群馬編4話 コダマ言語
横浜駅構内の各地には自己増殖により生成された案内板があり、そこには複数の種類の文字が書かれている。漢字で書かれた地名の下に、小さなアルファベットが記されているのが普通だ。
「前橋 Maebashi」
「高崎 Takasaki」
「太田 Ota」
といった具合だ。
こういう看板を幾つも見て、注意深くそのアルファベットを観察していれば、これが24種類ほどの文字からなり、地名の発音を記述している事にやがて気づく。「a」が「あ」の母音と対応していることが分かり、最終的にローマ字表が出来上がる。
さらに、
「前橋 Maebashi」
という看板から少し離れたところに
「前橋方面 for Maebashi」
とあるのを見れば、どんな者でも「for」が「方面」を意味していると分かる。だが、ここでアルファベット言語の知識のある人間は「for」の異物感に気づく。「fo」という音はローマ字表に存在せず、「r」単独で表す音もない。さらに語順が逆になっている。
勘の働く住民であれば、このエキナカの世界で生成される案内板は、全く異なるふたつの言語体系が含まれているということに気づく。しかしそこから先は難しい。資料が少ないからだ。
「あれは英語という言語だ」
と青目先生は説明した。ギョロ目で早口のニジョー青年が浅間山の西側から現れて、青目先生のもとに来た最初の日のことだった。
「コーカソイド人種というのはこの言語を使っていたらしい。for というのは前置詞と呼ばれる。意味は『方面』だけではなく、他にも色々ある。文脈によって読み分けることになる」
「ほうほう!」
そう言ってニジョーは、ラップトップ端末に言われた内容をメモしていった。
青目先生の蔵書には「英語」の本がいくらかあった。英語の使い方について書かれた辞書類がいくつかと、英語そのもので書かれた本が多数。多くはひどく黄ばんでいて、ページを開くのが難しいものさえあった。
彼はこれを、母から教わった知識をもとに、医者の仕事の傍らの知的趣味として読み込んでいた。
「ええと、ちょっと整理したいのですが、先生のお父さんがコーカソイド人種であり、お母さんが英語を教えた、という事ですか」
「そうだ。父はかなり早くに死んでしまったからな、ほとんど喋った記憶がない」
そう言うと、ニジョーは実に不思議そうな顔をした。
「しかし先生は先程、英語というのはコーカソイド人種の言語であった、とおっしゃいましたよね」
「ああ」
「つまり言語というのは、遺伝子で決まるものではない、という事なのですか」
「……?」
「ワタシも、昔の方々が地方によって異なる言語を喋ると伺っていたのですが、それは遺伝子の差異によるものではないのですね」
「それはそうだろう。言語というのは人間が後天的に獲得するものなのだ。たとえ日本人であっても、日本語の話されない環境で育てば、その場所の言語を身につけるものだ」
「なるほど。これは目からウロコでありますな」
とニジョーは嬉しそうに言う。
「しかるに、駅構造がこの言語を覚えているということは、駅膨張以前の日本では、日本語とコーカソイドの方々の言語が共存していたという事なのでしょうか」
「そうだったのかも知れんな」
「となると、この文字の大きさは、人種の比率を表していたのでしょうか? しかし、それにしては先生のようなコーカソイドの血を引く人間をほとんど見かけませんね。彼らはどこへ行ってしまったのでしょう」
「さあな」
と青目先生は答えた。
この駅構造が本州を覆い尽くす以前は長い長い戦争があったというが、それについて分かっている事は少ない。さまざまな国家が衛星兵器と戦闘ロボットを繰り出して領土を奪い合い、占領軍と難民の列がうねり続けて、さまざまな衝突があったという。
「とにかく、for が前置詞というのはわかりました。では、これは一体どのような意味になるのでしょうか、先生」
といってニジョーは彼に端末の画面を見せた。黒い画面に緑の文字でテキストが書かれている。
for (header in purgedHeaders) {
preparedRequest.headers.pop(header)
}
「なんだ、これは」と、青目先生は白い眉毛を歪ませた。「少なくとも英語の文章に、こんな記号は使わない。いや、使うこともあるが、こんな風には使わない」
「では、コーカソイドの方々とはまた別の言語という可能性もありましょうか」
「これは一体なんの文章なのかね」
「さあ、ワタシもそれが知りたいのですが」
そう言ってニジョーは画面を上にスクロールした。いちばん上の行には
#!/usr/bin/env codama
と書かれている。
「ワタシはこの文書をスイカネットから手に入れたのです。むかし瀬戸大橋のあたりで、あっ、瀬戸大橋というのは京都よりさらに西の方にある巨大な通路なのですが、ネットワーク・ノードが露出していて取り出しやすいところがあったので拝借して参りました。ワタシの考えが正しければ、これがスイカネットを制御している言語なのです。これを解読できれば、いずれはネットワークの通信を、いや、自動改札の行動をも制御できるに違いないのです」
また変な男が現れたな、と青目先生は思った。
青目先生のもとには、変な技術者風の男が年に一度ほど来る。自分がこれこれの素晴らしい(と本人は思っている)発明をしたので、これを世に広めるために力を貸して欲しい、というものだ。地元で知られた名士であり医者とくれば、その Suika にはたんまりと金が入っているのだろう、と彼らは思っている。
だがこのニジョーという男はなかなかそういう出資の話を切り出さなかった。それよりも今自分が持っている文章の意味が知りたい、という事のようだった。
「class というのはどういった意味なのでしょう」
「『学級』とか『授業』という意味だな」
「なるほど。class Connection とは『学級における親交』といったところでしょうか。では先生。import とは何なのでありましょうか」
「『輸入』だ。外国から物資を購入する、という意味だ」
「となれば、これはおそらく外国との交易が存在した時代の文書という事ですね。もちろん外国語で書かれているから当然なのですが」
こんな調子で、青目先生が何か不安な説明をすると、ニジョーがそれを何かしら解釈して文章を読み進めていった。自分の知識が役に立っているようには全く思えないが、この青年はそんな事を気にする様子もなかった。
そんな話をしているうちに定期検診で来た患者が現れたので、青目先生は本棚から辞書(いちばん読めそうなもの)をニジョーに渡した。
「あとはこれで調べるといい。家族の形見だから譲るわけにはいかんが、ここで使う分には構わないぞ。そのよくわからん文章を読み終わったら返してくれ」
「本当ですか」
ニジョーはギョロ目をさらに見開いて、深々と頭を下げた。
ただ青目先生の誤算は、このニジョーの持ってきた謎の文章が何万行と続く長大なものであり、彼はそれ以来長々とこの村に居座る事になったということだった。
ニジョーは青目先生の部屋の隣にある、最近できたばかりの狭い倉庫に居を構えることになった。最初から錆びついた金属製のドアがあり、じめじめしていてひどく暗いので、荷物置きにも使いづらいと思っていたところだった。
たいていは一人で作業をしているのだが、昼といわず夜といわず何かブツブツとつぶやいたり、唐突に「分かりました!分かりましたよ!」とか「本当に困難なことです」とか「またセグメンテーションがフォールトしました。これはどうしようもないです」とか騒ぎ出すのだった。
青目先生の自室は診療所を兼ねていたので、ベッドで寝ている患者が「壁の向こうから亡者のつぶやきのような声が聞こえるのです」といった苦情を言うようになった。隣にいるのはれっきとした生者なのだが、生者だからこそ亡霊よりもよほど迷惑なのだと青目先生は思った。
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