(8)


「先生」


「んー?」


車を運転中の先生は、当たり前だけど私の方を見ない。でも、丁度良かった。向かい合ってたら、怖くてとてもじゃないけど聞けそうに無いから。膝の上で抱えている鞄を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。


「先生、結婚……した?」


 訪れたのは、沈黙だった。ちらりと先生を盗み見たけれど、対向車もなくて薄暗い車の中で先生の表情は良く判らない。


「してたら、お前どーすんの?」


 その言葉に、心臓から一気に血が引いていったように胸の奥が冷えた。どうする……って。どうするって、そんなの……そんなの、どうもできるわけない。不倫なんて事……、どんなに先生が好きでも出来るわけ無い。奥さんから奪うなんて、できっこない。


 あぁ、先生ともう、会えないんだ。そう思っただけで、じわりと世界が滲んでいく。。


「してたら……して、たら……」


 唇が震えて、続きの言葉を上手く紡ぐ事すら出来なかった。


 結婚してるかもしれない、彼女が居るかもしれない、この答えの覚悟はしていたつもりだった。それでも、いざその言葉が先生の口から告げられたら、私の覚悟なんてあっさりと崩れてしまった。先生は昔と変わらずに接してくれて、教師と生徒だった頃よりもずっと近くにいるような気がして、覚悟をしているつもりで……全く出来ていなかったんだと思い知る。


「あ、おい。泣くなよ」


 泣くな、そう言って先生の指が頬に零れ落ちた涙をそっと拭う。運転中なのに、そう思って外をちらりと見ると、赤信号だった。涙を拭ってくれた先生の手が、私の頬を優しくなでる。


「してない」


「…ほへ?」


 私の口から漏れたちょっと間抜けな声に、先生が呆れたように笑う。


「ほへって、お前な。結婚、してないから」


「……ほんと?」


「本当」


 信号が変わって、先生は私の方を少し気にしながらも運転に戻る。その横顔を半ば呆然としてみていた。


「彼女、は?」


「彼女も居ない。居たらお前と会わない」


 急に曲がったので外を見ると、ショッピングセンターの駐車場だった。


「せんせ?」


「運転中にこんな話して泣くなよ」


「……ごめんなさい」


 集中できないだろ?と言われて俯くと、大きな手に頬をなでられた。昔と変わらず、先生の手は温かくて心地いい。他の人は触れるだけでも怖いし、温かいとかそんなことを感じられる気持ちの余裕なんてないのに、先生の手だけは、もっと触れて欲しいと思ってしまう。


「北川」


 少し間があって、先生が言いなおした。


「翠」


 初めて名前を呼んでくれた先生の声が、私の胸を一気に締め付ける。


「聞きたいのは、それだけか?」


 見つめてくれる先生の眼差しは、昔とは比べ物にならないくらい優しくて、私の胸の奥を焦がしていく。聞きたいことは、もう一つある。


『私は今、先生にとってどんな存在?』


 だけど、そんな問いを今この場で先生に見つめられたまま口にできるはずも無かった。答えない私に、先生は静かに言った。


「さっきの質問…俺はどう受け止めたらいい?」


 先生の指が、私の頬をそっと撫でていく。


「どういうつもりで、聞いた?」


 声が、出ない。私は蛇に睨まれた蛙みたいに、何も言葉が出てこない。だけど先生から目を逸らすことも、出来なかった。


「翠、答えて」


「私……私……」


 先生の言葉はすごく意地悪だ。結婚しているのか、彼女が居るのか、それを聞くだけですごく勇気が要ったのに、その先も言わなきゃいけないなんて。


「質問、変えようか。お前、俺に教師で居て欲しい? それとも……俺は、男?」


 思わず息を呑んだ。緊張しすぎて喉はカラカラだった。


「翠」


 私の名前を静かに呼ぶ先生の声が、耳の奥で何度も響く。先生の親指が、私の唇をなぞっていく。場所を、確認するように。


「答えないなら、男になるけど」


 カチャンと静かな車の中に響いたのは、先生がシートベルトを外した音。助手席のシートに先生が手をかけると、かすかに布のこすれる音がして、身体を乗り出してきた先生との距離が一気に縮まった。


「お前、なんも答えなくていいの?」


 私が黙って目を閉じると、唇に一瞬触れたやわらかい感触。目を開けると、吐息が触れるほどに間近に先生の瞳があった。眼鏡の奥のその瞳に最終確認をされた気がして、答える代わりにもう一度瞳を伏せると、今度はさっきよりもしっかりと唇が触れ合った。


 私の気持ちを確かめるように、先生の唇が私の唇に触れる。昔したキスは、攻め込まれる気がして怖くて堪らなかったのに、全然違った。


 あんなに意地悪な質問を私にしたのに、啄むように重ねられる先生のキスはすごく優しい。耳元からそっと差し込まれた手が、頭を軽く支えてくれる。触れているのは唇なのに、優しく抱きしめられているような気がした。


「せんせ……好き」


 さっきはあんなにも言えなかった言葉が、優しいキスから開放されるといとも簡単に零れ落ちた。


「俺、お前よりだいぶ年上だぞ。もう、35になるし」


 あぁ、先生って35歳なんだ。思ったことはそれだけだった。12歳の年齢差は、何の抵抗もなく好きという気持ちの中に溶けるように飲み込まれて行く。


「先生がいい。先生じゃなきゃ、駄目なの」


 他の人じゃ駄目なの。言葉にしたら、会えなかった間の寂しさが一気に押し寄せてくる。耳元にふっと先生の吐息が触れて、頭を抱き寄せられて、私の顔が先生の首筋に埋まる。


「ん、お前がいいならいいや」


 優しく耳を擽るその声が、少し嬉しそうな響きを含んでいるような気がして、私も嬉しくなる。12歳も年上だとか、高校の教師と生徒だったとか、そんなのもうどうでもよかった。先生がいい。


 先生の手で顎を掬われて、もう一度唇が触れ合った。キスがこんなに気持ちいいなんて、今まで知らなかった。

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