去りし男のパスワード・その2

第12話

 ぴん、ぴん、と自分の顎を親指で弾く。一定のリズムで行われるそれに意味などはない。でも考え事をする時には額を一定のリズムで叩いたりテーブルを一定のリズムで叩いたり、そんなことをする人は多いのではないだろうか。全く微動だにせず思考に没頭する人の方が珍しいと思う。そこに意味を無理矢理当てはめるなら、手持ちぶさたの埋め合わせと言えるかもしれない。その程度の意味の行為を繰り返す程度には、思考の海に潜っていた。

 自分でも認識できるほど眉間に力が入っている。集中していると自然にそうなる。まばたきの回数も減っているかもしれない。

 そうして僕はテーブルに置かれた順位表を見降ろしていた。

 六波羅さんは指体操をしている。学者が高尚な問題を前に思考に耽っているかのようだ。ウニは今手元に無いが、袖の中にあるのだろうか。どうやってしまっているのか気になるところだ。しかし彼女の眉間にしわが寄っておらず、集中の中にも適度なリラックスが混ざっているのかもしれない。名推理をする人は思考が柔軟だろうから、集中しすぎて頭が凝り固まってしまうのを無意識に防いでいるのかも。そうだとしたらやはり彼女には天性の力があるのだ。

 御厨さんはスマホで仕事をしていた。ちょっと考えて分からないともう興味をなくしてしまうらしい。行き詰まりになったものはいったん保留し、別の進められる作業にあたった方が効率が良いのだと弁明していた。確かにもっともらしく聴こえるんだけど、彼女が言うと途端に言い訳じみて聴こえてしまうのだから不思議だ。まあ、経営者でもあるしメールの対応とかスケジュールの確認調整とか沢山やらないといけないんだろうけど。

 こうした三者三様で、休憩室のテーブルに着いている。簡素なテーブルに背もたれの低い椅子。そういったものが並べられた休憩室はその名の割には事務的な雰囲気だ。まあ、ちょっと一息つければ良いんだろうけど。

 しかしその休憩室で、僕らはぴりぴりとした緊張感に包まれていた。

 まさか、あの推理が外れていたとは。

 各人の文字列への変換は見事で、それによって作られたパスワードが外れることなど思いもしなかった。あまりのことに頭が真っ白になってしまったくらいだ。

 成功を確信しているほど失敗した時のショックも大きい。まあそれは僕が個人的に恥ずかしい思いをしたのもあるんだけど。

 六波羅さんが指体操を続けながら口を開いた。

「まだきちんとていない。完全な観客だよ。まだ舞台で演技している状態しか視ることができていない。観客から語り部になるためには、舞台袖の、みんなの素を視なければ情報が足りないね。私にもっと目の覚めるような洞察力が備わっていれば良いのだが、人間関係やそれぞれの思惑が絡むと、とんと弱くてね」

 彼女は特に気弱な様子でなく、淡々とした調子だった。一見すると客観的な事実を述べているだけのように見える。でも、六波羅さんで洞察力がないなら僕はゼロという境界線より下に行ってしまうような気がするのだが。今の情報だけで『全てはお見通しだ!』ってなったら、それはもはや超能力だ。一人で全て解決できて、周囲の僕らなど要らないだろう。

 思えば六波羅さんも小説を書く前から確信が無いという態度ではあった。それを無視して僕が突っ走ってしまった。そこは失敗だった。

 僕ができることというのは、何だろうか。それが少し分かってきた気がする。

 六波羅さんがるようにするための手助け。

 それは、僕がより多くの情報を彼女に渡すことだ。情報さえ渡せばその後の処理は完璧にこなしてくれるのだから、助手の僕が意識するのは情報の収集部分である。

 では、今どんな情報が必要なのか?

 キーワードとなるのは人間関係だ。六波羅さんが気にしているところはそこである。

 しかし、そこを重要視しているのは何故か?

 僕は尋ねてみることにした。

「今までの情報で、順位表がパスワードの鍵となっていることは間違いないと思うんですけどそこに人間関係ってどう絡んでくるんでしょうか? 僕は、とりあえず中垣さんが仕事を自慢げに話していたり、自分基準で順位表を作っていたりしたから、そうした『自分に自信を持っている』という本人の性格だけ掴めていれば充分だと思っていました。その性格だから、順位表を読み解けさえすれば答えが出てくるんじゃないか、と……」

 すると、六波羅さんは意外なことを口にした。

「中垣さんは『自分に自信を持っている』という性格ではなさそうだよ」

「えっ……?」

 僕が目を丸くすると、彼女はテーブルの順位表を指差す。そして小規模ながら名推理がはじまった。

「この順位表を見てほしい。さて、この中で1位は誰か? それは阿藤さんだね。ここで仮に中垣さんが『自分に自信を持っている』性格だったとする。だがそれだと腑に落ちない事があるんだ。……?」

「そういえば……」

 この順位表には中垣さんの名前が無い。自分に絶対の自信を持っているなら、1位に自分の名前を入れていてもおかしくないのに。

「それが一つの要素。他にもある。何故中垣さんを強く非難する人達は順位表ということを強調したんだろうね? 私は想像してみたんだが、もし隣の席の人が順位表を作成していたとして、それが全くの的外れであったなら怒りを覚えるだろうか?」

「的外れだったら、ですか……?」

 顎に手を当てて考えてみる。怒るような、そうでないような……いや、明らかに的外れなら嘲笑するかもしれない。

 六波羅さんは力強い笑みで語った。

「私なら一笑に付すだろうね。その順位表のことなど一日もしない内に記憶の彼方へいってしまうだろう。私が小学四年生の時、クラスで誰が計算問題を速く解けるか競っていた時期があってね、それぞれが上位を目指し頑張っていたよ。三ヶ月もしたら上位陣は徐々に固まってくる、そこで私の隣の席にいた男子がこう言い出したのさ……次の上位五人を予想しよう、と。だがその男子は人の好き嫌いがはっきりしている子でね、予想には個人の好き嫌いがはっきり出ていた。一目見てこれはハズレだな、と思った私も周囲の子たちも全く気にしなかったよ」

「……ああーそれは、確かに」

 僕は思わず声を漏らしていた。六波羅さんの言う通りだ。僕はみんなから聞いていた話から中垣さんの性格をそのまま『自分に自信を持っている』人だと判断していた。でも同じ話から六波羅さんは全く違う人物像を思い描いていたのだ。しかも彼女の話には一つ一つ根拠があり納得できてしまうから凄い。

「だから私はみんなに順位表の妥当性を尋ねていたのさ。だがまだ確証を得られたわけではないがね。それが二つ目の要素。三つ目の要素は、弐平さんという味方だ。果たしてデートをしたから味方なのか、その前から味方だったのか……どちらかは分からないが、そうした好意的な情報もある。この三つの要素から中垣さんの性格は『自分に自信を持っている』という性格ではなさそうだと私は思っているのだよ」

 彼女と話していると新しい世界が見えてくるようで不思議だ。それは彼女の聡明さから来るものだが、嫉妬よりも面白いと感じてしまう自分に気付く。同姓であれば必死に粗探しをしてほらお前だって完璧じゃないんだ、と無意味に張り合っていただろう。いや、これはひとえに六波羅さんのことが好きだからかもしれない。嫉妬と恋が相撲をとって恋が勝ったのだ。

「なるほど、そうだったのですか。言われてみればって感じがしますね。でもそれだと、僕の考えは全面的に立て直さないといけないな……もしかしてこの順位表っていうのも佐伯さんの時みたいに、実は事件を解く鍵じゃないとか?」

「この順位表が事件を解く鍵である可能性は高いよ。ただね、その読み方を解明するには情報が足りないんだ。中垣さんがどういう思いでパスワードを設定したのか、そのストーリーが視えないことには解明できない。彼の思いを探るには、彼にまつわる情報が一つでも多く必要なんだ。しかし彼のことを語る人には、それぞれ彼に対する個人的なバイアスがかかっている。それはまさに人間関係やそれぞれの思惑に由来するものだね。そのバイアスも紐解きつつ、中垣さんの思いに辿り着かなくてはならない。全貌が視えるまでなかなか骨が折れそうだよ」

 六波羅さんは何でもないことのように言っているが、僕にはついていくのが厳しいハイレベルな思考だった。必死に理解しようとすると頭が痛くなってくる。彼女の中に広がっている世界とは、いったいどんなものなんだろうか。

 ただ、理解するのは厳しくても僕のすべきことは分かっている。彼女に情報を与えるのだ。

 では次に誰に話を聞こうか。

 真っ先に浮かんできたのは、弐平さんだった。

 弐平さんから中垣さんのことを聞いてみたら、どんな情報が出てくるだろうか。そこをまだじっくり聞けていない気がする。デート関連のこととかも、もしかしたらパスワードに関わってくるかもしれない。

 僕がそれを提案してみると、六波羅さんは口の端を持ち上げた。

「良いと思うよ。助手らしくなってきたじゃないか」

 その笑顔には僕を認めてくれたような気持ちがはっきり出ていた。僕は思わずガッツポーズをしそうなくらい嬉しくなった。六波羅さんに認めてもらえた、六波羅さんに少しでも近付けた、それは僕がここのところずっと待ち望んでいた瞬間だった。

 名探偵の横にはそれを支える助手がいる。僕はそのポジションで良い。そこは名推理が間近で拝める特等席なのだから。それに、名探偵と多くの時間を共有できるのだから。



 弐平さんは緊張した面持ちだった。視線を落とし、口を固く引き結んでいる。そうして僕と一緒に休憩室へやってきた。

 テーブルに着くと、弐平さんは寒風の中に身をさらしたように手を擦り合わせる。休憩室の温度は快適だ。それなのに寒いような仕草をしているのは緊張の表れか。

 六波羅さんははきはきとした口調で尋ねる。

「パスワードに絡むことかもしれないので、最初に興味本位でないことは断っておきます。遠回りな訊き方はしません。中垣さんとデートをしましたか?」

 すると弐平さんはビクッと肩を震わせた。覚悟していたものがきた、という表情。それから瞳を揺らし、悲しい顔つきになる。手は擦り合わせる仕草から固く組むものに変化していた。何回かぎゅっぎゅっと組んだ手を握り込むのは、頭を整理するための時間を必要としているように見えた。そして、準備ができたとばかりに話し始めた。

「刈葉から聞いたんですね? 刈葉が皆さんを連れて行った時に何か話すんだろうなとは思っていましたが……はい、しました。でも一度だけです。一度だけ、夕食を一緒に食べに行きました。その時に見付かってしまい、それ以降は全く行っていません。それまで中垣さんとはたまに昼食を一緒に行っていたりもしたんですけど、それもやめたんです。わたし、その時は不安定だったんです。だから、気の迷いがあって……彼氏がいながらその時は、中垣さんをわたしの不安定を鎮める頼りにしてしまったんです」

 その声にも顔にも後悔や反省といったものが滲み出ていた。何だかそれを聞くとあまり責められない気がする。元々僕らの目的は責めることじゃないけど。

 六波羅さんはウニを取り出し、軽快にお手玉し始めた。目の輝きも増した気がする。これって、彼女なりの興味を示したというサインなのだろうか。若干体勢も前のめりになっている。

「中垣さんは、頼りにしたくなる良さがあったと?」

 弐平さんは俯き、わずかな間テーブルを見つめた。それからこわごわと頷いた。それは見付かると異端者として烙印を押されてしまうけど、でも間違っているのはみんなの方ではないかと恐れているような、抑圧された不安に見えた。

「みんなは中垣さんのことを悪く言うけど、わたしはそんなに悪い人じゃないと思うんです。最初はわたしもあまり良い印象は持っていませんでした。でも、あることがきっかけで気付いたんです、中垣さんは誤解されやすいって。中垣さんは常に淡々としているんです。感情が窺えないというか。だから何を話しても素っ気ない。わたしは中垣さんの指示で仕事をしたことが何度かあるんですけど、うまくできた時にも何も言ってくれないし、間違うと細かいところまで指摘されるし。その時も『こことここがこう間違っている』とだけ言ってもう自分の仕事に戻ってしまう。なんか人として対応してもらっていないんじゃないのかって気持ちになります。そういうところがあるから、みんなから『あいつは上から目線だ』って思われちゃうんです。でも、わたしが大失敗してしまった時、見てしまったんです。中垣さんが休憩室で隠れて電話をして、電話の相手にお願いをしていました。その後部屋に戻ってくると、中垣さんはこう言ったんです。『仕様が変わったから大して直さなくて良い』って。中垣さんが必死にお願いしていたのは、たぶん仕様のことなんです。わたしの失敗を逆に活かせるように仕様変更のお願いをしていたんです」

 思わぬエピソードに僕達は顔を見合わせた。

 六波羅さんがふっと微笑する。

「そのギャップにやられた、と?」

「いや、そういうことじゃ……でも、それで見方が変わったというか……隠れた優しさを持っている人なんだなあ、と思ったというか」

 ちょっと恥ずかしそうに弐平さん。六波羅さんは目を瞑り、うんうん頷いた。

「ふふふ、これは使える……!」

 会話が繋がっていないが、たぶん六波羅さんは自分の小説のことを考えているのだろう。そうしたら御厨さんが口を挟んだ。

「でも男のツンデレって面倒臭くない?」

「おおミクりんは単純明快、インスタントラーメンみたいな恋がお好みかね? それにこれはツンデレとはまた違う方向性を開拓できそうな気がするぞ」

「複雑な手順を踏むと飽きちゃうじゃない。プライベートでは推理したくないわ~」

「もともと仕事でも推理してないではないか。おっと、クライアントの前で暴露すべき真実ではなかったね」

「『作られた真実など重要ではない。事実の方が大事だ』って誰かが言ってたわ」

「ミクりんが言うと喜劇王も真っ青なコントだね、はははははははは!」

「やだーあははははは!」

「あのー……」

 弐平さんの言葉で二人の笑いがぴたりと止まる。それから軽い咳払いがあった。

「これは失礼。見方が変わったということですね?」

 六波羅さんの問いに弐平さんは頷く。

「はい。それから少しずつ話すようになって、でも中垣さんの態度は会話が増えても変わりませんでした。常に素っ気ないまま。順位表の件もたぶん、あの素っ気なさだと私情をそんなに挟んだとは思えません。単純にみんなの仕事ぶりを見て、決めたんだと思います。順位表を作成したのも何か理由があるのかもしれません」

 いつの間にか弐平さんの表情は明るくなり、緊張は消えていた。六波羅さんと御厨さんの掛け合い辺りから、緊張が緩んだ気がする。まさかあの二人は緊張をほぐすのを狙ってかけあいをしたとか、そういうんじゃないよな?

「順位表については何か聞いていませんか?」

「それをお話ししなければなりませんね。わたしが聞いたのは、わたしが9位、刈葉が2位というものでした」

「そうですか、そうですか」

 六波羅さんはここでウニを額に押し付けた。

「あともう一つ、中垣さんは失踪する直前に謎めいたことをわたしに言っていたんです。もしかしたらあれはヒントだったのかも。『順位表を見ていたら、とても偶然で素敵な奇跡があった。二人で頑張ればこの謎が解けるだろう』って。いつもは使わないような言葉も使っているし、何か変だなとは思ったんですけど、あれはもう失踪する決意を固めた後なのかもしれません。今思えば、ですけど……」

 重要な証言が出てきた。六波羅さんは更にウニを額でぐりぐりする。

「そのタイミングでその言葉は、パスワードと切り離して考える方が難しいですね。ヒントと見てまず間違いないでしょう。やはり順位表が鍵であること自体は間違っていなかった。考えるべきところは順位表の見方。『偶然で素敵な奇跡』とは何か。『二人で頑張れば』とは……しかしこれで方向性が定まりました。ありがとうございます」

 こうして弐平さんからは大きな情報が得られた。

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