第3話 再会と本当の愛

あれから、何度か携帯でメッセージを送った。一度だけ返ってきたことがある。【だいじょうぶ。心配しないね】 おれはその言葉を信じて毎日を過ごしていた。あてがわれた部屋も冷房なしではたまらなくなってきた。もう中国も8カ月が経とうとしている。大学の講師も慣れてきたが、当初の約束どおりメスは握らないで済んでいる。おれの世話役に陳という男がいた。まだ30前で若いが太っていて、風貌はおっさん。だけどすごくいいやつで、おれの通訳としてこの8カ月一緒に頑張ってくれていた。いつもはおれの方から飯に誘ってやるのだが、今日は珍しく彼の方から誘ってくれた。おれは彼に連れられ、日本料理やらスナックが並ぶ青年路より百数十メートル奥まった先に連れて行かれた。『猫さん』という店が見えた。「こんな奥まったところに日本料理屋がねえ」と独りぼやいていると陳は店の入り口の戸を引いた。

「いらっしゃいませ!」

おれはハッとした。その元気のある言葉と迎えてくれた店の女の子が、一瞬マキとかぶり数か月前に引き戻されたかのようだった。

「陳さんはよくここへ来るのか?」

「たまにっす。お好み焼きが食いたくなると、ここに来ます。実はぼく大阪の高校と大学を出ていて、来ると思いだすんですよ、懐かしい学生時代を。」

太ったおなかをナデナデでしながら、照れくさそうにそう答えた。「おれも大阪・・・」と言いかけると、

「タクさんも大阪出身でしょ。言葉の端々に関西なまりがあるから分かります。ここ最近タクさんが元気ないので、今日はここへ連れてこようと。」

彼なりの御礼なのか、励ましなのか。何だか胸が熱くなった。確かにマキと会えなくなったここ数カ月は、大事な忘れ物でもしたようなそんな日々を過ごしていた。お好み焼きはホントうまかった。陳の身の上話を肴に二人で盛り上がった。もう母親を病気でなくしていること。金がない学生時代は水で腹を膨らませ、しのいだこと。ある日旅行から帰ると家族は中国に帰ってしまって空家であったこと。いろいろ話をした。そうだ、マキとはお互いに家族の話はしたことがなかった。マキとも、こんな風にお互いのことをもっと深く知りたかったのに。

 蝉がジージーと鳴いている。医局長から臨床現場に立ち会ってくれと言われ、病院に向かった。病院内は冷房で寒いくらいだった。対して以前と変わらず病院内は人々でごったがえし熱気に満ちていた。心臓外科の医局での会議に出席していくつかの症例をみて、アドバイスしてもらいたいというのが、医局長がおれを呼んだ理由だ。この病院では機材はそろっていたものの、それを使いこなせる技術がない。おれが中国のこの大学病院へ講師としてきたのもそのせいだ。まあ、メスを握らないのだから所詮他人事だ。会議を切り抜け、病院を出ようとしたとき、あっ、と思わず声を上げてしまった。前と感じは違うが、待合所でうつむき座っているのは、あのマキではないか。久しぶり・・・ ぎこちなく声をかける。

「アタシのお父さん、心臓悪い。手術できない。」

おれに見せていた笑くぼのかわいいマキはそこにはいなかった。彼女が持っていた父親のカルテをみると、右心房の弁が取れかかっているようだ。先ほどの会議の症例の一つだった。

「お金もないし、お父さんの体弱いし。治すことできない。」

おれは何もいってやれなかった。マキには医者であることは伝えてなかったし、メスも二度と握らないと決めていたからどうすることもできない。突然あのカフェから消えて以来、ずっと苦しんでいたのか。胸の下の方がぐっと引っ張れる。そんな感覚だった。メスは二度と握らないと決めた自分、だけど、彼女を助けたいと心底思う自分が葛藤していた。でもこれだけは本当だった。誰かのためにできる限りしてあげたいという気持ち。自分以外の誰かを思うことがこんなに力強く、切ないものなんだ。助けてやりたい。

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