第2話 街

「ハンバーガー屋で敢えてホットドッグっていうところが、希榛らしいよね」

 希榛は、思った以上に体力を消耗しており、最初に予定していたファミリーレストランの《グース》には行けそうにないと判断した。

 その結果、グースよりもさらに近い店にやってきていた。

《スクエアダイナー》はハンバーガーショップで、目玉はマグナムビーフバーガー。厚さ三センチ以上のパティを二段重ねにした、ボリューム満点の一品だ。しかし、希榛はロケットホットドッグという、巨大ソーセージに粒マスタードをたっぷりかけて、固めのパンに挟んだものを食べている。あまり人気はないがお気に入りだ。

「そういう健吾はフレッシュアボガドバーガーか。ベーコン一枚しか肉が入ってないな」

 健吾のサイドメニューはグリーンサラダだ。野菜好きなのである。



「しかし、こうして食ってると、間違いなくここが現実世界だと実感できる」

Spiegelはかなりリアルな世界だった。とくにあの部屋は、床の感触や室温まで仮想空間とは思えない再現度だった。ギアを外したとき、一瞬自分がどこにいるか分からなくなったほどだ。

「前に、お前の家でゲームをしたときは、ゲームと現実の境界がはっきり分かってすぐに切り替えられたが、今回は正直言って、今まで本当に現実に帰ってきたか自信がなかった」

「まあ、あれは戦争ゲームだしね。そりゃ、戦場と僕の部屋じゃ大違いだ。それに、作り込みもゲームっぽさを感じられる程度だった」

「それだけ、Spiegelの完成度が高いってことだが……。なあ、お前にメモリーカードを渡した先輩は、あれをどこで手に入れたって言ってたんだ? そもそも、今どきメモリーカードってどういうことなんだ。普通、運営するサイトにアカウント登録してコンテンツを買うもんだろ」

健吾はストローで勢いよくコーラを飲みながら、思い返すようにした。

「まあ、そうだね。僕が何の制限もなく自分のパソコンにインストールできて使えてる時点で、まともじゃない。あのパソコンはもう容量的にSpiegel専用になっちゃったけど」

 健吾のパソコンはノートだがかなり大容量の最新型だ。そのメモリをほぼ食い尽くす大型コンテンツなのに媒体はカード。配信の何十倍ものコストがかかっているだろうに、コピーガードすらついていなかった、あるいは簡単に破られるような粗末なガードしかついていなかったということになる。コンテンツは無限にコピーされ、利益が出ず、運営会社は潰れる。

「だいたい、どこのメーカーが作ったんだ。大手でもなかなか作れないような高品質なものなのに、どこが作ったかすら分からないなんて」

「さあね。媒体がカードなのと関係あるのかも。サイトからの購入じゃ正体は隠せないし、それこそ世界中に広がってしまう。Spiegelは、空のメモリーカードにコピーして増やすことはできないようにもなってるんだ。体験したい人は必ずオリジナルをインストールしなきゃいけない。少なくとも無限には増えないようになってる。どこの誰が何をするために作ったのか、さっぱり分からないよ。そして分からないまま普通に体験できるってところが不気味だよね」

 二人はポテトをつまみながら互いに思うところを述べ合ったが、さすがに一回の体験だけでは概要すらも分からなかった。

「これからも続けてやってみるしかないな」

「乗り気だね、珍しい」

 健吾はわざとらしく目を丸くした。

「フィーユの言うことを全面的に信じるなら、コンテンツが俺に合わせて変化するってことだ。それなら、尻尾を出すように誘導してみるのが一番かもしれない」

「もしかして、楽しんでる?」

「ああ、結構楽しいと思ってるぞ」

 健吾はそこで、大きくため息をついて額を手で押さえた。

「無表情で黙ってるけど実はテンション上がってるとか、そういうこと多いよね希榛は。楽しむなら楽しそうにしなよ。人生、損するよ。というか、僕以外に友達がいないのはそのせいだよ」

 希榛には確かに、現在友達と呼べるのは健吾だけだ。高校まではクラスメイトと深く付き合うこと自体皆無だった。そのことは後悔していない。

「俺にはお前みたいな特殊な奴が一人いれば充分だ」

 健吾は、表情の変化も感情の起伏も分かりにくい希榛に辛抱強く付き合ってくれる、唯一の人間だ。

「真顔の男にそんなこと言われても嬉しくないよ。そういうことは、かわいい女の子に笑顔で言われたいね。むしろ、かわいい女の子に今の言葉を言っても、希榛なら受け入れてもらえるでしょ。……いやなんでそこで『何言ってんだこいつ』って顔するの。そういうときだけ分かりやすい顔しないで」

 照れたり焦ったりすると健吾は多弁になる。希榛はそんな健吾が少し面白いと思っている。顔には出さないが。

「明日からは、希榛の家でやろうか」

 スクエアダイナーを出て、駅前で健吾は言った。

「来るのか」

「嫌なの?  僕、暇だから希榛んちまで行ってもいいかなって思ってるんだけど。君だって暇でしょ」

 今は二人ともバイトをしていない。

「嫌じゃないが」

「家が逆方向の僕が、君の家まで出張してあげるんだよ。君は一切面倒くさくないでしょ」

「まあ確かに」

 たとえ楽しいことでも、移動するのは億劫だ。そんな希榛の性格を考慮し、当然のように合わせてくれる健吾は、ありがたい存在である。



 翌日、希榛の部屋でSpiegelの続きをするために健吾がやってきたが、あまりの殺風景さにいろいろと文句を言われた。せめてベッドシーツくらい柄つきのものを使えだの、クローゼットを占領する本棚を外に出してもっと服を仕舞えだの、白と黒とグレー以外の服を買えだのとうるさかった。

「分かった分かった。Spiegelの街や部屋のデザインにはお前の意見も取り入れるから、早く続きをやるぞ」

 小言から逃げるように、希榛はギアを被った。

 タイトル画面でロードを選ぶと、あのマンションのベッドルームが生成された。前回の続きからだ。

『あれ? フィーユちゃんは?』

 いない。サポート役が姿を消すことは考えにくいのだが。

「隣の部屋か?」

 何気なく、右の壁にあったモスグリーンのドアを開いてみた。

「お帰りなさいませ、キハルさま」

 フィーユは、昨日と同じ水色のワンピースを着て、そこにいた。ただし、その部屋は真っ白だった。縦、横、奥行きを示す3Dのグリッド線だけがある空間。

「そうか……この家は全部俺が作るんだったな」

「そうです! 素敵なおうちにしましょうね」

面倒くさい。

「これは国作りゲームなのか? それともRPGなのか? 魔王討伐の旅に出ろとか、他の国と戦争しつつ国を発展させろとか、街で暴れるモンスターを狩れとか言われるんじゃないだろうな。そういうの苦手なんだが」

フィーユはにっこりと微笑む。

「ご安心ください。これはゲームではありません。倒すべき敵も、ライバルとなるプレイヤーもいません。遠い目的地もなく、競って入手するレアアイテムも、お金すら必要ないのです」

つまりゲーム性はまるきりゼロということだ。

「じゃあ、何でも思い通りになる世界をただ楽しめってことか?」

誰とも競わないなら無敵である意味はない。そんなゲームはすぐに飽きる。

「キハルさまは、無意味なことがお嫌いなのですね。では、この世界の最終目的を先にお話ししましょう。本当は、ご自身で気づかれるのが一番なのですが」

 正体を隠したがるかと思えば親切に教えてくれる。開発者の狙いは何だろう。

 フィーユは、紺色のレディススーツの上下に白い開襟ブラウス、赤いセルロイド縁メガネという恰好に変化した。髪は後ろで団子にまとめている。教師の恰好なのだろう。

「このコンテンツが目指すところは、『理想の自分の発見』なのです」

「理想の自分?」

 いきなり自己啓発本に書いてあるようなことを言われ、思わずオウム返しにしてしまった。

「そうです。昨日申し上げましたように、この世界はキハルさまに合わせて刻々と変化していきます。全ては、キハルさまの感性によって作り上げられていくのです。その中には、はっきりとした意思と、無意識が混在します。キハルさまは創造の過程で、ご自身の無意識の部分を形にすることによって、そこに新しい自分を発見します」

 心理学で言う《箱庭法》のようなものだ。砂とさまざまなオブジェを使って自分の好きなように箱庭を作るのだが、作っているうちに少なからず意図しなかった要素が入り込み、完成品を見て自分で驚くこともある。そこに、制作者の無意識が如実に現れていて、心の問題を読み解くのに有効な方法と言えるのだ。Spiegelは大規模でリアルな箱庭というわけである。

「材料に限りがないSpiegelなら、どこまでも理想を突き詰めることができるってわけか。そして結果的に、自分が理想とするものが何なのかが分かるんだな」

 フィーユはそこで人差し指をたてた。

「Spiegelは、ただ理解するだけにとどまらず、その理想と自分を完全に同化させることができるのですよ。それによって、現実のキハルさまの心もSpiegel内の理想像ととても近くなれるのです」

 自分の作った箱庭の中で、その一部として行動することで、より自分の無意識と一体化できるという理屈らしい。

「でも、自分と案内人しかいない世界でひたすら自分だけを見つめていて、それで理想の自分になんかなれるのか? ただの歪んだ願望の塊にしかならないと思うぞ」

 いくら景色を自分好みに作っても、一人だけの世界ではいつか嫌気が差してくるだろう。精神に異常をきたす場合だってある。

「実は、他の人の世界もあります。Spiegel内でも他人に接することはできるのですよ。他者とのよいコミュニケーションは、自分を育てるのには必須ですから」

 それは初耳だった。さきほど、ライバルとなるプレイヤーがいないという話を聞いていたので、てっきりSpiegelはそれぞれ独立した閉鎖世界だと思っていた。

 希榛はこめかみを三回つついた。フィーユの発言の真偽を、健吾に確認するためだ。

『うん、嘘じゃないよ。このコンテンツ、一応オンラインみたい。他のユーザーと思われるデータも確かにあるね』

「他の体験者のところに行ってみますか?」

 ここでは、ユーザーのことは体験者と呼称するようだ。ゲームではない以上、プレイヤーとは呼ばないらしい。ゲームではなく世界を体験することが目的なので《体験者》というわけだ。

 いずれは他の世界にも行かなければならない。全体像を見るには、他の体験者の観察は絶対に必要だ。

 だが、今はまだその段階ではないと希榛は思った。

「いや、今はいい。それより、世界作りをまずやってみる。いきなり他人の影響を強く受けた世界を作っても面白くないしな」

 家の中は後回しにして、外に出ることにした。外に合わせて家も作る。

 見渡すと、またしてもグリッド線だけが広がった、白い景色だった。長く見ていると気がおかしくなりそうだ。

とりあえず地面を作る。全面アスファルト舗装にしてみた。適当に車道と歩道を分け、白いラインを引く。次に空だ。雲が低く垂れこめた、灰色の空にしてみた。

『なんで曇り? 辛気臭いじゃん』

 健吾が不満そうにしているが理由はない。なんとなくそんな気分だったのだ。この際、曇り空の似合う街にしてしまうのもいいと思った。

 フィーユに要望を言うだけで、ほぼ思い通りの世界が作られる。

 次に、建物を作っていく。希榛は都会が好きだ。建物をとことん密集させてみることにした。

 灰色の、コンクリート打ちっぱなしのマンション。高さ二十階以上のものを適当に五十棟ほど作って設置した。

「視点も移動させることができます。上空から俯瞰してみれば、バランスのいい世界を作れると思いますよ」

 上空と地上を行き来しつつ、建物を増やしていく。ガラス張りの、丸みを帯びた高層ビルや、流線形のマジックミラー張りのホテルや、三角形を組み合わせたような形のショッピングセンターなど。地下鉄の駅も、無人の地下鉄もそこらじゅうに作った。

 学校、病院、警察署に消防署など、公共施設を点在させ、人々が働くオフィスビルは林立させた。

 普通の自動車やバイク、空を飛ぶ反重力自動車も多く作り、高層ビルの中間階に空中駐車場を作った。

『ねえねえ、色が全体的にグレーだよ。もうちょっとカラフルにしようよ。ネオン看板をたくさん設置してみるとかさ』

 街作りには健吾の意見も取り入れるという約束だった。ネオン看板、ホログラム道路標識、タワーにはサーチライト。

「時間帯を夜にしてくれ。日が沈んで間もないくらいがいい」

 すると一瞬で暗くなり、ネオンとホログラムとビルの明かりの輝きが濃い紺色の街に浮かび上がった。サーチライトは雲を突き刺し、色とりどりに空を染める。

『おお……。いいね。むき出しの室外機とか、中国語のネオン看板とか電線とか増やそうよ』

 それは却下した。実はそんなことも考えていたが、その通りにすると古い映画のパロディになってしまう。

 ショッピングセンターの屋上には巨大モニターを用意し、映画のリバイバル上映の広告を流させる。胃腸薬のCMを流すモニターをつけた飛行船も飛ばした。

『ちょっと、僕の案を却下しといてあの飛行船はないんじゃない? あれこそ、象徴的なパロディじゃん』

 街を作っている間にどうしても入れたくなった要素だ。サイバーパンク映画の中で最も好きな作品に登場する。

『ずいぶん賑やかになったねえ。でも無人だとちょっとしたホラーだよ』

 車の中も電車の中も無人だ。この街はただ存在するだけで何の意味も持たない。

 学校も住宅もオフィスも、誰のためのものかさっぱり分からない。

「人間は設置できないのか?」

「できます。何人かパターンを作れば、それを分析して自動生成し、人数を増やせますよ」

 フィーユは最初に希榛の恰好を決めたときの姿見を出現させた。希榛は架空の人間たちをキャラメイクしていく。

 ポケットのたくさんついたツナギに小型の機械を貼り付け、背中に背負った機械に太いケーブルで接続した男や、体に貼りつくようにフィットした継ぎ目のない白い服を着て、鼻から下全体を覆う金属製のマスクをした女、顔の右半分が機械で、内部構造をそのままさらけ出した少年、黒い、大きな長方形のゴーグルをつけ、体の節々に銀色のボルトがついた黒い服を着た少女、ガスマスクのような機構のついたフルフェイスヘルメットを被り、腰に電磁波を射出する銃を身に着けた警官の男など、数人の人間を作り出した。

「それでは、パターンを分析します。……終了しました。自動生成します。人数はどれくらいにしますか?」

「ざっと十万人くらい」



 街に、一気に人が増えた。何らかの機械的機構を身に着けた人間や、体の一部や大部分を機械化したサイボーグなどが歩き回る。

 映画館のある大型ファッションビルの前の交差点で、右腕と左足を機械化し、その銀色の指で白く長い髪を掻き上げる女と目が合った。女の右目には、青く光るレンズがはめ込まれている。希榛とフィーユを見て、かすかに微笑んだ。

 地下鉄の駅から人々が出てくる。ぼんやりと発光するフードを被ったパーカー姿の幼い少女が空を指差した。頭が液晶モニターで、青年の顔を映し出すロボットが空を飛んでいる。頭以外はスタジアムジャンパーにカーゴパンツにスニーカーという、普通の若者風ファッションだ。モニターロボットは少女に、発光する塗料でウサギのキャラクターが描かれた風船を手渡した。少女は飛び跳ねて喜び、隣にいるサイボーグの父親に頭を撫でられていた。

『凄い! まさに、古き良きサイバーパンクの世界だね。希榛たちもこの街の人たちみたいな恰好に着替えたら? きっと楽しいよ』

 それもそうだと思い、今度は自分のキャラメイクをしてみた。

 今着ているのは、黒い襟付きシャツだ。右の襟元から裾まで、縦一センチ、横三ミリ角の発光するチップを二本のライン状に貼り付け、水色に発光させた。右胸には、音楽の波形を映し出す縦四センチ横八センチの液晶パネルをつけた。先端にデジタルカメラのレンズが飾りとして付いている黒いネクタイを結ぶ。ズボンは黒いレザー風のビニール素材で、両足の外側に裾から骨盤まで大きな銀色のファスナーをつけた。

「恰好いいです。この街にとてもマッチしていますね! よーし、私も着替えてみます」

 フィーユは自分で姿見の前に立った。希榛と違って、ツマミやレバーで調整することなく一瞬で着替えた。

 黒いホルターネックのへそ出しのレザーの服に、白のミニスカート、透明の半袖ジャケットに黒いロングブーツ。ピンヒールは水色に発光している。ウェーブのかかった髪は高い位置で一つ括りにされ、目は薄い茶色から深い青に変わった。

『おっ、これはなかなかセクシーだね』

 健吾が楽しそうに口笛を吹いた。

 フィーユがこの街の雰囲気を分析して、それに合わせて自分の恰好を作ったのだろうが、希榛が思ったよりも大胆な恰好になった。身長も希榛と同じくらいまで伸び、大人びた印象だ。

「どうですか? 私なりに、この街に合うように変身してみました。キハルさまの要望で、もっとお好みの姿になれますよ」

 フィーユはくるりと回って、モデルのようにポーズを取った。

「……いいんじゃないか」

 健吾ならもっと気の利いたことを言うのだろうと思いながら、褒め言葉にもならないようなことを言った。

『ちょっと、もう少し具体的に褒めてあげなよ。せっかく、こんなにかわいくなってくれたんだからさ。せめて、『かわいいよ』ぐらい言ってあげてもいいじゃん』

 そう言われても、こういうときの的確な言葉など希榛には思いつかない。

「ふふ、嬉しいです」

「そうか? 今のはあまりいいコメントとは言えなかったと反省してるくらいなんだが……」

「いえ、そうではなく、キハルさまがこんなに美しい世界を作ってくださったことが、嬉しいのです」

 フィーユははにかみながら、柔らかな笑みを見せた。

「さあ、次はキハルさまのおうちです。この世界の拠点となりますので、快適なおうちにしましょう」

 街を開発したので、最初に希榛たちが出てきた建物がどこか分からなくなってしまった。そこで、また一から作り直すことにした。

 横向きの楕円が縦に重なったようなマンションを建て、そこを家とした。

 大きな楕円の一面は嵌め殺しの窓になっており、そこから居間が見えるようになっている。窓は全てタッチパネルの操作盤で、中が見えないように曇らせることも、光を遮断するために真っ黒にすることもできるようになっている。

 入口のドアは指紋認証の自動ドアだ。靴は脱いで家に入る。床は白い人工大理石で、温度調整ができる。壁と天井はオフホワイトにした。全体が楕円形なので壁にも天井にもカーブがある。照明は普通のLEDライトだ。椅子もテーブルも黒にした。

 テーブルに触ってみると、手ごたえがなかった。触った場所は画像にノイズが入ってモザイク状に揺らいだ。

「突然壁が消えたり床が抜けたりしないだろうな?」

 今立っている場所は、足が触れている部分が揺らいだりはしていないが、細かい部分をよく見ると不安定だ。

「それはありません。今、小さな物質が不安定なのは、キハルさまがまだこの世界に馴染んでいないからです。馴染んでくれば、何の違和感もなく生活できますよ」

 馴染むというのがどういう感覚なのか分からないが、何度もログインしてこの世界に慣れればよいということだろうか。

「キッチンは作らないのですか?」

「いらないだろ。食事なんてしないんだから」

 フィーユは少しだけ厳しい表情になる。

「この世界に馴染むには、食事が最も手っ取り早い手段なのです。逆に言えば、食事なくしては馴染むことはできないと言っても過言ではありません。ライフスタイルとして、全て外食で済ますためキッチンが不要であるということもあり得ますが、食事は不可欠なものとお考えください」

 そこまで言うならと、希榛はダイニングキッチンを作った。しかし、テーブルに触れないということは、それよりも小さな食材や料理にも触れないということだ。それでも食べるという行為が成立するのだろうかと、訝しく思った。

「寝室も作らないつもりでいたが……」

「もちろん、睡眠も大切です。生きるうえで、食事と睡眠は欠かせないものでしょう?」

 寝室と、風呂とトイレも作った。ベッドは相変わらず真っ白、風呂にはバスタブとシャワーのみ、トイレも便器とペーパーホルダーと流し台しかないシンプルな造りになった。

 現実の希榛の家と同じくらい殺風景になったので、健吾のたっての希望でオーディオルームを作ることになった。

 場所は寝室の隣。床は白と黒のチェッカーフラッグ柄で、中央には真っ赤な革張りのソファ。大きなスピーカーを四台も置いて、部屋の右手の壁に、レコードとCDがかけられるレトロなジュークボックスを置いた。壁には、健吾の好きなバンドのポスターを五枚も貼った。壁はもちろん完全防音だ。

「なんだかこのお部屋だけ、ずいぶん派手ですね。キハルさまのお部屋ではないかのよう」

「そうか? 俺は意外と、音楽好きだ」

 希榛は表情を変えずに言った。本当にこの部屋だけ別人の部屋になったが、フィーユはそれ以上は何も言わなかった。



 また外に出て、上空から道路整備や建物の微調整をした。そのたびに人の流れが変わって面白い。

「何か足りないな……」

 この街は、ネオンやホログラムなど大量の電気を消費している。電車も車も問題なく動いている。

「ああ、発電所がない」

 所詮は仮想空間なのでエネルギー問題などは生じないが、電力源が謎というのは片手落ちだ。

 さっき作った中心街から西に十キロも離れると、まだ天地以外グリッド線のみの空白の空間がある。そこに発電所を作ることにした。

 まずは広大な五角形の敷地を用意し、そこをコンクリートの塀で囲んだ。そして、発電用の巨大な炉を五個、煙突を五本、そしてその間に太いパイプとダクトを張り巡らせた。炉と煙突からは真っ白な水蒸気が絶えず噴出している。作業用の建屋も適当に設置し、サイボーグたちを働かせることにした。建屋と煙突の頂上には白い蛍光灯が煌々と灯り、炉は下から青くライトアップされている。

『ロマン溢れる巨大プラントだけど、これは何発電所なの?』

 発電所は動いているが、まだ謎のエネルギーを生成している状態だ。

「そうだな、これは電力を生み出す鉱石をこの炉で生成していることにする。鉱石は生成が終わると水になるんだ。鉱石が採れる山と掘削場も作っておくか」

 中心街から北に二十キロの位置山脈と、南に二十キロの位置に海を作った。西に十キロの位置には同じ発電所を作る。電力は地下のケーブルで街へ供給され、水も地下のパイプで海へ排出される。両発電所の隣に下水処理施設を、北の山脈のふもとに浄水場を作った。南の海岸線沿いにごみ処理施設も作ってみた。自動で分別され、生ごみ以外は全てリサイクル、生ごみは焼却して土に返す無人の全自動施設だ。

「これでインフラは完備されました。バーチャルの世界とは思えない出来栄えですね!」

 東の発電所を地上から眺めて、フィーユは目を輝かせた。

『いいよね、巨大発電所とか工場とか。僕も好きだなあ』

 現実の、希榛たちが暮らす街の発電所に比べてあり得ないほど大規模なものになった。重厚感と威圧感に、希榛も満足した。

「疲れた。今日はここまでにする」

 これで、自分の街は一通り作成できた。第二回目にしては順調に事が運んでいる。

「はい、お疲れ様でしたキハルさま。また明日も、このあなたの世界にいらしてくださいね」

 フィーユが笑顔で手を振った。



 ギアを外すと、殺風景な四角い部屋。カーブのある天井も壁もない。

「お疲れ、希榛」

 頭の中ではなく、耳に直接聞こえる健吾の声。なんだか久しぶりなような気がした。

「疲れた」

「でも、楽しそうだったよ」

「そうか。笑ってたか?」

「いや、笑ってはいなかったけど……。楽しかったんでしょ? 笑いなよ。フィーユちゃんみたいにさ」

「……難しい」

 笑顔になることは動作としてはごく簡単だとは分かっているが、意識せず笑顔になることがどうしてもできない。

「希榛が爆笑したところって見たことないなあ。お笑いとか見ないの?」

「見ないな。そういう動画に、興味がなかった」

「勉強だと思って見なよ。いくら希榛でも、自然と笑顔になれるって。面白い、楽しいと思ったら笑う。それを積み重ねて、みんな上手な笑顔ができるようになるんだよ」

 健吾も、いつも笑顔だ。しかめ面の希榛に、楽しげに接してくれる。

「笑顔でない人間は面白みがないと思うが、健吾はなぜ俺と一緒にいるんだ? 退屈じゃないのか」

 健吾はやれやれと肩をすくめた。

「自覚してるなら改善への道のりは近いね。それはともかく、希榛は面白い人間だよ。退屈だなんてとんでもない。ただ笑顔ができないってだけ。他の人だって、ちゃんと接すれば希榛の魅力に気づくと思うよ。だけど、笑顔じゃないからどうしても怖いと思っちゃうんだろうね。それはすごくもったいない。せっかく顔がいいんだから、笑顔を身につければ最強だよ。女の子にだって大人気だよ」

「……ずいぶん高い評価だな」

「ほら、腕組みしながら難しい顔で言わない。そこでまず、『ありがとう、頑張るよ』とか素直な言葉で、笑顔で返す。そこからだよ」

「……難しい」

 希榛にはどうしても、健吾のような笑顔の似合う人間になった自分が想像できなかった。



「理想の自分……」

フィーユは、Spiegel内で希榛がそれを発見し、理想そのものになることが最終目的だと言っていたが、希榛にはその理想自体がよく分かっていなかった。

いや、希榛は自分を肯定も否定もしていなかった。満足しているのではなく、興味がなかった。だから理想の自分どころか、今の自分がどのような姿なのかすら分からず、見たことがなかったのだ。

健吾にいろいろと言われて初めて、自分が極めて不器用で未完成であることに気づいた。少し歯痒い気分だ。おそらく、世の中の大半の人間は希榛よりもずっと早くそのことに気づき、感じた歯痒さも鈍い希榛の数倍の強さだっただろう。

その歯痒さを解消するという願望達成のために、理想の自分になれるというSpiegelを利用するのだ。

「なるほど、フィーユの言っていたことが、やっと少し分かった」

「希榛の理想は、気さくでコミュニケーション上手な好青年ってところかな?」

「それはお前だ。お前になりたいわけじゃない」

「あれ、僕のこと、そんな爽やか人間だと思ってたの? 嬉しいけどハズレだよ。珍しいね、希榛が見立てを外すなんてさ」

健吾の言葉が照れ隠しなのか本気の否定なのか分からない。鈍さのせいか、分かる必要がないのか。

「外してはいないと思うが」

「まあ、そういうことにしておいてあげる。少なくとも希榛よりはコミュニケーション上手なのは確かだからね」

 希榛は、自分ではそのつもりはないが人をよく見ていると言われる。健吾のほうがよほど希榛を見ている気がするのにだ。希榛が他人を、健吾が希榛を見る。それは高校時代から変わらない二人の役割だった。





 










 






 

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