黒銀の底 9

「これは、ただの防護壁。しかしいずれ実虚境界ディラック・ディヴァイドとなるもの。あなたが登った『果ての壁』とは、まだ、異質なもの……」

 エカテリーナは、歴史を順に追っていく。まるで見てきたかのような語り口だ。

「この『壁』が作られた最初の目的は、海から吹いてくる潮風を防ぐこと……残念だけど、この『壁』には果てがないの。どんなに登ったところで、頂上にたどり着くことはできない。『壁』は、無限にループを繰り返す幻術。魔術で作られた、形を持った幻なの。あなたが見つけた、メイリベル大図書館地下書庫の界層エレベータを隠していた、あの術と同じもの」

「……じゃあ、『壁』を消すことが、できるっていうことですか」

「ええ。できるわ」

「壊すことは?」

「できるわ。現に、メイリベルの『壁』は壊されたのではなくて?」

「どうやって?」

 しかしエカテリーナは、目を三日月形に細めて微笑んだだけだった。

「この『壁』は、大地と海とを分けた。白翼ヴァイス黒翼ノーチ無翼フォールンは皆、『壁』の中、つまり大地に。すべての石翼リトスが『壁』の外、つまり海に。毒に冒され『膿』と化した海へ、石翼リトスたちは追放された。彼らがその後どうなったのかは、彼らにしかわからない……」

 ノルドたちの足が、大地から遠く離れ、その場にいた全員が空高く浮かび上がった。もちろん幻で、実際に飛んでいるわけではない。現に、サラダが乗せられたままのテーブルは変わらずノルドたちと同じ高さ、同じ位置にある。

「私たちは今、この世界の一地方を俯瞰しているわ。ごらんなさい。ここは、メイリベル」

 ノルドの足元より遥か下方に、見慣れた橙色の屋根が小さく見えた。しかし、

「確かに、ここはメイリベル……でも、『壁』がありません」

 そのノルドの疑問に、エカテリーナは無言で答えた。彼女は杖で、メイリベルの西の方角を指した。

 夜の大地に灯る、無数の明かり。

「……まさか、ヘリオディス?」

「そうよ」

 思い出したのは、赤月界の都・ヘリオディスの東で見た石畳。あの石畳は、メイリベルのものとそっくりだった。

 エカテリーナが作り出した大地の幻を見下ろす。

「ヘリオディスの東にメイリベルがあって、メイリベルの西にはヘリオディスがある……どう見ても、地続きだ……」

「そう。メイリベルの西にはヘリオディスがあった……いえ、今もある。でも、ヘリオディスは、見えなくなった。あなたのいる次元から、ヘリオディスは姿を消したの」

「どういう……」

「『壁』を作り、海風を防いでも、白翼ヴァイスはまだ看過できない問題を抱えている。そうでしょう? ヴァネッサさん」

「はい」

「それは、何?」

「魔術元素です」

 ヴァネッサの答えには戸惑いがない。このことは、常識なのだ――双月界以外では。

白翼ヴァイスは、種の存続自体が危ぶまれるほどの危機に瀕していたの。だから彼らは、自らの住む世界から魔術元素を消した。息吹よ、新たな幻を!」

 エカテリーナの詠唱が、空間を震わせた。

 空には、赤の月。眼下は漆黒に飲み込まれた。

「ここは、赤月界。西にはヘリオディスがあるけれど……」

 ノルドに、青い瞳が目配せする。

「メイリベルは、なくなりました。俺の下にあるのは、虚の狭間クォータ・フィールドに見えます」

「では、双月界へ行ってみましょう」

 杖の先の鈴がシャランと歌うと、風景が一変した。

 広がるのは緑の大地。橙色の屋根と石畳の町、メイリベル。そして町の西側には、虚の狭間クォータ・フィールド。天頂では、二つの月が重なる――月宮夜だ。

 全員が、幻の月を静かに見上げた。

「……そして、銀月界」

 エカテリーナの声と同じように、鈴がチリンと悲しく囁くと、あたりは一面の黒となった。空も大地もすべてが虚ろに黒く染まり、銀の月だけが孤独に浮かんでいる。

白翼ヴァイスたちは、自分たちが暮らす地域から、膿んだ海と、魔術元素と、銀の月を消し去るため、世界を三つに切り分けた。このことは、次元分割カタストロフィ・セカンドと呼ばれているわ」

 真っ黒な世界に、ぽつぽつと町が見える。南東で色鮮やかに輝いているのは、おそらくエンシノーアだろう。しかし、虚の狭間クォータ・フィールドは檻のように、赤月界の町々を閉じ込めている。

「正常な空間から切り取られた場所は、虚の狭間クォータ・フィールドとなった。たとえば、双月界でメイリベルのある場所。そこは、赤月界と銀月界ではうつろとなっている。界層エレベータ・Mを使ってここまでやってきたのだから、わかるわよね」

 ノルドは頷いた。頷くしかなかった。

 たとえ、エカテリーナの語る言葉がまるで虚構に聞こえたとしても、ノルドはすべてこの目で見てきたのだ。

次元分割カタストロフィ・セカンドは、防衛であると同時に報復でもあった。白翼ヴァイスは、魔術を作り出した黒翼ノーチと、海を膿ませた無翼フォールンを憎んでいた。だから黒翼ノーチからは空を奪いうつろの底へ押し込め、無翼フォールンには『膿』と化した海を押しつけた」

 再び鈴が鳴る。現れたのはメイリベル。双月界の景色だ。

「殺し合いは終わった。白翼ヴァイスたちは短命の呪縛と引き換えに平和を手に入れた。でも、無翼フォールンはまだ、石翼リトスを作り出す技術を持っていたわ。もしも無翼フォールンが新しい石翼リトスを作り出し、次元を超える術を見つけ出してしまったら? ……残念だけれど、同じことを黒翼ノーチも考えていたわ。そしてある日、黒翼ノーチの元に白翼ヴァイスの使者がやってきた。白翼ヴァイスは次元を超える術を黒翼ノーチに教え、両者は再び手を結んだ。そして……無翼フォールンから、すべての文明と記憶を奪い取ることに決めた」

 エカテリーナが言葉を切ると、突如『果ての壁』が現れた。メイリベルの西側を覆い尽くす、ノルドもよく知るあの『果ての壁』だ。それが、町と虚の狭間クォータ・フィールドの間に屹立した。

「まず、防護壁の位置を変えて、虚の狭間クォータ・フィールドを隠した。この時ね。『壁』が実虚境界ディラック・ディヴァイドと呼ばれるようになったのは。実在する空間と虚像の空間を分ける……それが実虚境界ディラック・ディヴァイド

 その時、エカテリーナが唇をギュッと噛み締めたのを、ノルドは確かに見た。

「……姫の息吹は、新たな世界へ」

 そして――

「え?」

 銀の月から大地へ、無数の光の矢が流れて墜ちた。雨のように、嵐のように、流星群のように、光が降り注ぐ。

「この大魔術が、無翼フォールンたちの文明を滅ぼした。危険な技術の痕跡を消した。技術者自身が持っている知識も、継承の芽もすべて潰し尽くすため、当時生存していた成人をすべて殺した。殺して、殺して、殺し尽くした……それはそれは、無慈悲にね」

 ノルドの身体を、恐怖が冷たく襲った。

 頭では理解できても、心が理解を拒んだ。

石翼リトスは境界の外。無翼フォールンは、石翼リトスを作る技術を失った。でも、無翼フォールンが再び発展し戦争が起きたら、今度こそ世界のすべてが滅びるかもしれない。そう考えた黒翼ノーチ白翼ヴァイスは、双月界の『文明を管理』し『秩序を守る』ことにした。危険な技術が産まれそうになったら、その発見者を殺す。世界の真実が暴かれそうになったら、その冒険者を殺す。ノルドさん、あなたはボールペンと銃と、どちらがより高度な技術の産物だと思うかしら? ……問われたというだけで、わかるわね。では、より危険なのはどちら? なぜ、双月界にボールペンが存在して、銃が存在しないのか。わかってくれまして?」

「……」

「そして、無翼フォールンの文明が滅びてから、九八七年が過ぎた。ノルドさん、今日は、何年何月何日?」

「……新世暦、九八七年、六月……十八日」

「そう。界がたに生まれ変わってから、九八七年と六ヶ月と十八日、ということ」

 彼女に何かを問おうとしても、やけついた喉からは声が出ない。

「あなたは、メイリベルの人々が無関心なのが不思議だったみたいだけれど……あなたがおかしいのよ。『壁』に近づくと病気になるという噂に支配された町で、積極的に壁に近づいていくのは狂人の所業。大図書館という知識の泉に、誰も興味を示さない。あの町には、そういう魔術がかけられている。がね」

 いつの間にか、ノルドたちは最初の夕焼けの海にいた。エカテリーナは、砂浜に『膿』という字を書く。この字をノルドは知っていた。この字は、『う』だ。

白翼ヴァイスは、海を『膿』と呼ぶ。真世界の黄昏カタストロフィ・ワンによって発生した膿というわけ。そしてあなたが海という字を読めなかったのは、人を狂わせる『夢の海』の存在が、徹底的に秘匿されているからよ」

 エカテリーナが杖の柄で砂浜を突く。先端にくくりつけられた鈴が鳴ると、海はノルドの目から隠された。四方が、琥珀の壁に囲まれる。部屋を満たしていた幻は消え、現実へと帰ってきた。

「あなたたち無翼フォールンの知らないところで、『夢の海』は、虚の狭間クォータ・フィールドを飲み込んで広がっている……見たでしょう? 壁のすぐ向こうに、海があったのを」

 ノルドは震えながら、頷いた。

白翼ヴァイス黒翼ノーチもあなたを欲している。あなたが、三界を再び一つにするための、鍵になるかもしれないから。あなたは石翼リトスではないのに、あの海に耐えられる。あなたは、千年の間誰も得られなかった『夢の海』に対する耐性を獲得したのよ」

 席についたエカテリーナはサラダを頬張り、いつの間にか運ばれてきていたスープをすすり、ノルドに視線を送る。しかし、ノルドはその場に立ち尽くすことしかできなかった。

「あなたの卓越した順応力と分析力は、『夢の海』によってもたらされたもの。『夢の海』は、その身を滅ぼす毒なだけではない。石翼リトスたちがそうであったように、優れた頭脳と力を与えるものでもある。ただ、その代償が激痛と発狂なだけ。石翼は地獄のような苦しみに耐え抜いて初めて生まれる……狂気の沙汰ね。追い詰められた人は、何をするかわからないわ」

 棒立ちのノルドに向かって、エカテリーナは、

「せっかくだから、料理を召し上がって。立ったままでは疲れるでしょう?」

 と促す。

 ノルドは、粟立つ背筋に耐えながら、元いた席に戻った。いつの間にか席を立っていたヴァネッサ、クラウス、ロジオンも、各々の席についた。

「主上、今のノルドくんに食事をせよとは、酷なのでは……」

 その言葉は、きっとクラウスの思いやりだ。だが、ノルドは声を絞り出して言った。

「いいえ、食べます。食べさせてください」

 せっかくこのテーブルでこれから、白翼ヴァイスと、黒翼ノーチと、無翼フォールンが、共に食事をするんですから。

 そう言って、ノルドは運ばれてきた料理を次々に平らげていった。だが正直、味はよくわからなかった。

「いつか、石翼リトスとも一緒に、食事ができたら、いいのに」

「……あなたは本当に鋭いわね、ノルドさん。私の心をも見透かしているなんて」

 エカテリーナの声は常に、まるで架空のお伽話を歌うかのようだった。

 だが、最後の言葉だけは、実を持って心に沁みた。


 五人は、眩い琥珀の広間で、静かに食事を共にした。

 銀月界が誇る宮廷料理人の作った素晴らしいフルコースを残す者は、いなかった。 

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