藍と緑の鍵 2

「ヴァネッサ、ごめん。俺が、この人を倒せていれば」

「いいえ、これは必要な決別でした。それよりも」

 次の戦いに臨まなければなりません。

 ヴァネッサは空を見上げる。ノルドが後ろを振り返った先には、傷だらけのクラウスがいた。

「ロジオン、その子を離せっ!」

 クラウスは、リエットを抱え空中に佇むロジオンに向かって叫ぶ。ロジオンも何ヶ所か負傷していたが、クラウスの方が劣勢に立たされているのは明らかだった。

「言われなくてもそのつもりですよ!」

「きゃああああっ!!」

 ロジオンは、ヴァネッサめがけてリエットを投げ飛ばした。ヴァネッサは銃をホルスターに戻し、落下してくる彼女を受け止めた。

「正義の味方は、人質作戦なんて汚い真似はしないんで」

「その口で正義を語るのか、ロジオンッ!」

 黒い翼を目一杯に広げ、クラウスはロジオンめがけ翔け出す。地上にいる三人には、もはや彼らの動きを追うことはできなかった。ただ刃が打ち合う音だけが高く響く。

 先に動いたのは、クラウスだった。

あまよ、あまよ、今だけは使命を忘れ大地に根付けっ!」

 クラウスのハルバードに埋め込まれた紅玉ルビーが、夕陽のごとく輝き出す。

「孤島におわす猛き神よ、天鳥あめのとり伴いて我が前に現れ出でよ」

 ロジオンの細身剣の柄にも、黄色に輝く石が埋め込まれている。石から生まれた光は、彼の持つ剣にまとわりつき、青白く輝いて雷となる。

「火を満たせ、火で満たせ、大地に炎のをもたらしたまえッ!」

「汝の力もて剣を振り、万物を貫く雷の矢を射よ!」

 二人の詠唱が重なり、互いに得物を振り抜いた。夜空を業火が走り、雷が弾ける。ぶつかり合った魔術は拮抗し、争う二人の表情を鮮明にした。ロジオンを必死の形相で睨みつけるクラウスに対し、ロジオンは余裕とも取れる笑みを浮かべている。

 しかし。

「なっ!?」

 ロジオンは、クラウスの予想外の動きに剣筋を迷わせた。クラウスは、自ら放った黄金の炎の中に飛び込み、眩い炎と雷光を隠れ蓑に、槍を突き出したのだ。

「これ以上は、始末書だ!」

 自らの身を焼いて得た一瞬の隙をつき、クラウスはロジオンの剣を地面に叩き落とした。先ほどのクラウスの攻撃で傷を負ったロジオンの手から、ぼたぼたと血が流れる。

 魔術によって呼び起こされた自然現象はやがて消え、宙には睨み合う男二人だけが残された。

「言い訳は、帰ってから聞く」

「その時のクラウス様に、聞く耳が残ってればいいですけど」

 血にまみれたロジオンの指先が、光った。

「いけない!」

 ヴァネッサが駆け出し、ロジオンの手を狙って発砲した。『白蜂ベスパ』から放たれた弾丸は彼の前髪をかすめただけだったが、彼からクラウスを引き剥がすには十分であった。

「鋭いな、ヴァネッサちゃん!」

 ロジオンはその手に雷をまとわせていた。ノンアクション、詠唱なしで放たれる魔術――石翼リトスだけが使うことを許された外法。だが、攻撃を妨害されたはずのロジオンはなおも笑っていた。

「だけど、奥の手は隠しておくものさ!」

 ロジオンは手を思い切り振り上げ、自らの血をクラウスの顔や傷に向けてぶちまけた。

「ぐあああっ!」

 ロジオンの血を傷だらけの身に受けたクラウスの背から翼が消え、大地に墜落した。ヴァネッサも手に彼の血を浴びると、突然銃を取り落とした。

「ノルド、これがなんだかわかるかー!?」

 上空から、ロジオンがノルドに向かって声をかける。

「お前の血も、俺と同じだ!」

 血――ヴァネッサの手を見ると、まるで火傷でもしたかのように腫れ上がっている。リエットがヴァネッサに駆け寄り、「Healingヒーリング」と方術で癒す。淡い光に包まれた手は、元の美しさを取り戻した。

 腫れ上がったヴァネッサの手。ノルドは、その様を別の場所でも見た。ノルドを抱いて逃げた空を墜ちた先。そこで見た彼女の手は、ひどく焼けただれていた。

石翼リトスの血は、毒石と同じ……白翼ヴァイス黒翼ノーチを焼く毒……」

「相変わらず飲み込みが早いな。お前の身体は海に適応し、変質した。今のお前はもうただの無翼フォールンじゃない。石の翼がないだけで、俺たちと同じ! ヴァネッサちゃんの手を焼いたのは、お前の血だ!」

「俺の血が、ヴァネッサの手を……」

 だから赤月界の空を飛んだとき、『戦闘ではまだ一度も傷を負っていません』と、彼女は言ったのだ。

 瞬間、音が、した。

 ショックに呆けている暇はない。クラウスに切られたロジオンの左腕、その肘より先が突如、ガチャンという機械めいた音を立てて外れたのだ。その腕の中に、金属の鈍い光が見える。

 ノルドはとっさの判断で、ヴァネッサを突き飛ばし、リエットを抱えて走った。ロジオンの腕を突き破って現れたのは、仕込み銃。

「良い判断だ! でも弾数まではわかんねえよなぁ?」

 血まみれの銃身が続けて火を噴く。ロジオンは、明らかにノルドを狙っている。いつの間にかノルドは、銃弾の軌道を目視することができるようになっていた。彼が撃った弾が描く軌跡が、青い光のラインとなって見える。身体もまるで自分のものではないかのように動く。『夢の海』でヴァネッサに加勢したあの時のように、全感覚が空に攫われたような錯覚に襲われる。

(このまま逃げ続ければ、ヴァネッサがあの人を倒すはず――)

 だが、その期待はあっけなく裏切られた。

「天より降れ五十いその種よ、この大地に恵みの森を――父のため、大地を蹂躙せし者たちに呪縛を」

 音を立てて砕けた石畳の下から、無数の蔦が姿を現した。蔦は地面を駆けて、ヴァネッサとクラウスの腕や足に絡みつこうとする。

「ヴァネッサ! クラウスさん!」

 うずくまるクラウスは、襲い来る蔦に抗うことができなかった。ヴァネッサはナイフを手に蔦を切り裂こうと抵抗したが、圧倒的な物量にはかなわない。ノルドの叫びも虚しく、長く青々とした太い蔦は彼らの武器を奪い取り、手足を拘束した。

「やっぱり、土はお前ら二人を味方だと思ってるみたいだな。が効かねえとは」

 地上へ降りたロジオンはヴァネッサとクラウスのマスクを奪い取った。さらには蔦でクラウスの口を封じると、彼はノルドとリエットの方へ向き直って語る。

「さて、これで俺の勝ちは決まったわけだ……そこで提案。ノルド、リエットちゃん。俺と一緒に来い。そうすれば、そこの二人にこのマスクを返す。どうだ?」

「いいとこ取りですか。それが正義の味方のやることですか?」

「いいとこ取りするんだったら、厄介な敵を速攻殺して、お前らを連れ去る。それもまあ、俺なりの正義って言えばそうかもしれないぜ?」

「それも、そうですね」

 ノルドは、精一杯鋭い視線を作って、目の前の男を睨みつけた。

「俺とリエットお嬢さん、共通点はひとつだけ。方術じゃなきゃ病気や怪我が治らないところです。だからお嬢さんも『夢の海』の虹色の水を飲めば、俺と同じになる……多分。だからあなたにとって、俺たちは仲間なんだろう。仲間を助けるのは、ロジオンさん的に見れば、正義かも」

「ご明察。先祖代々『壁』際で暮らし続けた人々の血を継いだお前らは、環境に適応すべく突然変異を起こしたのさ。耐性が反転したお前らにとっちゃ、薬が毒になり、毒が薬になる。だから、人の中にある自然治癒力を高める方術でしか、お前らの病気や怪我の治りを促進することはできない……だが変異種であるお前たちの体の中にこそ、大地に完全適応するためのヒントがある」

「だから俺たちが『救世主』だっていうのか。白翼ヴァイス黒翼ノーチにとって」

「そう。そしてあいつらは、お前たちのような奴らがいつか現れるだろうことを見越して、ずーっと待ってた。そりゃそうだよな、黒翼ノーチ白翼ヴァイスの突然変異、無翼フォールン黒翼ノーチの突然変異だったんだ。お前たちみたいな『次の種』が、突然変異で生まれるのも自明だろ」

 藍と緑の二色が混じり合う瞳には、明らかな怒りが宿っていた。

「双月界の虚の狭間クォータ・フィールドが『夢の海』に覆われたことを知った白翼ヴァイス黒翼ノーチは、『果ての壁』の防備をわざと不完全にして、風にわずかな毒を混ぜた。そして、『夢の海』への耐性を持つ奴が生まれるのを待つ……この町は実験場ってことさ! で、お前たちは実験動物の中の成功例ってわけ!」

 リエットが、ぎゅっとノルドにしがみついた。彼女の手は震えている。

「ところがだ。この町の人間たちをさんざん利用してたくせに、この町の『果ての壁』が破壊されたら、はい、さよなら。そのまま放置した。『果ての壁』が壊れたらこのメイリベルがどうなるか……連中が、知らなかったと思うか?」

 彼の言葉は、えぐるようにノルドに突き刺さる。ノルドの心から、血が流れる。

 その実験の失敗例――犠牲者が、自分の両親、そしてショーンの両親なのだ。

「そうやってお前たちを陰ながら支配して、陰ながら利用して……そんな白翼ヴァイス黒翼ノーチを、お前は信じられるのか!?」

「信じられるわけ、ないじゃないですか!」

「マジか? じゃあ、俺と来る?」

「いや、それもないです」

「……なんだよ、期待させんなよな」

 白翼ヴァイス黒翼ノーチ――歴史を隠し、自分たちを利用する彼らを信じることはできない。

 ノルドは、穴の開いた帽子をかぶり直して、言った。

「俺が信じられるのは、俺に一度も嘘をつかなかったヴァネッサだ。命を懸けて俺を助けてくれたヴァネッサだ。ヴァネッサといたのは短い時間だけど、俺は彼女を心から信じられる」

 どんなに傷ついても、この答えは揺るがない。

「そこの白翼ヴァイスが守りたがってる仮初の秩序が、お前たちを蝕むものだとしてもか?」

「間違った秩序は、正さねばなりません」

 答えたのはノルドではなく、ヴァネッサだった。青々とした蔦によって大地に縛り付けられたまま、彼女はロジオンを見据えていた。その表情には苦悶が浮かんでいるが、瞳に宿る光は強い輝きを放っている。

「私には翼があります。しかし、ノルドは優れた順応力と、情報分析能力を持っています。リエットさんは、方術を扱うことができます。いずれも、私にはない力です。これらの事実から導かれるのは、翼なき人々が、翼ある人々より劣っているなどという道理はない、ということです。間違っているのは、私たちです」

 彼女から発されたとは思えない言葉――ノルドもクラウスも、ロジオンさえも、驚愕の目でヴァネッサを見た。

「すごいな、ヴァネッサちゃん。見くびってたよ。心無い天使様の一人だと思ってたのに。君を仲間に引き入れればよかったかな」

 そう言ってロジオンは、地に伏した内通者の姿を一瞥した。

「……お前らみたいにできた奴ばっかりだったら、戦争なんてしなくてすんだのによぉ……」

 怒りと同じくらいに悲しみを湛えた彼の瞳が、藍の一色に染まっていく。

「和平のテーブルで、白翼ヴァイス無翼フォールンに毒を盛った! 黒翼ノーチ無翼フォールンに毒を盛った! だから、代表としてテーブルについた藍色の瞳の石翼リトスは、二種族の王に刃を向けたんだッ!」

 ロジオンが広げた翼から、驟雨のごとく羽根が放たれた。

「お嬢さん!」

 とっさにノルドはリエットをかばった。背中に石の羽根が突き刺さり、額に苦痛の汗が滲む。しかしリエットの指先から生じた方術の光が、背中の傷と苦痛を痒みに変えた。青ざめた表情を浮かべながらも、リエットは今できることをしようと懸命になってくれている。

(この羽根を食らったら、ヴァネッサやクラウスさんは即死だ。なら、なんで使わない? ……答えは、ひとつしかない)

「ありがとう、お嬢さん。もういいから、逃げてくれ」

 攻撃が止んだ。ノルドはリエットの頭を優しく撫でて立ち上がる。振り返ると、地面に降り立ったロジオンは再び剣を手にしていた。

 一人で彼と戦う。

 そう決意したノルドは、大きく息を吸って、魔術元素を集め始めた。

(思い出せ、思い出せ、思い出せ……!)

 他でもない彼が見せてくれた、『魔術大全』のページに書かれていた呪文を――

「湖におわす猛き神よ、白蛇伴いて我が前に現れ出でよ……汝の力もて弓を引き、万物を守り抜く水の矢を射よ!」

 背後で激しく魔術元素が鳴動し、いくつもの水流が銃弾にも匹敵する速度で駆け出す。宵闇の中に満ちた青い光が、壁に開いた大穴を鮮明に映し出した。同時に、無数の水流をかわしつつ、直撃しそうなものを雷で蒸発させているロジオンの姿も見える。彼の回避コースを読み、次の一撃を加えるべき地点を定め、ノルドは続く句を叫んだ。

「猛き神よ、今こそ渡りの日なり!」

 ひときわ巨大な水流が、蛇のようにうねりながらロジオンに向かっていく。彼が一度かわしても、彼自身より遥かに巨大な蛇は向きを変えて食らいついていく。

「やるじゃねえか! だけどな、魔術には制約があるってことをお前は知らないっ!」

 ロジオンはなぜだか楽しそうに笑い、水蛇に刃を向けた。

「孤島におわす猛き神よ、天鳥あめのとり伴いて刃向かう者を滅せよ!」

 刃から雷光が放たれる。雷は水蛇を捕らえると鳥に姿を変え、目の前の『壁』に蛇を叩きつけた。

「ええっ!?」

 水の蛇は壁にぶつかり、四散した。同時に、雷の鳥も弾けて消える。壁にすがりついていた人々が驚いたのか、おろおろとさまよい出す。

「残念だけど、お前に教えたその魔術じゃあ、俺の魔術には絶対に勝てないんだよなぁ」

「そこまで織り込み済みで、あのページを開いたってことですか!」

「そういうことさっ!」

 振りかぶった剣から電撃が奔る。ノルドには、詠唱なしで放たれる雷の魔術に対抗する手段がなかった。切れるカードはあとふたつ。一つは、ポケットの中にある、ヴァネッサがくれた銃弾。そしてもう一つは――

(いずれにしても、魔術を詠唱してる暇がない)

 まずは無防備なヴァネッサとクラウスから少しでも離れつつ、『壁』に近づいていく。

 彼らを縛る術は土から生まれた植物だ。あの蔦自体が毒なのだとしたら、時間を稼いでも無駄だ。早急に決着をつける必要がある。

 マザー=ジゼルがこの件に噛んでいた以上、白翼ヴァイスの援軍は、いつかと同じように期待できない。銀月界とこの町をつなぐ銀の月は、今は『壁』の陰に隠れていて見えない。

「次世代の寵児を殺すのは忍びないが、仕方ないな」

 ついにノルドは、『壁』際に追い詰められた。

 ロジオンは一瞬で距離を詰め、その刃でノルドの心臓を狙った。研究所で戦った時のように、刃を掴んで敵の動きを封じるなどということはできない。ロジオンの剣は機械の兵士たちよりも遥かに速く、鋭かった。

 避けられない。

 ノルドが絶望に目を見開いたとき――


 まるで時が止まったように、すべてが遅くなった。

 自分の中のすべてが、彼方へ攫われたかのような、不思議な感覚。

 細剣の容赦無い切っ先。

 だが、心臓に突き刺すまでには、攻撃というアクションが必要だ。


 ロジオンの言葉がよぎる。

「今のお前はもうただの無翼フォールンじゃない。石の翼がないだけで、俺たちと同じ!」


 エカテリーナの言葉が蘇る。

「あなたに一つ、大切なことを教えます。もしも、あなたの故郷で、あなたの命が危機に晒されるようなことがあれば、『果ての壁』に触れて。そして……」

 この呪文を詠うのよ。


 エカテリーナの指先が触れた額。

 そこから、記憶に焼き付いている呪文が、頭の中に炙りだされていく。

 呪文はとなり、ノルドの身体を巡り、そして。



《覗かせよ、わずかな時》

《天に月の宮、地に歌響き、人に海の愛》

《女王よ、聞き届けよ》



 ノルドは突然、思いっきり背中から倒れた。予想外の転倒で、ロジオンの刃は空を切った。

 そして、現れたのは流星。

「あなたがどんなに世界を恨もうと、次世代を殺すのだけは許さなくてよ」

 メイリベルに向けて真っ直ぐに落ちてきた銀色の矢は石畳の上で炸裂し、激しい爆風で砂埃を巻き上げる。風に煽られたノルドは紙のように吹き飛ばされた。

 煙の向こうに、人影があった。

「なんであなたが来ちゃいますかね」

「銀の月が、輝いているからよ」


 ノルドは、振り返る。

 広がっている。七色に輝く、『夢の海』が。

 まばゆく輝いている。『夢の海』の水平線の少し上で、銀の月が。


――消えた。『果ての壁』が。


「とんだ大博打だな、こりゃ」

「身の程をわきまえて地べたに這いなさい、人間ッ!」

 現れたエカテリーナは、怒声と共に胸の琥珀を光らせた。

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