぽりと隠すのを待って、現れた暗がりを林に向かって疾走する。

 

 城外への脱出は、ことのほかうまくいった。

 

木々にまぎれて南下し、にわかに開けた草原までたどり着いても、メルヴィル城のほうは静かなままだった。

 

 吐き出す息が白く凍って消えてゆく。

 

いだいた幼子の手足が冷たい。

 

依頼主の伯爵邸へは長い道のりだ。

 

ペテュニアは自身の体力を温存しようとして走るのをやめ、見つけたけもの道を目的地に向かって歩いた。

 

 しばらく進むとけもの道は街道に出てしまうことが分かり、さらにそちらに一台の箱馬車が停まっているらしいことに気付いた。

 

人目に付くことを嫌って回り道をしようかとも考えたが、警戒しつつ近付いてみればよく知った者が御者台に座っていた。

 

 

御者「乗せていってやろうか?」

 

 

ペテュニア(……師父)

 

 

 車上にいたのは、黒いマントに身をつつんだ師父だった。

 

 

ペテュニア「アステル様、乗せていただきましょう」

 

 

 言ったあとで、もう使用人であるかのような口前をする必要がないことをペテュニアは悟った。

 

すでに九割方、仕事は成功していたのだから。

 

 しかし腕の中の幼子からの応答はにぶい。

 

身を切る寒さの中を寝巻き一枚で過ごしたために、返事ができないほど凍えてしまうのは当然だった。

 

 彼女はすぐさま車中へ駆け入り、彼をいだいたまま座席に着いた。

 

馬車がひと揺れしてからゆっくりと走り出した。

 

 向かい側の席にブランケットがあったので、それを広げて彼を背中からつつみ込む。

 

これでこの子を伯爵に引き渡せば、ようやく任務は完了だ。

 

何をそんなに甲斐がいしく接してやる必要があるのか。

 

その後、この子がどうなろうと、仕事を成し遂げた自分には、知ったことではないというのに。

 

 たとえ、この子が殺されようとも……。

 

 

御者「着いたぞ。

そいつを中まで連れてゆけ」

 

 

 ずいぶんと長い間考えにふけってしまった。

 

いつの間に着いていたのだろうか、気が付くと馬車は邸宅の門前で停まっていた。

 

 ペテュニアはブランケットをアステルの肩へかけ直し、彼の手を引いて降車した。

 

 

アステル「ここは……?」

 

 

ペテュニア「ご心配はいりません。

ここは貴方をよく知る者がいる所です」

 

 

 格子門こうしもんをわずかに押し開いて邸内へ進入する。

 

小さな手が氷のように冷たく震えている。

 

 居館へは使用人の通用口から入ったが、伯爵がいるであろう居室までは全くの暗闇を歩かねばならなかった。

 

かすかに明かりのもれているドアの前で立ち止まり、ノックをする。

 

【コンコン】

 

 

ペテュニア「だんな様、ペテュニアでございます」

 

 

声『入れ……』

 

 

【ガチャ……】

 

 許可を得て入室すると、明々とした燭火しょっかがともる部屋の中央に、パキラ・ストリンガー伯爵がスーツを着て立っていた。

 

 

パキラ「おお、その子が、アステルか。

確かに、あいつの面かげがある。

もっとこっちへ来て、顔をよく見せておくれ」

 

 

 物やわらかに伯爵に語りかけられたアステルだったが、見知らぬ人物に臆したかペテュニアの影に隠れてしまった。

 

でたらめを吹きこんであの城から連れ出したのだから、警戒するのも無理はない。

 

 

パキラ「怖がらずとも良いよ、お前は分からないだろうが、私はお前のなのだ」

 

 

ペテュニア(……!?)

 

 

 伯爵の言葉に、ペテュニアは一瞬青ざめた。

 

それを聞いた瞬間に胸の奥がざわつき出したのだが、何も彼がいかめしい顔に似合わない甘やかな声を発したからというわけではない。

 

全く知らされていなかったことを事も無げに明かされたので、彼女は動揺してしまったのである。

 

 果たして事実なのか、もしくは幼子を懐柔かいじゅうするためのでまかせなのかは分からなかったが、それが本当だとするならば、大きな気がかりがペテュニアの脳裏に浮上する。

 

 

ペテュニア「さ……さぁ、アステル様、この方にごあいさつを……」

 

 

アステル「…………」

 

 

 この場に長居はできないと直感してペテュニアは、さっさと仕事を片付けにかかった。

 

しかしこの子も幼いながら身の危険を肌で感じているのだろう、彼女がうながしても彼は彼女のかたわらを動きそうになかった。

 

 

パキラ「さあ、おいで、アステル」

 

 

 両手を広げて武器を帯びていないことを見せつける伯爵。

 

ペテュニアが背中を軽く押すと、アステルも最後にはいやいやながら伯爵のほうへ歩いていった。

 

 あと少しで依頼主の手に標的が渡るというところで、ペテュニアは退室しようと静かに後ろへ下がる。

 

 

アステル「ペテュニア、どこに行くの?」

 

 

 こちらの挙動にすぐさま気付いて、振り向いて問いかけてくるアステル。

 

 

ペテュニア「わたくしは、これで失礼いたします……」

 

 

アステル「いやだ!

行かないで、ひとりにしないで、ペテュニア!」

 

 

 羽織っていたブランケットを取り落として立ちもどり、こちらの手を捕まえるアステル。

 

彼の行動に、彼女の胸が理由も知れずきしりと痛みを生じた。

 

 

パキラ「ペテュニア、待て、まだだ……」

 

 

ペテュニア「…………」

 

 

 約束が違う……そう言いかけてペテュニアは、困惑した顔でにらみつけてくる伯爵をにらみ返した。

 

 男の子をさらって伯爵のもとへ連れてくる。

 

自分の仕事はそこまでだったはずだ。

 

ただでさえ苦労を強いられたというのに、しかし今にも泣き出しそうな顔で訴えるアステルに見上げられてしまっては、据えかねる腹をなだめておかないわけにはいかなかった。

 

 

ペテュニア「ひとまず……落ち着きましょう。

寝室へまいります」

 

 

パキラ「ドアを出て左の突き当たりの部屋だ。

そこの燭台を持ってゆけ」

 

 

 指をさし示して言う伯爵に、不満をにじませた目つきで返事をすませて、くびすを返すペテュニア。

 

チェストの上の手燭てじょくを手に取り、もう一方の手でアステルを誘導する。

 

 ふと、背中から伯爵が息を荒くして聞いてきた。

 

 

パキラ「ペテュニア、そ……そのはなんだ……?」

 

 

 見とがめられて、内心ひやりとした。

 

触れられずにやり過ごしたかった一番のことがこれだったのだが、言い当てられてしまっては仕方がない。

 

 部屋の外へ出た所で横顔だけを彼にさし向けて、ことさらわずらわしげに言い放っておく。

 

 

ペテュニア「

お忘れでございますか……?」

 

 

 言ってすぐに、ドアも閉めずに寝室へ向かって歩き出した。

 

手燭の明かりを前にさし出して、あくまで自分は潔白であると、つかつかと踏む足音でも主張して廊下を行った。

 

 白いエプロンの端に付いていた枯れ葉色の染みは、誰あろうデュランタ・メルヴィル子爵の血。

 

自分が殺した男の返り血だった。

 

 そして彼は、ペテュニアが予想もしなかったことに、依頼主の息子であったというのだ。

 

こんなばかげた話があるだろうか。

 

孫を息子から盗み出すために、あろうことか殺し屋をさし向けるなど。

 

 様々な感情がペテュニアの胸の中に充満し、吐き気までもよおしてしまった。

 

たどり着いた寝室には立派なベッドがしつらえてあったが、アステルはそこで眠ろうとはしてくれなかった。

 

わがままを言って、ペテュニアを放そうとしなかったのだ。

 

 疲れきっていた彼女はもはやなされるままに、彼を抱いてロッキングチェアの上で一夜を過ごした。

 

ベッドからはぎ取ったかけ布団の中で、ひとつも安らげそうにない眠りについた。

 

 自分が殺した男の、子どもとともに。

 

 

 

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