(8)



 あたしには関係ない。何度も何度も言い聞かせた。


 だけど、どれだけ言い聞かせても、涙は止まらなかった。


 どうしてかよく判らないのに、嫌だという気持ちばかりが湧き上がってくる。


 頭からシャワーを浴びて、止まらない涙を……誤魔化した。



 どうして涙が止まらないのかも


 どうして胸がこんなに痛いのかも


 胸に渦巻く黒い感情の意味も


 本当は……全部判ってた。


◆◆◆


 その日を境に、怖い夢を見るようになった。道又先輩に襲われる夢を見て跳ね起きることは、以前からしょっちゅうあったけど。逃げ込んだ物理実験準備室、そこに居た人を先生だと思ってしがみついたのに。振り返ったその人は、やっぱり先輩だった。どんなに泣叫んでも逃れられなくて。声にならない悲鳴をあげて、目を覚ます。私は先生に会いにいけなくなった。


 一緒に居て心地よかったのに。大好きなのに。ずっと一緒に居たいのに。


 だけど、ずっと一緒に居るその先に何があるのか……それを意識したら怖くてたまらなくなった。


 先生が男の人だと思った途端。先生の事が、男の人として好きなんだと、自覚した途端。二人きりでたくさん過ごしてきたはずの先生も……私は怖くてたまらなくなってしまった。



 私の気持ちをすべて置き去りにして、季節は巡った。先生とはあの日、駅で別れて以来ちゃんと会ってない。私が物理実験準備室に行かなくなっても、先生は何も言わなかった。もともと通常の学校生活での接点は一切なかった私と先生にとって、会わないようにするのはとても簡単なことだった。


 だけど私は、卒業するまで先生を見かける度に目で追い続けた。職員室で声が聞こえる位近くに先生が居たこともあった。そんな時は、大好きな先生の声をすこしでも拾おうと必死だった。自由登校だった3年生の3学期、授業をする先生の声を廊下でこっそり聞いていたことだってある。


 好きと怖いの間で振り子のように気持ちはゆれて、凄く好き、会いたいと思ったらその分、夜に怖い夢で悲鳴を上げた。


 卒業するまでに3回だけ、物理実験準備室に行った。


 自分勝手だとわかってたけど、2年の時も3年の時も、バレンタインだけは先生の居ないときを見計らってチョコレートを置きに行った。


 カードも何も、添えなかった。携帯に連絡も入れなかった。先生からも……何も来なかった。


 最後に行ったのは、卒業式の日。


 会いたい気持ちと怖い気持ちの両方を抱えて行った。待とうかどうしようか散々悩んで、結局廊下の先の非常口から逃げるように帰った。


 その日の夜に先生からメールが来た。「何かあったら連絡しろよ」それだけの、先生らしい簡素なメール。


 高校生の頃の私を怯えさせた夢は、段々と『何か』に追いかけられる夢へと姿を変えていった。今でもやっぱり、その夢を見れば不安になるし、悲鳴も上げる。だけど、今は……優しい先生の夢のほうがずっと堪える。ぽかぽかした陽だまりに居るみたいな、そんな心地良い夢。


 先生の夢を見た夜は、いつも泣きながら目が覚める。


 会いたくて会いたくて堪らなくなって、だけど、もう二度とあの頃には戻れないんだと……目が覚める度に、思い知るから。それでも、記憶の中の先生と先生がくれた最後の言葉は、確かに私の心をずっと支えてくれていた。


 ぎゅうっと枕を抱きしめて居ると、机の上に放り出していたスマホが着信を告げた。


 ……電話?


 普段殆どかかってこない電話にいぶかしんで手を伸ばす。


 さやか? それとも、菊池君? 菊池君には、番号は教えてないはずだけど誰かから聞いたのかな……?


 誰からの電話にせよ、今はちょっと出たくない気持ちで、取りあえず誰からの電話かを確認しておこうか程度な気持ちでスマホを手にした私は、その画面に釘付けになった。



 『新島せんせ』



 え……? せん……せい……?



 表示されている名前が信じられなくて、何度も何度も読み返してしまう。何度見ても、そこに表示されているのは、高校2年生の私が浮かれて登録した『新島せんせ』だった。

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