青春と灰色のアリス

わらびもち

#1 この世間は結構狭いというけれど

 拝啓、お父さん。


 再婚、おめでとう。かれこれ13年、お父さんと一緒に暮らして、実際はお仕事でいつも家をあけることが多かったけれど、夏休みも目前の頃かな。ポストに届いた一足早めの暑中見舞いの絵葉書にあった潔い文字で、初めて再婚を知った時は驚きました。

 私は、その文面の内容に慌てた拍子で、持っていたカップ麺をひっくり返してしまい、ひっくり返ったつゆで、その時送ってくれた絵葉書は残念ながらコテコテの豚骨味になってしまいました。不甲斐ないです。

 さて、夏休みに入ってしばらくしてから、ようやく家に帰ってきたお父さんに、あのことについての詳しい話を尋ねると、普段から頭のネジが外れたようなちゃらんぽらんなお父さんにしては、これっぽっちも冗談じゃなく、それはもう言葉に出来ない幸せを噛み締めて、項目欄が記入済みの婚姻届を見せられた時は、娘の頭は真っ白になりました。





 再婚するということで、そうなると再婚相手と一緒に暮らすことになり、今まで当たり前に暮らしていた環境から遠く離れてしまうわけで……。



 塗料が剥げた褐色の扉の前。名残惜しく手を添えて、静かにそっと鍵をかける。

 17年間の生活の思い出が詰まっていて、17年ずっと暮らしてきて、家賃3万5000円の生活を漠然と送るんだとなんとなく思っていた。こんな自分は、それなりに能天気な性質かもしれない。


 アパートのすぐそばにある古株の木の幹から、物心つく頃から聞き慣れた何蝉かの気怠そうに鳴く声が、ふと耳に止まる。夏休みも残り少ないのに、夏の日差しと暑さはまだまだ続きそうで、日陰の幹で鳴く蝉もこれにはカンカンみたい。


 子供の頃から1人で遊んでいると、自家製の和菓子を食べさせてくれて、たくさんお世話になった大家さんのおばあちゃんに、部屋の鍵を返しに行く。

 最後のお別れに顔の皺を垂れて悲しみの表情を浮かべてくれるおばあちゃんに、思わずお互い抱き合った。これから出兵する息子と見送る母の図になってしまったけれど、悔いなくここを出ることができそうだった。


 さよならを伝えて、新しい生活が始まる期待と不安に葛藤を抱えながら、一歩を踏み出した。




 徒歩にして約30分。

 ここから、お世話になる再婚相手の家までの大幅な道のり。

 この日差しの下で、なかなかの体力消費だけど、性根からの貧乏性でここまで育ってきたからか、ただか30分の道のりに交通機関を利用して出費される金額を考えると、どうってことないと思えてくるから不思議。父親譲りで頭のネジが外れ易いわけではありませんよ。

 数もない荷物を片手に、日陰の道を選びながら、私は見慣れない住宅街の景色の中を、予めお父さんから渡されていた大雑把な地図を頼りに進んでいく。

 昼間の時間帯に人気の少く、閑静な住宅街。晩夏の蒸し暑さと、蝉のせせらぎを聞いているだけで、気は紛れるけど、次第に意識は歩いた分の疲労に回っていく。

 汗が無地のシャツにじんわり染みる。そんなぼんやりとした意識の片隅に、これか出会う人たちは一体どんな人たちなんだろう。これから上手くやっていけるのかな。そんなことをぐるぐると考えていた。


 再婚なんて、実感が湧かない。

 当たり前だけれど、お父さんも一人の男性で、一人の人を好きになる感情だってある。

 だけど、それでも、お父さんが別の女性と結婚なんて、私もいろいろ考えたりするよ。もうなんでも素直に受け入れる子供じゃない。

 いつも私のことを一番に考えてくれていたお父さんだから、余計に内心は複雑だった。

 私だって、17年男手ひとつで育ててくれたお父さんに、幸せになってほしい。自分のことを忘れないでほしい。

 そう願う反面、再婚の話を聞いた時は、なぜか一人置き去りにされたような気持ちだった。よくわからないけど、わがままなのかな。


 鉄板のアスファルトを歩き続けて、地図上にある星マークが示す場所に、一軒の白い建物が目に止まる。

 不思議と洗練されたような存在感を放つ一軒家だった。

 それは、庭の花壇に咲いた花や、丁寧に刈り取られた庭の芝生、そのきちんと手入れが行き届いた環境から受けた印象だった。

 まだ会ったこともないこれから家族の人たちも、素敵な人たちなんだろうなぁ、なんて相変わらず単純な頭だ。


 『佐伯』と書かれた玄関の表札を見て、これからの出会いに改めて喉の渇きを覚える。ここが正念場だと思う。ここの人たちと上手くやっていけるように、私はひとつ深い深呼吸を吐いた。


 夏の日差しで湿る指先をインターホンにそっと触れて、出来る限りの騒音を立てないように力を込める。

 けれど、私なりのそんな配慮は杞憂なもので、カチッと手応えのある感触と、次にドアの奥から微かに響いてくる余韻に緊張が最高潮に高まる。

 すると、中からは何やら騒々しくガタガタとする物音と、人の気配……。

 ただ静かに、このドアが開くのを息を潜んで待つ。


 ……お父さんから、この日の前に聞いた話だと、佐伯さんの家はシングルマザーらしい。

 再婚相手の佐伯さんは、この家の大黒柱として、息子さんの学費諸々のために仕事も海外で活動し、家を留守にすることが多い。

 私はその話を聞いて、境遇が似ていると感じた。ここ最近の家庭事情でも特段珍しい話じゃないけれど、やっぱり繋がるものを覚える。お父さんも、結婚を考えた理由のひとつだったのかな。

 でも……一人っ子で、男兄弟もいない私は、見ず知らずの男の子に然程免疫力があるわけでもなく、一緒の空間で暮らしていけるのかという不安も拭えない。ましてや、同い年の男の子なんて、思春期の年頃は気まずくて息苦しい。


 そんなことをつらつらと考えて、中から響く音はどんどん近づく。内側から鍵を開ける音に、これから人が出てくると無意識に構える。

 呼吸を落ち着かせて、前を見据える。

 きっと大丈夫と、根拠のない自信を添えて、キィ――と開くドアの向こうに目を向ける。



「はい」




 佐伯さんの家からは、男の子の姿が現れる。


 そういえば、佐伯さんには息子さんがいたんだと、なんとなく意識の片隅に思い出した。

 文武両道で、佐伯さんがいない家のことも一人でやってのけてしまう、まさに非の打ち所がないと褒めていた。歳も私と同じだと、お父さんが言っていた。


 その話の傍ら、私はなんとなく、学年でも成績優秀、先生からも信頼されて、卒なくなんでも熟す、休み時間に教室の窓際の席でいつも一人外を見ていた彼の姿が思い浮かぶ。


 校庭の散っていく桜の木を、どこか遠く見つめていた姿が、私の記憶の中で最も印象に残っている。


「えっ……」


 そう声を漏らしたのは、2人同時だった。


 お互いの視線がそこで交わると、先方の方は思いもしないこの出会いにどんな思いを抱いたか、憮然とした反応を見せる。

 向こうが私の存在を覚えていたのにも驚きだったけど、それよりも今この瞬間の出来事に頭が非常事態を訴えている。


 そうしてお互い、出会いがしらの表情は固まっていた。


 学校では、クールな表情を崩さない、物静かでミステリアスな姿がすぐに浮かんでくる。その彼の姿は、クラスの女子から密かに噂されることが多く、私も教室の傍からその光景をしばし見ていた。


 そんなイメージとは、まるで世界をひっくり返されたような、学校の姿とは違っていた動揺する瞳。


 彼の名前は、そう――



「有栖さん……?」



 佐伯優。


 彼は、学校ではとても有名人だ。


 入学当初から彼の存在は校内中で噂され、廊下で見かければ女子たちの黄色い声援が鳴り止まない。

 最近流行りの塩顔系や、彫りの深い男前の顔というよりは、少年のような甘いマスクで、それぞれの顔のパーツがいいバランスを保っている。身長もそれほど高いというわけではなく、遠くから彼を見れば、女の子に見間違えることもたまにあるかもしれない。

 正統派な顔立ちの、お坊ちゃまのような端整な顔を持つ彼は、その見た目に反して、冷静沈着で寡黙な性格らしく、男女共に寄せつけない雰囲気を常に醸し出していた。

 そのクールな表情を片時も変えることなく、常に一人で行動していた。彼に興味を持っていた女子たちが思い切って話しかけても、どこか上の空のように答えて、愛想を振りまく様子もない。そして女の子どころか、男子にさえ話しかけることもなく、人と関わることを避けるようだった。

 どこか一線を引いた魅力のある彼に、周りもいつしか遠くから見つめるようになった。


『冷血王子』


 それは、彼の存在感を象徴する、二つ名として校内中に知れ渡った。


 その冷酷な血が流れる王子様が、ドアを開けた向こう側から現れた。

 王子様が迎えに来てくれたなんて、おとぎ話に夢を持たないところで笑い話にもならない。

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