都市3 ―「孫」役―

 インターホンを鳴らさずにドアを開けるのが、まず第一の約束になっていた。


 トキタ博士は学校から帰ってくる「孫」を迎えるために、電子錠を開けておいてくれる。なんて無用心な……と、最初は思ったが、考えてみればユウキが来るのは毎日決まって学校の終わった午後三時。その時間だけ開けておけばいいのだから、問題はないだろう。


 挨拶は「こんにちは」でも「失礼します」でもなく、「ただいま」と言うこと。第二の約束だ。

 そんな言葉があること自体、ユウキは初めて知った。十二歳までは学校の同級生と一緒の二人部屋だったが、朝から晩まで一緒なので部屋に帰った挨拶などする必要はなかった。それから後は一人暮らしで、これまた挨拶する相手もいない。

 自分の場所に帰ってきたときに、迎えてくれる相手に言う言葉なのだそうだ。そう言われると、気恥ずかしさでつい小声になってしまうが、おじいさんことトキタ博士は毎日同じ笑顔で「おかえり」と言って「孫」を部屋に迎え入れる。


 第三の約束は、友達同士のような気安い話し方をすること。

 これにもだいぶ慣れてきた。


「コーヒーがいいかね? お茶にするかい?」

「おれが入れるよ。何がいい?」


 そう言うと、「おじいさん」は驚いたように目を大きくした後、すぐに相好を崩す。

 この老人を喜ばせるコツが掴めてきたと、ユウキは思う。

 最初は自分の置かれた環境に戸惑っていたが、それが仕事だと思えば開き直れる。ゲームだと思えば、やってやろうという気分になる。かわいい「孫」を演じて、彼を喜ばせれば勝ちだ。


「じゃあ、お茶をもらおうかな。珍しい香りのお茶が手に入ったんだよ」


 ユウキは「ぜひともそれを飲んでみたい」という顔をして頷いた。

 しかし。博士の示す透明の瓶に入ったものを見て、一瞬手に取ることをためらう。

 瓶の中には黒い小さなものがぎっしり入っていて、その間に、緑白色の縮れたような乾いた葉っぱが入っている。なんだか不気味だ。恐る恐る手にとって眺めていると、笑い声が聞こえた。


「お茶の葉を見るのは初めてかね」

「これがお茶? お茶って、最初は粉じゃないの? じゃあこの周りの黒いのは?」

「それが『お茶の葉』だよ。緑の葉は、香りの元さ」

「こんなのが本当に溶けるの?」


 飲み物は粉末か、缶やボトルに入った出来合いのものしか見たことがない。


「それは溶かすんじゃないよ。まあ、入れてみよう」

 そう言う声は、なんとなく楽しげだ。


 ユウキは言われたとおりに小さなポットに給湯器から湯を注ぎ、温めた。それからトキタ博士が慎重に分量を測った「お茶の葉」をポットに入れる。また給湯器の栓をひねろうとすると、止められた。給湯器などから出てくるのではなく、沸かしたての熱い湯でなければならないというのだ。

 湯を入れると、黒い小さなものは少しずつ広がり、赤い色素をにじみ出させた。


「これが、葉っぱ?」

 信じ切れない口調で聞きながらも、目は湯の中で黒いものが揺れ動き、次第に無色だった液体を赤く染めてゆく様子に釘付けだ。


「きみたちは粉を溶かしてお茶を作るのかい? コーヒーは?」

「同じだよ。それか、できたのを買ってくる」

「これが本当のお茶の作り方だよ」

「コーヒーも?」

「あれは本来は豆だよ。これとは見た目も入れ方も違うがね」


 お茶はお茶で、コーヒーはコーヒーだ。「本当の」なんて、考えたこともなかった。初めて入れる「本当のお茶」は、手間と時間のかかるものだった。

 たっぷり時間を置いて、ようやくカップに注がれたお茶は、見たことのある赤い色をしていたが、知らない香りが混じっていた。

「入れてあげる」作戦は失敗だったが、「孫にお茶の入れ方の手ほどきをする」老人は心から楽しんでいるようだったので、結果的には良かったのだろう。後はこれを、おいしそうに飲めばいい。……のだが。


「うわ、なんだコレ!」

 想像していたのと違う味に、思わずユウキは声を上げた。いや、正確には味ではない。飲み込むと、口の中や喉の奥に、予期していなかった冷たい感触が広がって。こんなものは、口にしたことがない。


「不味いかね?」横から老人が、うかがうようにユウキの顔を見ている。


(美味しいと言え、美味しいと)

 それで「いい孫」役の演技は完璧だ。……しかし、口から出た言葉は。

「変な感じー。なんだコレっ」

 しかも、思い切り顔をしかめながら。


 ところが。意に反して、トキタ博士は吹き出すように大声で笑い始めた。持っていたカップをテーブルに置き、体を折り曲げて、心の底から可笑しそうに声を上げる。目に涙まで浮かんでいる。


(なんだ? 何がそんなに可笑しいんだ?)


 ユウキはあっけに取られていた。わけが分からない。だが、笑われることが決して不愉快ではない。むしろ目の前の老人の陽気な笑い声に、自分まで楽しい気分になるのを不思議な気持ちで自覚していた。


 期せずして、おじいさんを喜ばせるという計画は成功したわけだ。だが、ゲームに勝利を収めたのとは別の種類の、もっと温かく、くすぐったいような気持ちで心が満たされていくのをユウキは心のどこかで認識していた。

 美味しいものを食べたときや、楽しい映画を見たときに感じるのとは違う。シュウやほかのクラスメイトと話しているときとも。

 それは、経験したことのない気持ちだった。


 都市の子供たちの暇つぶし用に作られたテレビゲームなんかとは違う、ナマの人間を相手にして自分の言葉と行動を組み立てていくこのゲームは。これまでにやったことのあるどんなゲームよりも先の予想がつかず、手ごわく、エキサイティングで。そして妙に、居心地のいいものだった。




 いつものように、教室の真ん中では、例のコールドスリープから覚めた転入生を囲んで輪ができている。変わらぬ光景だが、転入生がきて数日のうちに、輪に入る生徒の数は徐々に増えていっているような気がする。

 限られた人間としか付き合いを持たない、それ以外には興味を示さない都市の子供たちとしては、珍しい光景だ。輪が広がっていくなんて。


 皆、それだけ自分たちの知らない前時代に興味があるのだ。

 前時代からやってきたという少女にも。


――前時代の人間は、離れた場所にある学校に電車に乗って通ったのよ。


――私の家は小高い丘の上にある一軒家だったわ。庭もあって、花をたくさん育ててた。いろんな色の花が、季節ごとに咲くの。


――みんな自家用車を持っていたわ。あのソーラーカー? ううん、もっと大きな車よ。四人も五人も乗れるの。


――休みの日は、その車でドライブに行くの。湖や川や、青い空の下で食事もできたわ。


 頭の上に、直接「空」があるなどという話からして、まず実感がわかない。

 都市の子供たちにとっては羨ましくてヨダレが出てきそうな話を、転入生エリは惜しげもなく披露した。

 一人だけ他人と違う知識をもっているからといって、鼻にかけることなく、やわらかく、噂話でもするような口調でクラスメイトの好奇心に応じるエリ。

 時おり顔に滲ませる哀愁めいた雰囲気が、聞く者の同情をそそる。やはり故郷が――生まれた時代が恋しいのだろうと。同時に、現代の都市の生活については何も知らないのだ、という低姿勢がさらに高感度をアップさせる。


 ユウキはそんなクラスメイトたちを、輪の外側から遠巻きに、無関心にぼんやり眺めていた。

 むかしの話が聞きたければ、トキタ博士から聞くことができる。

 それよりも、エリが転入してきたあの日、「雨」の放課後、彼女に一瞬感じた違和感が捨て切れなかった。あれは、なんだったんだろう。


「ユウキ」

 生徒たちの輪の中からシュウが出てきて、ユウキの思考を遮った。


「何やってんだよお前、一人で。エリちゃんの話、興味ないのか?」

「別に……」

「ああ、おまえはトキタ博士からいろいろ聞いてるんだもんな。それよりお前、聞いたか? エリちゃんにもお兄さんがいたんだとさ」

「知ってるよ」

「なに! 抜け駆けか?」


 それはお前がこの間、「雨」の中おれを放って帰ったからだ。


「エリちゃんのお兄さんは、行方が知れないそうだ。そればかりか、住んでいた町……なんていったかな、ええと、コク……ん? なんだか分からないが、その町も戦争で消滅してしまったそうだ。可哀そうになあ」


 シュウは感情移入たっぷりに話す。また、自分がカナと別れたら……なんてことを考えているのだろうか。

 ぼんやりと頬杖をついたまま、ユウキは心の隅に引っ掛かっていたことを口にした。


「それよりさあ、彼女はなんでコールドスリープなんてしたの?」

「それはだからお前、病気だよ」

「だから、なんの?」

「なんのって……そんなプライベートなこと」


 散々プライベートについて聞きまくっているじゃないか。


「知りたいなら自分で聞けよ」

 不満げに眉を寄せて、シュウが言った。


 そうは言っても、いきなり輪の中に入っていって、「ところでどうして眠ったんですか」なんて、聞けるか。それにしても……。ユウキの感じた違和感の原因は、この辺りにあるような気がする。

 思い出を惜しげもなく切り売りしているのに、肝心なその部分については誰も知らない。

 話したくないのだろうか。


(話せないのではないだろうか)


 ……何を考えているんだ、おれは。

 ゆっくり首を振る。


 だいたい違和感があるからなんだっていうんだ。嘘をついているわけではないだろうし。これが嘘だったとしたらたいへんな大嘘つき、いや、それどころか立派な妄想癖の域だ。


「ともかくお前も来いよ」

「うーん」

 なんとなく気は進まないが、しかし、ほかの事はともかく「家族の話」に関しては、聞いておいて損はないかもしれない。トキタの孫を演じるためだ。仕事上の必要だ。彼女には、おじいさんもいただろうか。

 シュウに促されて、いまさらバツの悪い気持ちで輪の中に入る。


「お父さんやお母さんって、大人でしょ」

 髪の長い女子生徒が、当然の質問をしたところだった。


「そうよ」当たり前じゃない、などとは言わずに、エリが優しく答える。


「大人と話をするのって、緊張しない?」

 都市の子供たちは、大人に接する機会がほとんどないから。


 エリは意外そうに首を傾げた。

「そんなことないわ。家族だもの。生まれたときから一緒にいるんだから、気にならないわよ」

「どんな話をするの?」


「そうね……学校のこととか友達のこととか……そんな、なんでもないことよ」空中に答えを探すように、彼女の視線は上向く。「母は家を出るときはいつも、挨拶で送ってくれたわ。『行ってらっしゃい』って。帰ったときは『お帰りなさい』。家のドアを開けると、夕食のいいにおいがするの」


「へえ……」見送られたり出迎えられたりする経験のない都市の子供たちは、一様に感心したような声をあげる。


「ああ、そういえば母ったらね……」

 そう言ってエリは、楽しいことでも思い出したのか、幸せそうに頬を綻ばせた。

「いつも私が家を出る前に『忘れ物はないの』って聞くの。『行ってらっしゃい』と同じ、お決まりのセリフ。『エリはそそっかしいんだから』ってね。もう子供じゃないんだから、そんな心配しなくてもいいのにって、毎日思ってたわ」


 もういないかもしれないエリの母親のことを想像して、一同はしんとなった。

 映画でしか見たことのない前時代の家族を、彼女は体で知っているのだ。

 そう思うと、なぜだか切ない気分になるのをユウキは感じた。

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