第一章(1)


 固い机に臥せて寝ている私の頭をくしゃくしゃと大きな手が撫でてくれる。それが心地よくて、私は、猫のようにその手にすりよった。視線を上げると目があったその手の主は、時々しか見せてくれない優しい微笑みをくれる。


 リズミカルに響くペンが紙の上を滑っていく音を聞きながらぼんやりとしていると、頭の中でこれは夢だと冷静な声が聞こえてくるけれど、それでもよかった。この夢に囚われるなら、永遠に夢の中でもいいと思った。心地いい時間がゆっくり過ぎる。温かくて、安心して、幸せな時間。


 頬を伝う安堵の涙を拭って…目が覚めた。


 暗い部屋の中で響くのは、パタパタと雨粒が屋根に当たる音。カーテン越しに感じる夜の気配は、朝がまだ遠い事を教えてくれていた。眠りなおさないと、そう思って寝返りを打つと布団と身体の間に冷たい空気が入り込んで、心地よい夢の余韻を奪っていく。


 夢とは思えない程リアルに思い出せる頭を撫でてくれる大きな手の感触。記憶の中のあの部屋は、いつも日陰で薄暗いのに、夢のなかでは日溜まりみたいに温かい。


 温かくて優しいあの場所に、もう戻れないのを知っている。


 溢れる涙を押さえつけるように目を伏せた。今日も会社に行かなきゃいけないんだから。泣き腫らした顔でなんて行けないんだから。ぐっとお腹に力を入れて自分を叱咤しても、夢の中の幸せな時間に涙腺はすっかり緩んでいて、止めどなく涙が零れ落ちていった。


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 会社で愛用しているPC用の眼鏡は、泣いて少し腫れぼったくなっている目を隠すのにも丁度良かった。時々伊達眼鏡代わりに通勤時にも使っている。


 そう、今日みたいに……朝から泣いて起きた日に。


 そして朝から泣いた日は、目がヒリヒリ痛むから本当にPC用眼鏡と目薬が手放せない。否応なく午前中から酷使した瞳を伏せて一息ついてから、出力の終わった資料を揃えてクリアファイルに入れて、営業の先輩のデスクに置いた。これで午前中の仕事は終わりだ。


「翠、お昼行ける?」


「うん、里美と夏帆は?」


 声をかけてきた同期のさやかの言葉に頷きながら、視線をフロアに向けると残る2人の同期はまだ仕事中だった。


「里美、すぐ終わるって言ってたし、夏帆も多分すぐ終わるよね。天気良いし外で食べようよ」


 夜中の雨のせいで天気が良かった印象が無くて、エレベーターを待ちながら窓の外に視線を向けると確かにきれいな青空が広がっていた。気持ちもこんな風に、すぐに晴れたら良いのに。ビルと窓に切り取られた青空をぼんやりと眺めていると、ぴょこんと小柄なさやかの頭が視界に割り込んで来た。


「ところで翠ちゃん、お願いがあるのですけれど」


「……なんでしょう」


 ちょっと嫌な予感がする。というか、こういう言い方をするときは決まってアレだ。


「今夜、暇?」


 予想に違わないその問いに眉をしかめると、私の表情だけで答えを察したらしいさやかは、僅かに眉を下げた。


「やっぱダメ?里美がね、急に行けなくなっちゃって」


「うん、ごめん。今日は……ちょっと無理かも」


 用事があると言うわけではなく、とてもじゃないけれど合コンなんて気分ではなかったし、無理して行って空気を壊すこともしたくなかった。


「そっかぁ。仕方ないね」


 一応聞いてみただけ、と小さく息をついてさやかは鞄から鞄から取り出したスマホに視線を落とす。誰かいるかなぁ?と溢しながらさやかはスマホを操作しているけれど、きっと1人位ならすぐに見つかる。その位さやかの交友関係は広いし、明るくてパワフルなキャラはみんなに愛されてると思う。


「あ、水曜日は来るよね?」


 水曜日?と一瞬思考をめぐらせて思い出した。同期の前田君が支社に移るから同期で飲み会をする事になっていた。金曜日に連絡が来ていたけれど、返事をするのもすっかり忘れていたのを今頃思い出す。


「そっちは、うん。行くよ」


 私の答えに、さやかの口元が弧を描く。


 エレベーターで2階まで下りて、ビルの中に入っているコンビニに寄って適当なサンドイッチに手を伸ばす。レジに向かう途中、スイーツの棚の前で足を止めた。


 『食って元気だしな』


 記憶の彼方から響いてくる、ここにはいない人の声。手を伸ばしたのは、生クリームが乗ったプリンだった。


 今日は甘えてもいいよね…?


 思い出すのは、夢の中で頭をくしゃりと優しく撫でてくれた大きな手のリアルな感触。


「翠、それ好きだよね」


「……うん、好き……かな」


 プリンを手にしてぼーっとしていた私のすぐ傍らに、いつの間にかさやかが立っていた。このプリンは好き。だけど、純粋に味が好きというのとは、ちょっと違う。


 好きなのは……昔これを買ってくれた人。


 もう7年も前になるのに、こんな風に並んでいるのを見かけただけであの時の素っ気無いけど優しい声を思い出すほどに、好きだった。






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