(12)

 目が覚めたものの、あまりの身体の重さに視線だけをぼんやりと窓辺に向けるとカーテン越しに窓から入ってくる光は朝のものとは角度が全く違った。お昼頃になっているなら早く起きないとと体を起こそうとしたものの、腕に力が入らなくて起き上がる事すら出来ずにそのままベッドに崩れ落ちてしまう。


 一連の私を見ていたのか、視界に微かに入っていた先生の腕が動いて私の身体を抱き寄せる。私の背中に触れる先生の肌の感触が、昨夜の出来事が夢ではないのだと教えてくれた。


「ごめん、無理させたな」


 すぐ耳元で聞こえてきた優しい声に、首を横に振った。そんなことない。凄く優しく抱いてくれた。


 私はいざとなったらすっかり怯えてしまったのに。私の記憶の中のあの行為は、無力感と絶望感の中で痛みと異物感に耐えて、ただひたすらに早く終わることを願う時間でしかなかったから。


 それでも先生は、たくさん時間をかけて私の不安を取り除きながら抱いてくれた。言葉はないのに「好き」とたくさんたくさん……言われた気がした。先生に抱かれるのは、私の記憶の中のあの行為とは全く違った。先生とするのは、間違いなく恋人同士の、最上級の愛情確認だった。


 私を背後から抱き締めている先生の唇が、私の首筋に触れて思わず肩を竦めると先生の手が私の頭をそっと撫でる。そのまま私の手の上に重ねられた先生の手の甲には、いくつものひっかき傷が残っていた。


「ごめんなさい」


 先生の手に頬を寄せて言うと、「ん?」と声が返ってくる。


「手、痛かったでしょ?」


 昨夜、私がずっと手を握りしめていたのを見かねたのか、先生は手が空く限り私と手を繋いでいてくれた。だから、先生の手には私の爪の跡が残っていた。


「平気。背中の方が凄そう」


 クスリと笑って先生が答えたその意味が判るや否や、頬が一気に熱くなる。確かに先生の背中にも、散々爪を立てた。「ごめんなさい」と消え入りそうな声で謝る私を先生はクスクスと笑う。


「翠、昨夜、寝る直前くらいに言ったこと覚えてるか?」


 寝る直前、と言われると思い当たるのは一つだけ。だけど、色々な事が一度にあったからか、もう本当に先生に言われたのか、夢なのか自信が無くなっていた。


「忘れたか?」


「……た、ぶん、覚えてるんだけど、聞き間違いだったら凄く恥ずかし……くて」


 私の返事に、私の耳元で先生が喉を鳴らして笑う。


「もう一回、言って欲しい?」


 余裕たっぷりの声音に、表情は見えないけれどきっと面白そうな表情をしているんだろうと察しが付く。そう思うと素直に言って欲しいと言うのが悔しくて黙っていると、耳元でクスリと笑う気配。


「おねだりしてごらん?」


 大層な事をお願いするわけじゃない筈なのに、おねだりなんて言い方に更に頬が火照る。


「翠、耳まで紅いぞ」


 クスクス笑って先生は私の耳朶をゆっくりと甘噛みして、吐息の混じった低い声で耳元をくすぐる。


「そもそもやらしーことおねだりしろなんて言ってない筈だけど?」


「先生のその言い方がやらしい!!」


 もうっと思わず肩越しに振り返って言い返した私に、先生は尚もクスクス笑って、すっといつもの表情に戻る。


「もっかい、言ってやろうか?」


 そう言った涼しい顔は、ついさっきまでおねだりだとか言って私の耳朶に悪戯していた人とは思えなくて、その切り替えの早さについて行けない私はたじたじになってしまう。


「あ、えと……その。もう一回、言ってください」


「はい」


 先生は身体を起こして、私のことも引き起こした。当たり前だけど露わになった上半身に、ちょっと色気の無い悲鳴を上げて、慌てて布団を胸元まで引き上げて抱きしめた私を先生は小さく笑って、私の頬を掌でゆっくり撫でた。


 昨夜も言われた事だから、これから言われる事はわかってる。だから尚更、心臓がドキドキと鳴り出す。あまりにも緊張していて先生が口を開くのまでもがスローモーションに見えるような気がした。


「翠、俺のとこに嫁においで」


 耳に確かに届いた先生の声に、あぁ……夢じゃなかったんだときゅうっと胸が苦しくなる。


 本当は、夢だったんじゃないかって思っていたから。


 昨夜はぼんやりした意識の中で聞いたから、全然実感がなかった。先生が凄く普通の事みたいに言うから。明日は映画を見に行こうかって言われたみたいに……思ったから。


 昨夜は凄く嬉しくて、何も考えずに頷いてしまったけれど、改めてもう一度言われるとと、色々心配になってくる。


「返事は?」


「あの、私、家であんまり家事とかやってなくて……」


「別にそんな難しくないだろ。お互い仕事してんだし一人で全部やれなんて言わないよ」


「料理だって、先生のほうが上手だし」


「まぁ、そこは頑張れ」


「私、多分、本当に何にも出来ないんだけど……」


 家事は本気で何一つ自信がなくて、どんどん声が尻すぼみになっていってしまう私を、先生は呆れたように笑う。


「別に家政婦が欲しいわけじゃないぞ。翠、一緒に暮らそう。俺のとこに毎日帰っておいで」


 毎日先生の所に帰る。それは、とても魅力的な響き。


「俺と、ずっと一緒に居るの嫌か?」


「……一緒に、居たい」


「だったら、おいで」


 もう何も言えなかった。おいでと先生が広げてくれた腕の中に飛び込んだ私を、先生がしっかりと受け止めてくれる。見上げると間近にあった先生の額とこつんと額がぶつかって、大きな手で両の頬を包み込まれた。


「お前、すぐ泣くな」


「……だって」


 だって、嬉しくても泣きたくなる。そう告げると、先生は私の髪をくしゃくしゃと撫でてそのまま唇を塞ぐ。啄むように重ねる唇はとても心地よくて、何もかもが「好き」の中に溶けていく気がした。

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