都市3 ―偽り―

「出なさい。こちらへ――」


 ドアを開け放ち、半身を室内に入れた状態で、ハシバは薄笑いを浮かべながら部屋の外を示した。

 身じろぎしただけでギシギシと音を立てるように痛む体に顔をしかめつつ、ユウキは壁伝いに立ち上がる。こんなもので動けなくなったと思われるのも、屈服したと判断されるのもシャクだ。

 ハシバは満足そうにまた口の端に薄い笑みを載せ、先に立って外へ出た。


「どこへ……」


 二、三歩後ろを歩きながら、ユウキはハシバへと問いかける。


「すぐに分かるさ。きみに見せたいものがあるんだ」

「……これは?」


 チラリと振り返ったハシバに向け、不満をいっぱいに表して、後ろ手に括られている両手首を見せるように体を捻ったが、ハシバはそれを一瞥しただけで鼻を鳴らした。


「少しの間、我慢しなさい」


 学校や居住棟とさほど変わらない幅の、薄暗い廊下を進む。学校と違うのは、ドアや壁に教室の内部をうかがえる窓が開いていないところ。居住棟と違うのは、ドアの数が少ないところ。

 ここがいったいどういう場所なのか、ユウキには見当をつけることができなかった。


 しばらく行くと、前方に明るい一画が見えてくる。腰の高さから上くらいがガラス張りになっている部屋だ。その前にさしかかろうとするところで、向こうから角を曲がってこちらへと歩いてくる一人の少女が目に入って。

 その顔を見て、ユウキはわずかに当惑した。会っていいのか、声を掛けるべきなのか。隠れたほうがいいのか。アザや傷だらけで拘束されているクラスメイト――元、かもしれないが――を見て、彼女はどんな反応を示すだろう。考えているうちに少女は目の前までやってきた。


「ハシバ先生、こんにちは」

「やあ。エリ。『リハビリ』だね。ご苦労さま」

「はい。よろしくお願いします」


 最初に会った時と同じような陽気な調子で答えるハシバに、エリは小さく会釈した。そして、彼女の色の薄い瞳が、ユウキに向けられる。顔にはいつもの、やわらかな微笑みを湛えて。


「ユウキくん。こんにちは」

「え? あっと……こんにちは」


 戸惑いながら、返す。記憶を辿って――いろいろあってすっかり時間が経ってしまったような錯覚に陥るが、エリとは数時間前まで同じ教室にいたはずだった。「こんにちは」という挨拶が適切かどうか。それどころかユウキの見てくれに関しても、エリの優しげな瞳からも形の良い唇からも、どんな感想が漏れてくることもなかった。


 妙な感覚に捕らわれてあいまいに返すユウキに、エリはそれすらまったく不自然に感じた素振りも見せずにいつもの通りに笑いかける。

「ユウキくんも、ハシバ先生のところに遊びにきたのね」


「そうだよ」ユウキが口を開く前に、ハシバが気軽な口調で答えた。むっとして見上げるユウキには構わず、ハシバはエリの肩に手を置いて優しげに室内へと導く。


「六〇年代のゲームに興味があるそうでね。これから見せてあげるところさ。さ、行ってきなさい。また後でな」

「はい、先生」


 エリはまた軽く頭を下げて、ハシバに肩を押され、どことなくフワフワとした足取りで室内へと入っていった。

 ハシバに続いて歩みを再開しようと足を進めかけたユウキだったが、エリを室内へと見送ったまま立ち止まっているハシバに、動きを止める。

 彼は、部屋と廊下を仕切るガラス窓の下に設えられた、何かの操作盤のような液晶のパネルを操作し始めた。


 何気なくそちらに寄りながらエリの入っていった室内に視線をやって、ユウキは目を見開いた。

(なんだ、この部屋……)


 廊下に面して続く、奥行きのない細長い部屋。廊下側のガラス窓に向かうようにして一列に並べられた、一人掛けの大きなシートと、その間に整然と据え置かれた数々の機械。映画で見た、あれは、病院だったか。連想するが、ベッドや医療器具のように見えるものはない。


 その並んだシートの、ユウキから見て一番手前に、エリは座った。慣れた動作でシートを目一杯にリクライニングさせ、ヘッドホンとゴーグルのようなものを装着する。そして、シートに深々と体を預け、腹の上に組んだ手を載せると、それきり動かなくなった。

 ゆったり、と言っていい具合に見える。その表情は見えないが、全身の緊張が緩和され、リラックスし切っているような気配。


 何故とはなく嫌な予感がして、ユウキは薄ら寒い気分になる。ハシバは「リハビリ」と言っていたし、エリにも苦痛を伴う作業をしにやってきたような雰囲気は微塵も感じられなかったが、それでも「良いこと」が行われているようにはどうしても見えない。


 その間にも、何かの操作を続ける様子のハシバ。一通りの操作を終えたらしい彼は、手を止めると、困惑に固まっているユウキのほうへと不敵な笑みを向けた。そのままハシバが視線を上げた方向へとつられて目を向けると、天井から下げられた大きな液晶モニターに、パッと絵が浮かぶ。

 アニメーションのようだった。


(アニメーション?)


 ――たくさんの色に囲まれた、華やかな部屋。カーテンの隙間から、やわらかい光が差し込んでいる。

 その部屋の中を。

 人間の視覚が室内のものを捉えるようなカメラワークで、映像が移動する。机。ロッカー。本棚。ベッド。ユウキの部屋にあったものと、さほど変わらない家具類。だが、パステルカラーの色調にまとめられたそれらは、全体的に無機質なこの都市の中の一室とは思えない。ピンクと白の小花柄のベッドカバーなど、この都市では見たことがない。

 このイメージ……これも、映画やなんかで見たことがある。前時代の、ちょうどユウキやエリくらいの年頃の、少女の部屋。


 カメラは壁に立てかけられた大きな姿見に歩み寄る。

 その前で立ち止まると。


 鏡に映ったのは、部屋着を着て少し眠たげな様子の、エリの姿だった。


(……これ……っ)

 女の子の部屋を覗き見してしまったような気持ちになって、慌ててユウキは目を逸らしモニターから一歩後ずさる。戸惑いと抗議を込めて、モニターを見上げているハシバに目をやると、ハシバはまたこちらに顔を向け面白そうに目を細めた。


「彼女の記憶だよ」

「……なんだって?」


 眉を顰めるユウキに、ハシバは楽しげに「いや」と訂正の言葉を重ねる。

「正確に言えば、彼女の記憶の、だな」


「記憶の、モト?」

「そう。二〇六五年の普通の女子高校生、エリの記憶」


 言っている意味がよく分からない。モニターに目を戻すと、場面は室内から廊下へ。階段を軽やかなテンポで下り、階下のテーブルとキッチンセットの設えられたやや広めの部屋へと移動した。


「彼女は今、催眠状態で、この映像を見ている」

 ハシバの説明をぼんやりと耳に入れながらも、自分の目で見ているかのような映像に、思わずユウキは見入ってしまう。

「彼女の目に見えているのは、立体映像だよ。目の前にある景色。目に映る人物。交される会話。行動。それらを彼女は自分が実際に経験しているものだと認識している」


 キッチンセットの前に立っている大人の女性が、こちらに向かって微笑んで、何事か話しかけてくる。

 すぐに「視線」が移動する。テーブルに並べられた皿。その上のハムと卵を素通りし、カーテンの隙間からのぞく窓をゆっくり通り過ぎ、テレビへ。テレビ画面の中では、傘を差した若い女性が、傘を持たないほうの手の平を上に向けて笑顔で口をパクパクさせている。


「嘘だろ……?」

「嘘じゃあない」

「だって、アニメーションだぜ?」

「そう。通常の状態なら、テレビや映画を見ている程度の感覚だろう。けれど、今の状態の彼女には違う。催眠状態だと言ったろう」


 数秒間テレビに留まっていた「視線」は、何かに反応したように勢いよくキッチンの女性に移動した。会話を交したかと思うと慌しく画面が動き、部屋を横切って階段の下へ。そこで階段の上を見つめているように、画面は静止した。

 ふと、ガラス窓の向こうでエリの体が動いたような気配がして、ユウキはそちらへと目をやる。

 寝言でも言うように、エリは口を動かしていた。


「だって……夢だって、思うだけだろ?」

「夢。そう、夢を見ているような感覚だろう。けれど、彼女には今、夢と現実の区別がついていない」


 しばらく階段の下に留まっていた「視線」が、また動く。さっき下りてきた階段を、駆け上がるような早い移動。廊下を通って部屋のドアの前に立ち、視界に自分の手が現れた。

 びくん、と、エリの手が動く。


 ノック。


「きみは、夢と、現実の区別があいまいになることはないか?」

 その手を液晶パネルに戻し、操作をしながらハシバが聞く。

「現実に経験したのか、夢だったのか、分からなくなってしまうことは? 夢で見たことを、実際に体験したことのように感じてしまうことはないかい? あるいは現実に経験したことを後から思い返すとき、それが夢だったように感じられることは」


 ユウキの頭は改めて混乱し始めていた。


「今、彼女の脳内に、そういう状況を意図的に作り出しているんだ。それまでに彼女が持っていた記憶に、この新しい記憶を上書きするためにね」

「まさか……だって、なんのためにいったい、そんな……」


 言いながら、ユウキはひとつの想像にたどりついていた。


(彼らは、どうしてコールドスリープについた? その理由を、なぜ語らない?)


 愕然と目を見張るユウキに、ハシバは満足そうな笑顔を向ける。


「彼らには『リハビリ』と言っている。長い眠りから覚めた後で、記憶が混乱しているだろうから。目を覚ます前の記憶を詳細に取り戻すために必要なのだとね。だがこれは、『メンテナンス』だよ」

「……」

「新しく植えつけた記憶を、補強するための。彼らの『新しい記憶』は、中途半端であいまいだ。当然だろう? 十数年の人生を、わずか数日で体験させるんだ。それらはすべて、彼らが元々持っていた知識スキーマを利用したものに過ぎない。だから、穴ができる」


 ハシバは小さく肩を竦めた。


「実際に経験したことのない体験は、知覚を伴わない。『菓子を食べた。甘くて上手かった』という記憶を植えつけることはできるが、舌はその味を実際に経験していないし、歯応えも知らない。そういうところから、綻びが生じる。だから、そういう隙を極力与えないように、定期的にメンテナンスをする必要があるのさ」


「それじゃあ……」突拍子もない、それでいて漠然とした不安を抱えた想像に、ユウキの声は震えた。「エリや、トオルは……」


「エリは――」ハシバはタッチパネルを操作して情報を呼び出し、そこに視線を据えながら。「彼女は、友達の持ち物を盗んだ」


 唐突なセリフに戸惑うユウキに、憂いを含んだ声でハシバは続ける。

「六十一地区のクラスの、彼女は女子生徒だった。ある日ちょっとしたことで親しい友人と口喧嘩をし、腹いせにその友人の物を盗んで隠した」


 ユウキは言葉を失う。

 口喧嘩? 腹いせ? 盗み?

 教室で常に優しげな微笑を湛えていた彼女の様子は、そんな言葉とは結びつかない。


 そんなの、別人だろう?


 ユウキの思いを読み取ったように、ハシバは、憂いの陰に愉悦を浮かび上がらせる。


「信じられないだろう? このエリが、そんなことをするなんて。そう、彼女は生まれ変わったんだよ。別の人間に。元の名前は……」

 パネルに指を置きながら。

「そうそう、マナミ。けれど、彼女の中にマナミはもういないよ。彼女は六〇年代にコールドスリープについた、前時代の記憶を持つエリ。善良で優しくて、誰からも愛される少女だ。生まれ変わったんだよ」


「……なんだ、それ……」

 ようやく絞り出すように言ったユウキに、ハシバは目を細めた。


「『教育』だよ」


 モニターの中で、場面が変わる。気づけば玄関のような場所。ドアの目の前まで「視線」は近づいて、くるりと後ろを振り返った。

 背後に立っていた先ほどの女性が、笑いかける。何事か話す。それに答えるような間があって、目の前にまた自分の手が現れ、ドアを開けた。

 外は眩しい、緑色の世界。映画でしか見たことのない、鮮やかな緑の葉をいっぱいに茂らせた木々が、色とりどりの花が、視界一面に映る。かすかに濡れたような土の地面を踏みしめて、門を出る。


「だって、そんな……」

 混乱を振り払うように、ユウキは言葉を手繰っていた。

「無理だろう? そんな、人の記憶を入れ替えるなんて……?」


「都市の子供たちは、みんな素直で従順だ。自分の頭で物事を考えたり、意思や行動を決定したりすることをしない。よく言えば柔軟。だが、自我が薄く単純だ。自分の思考に執着がない。言われたことをそのまま信じ、それに従う。彼らの記憶を丸ごと入れ替えるなど、造作もない。たとえばきみは――」


 そう言って、ハシバは口もとに笑みを浮かべたまま、鋭い視線をユウキに投げかける。

「本当に、ユウキくんかな?」


「……は?」

「どこで生まれて、どういう風に育った? 誰がきみに名前をつけた? きみの記憶は、本当に確かなものか? ?」


 畳み掛けるように問うハシバに答えようとして、言葉が口から出てこなかった。考えがまとまらない。おれは、誰かって? そんな、馬鹿な――


 必死に何事かを頭に浮かべようとするユウキに、ハシバは喉の奥を鳴らすような音を立てて可笑しそうに笑った。

「すまない。きみは確かにユウキくんだよ。ただし、きみの記憶には大きな間違いがある。きみが生まれたのは、この時代の、この都市じゃない」


「……は、何、言って……」

「二〇六〇年。それがきみの生まれた年だ。きみはで、五年間を過ごした。わずか五年。何も覚えちゃいないだろう? そして、長い眠りについた」


 わずかに口を開け放ったまま、ユウキは思考をまとめられずに固まっていた。


「言っただろう。きみだけが、本物だ。人類最盛期の人間。彼らとは――」

 冷たい視線をガラス窓に向けて、ハシバは低く言った。

「違うんだよ。彼らは道を均すだけの存在。記憶は夢だ。妄想だ。現実と夢の区別もつかない、この時代の素直で、善良で、愚かな子供たち」


 ハシバの視線の先に、エリがいた。ゴーグルに半分覆い隠された顔。口もとだけが、幸せそうに綻んでいる。


「だって……だって、なんで、そんなこと……」

「六〇年代の世界を、この都市に築くためだ。私一人では難しい。けれど彼らの導きで、この都市の従順な子供たちは新しく素晴らしい世界を取り戻す。彼らが六〇年代の素晴らしさを子供たちに伝え、無気力な子供たちを奮い立たせるんだ。だがね――」


 さらに声を低めて、ハシバは言葉を継いだ。

「こんなものは」

 モニターに目をやる。

 その視線を追って、次にモニターに映し出されたものに、ユウキは完全に言葉を失った。


 「視線」が前方に捉えた、もう一人の少女。

 彼女を、ユウキは見たことがあった。


 トキタ博士の――じいさんの部屋で。最後にあの部屋に行った日に、トキタのパソコンのディスプレイの中に。その少女はいた。「前時代のゲームだ」と。「研究のために見ていたのだ」と。トキタは言っていた。その少女が、振り返って笑いかけ、何事かを話す。

 モニターのこちら側の、ユウキに向かって声を掛けるかのように。


(なんで、あれがここに?)


だよ。一時的な記憶の差し替えにしかならない。さっきも言ったように、この記憶には穴がある。いずれ破綻が生じる。そうなる前に、きみやトキタくんの協力が必要になる」


「……なんで……」

 目を細め、うかがうような視線でユウキを見つめているハシバに、ユウキは知らず、疑問を投げかけていた。

「どうして、おれの? それに、じいさんが……なんで?」


「きみが私に協力すると言ってくれれば、トキタくんも喜んでこの計画に賛同してくれるだろう」

「なんで、そうなるんだよ。じいさんは関係ないだろ?」

「そんなことは、ないよ。現にこの十年の間、彼は消極的とはいえ協力してくれていた。きみの身の安全を守るためだよ」

「だから、なんで……」


 重ねて問うと、ハシバは少し驚いたように目を見開いた。

「トキタくんは、きみに本当に何も話していないのかね? あの十五日の間に」

「何もって……?」


 わずかな間。考えるような時間を取って、ハシバは鋭い眼光でユウキをうかがっていたが、やがて唐突にその口から笑いがこぼれ出した。

「ハッハッハ、そうか。そうか……それで、『じいさん』か。そいつは傑作だ。ハッハッハ」


 その笑いに堪らない不快感を覚えつつも、ユウキには返す言葉が見つけられずにいた。そんなユウキに、ハシバはまだ笑いを含んだ声で続ける。


「いいだろう、教えてあげよう。けれどその前に、きみにもう少し協力の姿勢を示してもらわなければならない。もう一度言うが、私はきみやトキタくんのような、同時代の人間を傷つけることは本意ではない。できれば強行な手段は取りたくない。私だって、きみという人間をたくはないからね」


 消し去る――?


「けれど、もしもきみが首を縦に振らないならば、私も意に沿わない手段を取るしかなくなってくる」


 語りながら、ハシバは廊下を歩き出した。なかば無意識に後に続いて、少し進む。ガラス窓の向こうのエリを後方に見送り、次のシートへ。やはり顔の半分を覆い隠され、誰とは分からない。男子生徒がエリと同じ様な体制でくつろいでいた。


「きみには、『ノボル』になってもらう。シチュエーションは」

 さらに進んで知らない黒髪の少年の体を預けるシートへ。歩きながら、ハシバはユウキへと軽く目をくれる。口調はさも愉快で堪らないというかのように。

「そうだな。父親と母親。要望にお応えして、祖父母もつけようか? そして妹のいる家族。きみはそこの家の、ノボルという子供だ」


 さらに進んで、一人の少年の前でハシバは歩を止める。

「住んでいた場所は、選ばせてあげよう。どこがいい? このトウキョウか? それともどこか、ほかの街にするかね? 田舎の暮らしもなかなかいいぞ?」


 少年の手前に天井からぶら下がったモニター。そこに、少年がいま見ているのであろう、緑に溢れ清潔感に満ちた世界が現れる。どこか田舎の、広い草原のような場所だった。

 青い空の下。見回せば、同じ歳くらいの数人の少年。みな大きな口を開けて笑っている。


 そして、ガラス窓の向こうでシートに埋まっている少年。ゴーグルの下の彼の顔もまた、愉しげに笑っていた。


「趣味は、そうだね」言って、ハシバはユウキを眺め下ろす。「きみは活発そうだから、スポーツなんかが似合うだろう。サッカーはどうだい? 地区大会優勝チームのキャプテンだ。家族に愛され、学校でも人気者。スポーツに熱中し、周囲からも評価される人間。どうかな。なかなかいい人生だろう?」


 淡々と言い募るハシバの言葉に、得体の知れない薄気味悪さを感じて、ユウキはかすかに身震いする。

「よ、良くないよ、何言ってんだよ……こんな、こんなの、……駄目だろ?」


「どうして? この都市の、なんの楽しみもない生活よりも、よほど楽しく充実した幸せな思い出だよ。本当の自分なんか思い出したくもなくなるくらいにね。彼らがそれを証明している」


「だって、みんなこれからどうなるんだよ。本当に新しい人間になったのか? そうだったとしても、もうなくなっちまった世界の記憶なんだろ? そんなの、楽しいわけないだろう!」


 ひとつ言葉を取り出すと、疑惑は後から後から押し出されるように口に上りだした。


「それにあんた、新しい記憶には穴があるって言っただろ? それって完全に別の人間になり切ってるわけじゃないってことだろ? 後で思い出したり、記憶が嘘だったって分かったりしたとき、どうなるんだ?」


「中途半端な状態なら、元の記憶を取り戻すだろうな。だが、何度も言っているように、彼らの仕事は現代の子供たちに六〇年代の素晴らしさを伝えるまでだ。それが済めば、その後は記憶がどうなろうと関係ない」


「な……」

 冷ややかに言いきったハシバに、ユウキは絶句する。


 他人の記憶を都合のいいように弄んで利用して、用が済んだら後は知らない? そんなことが許されるはずないだろう。

 ユウキの思考を悟ったように、ハシバは先回りする。

「偽の記憶の中で、彼らは楽しい思いをし、それがこの世界を良い方向に導くことに繋がる。どこに問題がある?」


「おれは嫌だよ!」

 叫びに近い声を上げると、ハシバは目を細めた。


「ならば、その前にもう一度、選ばせてあげよう。ユウキとして私に協力するか? それともノボルになるか?」

「……」

「このままユウキとして、都市の子供たちにいい夢を見せる側に回るんだ。そして一緒に素晴らしい社会を作る。それだって、前の生活よりもよほど面白いだろう?」


 面白いかどうか、じゃなくて――。ユウキは思う。いや、たしかに、面白いものを求めていた。冒険に満ちた充実した生活。それは欲しかったものではあるが、こんなものではないはずだ。けれども、拒めば――。

 自分のこれまでの記憶や生活に、さしたる執着もない。楽しい思い出なんか、大してない。それでも。自分が自分でなくなるなど、考えられない。


 困惑するユウキに、ハシバはじっと目を据えて答えを待つ。二つに一つ。それ以外の選択は許されない、というように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る