見えないものを見つめてる

 菊平の背後に隠れていた翔は、そっと、手を離す。その目には、今までずっと堪えていたのだろう、涙が溜まっていた。

「お父さん」

 掠れた声は、彼の押し殺した感情そのものだったのかもしれない。菊平は、身を低くして真っ直ぐに翔と向き合い、口を開く。

「なあ、翔」

「……ご、ごめんなさいっ!」

 菊平の呼びかけに、翔は一瞬だけ躊躇うような素振りを見せたが、すぐに背を向けて石段を駆け下りていってしまった。慌ててそれを追おうとした菊平を、南雲が「まあまあ」と押しとどめる。

「少し、一人にしてあげたらどうすか。翔くんは頭のいい子みたいっすし、お互い落ち着いてから話をした方がいいと思うんすよね」

 むぅ、と不満げな声を漏らしながらも、菊平は足を止めて南雲と向き合った。

「それにしても、南雲、お前どこまでわかってたんだ」

「や、当初は翔くんのことまでは知らなかったっすよ」

 えっ、と八束は思わず間抜けな声を上げてしまう。南雲は相変わらず深々と刻まれた眉間の皺を揉み解しつつ、あっけらかんと言い放つ。

「ただ、警察にバレたくない理由があるんだろうな、ってのはわかってましたからね。後は経過からでっち上げました。合っててよかったー」

「お前、昔から、そういう勘だけは鋭いよな」

「勘のよさでぎりぎりこの仕事やってられたようなもんですしね。ほら、俺、八束と違って頭の作りはよくないんで。形はいいと自負してますが」

 我ながら絶妙な曲線美だと思うんすよね、と言いながら、丁寧に剃りあげた頭を撫ぜる。

 ここは果たして笑っていいところなのだろうか。冗談だとは思うのだが、南雲の言うことは時々どう反応すべきか悩むことがある。

 菊平も、八束とほとんど同じ感想を抱いたのだろう、少しばかり口の端を引きつらせて困った顔をした。

「その微妙な自虐ネタ、笑っていいのかわからん」

「よく言われます。聞き流してください」

 さらりと言い放ち、南雲は改まった調子で菊平に視線を投げかける。

「ま、後は二人で上手く話し合ってくださいな。さっきも言ったとおり、俺らの仕事はここまでです」

 あー疲れたぁー、と言いながら南雲はふらふらと歩いていく。八束は、慌ててそれを追おうとして……、菊平に呼び止められた。

「八束ちゃん」

「はい」

「ありがとな。八束ちゃんが謎を解いてくれたおかげで助かった」

「い、いえ、ほとんど南雲さんのお手柄ですし、色々とお恥ずかしいところをお見せしました」

 慌てて頭を下げるも、頬がぼっと燃え上がるような心地がする。

 自分では冷静なつもりでいるのに、いつの間にか熱くなりすぎてしまうのは、八束の悪い癖だ。あの時南雲が止めてくれなければ、菊平よりも先に、城崎に手を出してしまっていたかもしれない。それは、警察官として、否、人としてあるまじき態度だ。

 未熟者、と己を叱咤していると、菊平の笑いを含んだ声が降ってきた。

「南雲も、八束ちゃんみたいな子には弱いんだろうなあ」

「どういうこと、ですか?」

 ちょい、と顔を上げて菊平の表情を伺うと、菊平は愉快そうに笑っていた。

「あいつ、昔から面倒くさい性格だけど、根はすげー真面目で思いつめがちだからさ。八束ちゃんを見てると、ほっとするんだと思うよ。八束ちゃんを通して自分を見直してる、そんな感じに見えた」

「南雲さんが、ですか?」

 八束の目から見る限り、南雲という人物は極めてマイペースで、空気が読めないわけではないはずなのに周囲の空気を完璧に無視する、そんな性格である。南雲自身、常々「空気はあえて読まないもの」と言っているから、わざとやっている気もしている。

 妙に人のことはよく見ていて、こちらに的確な助言を与えてくれることもあるが、逆に八束の行動が南雲に影響を及ぼしているとは考えづらかった。

 ――それとも、八束が気づいていないだけ、だろうか。

 仮にそうであったとしても、八束のやることは変わらない。怠惰な南雲の尻を、比喩として、もしくは実際に蹴飛ばしながら、秘策の仕事をこなす。それが南雲の相棒として任ぜられた八束の、存在意義であったから。

「あいつ、ほんと面倒くさい変人だけど、これからも仲良くしてやってくれよな」

「はいっ!」

「いい返事だ。南雲に爪の垢煎じて飲ませてやった方がいいんじゃねえかな……」

 いつも、係長の綿貫もそんな感じの反応をするので、南雲という人物の認識は、誰が見ても大枠は変わらないことだけははっきりした。全く嬉しくない気づきである。

「それでは、わたしはこれで失礼します。また、落ち着いた頃にご挨拶に参りますね」

「ああ、楽しみにしてるよ。南雲も誘っといてくれ」

「わかりました。それでは!」

 八束はぴしっと敬礼をして、菊平に背を向ける。

 菊平のこと、翔のこと、そして城崎のこと。八束には、何もかもが納得できたわけではない。八束の身の内にある定規では測れない何かが、この事件の根底に横たわっていた、そんな感覚に囚われている。

 それでも、少しだけ心が軽くなっているのはどうしてだろう。そんなことを思いながら、石段に足をかける。

 

 

 南雲が石段を降りれば、公園のベンチに翔がぽつりと座っていた。細い足をぶらぶらさせながら、空を見上げて何かを見つめている風でもあった。

 そんな翔に、ひらりと手を上げて「よ」と声をかける。

「あ、えと」

 顔をこちらに向けた翔が、戸惑いをあらわにした。今までのやり取りで随分南雲の面構えには慣れたのだろう、当初見せていたような恐怖の色はなく、ただ、酷く苦いものを飲み込んでしまったような、辛そうな顔つきをしていた。

「……ごめんなさい。おじさんたちにも、迷惑かけて」

「そのくらい、子供の頃には誰でもやるよ。いいことじゃあないけど、んな気に病むほどでもない。迷惑かけたな、って思ったら次はそうしなきゃいいって程度」

 今回は、厄介な爺さんがそこに絡んでたってのが問題だっただけさ、と言って翔の横に座る。少しだけ間を空けて。近すぎない方が、翔も気負わなくて済むだろうし、何より南雲の気が楽だった。

 そして、空を、仰ぐ。

 徐々に日が落ちつつある空に、大きな鯨の姿が見えた。その黒々とした巨体全体で日光を浴び、雲と雲の間を、海を泳ぐようにゆったりと身をくねらせて進むその姿は、雄大の一言に尽きる。

 この三十と数年、毎日のことなので、見飽きた光景でもあるのだけれど。

「あー、飛んでる飛んでる。気持ちよさそうだよな、あれ」

 ほとんど無意識に口をついて出た言葉に、翔がぱっと弾かれたように顔を上げたのが、視界の隅に映った。

「おじさんも、見えてるの?」

「まあね。皆には内緒だよ、バレたらめんどくさいのは知ってるだろ」

 視線を翔に合わせ、口元に指を寄せる南雲に、翔も神妙な顔でこくりと頷き、口の前に人差し指を立てた。その大きな目はやけに真っ直ぐ南雲を覗き込んでいて、何となく八束の目つきを髣髴とさせる。

 そのような目で見つめられるのは、いつになっても慣れないけれど――。

「いい子だ」

 わしわしと頭をなでてやると、翔は今にも泣き出しそうな顔をして、南雲を見上げた。

「お父さんとお母さんには、見えてなかったから。誰にも見えないのかと思ってた」

「まあ、珍しいよね。俺も、ガキの頃はそう思ってたよ。色んな奴に笑われたし、誰も信じてくれなかった」

 南雲がそう言った途端、翔の目から涙があふれた。一度堰を切ってしまった感情は容易には止まらないもので、次から次へと頬を伝って流れてゆく涙を拭くこともせず、翔が嗚咽交じりの声を上げる。

「おれ、怖かったんだ。お父さんに、嘘つきだって思われるの」

「うん」

「だから、どうしても確かめたかったんだ。クジラさまは、そこにいるんだって。確かにいるんだって」

「そっか。ずっと、不安だったんだな」

 わかるよ、と。口の中で南雲は呟いた。

 翔の苦しみと南雲の苦しみは、根は同じ場所にあるだろうが、決して完全に同じものではない。だから「わかる」とは言い切れない。言い切ってはいけない。

 ただ、これだけは伝えておかないといけない――。そんな思いをこめて、もう一度だけ翔の頭をなでてやる。壊れやすいものに、触れるかのように。

「だいじょぶだよ。昔、君のお父さんは、俺を笑わないでいてくれた」

 当の菊平は覚えていないかもしれないけれど、南雲は一度、菊平に救われたことがある。

 それはちょうど、南雲が翔と同じくらいの年の頃の話だ。

 南雲には、いつも人よりも多くのものが見えていた。そして、幼い頃は目に映っているものが「人であるかどうか」を判断することも、難しかった。だから、周囲からは相当奇妙に見えていたのだろう、いつも、頭のおかしい奴だと笑われていた。

 だから、というべきか。いつしか南雲は「笑って誤魔化す」ことを覚えていた。今こそ笑顔一つ思い出せない身ではあるが、昔は作り笑いだけは上手だった。そうすれば誰も自分を笑わないし、自分のせいで変な空気を作らなくて済む。自分一人が本当の気持ちを飲み込んで笑ってみせればいいのだと言い聞かせているうちに、それが当たり前になっていた。

 けれど、菊平だけは、そんな南雲を見て「へらへらするな」と怒ったのだ。

 八束のような超人的な記憶力を持つわけではないが、その時のことだけは、今でも覚えている。菊平が投げかけてくれた言葉の一言一句すらも、はっきりと。

『笑うなよ。辛いなら辛いって言わないと、誰もわかんないだろ』

 そう言った菊平は、南雲の頭を小突いてみせた。その瞬間、ずっと無理やりに飲み込んで、消化できていたと思っていたはずの感情が、声と涙になってあふれ出してきたのだった。菊平も最初は驚いたようだったが、全く要領を得なかったであろう南雲の言葉を、口も挟まずに聞いてくれたのだった。

 まあ、格好悪い話だ。あまり思い出したくない類の記憶と言ってもいい。

 ――けれど。

「今、君のお父さんがどう思うのかは知らない。でも、君がきちんと話せば、お父さんだって君の話に耳を傾けてくれるさ。だって、お父さんは、君のことをとても大切に思っているんだ。それは、今回よくわかっただろ?」

 うん、と。涙と鼻水を拭き拭き、翔が頷く。

「なら、君ももう少しお父さんを信じてあげればいい。君ならできるだろ」

「うん……!」

「ん、いい返事だ」

 言って、南雲は立ち上がる。石段の方に八束の姿が見えたからだ。八束はぴょこぴょこと、そういう玩具のような動きで石段を降りてくる。無駄がないはずなのに妙に目立つ動きはどうにかならないのか、と内心笑いたくなる。当然、それが笑顔になることはなかっただろうが。

「じゃ、またな、翔くん」

「うん。またね、おじさん」

 翔は袖で涙を拭いて、手を振った。南雲は軽く手を振り返して、こちらに駆けてくる八束に向き直る。

「遅かったね、八束」

「少し、菊平さんとお話をしていたので。……翔さん、泣いているのですか?」

 こちらを見上げる八束の少しばかり険しい視線には、言葉には出していないが「南雲が泣かせたのではあるまいか」という疑念が見て取れた。確かに子供を泣かせるのは得意な方だが――顔を出しただけで泣かれるとか、いくら南雲だって傷つかないわけではないのだが――今回はそうではないはずなので、首を横に振る。

「色々あって、まだ感情が追いついてないんだろ。すぐ落ち着くさ」

「それなら、いいんですが……」

「さ、帰ろ帰ろ。おなかすいたなー、今日はチロル忘れちゃったしさぁ」

 南雲の手袋を嵌めた左の手首に、いつものコンビニ袋はない。長話になることはわかっていたのだから、忘れるべきではなかったと後悔していたのだ。これは、途中でコンビニに寄っていった方がいいかもしれない――。

 そんな、普段通りの思考を廻らせかけたその時、南雲を追って駆け寄ってきた八束が、上目遣いになりながら言った。

「あの、南雲さん」

「なーに?」

「辛ければ辛いって、おっしゃってくださいね」

 それは、まさしく今さっき思い出したばかりの言葉で。

 思わず、立ち止まって八束の方を凝視してしまった。

 八束は、豆柴を思わせる黒目がちの大きな目をぱちぱちさせて、短い眉の間に薄く皺を刻む。

「ここしばらく、南雲さん、何度か苦しそうに見えることがありました」

 苦しそう。八束ははっきりとそう言った。

 ここしばらく、苦しいと思ったことはそこまで多くない、はずだ。ただし、今回は特に、思い出したくないことをいくつか思い出す羽目になったことは否めない。南雲の過去を知らない八束にその機微がわかるとは思えなかったのだが、念のため疑問符を投げかける。

「……苦しそう、って、具体的には?」

「笠居さんが南雲さんの名前を呼んだ時。わたしがミイラを見ようとした時。南雲さんと笠居さんが知り合いであるかどうかを聞いた時。確かな違和感があったのは、その三回です」

 よく見ている。南雲は内心で舌を巻いた。八束はとことん他人の感情には鈍いが、しかし「変化」そのものを読み取るのは得意中の得意なのだということを完全に失念していた。

 彼女の人間離れした観察力と記憶力は、ささいな変化をも違和感として処理するのだ、ということを改めて思い知らされた。

 八束は、南雲の目の前にちょこんと爪先立ちになって、南雲の顔を覗き込もうとする。

「わたし、まだまだ頼りないところも多いですが、それでも、南雲さんの助けになれることなら何でもしたいと思っています。わたしの力が及ぶことであるなら、頼っていただけたら嬉しいです」

 しかし、と。言った八束の表情がにわかに曇る。

「まだ、言葉にしてもらわないと、わからないので。お願いします」

 八束自身、自分が他人を理解できていないことは、痛いほどに理解しているに違いない。それはもはや彼女の特質であって、一朝一夕で治せるようなものでもないことも、わかっていないわけではなかろう。

 それでも、彼女は「理解したい」と望んでいるのだ。

 こんな、どうしようもない男のことを。

「わかった。これからは、気をつける」

 この胸の内に飲み込んだまま、消化できずに凝り固まった記憶。それが、八束にどうにかできるとも思えない。思えないけれど、八束の言葉を聞いて少しだけ救われたような心持ちになったのも、事実。

 ――結局、あの頃と何も変わっていないのか、俺は。

 笑いたいような、泣きたいような。奇妙な感情に、唇が歪むのを感じる。今の自分にはそのどちらも満足にできないくせに。

「……南雲さん? どうかしましたか」

「いや、だいじょぶ。おなかすいただけ」

「南雲さん……」

 八束が呆れ顔を浮かべる。だが、腹が減っているのは事実なのだから仕方ない。いやに感傷的になりかけた感情を一旦遠くへ追いやって。南雲はポケットの中の財布の重さを確かめる。

「ねえ八束、ケーキ食べたくない?」

「またですか!?」

「今度はチーズケーキがいいなと思って。今から買いに行かない? この近くにすごく美味い洋菓子屋があってさ、この前のケーキもそこで買ったんだけど」

「う、あれは確かに美味しかったです……」

 八束に気に入ってもらえたのは、なかなか嬉しい。普段、カロリーメイトとサプリメントしか食べようとしないこの娘に「美味しさ」というものを教え込むことこそ己が使命、と思い極めた南雲の作戦は、少しずつではあるが実を結んでいるらしい。

「よしよし、じゃあ行こう今すぐ行こう早くしないと売り切れちゃう」

「ちょっと、待ってくださいよ南雲さん!?」

 八束の声を聞きながら、南雲は足早に神社を後にする。

 ――空の上に浮かんだ鯨がじっとこちらを見つめているのに、気づかぬふりをして。

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