大河に架ける橋 〜ある医師の切ない愛の物語〜

三田一龍

第1話 挫折と出会い

どこまでも続く夜の高速道路に、ぼんやり浮かび上がる巨大な吊り橋が覆いかぶさってきた。どこへ向かっているのか見当もつかない。時折タイヤが道の継ぎ目を拾ってコツン、コツンと伝わってくるのを感じる。右側通行にも多少違和感を覚えたが、どうでもいい。

 小さい時分大阪は和泉で育った。テスト中寝ていて先生によく小突かれた。答案を返す先生は、早く終わっても頑張っているフリをするのも大人の礼儀、と苦しい忠告と満点の答案用紙をかえす。高校生だったある日、クラスメイトに「お前は受験しないのか」と聞かれ、ならば、と数千語ある英単語集を買ってみせた。翌週難しかったろうと言わんばかりに英単語集はどうだったと聞いてきたから、「もう覚えた」と言ったら腰を抜かした。英語の受験勉強といえば、ひたすら英文小説を読んだのは覚えている。おれの父も母も医者で、別段疑問もなく京都大学医学部へ入学した。両親は忙しく一人っ子であったから、電子レンジが育ての親。いつも首から玄関のカギをぶら下げていた鍵っ子だった。それも普通だと思っていたからさみしいと感じたことはない。

 大学を主席で卒業してから、愛知県にある豊橋先端医療センターで心臓外科医として仕事をしていた。カテーテルのスペシャリストとして患者も1年先まで指名で埋まるほどになっていた。この六年失敗したことは一度もない。動いている心臓に管を通す難しいオペだが、おれには、遊び道具程度のもので、患者がよくなるのも当然ぐらいに考えていた。そこに事件は起きた。

「サチュレーション低下・・・・もう持ちません」何が起こったのか。「心室細動・・・戻りません!」 自分が失敗したということを受け入れられないまま、センターを後にすることになる。生まれて初めての挫折だった。

 吊り橋を渡り、しばらくして高速を下りた。中国はテレビでたまにニュースになるのを見るくらい。一年を過ごすことになる南通市はもちろん名前も初めて耳にした。「豊橋と友好都市の南通市に大学医学部があるんだがね。そこの心臓外科でカテを教えてきてくれんか」センター長はそれだけ言って、おれを送り出した。もう、メスを握るつもりはない。それを条件に承諾した。もう医者としてのキャリアなどどうでもよかった。ただ逃げ場が欲しかっただけかもしれない。

 この街はひと気が少ない。だが四〇階は超えるだろうビルも立ち並んでいてここ最近発展してきている風だ。道も日本の細い道と違い三車線。日本人も五百人程度住んでいると聞いている。高速道路を下りてしばらく一般道を走り、青年路という表示が目に飛び込んできた。漢字は日本と同じだ。生活はできそうだ。その青年路を曲がると日本料理や日本人スナックが目に入る。そして細い路地を入ると車は止まった。一緒に乗ってきた世話係は、荷物を車の後ろから下し、少々こぎれいなマンションに案内してくれた。ここがおれの城か。一人に慣れているので、知らない土地でも不安はない。世話係がご飯でも、と誘ってくれたが、今日は遅いからと断った。初対面の人に食事に誘われたのは初めてだった。

 大学で教えるまで一週間はある。やることもないので、家の周りの青年路付近を散策することにした。吐く息は白い。特に冬は大気汚染がひどいと聞いていたが気になるほどではない。道だって、ごみも落ちていないくらいキレイだ。言葉も金銭感覚も知り合いもゼロ。だけどもうメスを握ることもないから気楽なもんだ。その通りは300メートルほどあるだろうか。日本料理や焼き肉、中華、ラーメン屋、蕎麦屋、何でもござれ。通りはゆっくり往復しても十分ほどだ。もの足りないので、少し奥まった細い路地もぶらぶらした。ふと路肩に、日本語と中国語で書かれた看板のあるカフェを見つけた。

「いらっしゃいませ!」

元気な声が響く。ポニーテールで、色白。笑くぼの深いかわいい少女が、エプロン姿で迎えてくれた。おれは「コーヒーを」とだけ言って椅子に腰かける。日本語に意表を突かれたからなのか、彼女がかわいいからなのか、目を合わせられない。そして、その出会いがおれの人生をかえることになる。(つづく)

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