黒銀の底 6


 運ばれてきたアールグレイティーから漂う、濃厚なベルガモットの香り。

 レックスが空のティーカップにミルクを入れてからポットの紅茶を注いだので、ノルドはそれにならう。ヴァネッサは、ストレートの紅茶をなぜかじっと見つめていた。

「ここからは、小声で話したいんだけど」

 レックスは声をひそめ、聞こえるか聞こえないかの音量で話し始めた。

「ローレライの存在を知ってるってことは、ノルドさんは《無翼フォールン》で間違いないんだよね?」

「え? 無翼フォールン……って?」

「人間のことです。悪魔が用いる名称です」

無翼フォールン、《黒翼ノーチ》、《白翼ヴァイス》が正式名称なんだって」

 暗に天使を非難する教え方だ。レックスは、まだ気づいていないようだが。

「じゃあ、俺は無翼フォールンで間違いないよ。翼を初めて見た時、びっくりした」

「俺は……びっくりできないや。俺以外に翼が出せない人がいても、パッと見にはわからないからね」

 翼がない。そのことは、レックスへの周囲の目をより冷たくさせているに違いない。彼はきっと、銀月界にいる誰とも違うのだ。

「そうだなあ、翼がないことを証明するには……高いところから落ちたときに、地面に墜落するまで翼を開かないくらいしないとダメかな」

「あはは、なにそれ。危ないからやらないでね?」

「いや、それが実話なんだよ。俺の住んでた町って、西側にすごく高い壁があってさ。『果ての壁』って言うんだけど、てっぺんが見えないくらい高くて」

「うん、うん」

「その向こう側が見てみたくて、『壁』を登ろうとしたことがあったんだ。だけど、失敗して落ちた」

「えっ、大丈夫だったの?」

「大丈夫じゃなかった。死んだと思った。だけど、助けてくれた人がいたんだよ」

 六年前の、あの日。銀髪の女悪魔、この世界の言葉で言うならば、銀髪の黒翼ノーチの女性が助けてくれたあの日のことを、やはりノルドは昨日のことのように思い出せる。

「黒い翼の女の人だった。きっと黒翼ノーチの人だったんだね」

「ふーん……」

 レックスは、ミルクティーをすすりはじめた。

 ノルドの思い出話を聞いたところで、ノルドに翼がないことを、レックスが自身の目で確認することはできない。

 それに、レックスが聞きたいのは双月界の町の様子だ。多少強引に話題を戻す。

「『壁』のほかには、大きな白銀の鐘があるんだ。夜中はさすがに鳴らないんだけど、朝や昼は一時間おきに今何時なのか知らせてくれる、外観だと……石畳と、橙色の屋根が特徴的なんだ。メイリベルの家の屋根は、全部鮮やかな橙に塗られてて、少し高いところから見ると壮観だよ。エスカレーターはないから、石段を上るのが大変だけど。メイリベルでもあれだけきれいなんだから、きっとローレライはもっとすごいんだろうな」

「……ノルドさんって、俺の考えてることがわかるの?」

「え?」

 レックスの言葉の意味が飲み込めず、ノルドは戸惑った。

「いや、気にしないで。メイリベルはきれいなところなんだね。他にもなにかある?」

「あ、うん。あるよ。芸術家肌の人が多くてね、陶器や絵を町の広場で売ってたりする。それからなにより、メイリベルには、双月界最大の図書館が――」

 図書館が――


――


「ノルドさん!?」

 レックスが慌てて大声を上げた。なにに驚いているのかと思ったら、

「あ、あれ……?」

 ノルドの瞳から、ぼろぼろと大きな涙の粒がこぼれ落ちていた。

「と、止まらない。どうして」

「ノルド……っ」

 ヴァネッサが何事か言おうとして、やめたのが見えた。

「メイリベルには、双月界で最大の図書館が、あって……っ、すごく、大きくて、本がたくさんあって……地下の書庫、迷宮みたいになって、て……」

 しゃくりあげるようにしてしか、話せない。喉が焼けるように熱く、頭がガンガンと揺れる。胸がいばらで締め付けられて、痛い。

「地下十階まで……あるって、ひっく、聞いたのに……俺、七階までしか、見てな……うっ、ううっ……」

 ついには嗚咽が漏れだした。止まらない。ここ数日で自分の身に起こったことが、次々に思い出される。


『めちゃくちゃな夢に魅せられて、正気を失っちまったのさ』


 そう言ったのは、ロジオンだったか。


 メイリベルの話をしたことで、気がついてしまった。 

 そうだ、ノルドの正気は言っている。

――帰りたい。この狂った非日常から抜け出して、日常へ。


 ヴァネッサさえいてくれればいいと言い聞かせ、自ら作り上げた堰は決壊した。あとはもう、あふれ出るだけ。


「ちょっと,何かあったの?」

「あの男の子、あんなに泣いて。みっともないわね」

 女性客ばかりの店内がざわつきはじめた。ひそひそとこちらを窺う声も、群れとなればひどく耳につく。

「ノルド、申し訳ありません」

「どうしてヴァネッサが、謝るんだよ」

 脈絡のない謝罪だった。だが頭が回らず、ヴァネッサの心を推し量ることはできない。

 ただ、彼女の顔が歪んで見えた。それはノルドの目を覆う涙のせいではなく、彼女自身、その美しいかんばせを悲痛に歪めていたからだ。

「ノルドさん、ごめんなさい、俺、自分のことばっかりで。ノルドさんの気持ち、全然考えてなかった」

 レックスはハンカチを差し出してくれた。

「あり、がとう。レックスくん、ごめん……」

 ふわふわの白いタオルハンカチは、涙をよく吸ってくれた。


 ようやく涙が止まったというのに、周囲の視線はノルドたちに向けられたままだ。みっともなく泣いているところをジロジロ見ないでほしい――そう思ったのだが、衆人の視線を集めているのは、ノルドではなかった。

「あの子、なんでこんなところにいるの?」

でしょ? 自分は呪われた子だって宣伝してるのと同じよね」

「ひどい火傷。私なら外歩けないわ~……」

 ひそひそと話す別の席の客たち。この手合いは、どこにでもいるのか。怒りで、体中の血が沸騰しそうだ。

「ノルドさん、いいよ」

「でも!」

「いいんだ。気にしないで」

 レックスの表情は凪いでいる。

 ノルドがメイリベルの人々に無関心だったように、レックスもまた、この町の住人たちには無関心なのかもしれない。

 しかし、

「クラウス様って、顔はいいけど、何考えてるのかわからないわよね」

無翼フォールンと結婚して子供まで作るなんて気持ち悪いわ。無翼フォールンって、一番やっかいな連中じゃない」

「でも名家だし、軍での地位も高いし、後妻狙いの人多いらしいわよ~」

「やだぁ、それってもう財産目当て?」

 レックスは、攻撃の矛先が父親に向いた途端、唇を噛んで震えだした。

 こんなのは、毒だ。それも、猛毒だ。

 一刻も早く、店から出なければ――

「レックス殿、会計を済ませましょう。私は今、通貨を所持していません」

「あ、うん……」

 レックスが財布から取り出した紙の札を、ヴァネッサは彼の手から奪った。

「会計を」

 先ほどの老年のウェイターに向かって、ヴァネッサは冷たい声で告げる。そしてサッと会計を済ませると、突然レックスの手を握って持ち上げた。

「ノルド、宮殿の南口で落ち合いましょう」

「え?」

 突然の事だった――ヴァネッサが、白い翼を思い切り広げたのは。

 レックスを連れ、純白の羽根を舞い散らせながら華麗に飛び去る。屋根のない店から、黒い空へと。彼女の白く美しい翼は、黒によく映える。

「やっぱり、天使、でもいい気がするなあ」

 見惚れるノルドとは対照的に、店内からは悲鳴が上がる。

「ちょっと、なんでここに白翼ヴァイスがいるの!? 信じられない!」

「やだぁ、ケーキに羽根が!」

 場所もわきまえず、客たちは喚き散らす。もっとも、一番場所をわきまえなかったのは、ヴァネッサなのだが。

 声を上げて笑い出したいのをこらえて、ノルドは店を後にした。


 ノルドは、先ほど三人で来た道を駆けて戻る。たまに誰かと肩がぶつかるが、人混みなど全く気にならなかった。

 ヴァネッサの行動は突飛だった。だが、自らがその場で一番の『悪』となることで、彼女はレックスを守った――

 そのことが、ノルドにはたまらなく嬉しかった。


 駅舎商店街を抜け、せせらぎに満ちた硝子の庭園を抜け、見張りに会釈をして、ノルドは『真昼の宮殿』の正面玄関の大扉を開いた。

 ヴァネッサとレックスは、当然先に着いていた。空には、人混みという障害物はない。

「ふたりとも、遅くなって――」

 ごめん、と言おうとしたのだが。

「ヴァネッサさん! 俺と結婚して下さい!」

 レックスはヴァネッサの手を両手でひしと握り、蜂蜜色の右目をキラキラと輝かせている。

「はあああああーっ!?」

「お願いします、ヴァネッサさん! この先も、俺と一緒に」

「おい、クソガキ!」

「あなたを悪く言う奴もいると思います。けれど、俺がそういうのは全部跳ね返せるくらいに強く、偉くなりますから!」

 レックスはノルドを無視して、ヴァネッサに愛の言葉を紡ぐ。

「白い翼があんなにきれいだなんて知らなかった。ヴァネッサさんはきっと、本物の天使なんだ……」

「クーソーガーキー!」

「痛っ!」

 ノルドは有無を言わさず、レックスを羽交い締めにした。

「やめてよノルドさん! 邪魔しないで! 俺は真剣なんだ!」

「レックス殿、申し訳ありません。現段階ではあなたのご希望に添うことはできません」

 ヴァネッサはとつとつと、まるでいつもどおりにそう告げた。

「あなたは、七歳。まだ銀月界においても赤月界においても、結婚できる年齢に達していません。ですから、ご希望には添いかねます」

「じゃ、じゃあ、俺が大きくなったらっ、むぐぐ!」

 ノルドは大人気なく、レックスの口を思い切り塞いだ。

「何言ってるんだこのマセガキ! 十年早いっ!」

「そうですね、十年経過すれば婚姻は可能でしょう」

 ヴァネッサが至極真面目な顔でそう言うので、ノルドは肝が冷えた。

「ヴァ、ヴァネッサ、えっとっ、あのさっ……」

「レックス!」

 まるで図ったようなタイミングで現れたのはクラウスだった。焦っているのか、息を切らしながらバタバタと走ってくる。

 そして、羽交い締めにされている自分の息子を見て、目を剥いた。

「あの、いや、これには深い理由があってですね、その……」

「ノルドくん、レックスがなにか失礼を? すまない……レックスに代わって謝ろう」

「い、いえ! 失礼というわけではないんですが……」

 レックスからパッと手を離し、クラウスに引き渡す。

 しかし、先ほどの話題をクラウスに聞かれたくはなかった。ノルドは、話を逸らす。

「それにしても、出迎えのタイミングがよくてびっくりしました。まるで、俺たちが帰ってきたのがわかったみたいですね」

「え? もちろん、わかるとも。ノルドくんがどこにいるかは常に把握しているから、当然じゃないか」

「……え?」

「ロジオンから聞いていないのか? あいつが君に渡したそのネクタイピンには、対応する石と共鳴する音の魔術石がはめこまれているんだ。もともとは、僕たちが慣れない赤月界ではぐれないために用意したものだったんだが」

 確かに、クラウスのネクタイを留める銀色のピンにも、黄玉トパーズがあしらわれていた。

「よかったよ。君がそれを身につけてくれていたから、赤月界の空で君たちを見つけることができたんだ」

「そ、そうですか……」

 コメット・モールで、ロジオンがネクタイピンを強引に押し付けてきたことには、意味があったのか。彼の意外なしたたかさに、ノルドは驚かされた。

 クラウスは自然と父親の顔に戻ると、レックスに尋ねる。

「レックス、楽しめたか?」

「うん!」

「そうか、よかった。ノルドくん、ヴァネッサ嬢。世話をかけたね」

「こちらこそ、おいしいケーキをごちそうになってしまって。ありがとうございました」

「気にしないでくれ。礼を言うのはこちらのほうだよ」

 その後、二、三言葉を交わすと、クラウスとレックスは連れ立って去っていった。


「ヴァネッサ、さっきのことだけど……」

 彼女は、レックスの求婚を本気で受け止めているのだろうか。そのことが気になって気になって仕方がない。

 しかし――

「げほっ、げほっ! ごほっ、うっ、ぐ……」

 クラウスたちがいなくなった途端、彼女は咳き込み始めた。それも、血でも吐きかねないひどさで。

「ヴァネッサ!? 大丈夫か!?」

 膝から崩れ落ちたヴァネッサの背を、ノルドはやさしくさすった。

「そうか、魔術元素……!」

 ここ銀月界は、魔術の光に満ちている。魔術元素は、白翼ヴァイスにとっては毒なのだ。

「魔術元素を吸い過ぎたんだ……でも、あのマスクで防げたんじゃないのか?」

「あれをつける、のは、私が天使で、あると宣伝するのと、同じっ……です。くっ、がはっ……」

 ヴァネッサは、ヒューヒューと浅い息を繰り返す。彼女がマスクをつけて落ち着くまで、背中をさすり続ける。

「無理してたんだな。気づかなくてごめん……なのに、ヴァネッサはレックスくんや俺のために……」

 悪いのは、初めにみっともなく泣いて、周りの視線を集めてしまった自分なのに。

「いいえ、それは……っ、違います」

 マスクの向こうから、くぐもった声が聞こえる。

「あれは、最も嫌悪すべき対象である私の存在を知らしめ、レックス殿への、非難の目を、ごまかすという意図も、ありましたが、それ以上に、私自身の……罪滅ぼしの、ため、でした」

「罪滅ぼし?」

 それは、およそヴァネッサの口から出るとは思えない言葉だった。

「どんな理不尽にも、苦痛にも、涙を流さなかった、ノルドに、涙を流させたのは、他でもない、私です」


 ヴァネッサは、言った。

「メイリベル大図書館に火をつけ、破壊したのは、私です」


――その瞬間、息が、止まった。


「そうすれば、『壁』側の入口を正確に知る者しか、エレベータに辿りつけなくなりますから……そのために、界層エレベータを要監視対象から隠すために、図書館を破壊、しました……あの、美しい絵画も、灰に……本当に、申し訳、ありません……」

 碧眼がひどく曇っている。言葉尻を濁す様子は、まるで彼女らしくない。

「……それが、『任務』だったんだろ」

「そう、です。げほっ、げほっ」

「なら、いいじゃないか。ヴァネッサが気にすることじゃない……」

 咳き込むヴァネッサに、ノルドはそれ以上、何も言えなかった。



「ロジオンさん」

「なんだぁ? さすがにもう眠いんだけど~……」

 煮え切らない気持ちを抱えたまま、ノルドはロジオンの部屋に戻ってきていた。

 実感はないが、壁掛け時計は夜半を告げている。ノルドは寝間着と布団を借りて横になっていた。ロジオンも布団で寝ている。狭い部屋を有効活用するには布団が一番だと、彼は言った。

「クラウスさんの奥さんは、亡くなられたんですよね」

 真っ暗な部屋で、ロジオンは、きっと少し躊躇ってから答えた。

「……半分人間のレックス坊ちゃんは、半身を焼かれた。なら、全部人間だった奥方は?」

「全部、人間だったら……」

 ロジオンの問いの答えはわかりきっていた。だが、それを口にする気にはなれない。


 ヴァネッサのことを、思う。

 彼女の不器用なやさしさ。彼女が覚えたという罪悪感。

 彼女の『機械』としての振る舞いは、やはり仮面なのだ。レックスも、彼女の心の無垢さに気づいたからこそ、幼いながらに惹かれたのだろう。


 だが、この世界は、レックスの淡い想いも、ヴァネッサの献身も、すべて踏みにじる。

 仮に、仮にだが――ヴァネッサがレックスと結ばれたとしても、ヴァネッサがたどる運命は、クラウスの妻と同じもの。


 早く会いたい。あの、銀髪の女性に。

 この世界のすべてを知るために。

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