天の虜囚 8

 夢と現実の間を、行ったり来たりしていた。

 空には赤の月も銀の月もなく、ただ星々がまたたいているだけだった。

 薄くたなびく雲の色は暗く、容赦なく吹き付ける夜風は冷たい。風を切る音と、たまに聞こえる鳥の羽ばたきのような音だけが、ノルドに聞こえるすべてだった。


 少しずつ、意識がはっきりしてくる。

 おぼろげだった視界が鮮明になると、異様な光景がノルドの目に飛び込んできた。

「う、うわあっ!?」

 ノルドは、空の上にいた。遮るものはただ雲のみ、遠く星空が広がる。地面と思しき暗闇は、遥か彼方――どう見ても、落ちたら即死する高さだ。六年前、『壁』から落ちた時よりも、さらに高い場所にいる。

「気が付きましたか」

「ヴァ、ヴァネッサ!? これは……」

「追手を振り切ります。じっとしていてください」

 ヴァネッサはノルドを無理やり横抱きにして、空を飛んでいるらしい。

「そうじゃなくて! これじゃヴァネッサの負担が大きすぎる。俺の体重は――」

「身長一六六センチ、体重四三キロ」

「え?」

「現在のあなたのパーソナルデータです。研究所での入院生活、二週間寝たきりであったこと、栄養摂取手段が点滴のみであったことが原因で、あなたの身体はやせ衰えています。体力、筋力も同様です」

 風に煽られてめくれ上がった袖の先から覗く手首は骨が浮き出ており、自分のものとは思えないほどに細かった。

「そ、そんな……」

「今は好都合です」

 確かにそうかもしれないが、ノルドにとっては耐え難い状況だった。ノルドはもう、十歳ではない。この歳になってまた、女性に抱きかかえられているなど。

 その時ふと、自分の左手が帽子を握りしめていることに気がついた。ヴァネッサが帽子を脱がし、手に握らせてくれたのだろうか。

 空を翔けるヴァネッサの金髪は、激しい向かい風に乱れている。口調こそいつもどおりだが、必死の形相だ。時々、苦痛に顔を歪めているようにも見える。ノルドが意識を失っている間に、どこか負傷したのだろうか。

 少しでもヴァネッサの負担を減らそうと、ノルドは彼女の首にすがりついて上体を起こした。女性だとか、情けないだとかは言っていられない。消防団で救護の演習を行った時、横抱きで運ばれる側はこのようにして協力するのだと教わっていた。

「ありがとうございます。少し楽になりました」

「最初から言ってくれればよかったのに」

 それだけ言って、ノルドは口を閉じた。

 まざまざと思い出された苦い記憶と、同時に生じた自虐の感情に、自然と俯いてしまう。

 すると、遠く宵闇に包まれた地面に、いくつもの明るい光が密集している場所が見えた。

「もしかしてあれって、ヘリオディス?」

「大地に灯る光を見ているのなら、そうです」

 どこか幻想的な都市の明かりは、少しずつ遠ざかっていく。

「ヴァネッサ、どうしてヘリオディスから離れるんだ? 助けてもらうなら、ヘリオディスを目指したほうがいいんじゃないか?」

「それはできません。後方から追ってきている敵を、ヘリオディスに入れるわけにはいきません」

 羽ばたく白い翼の向こうには、確かに数人の機械兵士が見えた。だがその姿は明かりと同様に、少しずつ小さくなっていく。

「このまま逃げ続けていれば、必ず救援が来ます。私の持つ電子端末が、ヘリオディスの本部に位置情報を絶えず送り続けていますので、耐え抜けば必ず助かります」

「あと、どのくらい……」

「それは……っ、わかりません」

 突然、ヴァネッサが痛みをこらえるような様子を見せた。

「どこかケガしてるのか?」

「いいえ。今回の戦闘ではまだ一度も傷を負っていません」

 ならばどうして、時折苦しげに顔を歪めるのか。ヴァネッサが嘘をつくとは思えなかったが、それ以上の詮索はしなかった。彼女の言う通りの状況であるなら、ヴァネッサはこのまま助けが来るまでの間、ずっと目的地もなく空を飛び続けなければならない。しかも、ノルドを抱えたまま――その負担は、想像を絶する。質問攻めにして、余計な負担を強いたくなかった。

(助けって、いつ来るんだ)

 遠くなる街の明かり。遠ざからない敵の影。突き放していたはずの敵が、少しずつ迫ってきているように見える。

(ヴァネッサは、機械じゃない)

 白い翼は羽ばたきと滑空を交互に何度も繰り返すが、そのペースは確実に遅くなってきている。風を切る音に混ざる疲れた息切れは、少しずつ速くなってきている。

(黒い翼のやつらは、機械――疲れ知らずだ)

 このままでは逃げきれない。

 ヴァネッサの両手は塞がっている。銃を撃つことは出来ない。追手の機械兵士は五人。ノルドというハンデを課せられたヴァネッサに勝機はない。

 だが、ノルドなら。

「太陽が産みし霧の乙女、」

「いけません!」

 詠唱は、怒声に遮られた。魔術元素はまだ、チリほども集まっていない。

「ヴァネッサが戦えないなら、俺が戦うしかないだろ」

「ここで魔術を使ったら、あなたは死にます」

「なんでだよ! 車で逃げてるときはなんともなかった。魔術を使って死ぬなんて、そんな馬鹿な話があるわけない」

「……機密に多少触れますが、ノルドの命には代えられません」

 短く呼吸しながら、ヴァネッサが言う。

「ここ天界における魔術は、命を縮める外法です。もう使ってはいけません」

「え……」

「助力の申し出、感謝します。しかしあなたを死なせるわけにはいきません」

 憔悴しきった表情の上に、十重二十重にも焦燥が浮かぶ。もうヴァネッサには表情を繕う余裕すらないようだ。

 不安は伝染し――ノルドは思わず、追ってくる敵を見やった。

(……嘘だろ)

 後方に二人。敵の数が、増えている。

 七人の敵は、それぞれの得物が見て取れるほどに迫ってきている。先頭集団のうちのひとりが、羽ばたきながら肩に銃を構えた。

「ヴァネッサ! 銃がこっちを狙ってる!」

 だがヴァネッサには、避ける力が残されていなかった。

「ぐっ……!」

 無慈悲な銃弾が、ヴァネッサの左翼を直撃する。美しい顔は苦悶に歪み、翼も腕も痛みに力を失った。

「ヴァネッサっ!」

 それでもヴァネッサは立ち直った。ノルドを抱える腕に力を込めて、もう一度羽ばたく。

 赤く染まった羽根が散る。ヴァネッサの指から力が抜け、また力が入り、そしてまた力が抜ける。加減を失った指先が痛いほどにノルドの身体に食い込む。

 それでもヴァネッサは必死に空を滑り続ける。星明かりに照らされた彼女の顔は、死人のごとき蒼白だった。

 敵集団との距離はさらに詰まってきている。特に、増援の二人が速い。先頭集団を追い抜かし、猛スピードでノルドたちの方へ突っ込んでくる。

「太陽が産みし霧の乙女、その御心のままに激流を奔らせ」

 ヴァネッサの忠告を無視して、早口で句を紡ぐ。もうヴァネッサには、ノルドの声は聞こえていない。

 二人の増援のうち、一人が突出した。両手で巨大なハルバードを構えるその敵は、今までに見たことのない姿をしていた。赤みがかった柔らかい茶髪を風になびかせ、髪と同じ色の瞳の奥には、金色の炎が燃えている。睨みつけられただけで焼きつくされそうな威圧感。

 だが、気圧されてはならない。焔色の瞳を見据え、呪文を紡ぐ。

「我が進軍を……ッ!?」

 しかし、詠唱は続かなかった。

 喉が焼ける。全身がきしむ。体中が燃える。まるで直に臓器を炙られているように。血混じりの涙で、まぶたの裏が赤く染まる。

 唱えるな。そう、体中が警鐘を鳴らす。

 赤く染まる視界、男の姿はもはや眼前。男の得物――身の丈よりも遥かに長いハルバードの切っ先は、ノルドとヴァネッサを一息に突き刺せる位置にあった。

 こんなところで、殺されるわけにはいかない。

御井みいの恵みはっ! 冬に……ッ」

 既知の魔術の中でもっとも短い句を紡ごうとした。しかし――

「自ら命を縮めるな」

 目の前の男の手が伸び、強くノルドの口を塞いだ。

 厳しくもやさしい、まるで子供に言い聞かせるような、その声。

 異変に気がついたヴァネッサは飛翔を止め、振り向いた。

。この意味がわかるね、ヴァネッサ嬢」

蒼白だったヴァネッサの顔がさらに青くなる。『悪魔』と名乗った赤茶けた髪の男は、夜空に黒い羽根を舞わせている。

「おらおらおらぁーっ!」

 叫び声を上げているのは、もう一人の増援――否、『悪魔』だった。その男も今までの敵とは違う風貌をしている。うなじのあたりで一本に結われた紫紺色の長髪が、風に吹かれて慌ただしく揺れる。

「味方を欺くには、まず敵からだぁっ! 黒い翼は悪役の印――と見せかけてのヒーロー見参! 安心しろ青春の少年少女! この俺が来たからには、贋作どもの狼藉なんて絶対に許さない!」

 深い樹海の色の瞳。スーツを着崩した怪しい風体。

 どう見ても、彼は――

「ロジオン、黙って敵を殲滅しろ」

 ハルバードの男は怒りを込めてそう言うと、まるでノルドとヴァネッサをかばうように移動する。

「不安に怯える子供を慰めるのも大人の務めだと思います!」

 彼方から聞こえる発砲音。ハルバードの男は、先ほどヴァネッサの翼を貫いたものと同じ銃弾を、その得物であっさりと弾き飛ばした。

「戦闘が終わってからでいい。僕が脱力する」

「またまた、クラウス様そんなこと言っちゃって!」

 どう見てもロジオンにしか見えない男は、軽く翼をはためかせると追い風に乗り、手にした優美な剣でライフルの銃身を鮮やかに両断した。

「あなたが手抜きをしたところ、俺は長い人生で一度も見たことありませんがー!?」

「お前が僕の副官になってまだ三年だろう」

 クラウスと呼ばれた男はノルドとヴァネッサに目配せをすると、敵陣に突っ込み、ロジオンと合流する。ロジオンは敵の攻撃をのらりくらりとかわしているが、隙を見つけては次々と敵の武器を、あるいは四肢を落としていく。

「クラウス様の上にも三年って言うじゃないですか」

「お前の方が部下だろう。それとも、僕が石頭だと言いたいのか」

「それは、まあ、そうですね」

「これ以上は始末書だ」

「えっ怖い! クラウス様のハンコめちゃくちゃ頑固じゃないですか!」

 クラウスが、中空にハルバードを突き出す。それを見たロジオンは、すぐに高く飛翔した。

あまよ、あまよ、今は使命を忘れ大地に根付け」

 ハルバードの先、刃と柄の境目に埋め込まれた真紅の石を中心として、夕陽よりもなお眩しく、鮮血よりもなお赤い炎の魔術陣が描かれていく。

「火を満たせ、火で満たせ、大地に炎のをもたらしたまえ」

 刃が、金色に燃える。

「はぁぁっ!!」

 勇ましい声と共に、クラウスは真一文字にハルバードを振り抜いた。

 真紅の一閃が、夜空を燃やして走る。業火が雲をも赤く染め、一帯は太陽もかくやと言わんばかりに眩しく輝いた。激しく舞い散る火花が吹きすさぶ風の音をかき消し、熱は夜の涼気を包み込む。

 クラウスが放った黄金の炎は、五体の機械兵士たちの全身を一瞬にして焦がした。焼かれた翼は灰と散り、動きを止めた機械たちは闇の中へと墜ちていった。

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