第3話 「昔の彼ら」

乾いた赤土を舞いあげて 、馬に乗った銀髪の少年はいつも颯爽とアリバーの郊外を駆け回っていた。交易の町、アリバー。そこはハユキの育った町だ。

第二の都として栄えたその裏には、安い賃金で重労働を課せられた人々の働きがあった。


「ハユキ、落とされんなよ」

見上げると銀色の短髪がさらさらとそよいで、振り向く端麗な横顔が笑ってこっちを見下ろす。

焦げ茶色の足の早い馬に乗るその少年は、交易の町アリバーに急ぎの荷物を届ける仕事をしていた。


身寄りのない彼は、弟のラガと二人でそうやって大人に交じって働きながら暮らしていたのだ。恵まれて育った私のこともとくに意に介さず、妹のように可愛がってくれた。

ハユキが馬に乗れるようになったのは彼——ラシンのおかげだった。


「ラシン兄さん、なんで行っちゃうの?」

だから、その時の落胆は大きかった。質素な彼らの家で、荷造りをしていたラシンは振り返る。


いつも大人びて動じない彼の顔は、初めて見る子供のような泣き顔に変じた。そして、駆け寄ってきた彼はぎゅっと力強くハユキを抱きしめた。


「ごめん、ごめんな」

なぜラシンが繰り返しそう謝るのか、ハユキには理解できなかったが、ただ大きな背中に手を回してあやすようにさすり続けた。


誰もが羨み憧れていた、賢く美しく活発で、それでいて気取らず面倒見のよいラシン。

「ごめんラガ。ごめんハユキ……」

九つになったばかりの弟と、手のかかる妹分をのこして、彼はどこかへ行ってしまうようだった。


そして次の日には、なぜ私たちの側を離れなくてはならないのかという理由を、一言も言うことなくラシンは私たちのもとを去ったのだ。


「ハユキ。ラガを——ラガをよろしくな。お願いだ、ラガの側を離れないでくれ……」

歯を食い縛りながら言った、その言葉を言い残して。



その言葉の本当の意味を知るのは、その三年後。ハユキが十二才の春。

がらりと性格の変わったラシンと再会して知ることとなる。



あの場所でラシンは、ハユキに初めて憎しみに満ち声と視線とを向けた。

ラシンはこうなることを予想して、ラガの側を離れるなと言ったのかもしれなかった。


惟楽の者を育成する、アリバーの神学校。そこでのラシンとの再会は、最悪だった。ハユキはその場所でクライドとアンディに出会ったが、かけがえのない兄を失ってしまったのだ。


けれどハユキは、あの時どうすれば良かったのか、今でも解らないままでいる。






☆★☆★






騒ぎを聞きつけたクライドが、ラシンの差し向けた刺客をすべてのしてハユキの元に駆けつけた。


——たった半日離れていただだけでここまで不安になってしまうんなんて、私はどれだけあなたに頼りきっていたのだろう。


「クライド!」

「ハユキ様、怪我はありませんか?」

普段から冷静で取り乱すことなどほとんどないあのクライドが、息を切らして駆けつけてくれた。



すぐにハユキの前で膝をついて怪我の有無を確認しようとする。

「怪我などありません。大丈夫です」

明るい茶色の細い髪の毛が目の前で揺れ、クライドが顔を上げるとその整った顔が心配そうに歪んでいた。


「本当ですか?」

こちらをまっすぐに見つめる鮮やかなくれない色の瞳。疑わしげに視線を走らせるクライドを見ながら、ハユキは心配性のその男を心から待ちわびていたのだと実感した。


「本当です。そこまで心配するほどのことはなにもありません」

口ではそう言ったが、安堵のために心臓の音が少しづつ普段の調子を取り戻していることを感じる。

ハユキの、この上ない安心は、クライドがくれたものだった。



「そうですか。よかった、ご無事で」

安堵の息を漏らすと、クライドは一度顔を引き締めて改めて膝をつき直し、頭を下げた。

「申し訳ありません、ハユキ様。あなたを守るのが私の役目だというのに……」

「頭を上げて。そこいらの悪党ごとき、私ひとりでも大丈夫です……まあ、多少は人の手を借りたかもしれませんが」


ふと、ひやりとした金属の感覚が思い出されて、ぞわりと肌が粟立った。

そこにいることを確かめるように、ぎゅっとクライドの服の端を掴む。

「ぜんぜん、怖くありませんでした」

それなりに堂々と言ったつもりが、消え入りそうな声になってしまった。うつむいて涙を必死に堪えていると、くすくすと忍び笑いが聞こえてきて、大きな手がハユキの頭をなでてくれた。

大きくて安心する、クライドの手。


「そうですか。しかし次からは、私にもちゃんとお仕事させてください」

小さな主を気遣って、騎士は言い聞かせるようにそう言う。

「あのさ……悪いけどちょっといいかな」

その声にハユキは今の状況を思い出した。たった半日ぶりの再会を惜しんでいる場合ではない。


私はクライドの手を避けて、真っ直ぐにレオと向き合った。

「レオルド……私はあなたに謝らなくてはなりません。隠していたことと——あなたを見捨てていこうとしていることを」

「隠してたことは別にいいよ。けどよ、見捨てるってどういうことだ?」

これは、私の口から伝えていいのかどうか迷って、先の騒動で一瞬姿を見かけた彼女の姿を探した。

その人は探さなくても、ずっと息子を心配して近くにいたのだった。


「ダリアさん」

こちらを見つめ返していたその瞳がぐっと待ち構えていたように引き締まる。

「もういいでしょう。レオはもう悟っています」

宿屋にいる時も思ったが、私とそう歳の変わらないレオという男の子は見た目に依らず冷静で聡く、思いのほか大人びているようだ。

がっちりと一の字に結ばれたダリアさんの唇が、震えながら少しづつ開かれた。


「レオルド、ちょっと来なさい」

思いの外しっかりとした声から、既に決心したことがわかる。レオは戸惑うとこなく、むしろやっと話してもらえるのか、というような表情をしている。

やはり、この少年は聡明なようだった。


「あなたは——私と水の神様の間の子なの。あなたの本当のお父様は、龍凰様という神様なのよ」

ダリアさんは目を一度も逸らさなかった。

緊張した空気の中でもレオは気にせず、あの人懐っこい笑顔で母親の告白を受け入れた。


「何となくわかってたよ。ま、ほんとに何となくだけどな。でもまさか父親が神様なんてな」

「驚かないのか?」

そう恐る恐る問うたのは、ダリアさんではなく、レオとよく似た笑顔を見せる宿屋の店主だった。血のつながらない息子の反応を、顔を強張らせて伺っている。

しかしそのレオは「何言ってんだよ」と軽く笑い飛ばしてしまう。


「ウチの親父はちょっととぼけて信心深い、でも優しく厳しく育ててくれた親父だけさ。そりゃあ俺が生まれて来たからにはその神様にも感謝するし、むしろ親父が二人いるって思えばなんかお得っぽいじゃん。そんな辛気くさい顔してまで隠すことじゃねーよ」

ぽかりと口を開いたまま、大人になった息子の話を聞いていた店主だが、その内レオそっくりの笑顔でその息子の頭をぐりぐりとなでつけた。

「馬鹿野郎、生意気言うようになりやがって」


「そんで、なに。その俺がどうかしたの?見捨てるってなに?」

父親の妨害にあいながらも話を戻そうと、その様子を微笑んで見ていた私に問いかける。


「人と神の子というのは、完全な神ならざる身ではないということです。そのような話、私もきいたことがないのです。あなたは貴重な人材として重宝されることとなるでしょう。いえ、利用されるだけかもしれません」

できるだけ機械的に、そう努めて話していたが次第に手が震えてくる。

親子のやり取りに温まった心が、何一つ好転していない事態を思い出して冷えていくようだった。


「それで、政治の中枢であり神域でもある日の暮れ泥む町に、あなたが強制的に連れていかれようとしています。しかし私にはそれを止めるほどの権力がありません」

口惜しい。心からそう思った。ダリアさんが凄いとも。


ハユキは真実を話そうという大事なときに限って、レオの顔を見てられなかった。目を背けずにはいられなかった。

口惜しくて、苦しい。


「おいハユキ」

——なんであなたはそうやって、見捨てようとした私に優しげに声をかけてくれるのだろう。


「なんです?」

レオは、あの尖った可愛らしい八重歯を覗かせてにいっと笑った。


「敬語、やめろっつったろ?」


きっと今ここで私は泣いてはいけない。

そう思って私もつられて笑う。


「そうだね」

ただ心の隅でレオルドのことに対して、冷たい黒い影がゆっくりと落ちていくのを感じた。

私は散々、誰かのためになることを考えてきた。

それなのに、私が彼を見捨てて自分の目的を優先させようとしてしまったことが、どうしようもなく心をえぐった。




☆★☆★




あの重っ苦しい夜が明け、アリビティに朝が訪れた。そのせいもありハユキの足取りは軽い。アリビティの町で美味しいと評判のまんじゅうと、前の町で貰った上等な酒を持ってハユキは昨晩事件が起きた川辺に向かう。


綺麗な笹の葉をいくつか選んで千切ると、洗ってからその上にまんじゅうを乗せた。隣でクライドが器に酒を注ぐ。器の酒がきらきらと陽光を受けて輝いていた。


「河伯様、いらっしゃっいましか」

『ちと早すぎたか?』

すうっと微かに風が吹いて、いつの間にか隣に白く立派な着物を着込んだ男が隣に座っていた。


「いいえそのようなことは」

お酒をすすめ、まんじゅうを河伯様の前に差し出した。河伯様のさらさらとした艶やかで長い黒髪がぱさりと頬にかかる。

神の姿は惟楽の者にだけ見えるのであって、クライドには見えない。

ハユキの見ている神の姿も、仮の姿ではあるのだが。


『美味しいな』

こちらを向いて笑う河伯様は、ずいぶんと若かく綺麗な顔立ちだった。

ハユキがきれいな顔に思わず目を見開くのに、ふと、気にしたように河伯様が眉をひそめた。

『変か?』

「いえ、そうではございませんが……」

『どうせなら若い方がよかろうと思うてな』

不敬なようだが、そんな河伯様がどうしても可愛らしく思えてふふっと笑みを溢してしまう。


「しかし私以外の娘の前では控えた方がよろしいかと」

多分そんなことをしたら一目で惚れて卒倒してしまう娘が続出するに違いない。

ハユキは顔のいい男の人が昔から周りにいるせいか、すぐになれてしまったが。ラシン然り、クライドも然りだ。

まあ、若い娘の惟楽の者など、そうそう会うこともないだろうけれど。


『おい娘、昨夜私は役に立ったか』

「はい、おかげ様で生き延びることができました、ありがとうございます。しかし河伯様。不躾なようですが、できればハユキとお呼びいただけないでしょうか?」

河伯様は私の言いように驚いたのか、私を見つめた。


『ほう、お主は本当に昨日の娘か?昨晩とはまるで別人のようにものを言うのだな』

「私は夜が苦手なのです。夜は辛くて重いので……」

そう、ハユキはよく昼と夜では別人だとよく人に言われてきた。

夜はとても不安で、辛くて体が重たいのに対し、昼なら自分の思うこともすらすらと口にし、思うように動くことができる。



「生意気を申し上げました」

『いや、神は正直のこうべに宿る。正直なことはよいことだ、ハユキ。お主は名前を呼んでほしかったのだろう』

「……はい。ありがとうございます」

口の端で微かに笑った河伯様を見て、ついハユキも微笑んだ。さらさらと、昨日の濁った川が嘘のように、穏やかに水が流れていく。

せせらぎに混じって、後ろからなるべく音をたてないように気を配る遠慮がちな足音がした。

私はそれを振り返らずに静かにその人を歓迎する。


「レオ、よく来たね」

「あー、邪魔だった?」

神様の血が混じったレオには河伯様が見える。河伯様とハユキが川辺に二人仲良く並んで座っているのを、何か勘違いしているような口振りだ。


「別に邪魔じゃないよ。それより準備できた?」

「まあ、な」

振り返ってみると、瞳にはどこか悲しみを帯びた暗い紺色が浮かんで、冷たく影を落としている。

ハユキはそんなレオを見て、わざとがっかりしてみせた。


「今生の別れでもなし、なに感傷に浸ってんの!ここに残って神域に連れてかれるのと、ほとぼりが冷めるまで逃げるのと、どっちがいいの」

レオルドはハユキからそんな言葉が出るとは思ってもみなかったようで、目を見開いてあからさまに驚いていた。


「……だれ?」

「ハユキだよ」

「いやそれは知ってるよ!」

レオはどうも納得できないようで、私の顔を凝視して立ち尽くしている。

「もしかしてレオ、今更やめるなんて言わないでしょうね?」


「ハユキ様をあまり怒らせない方がいいですよ」

少し離れた場所にいたクライドがレオにそう忠告した。

「げっ、ハユキのお付き。あんたもいたのかよ」

「クライドです。好きに呼んでもらってかまいませんよ」

にっこりと爽やかな笑みを浮かべるクライドは見た目も中身も完璧な好青年だ。


「ふーん、じゃあクララとか呼びやすそうだな」

だからだろうか、レオはクライドに対してどこか容赦がない。

「どうぞお好きなように呼んでください。そのかわり私も好きなように呼ばせてもらいますよ、レオレオ」

「いえ、すみません、クライドさん」

「いえ、いいんです」


クライドはにっこりと微笑んだ。

『ハユキ、もう行くのだろう?』

空になった器を地面に置いて、思い出したように河伯様は言った。

ハユキは河伯様に向き直り、真正面から視線をぶつけて、深々と頭を下げた。


「この度は本当にありがとうございました。他になにか、私にできることはございませんか」

『急にどうしたか。礼ならもらっておる』

「足りません」

神様をわざわざ呼び出したうえに命を助けてもらったのだ、少しの酒とまんじゅうで足りるはずがない。


——私は昔神様が嫌いだった。

神様はここにおわさずとも、どこにでもおわすもの。あまねく全てをお見通しでいらっしゃる。昔私がとても苦しかったときも、神様は私のことを見ていたはずなのだ。

知っていたはずなのだ。

ならばなぜ助けてくれない。

こんなにも苦しいのに。なんで助けてくださらない——そう、ハユキは思っていた。


神様とはなんて無慈悲なのだろうと。ただ一方的に助けを乞うだけで自らはなにもしようとしなかったハユキは、理不尽に神様を嫌っていたのだ。

だから——。


「これでは足りません」

『足りておる』

「いえ、まだです」

河伯様の溜め息が上から落ちてきた。下げた頭の上で、河伯様はどんな顔をなされていらっしゃるのだろう。


『強情な娘だ』

「……」

わかっている。河伯様が他に何も欲していらっしゃらないことも。


『お主の気持ちは、どんな名酒にもまんじゅうにも勝ろうよ』

はっと顔を上げかけた。神様の小さく笑う声が聞こえた。

『それで十分だ』


ハユキは神を尊敬などしていなかった。神は尊んでこそその力を増す。

ハユキは畏れることも崇めることもすることなく、なにもしてくれない神を恨んでいたのだ。

——私自信、神にお供え物をしたことがあっただろか。拝んだことがあっただろうか。


「河伯様、私は……」

——私は今まで神様になにもしていなかった分、助けてもらった以上のなにかをしなければならない。


『神はすべて知っている。ハユキ、頭をあげよ』

言われるがまま、ハユキはゆっくりと顔をあげた。


「河伯様はゆるしてくださるのですか」

『ゆるすもゆるさぬもない。私はハユキを恨んでなぞおらぬし、他の神々だとて同じこと』

「ですが——」

そんなことはないと思った。ハユキは昔友達を助けていただいた神を恨んだのだから。友達を救い、自分の命までも救ってくださったその神様を理不尽に——恨んだ。


金山彦神かなやまひこのかみ。そうであろう?』

そう、ハユキはその名を持つ神様を恨んだ。

——金山彦神様こそ私を恨むべきなのに、あのお方は私を恨むことはしなかった。いやそれどころか——。


『金山彦神も私と同じ、ハユキ、お前を愛している』

「その資格がありません」

『愛することに資格がいるものか。これは私の意志だ、惟楽の者』

「はい。ですが……」

『お前は今、神をどう思う?』


惟楽の者は神に愛され生まれたもの。神様を見ることができ触れることができる。そしてその神々も人と変わらず失敗もするし、笑うし、喜ぶし怒るし悲しむものだ。ただそれらの感情が激しいだけ。

神様は愛してくださるとき、全力で愛してくださり、憎むときもまた然り。

人と違うところがあるとすれば、絶対に嘘をつかないということだけ。


目の前にいる河伯様はまるでかたい表情をしているけれど、穏やかな優しさは黙っていても伝わってきた。


——今私は神様をどう思っているか。

今、私は。


「神様を愛しています。たとえどんなに憎まれようとあなた様が愛してくださったように、全力で愛します」


愛している。まるで家族のように、ハユキは神様を愛していた。その言葉を口にだすのは畏れ多いと思っていたけれど。


『ありがとうハユキ。』

その一言で、なぜだか全てが救われたような気がした。

「ありがとう……ございます」

目に溜まった涙がこぼれてしまいそうになって、ハユキはうつむく。


『それじゃあな』

ふっと、気配が消えた。河伯様はもう行かれたのだろう。

しかし今は別れの余韻に浸っている場合ではない。


「レオ!」

ハユキは顔をあげてレオを見た。強い視線が返ってくる。

「いいのですね?私たちと共に旅することを後悔はしませんか?」

レオはにっと八重歯を出して笑った。ただ暗碧の瞳だけは真剣にこちらを見据えている。


「だから、敬語やめろよ。これから一緒にいるのに気ぃ使ってられないだろ」

そう言って八重歯を見せて笑った。

橋の落ちた川は、河伯様が計らってくださったのか向こう岸まで水が真っ二つに割れている。


レオが日の暮れ泥む町に連れていかれないで済む方法はひとつ。

逃げること。

この広い国で常に旅を続けるハユキたちの足取りを掴むのは困難をきわめる。


朝日の眩しい道で、ハユキの足元から繋がる長い影を 振り切るかのように足早に次を目指す。レオの宿で受け取ったクライドの手紙に書いてあった言葉がハユキを急かした。


【アンディの手がかりを掴みました。アンディはこの先の町、スカーレットに向かったと言う人がいます】

思い返しながら、ハユキは色々なことを考えるのをやめた。

それはまたアンディに会ってからかんがえればいいのだ。

いまはまだ——。


それぞれの胸中はばらばらなれど、一向は後ろを一切振り向かずにこの町を後にした。




☆★☆★



『おい』

腕組みをしてハユキの後ろ姿を見送った河伯は、人のなりをしたまま後ろに佇む人影に話しかけた。

『龍凰、おまえは息子を止めぬのか』

『止めてどうなる。あの不浄の町に連れていかれるくらいならこれでよい』

『不浄……か。しかしあの娘は実に幸運な娘だ』

河伯はとうに姿の見えなくなったハユキの通った道を、目を細めて見た。


『ハユキ=ユーデュレム』

そして独り言のようにぽつりと漏らす。


『ユーデュレムの血筋の者か……』

龍凰も河伯と同じように目を細めてその道を見た。

『ふん、河伯おぬし、あの娘に入れ込むか』

『私はおまえのように力の強いあきつ神ではない。久々に人と話せて嬉しかったまでよ』

『しかしあの娘、どれだけ他の者にかばわれているか知らないのだろう?どれだけ己のために自己を犠牲にしているものがいるのか……』

『当然だ。龍凰、おまえや私じゃないのだ。ハユキが知るはずもなかろう。神ではないのだ』


そう言って河伯は姿を消した。

残された龍凰は川に背を向ける。

『それもそうか……』

無表情なその男も、いつの間にかどこかへ姿を消していた。


川のせせらぎだけが、寂しげに聞こえてくる。





[日の暮れ泥む町【完】]









































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