砂漠2 ―シンジュクー

 マリアのいた部屋は、建物の半地下に当たる部分だったらしい。

 廊下に出ると、ルウはマリアを引きずって階段を上り、出入り口だかただの穴だか分からないコンクリートの割れ目を抜ける。そこには同じような半分砂に埋もれたコンクリートの建物がいくつか建っていた。どれも、かすかに色を持っていた形跡をとどめているが、くすんで色褪せ、ひび割れている。


 上階で二つの建物がつながっているもの。異様な高さを持ったもの。細いもの、円形や三角形など形に趣向を凝らしたもの。マリアの予想通り、ここがかつて栄えた街の廃墟なのだとすれば、その繁栄ぶりは相当なものだったに違いない。


 胸に、嫌な予感が差し込むのを感じた。

 だが。それにもかまっている暇はなく、ルウは力いっぱいに腕を引っ張る。

 一日ぶりに目にする外の世界だった。

 マリアが部屋の中で悶々としているうちに、すっかり日は落ちて、空の端に赤く名残を留めるだけになっていた。

 この世界――と言っていいのだろうか――で迎える、二日目の夜だ。

 そこは一日目とは打って変わった喧騒に満ちていた。昨日あれだけ探し求めた人工的な灯りが、そこかしこにあふれている。


 所々、砂に突き刺さるように立っている、大きな木。くすんだ緑の枝葉を広げて。

 道では人々が雑談を交わし、笑い合い、手を動かして何か作業をしている。

 すれ違う人々のうち何人かが、二人の少女が手を取り合って、――というよりマリアがルウに引きずられるようにして走っていくのに目を留めて、声を掛けようとしたが、物凄い勢いで無視されて自分たちの仕事や雑談に戻っていった。

 マリアにしてみれば、それどころではなかった。それでなくても体が痛むのに、慣れない砂と石の地面をはだしで走らされているのだ。


「ルウ、お願い、もう少し、ゆっくり」

 息も絶え絶えに言うと、ルウは一瞬だけマリアを振り返ったが、走る速さにあまり変化はなかった。


 斜面を登り、いくつかの建物の間を抜け、あるいはくぐり、周囲を高い建物に囲まれた広場に出るまで、ほんの数分と経ってはいないだろう。それでもマリアはくたくたになって、息を切らしていた。


 ここが目指す場所なのだということは、ルウの足取りが緩やかになるのを待たなくても分かった。広場の中心が、ひときわ明るく夜空を照らしている。大きな火を焚いているのだ。

 よく見ると。そこは、何もない平坦な場所ではなかった。四角や円の、腰掛けるのにちょうど良さそうな形と高さの石が、無数に地面から生えている。

 辺りを見回すマリアをよそに、ルウはそれらの突起物を巧みに避けて、火を囲む人だかりの中に入っていくと、

「ハル!」

 よく通る澄んだ声で叫んだ。


 走ってきたからだけではない。別の理由で、心臓が高鳴るのをマリアは感じた。息を落ち着けなければ。頬が、変に火照ってはいないだろうか。そういえば寝て起きて、あまり身なりに気を遣っていなかった。今さらながら、自分の体を見下ろす。リサにもらった、この村の人たちと同じ服を着ている。

 無意識に、手が髪を撫でていた。

 こんな状況なのに、私は何をしているんだろう。頭の片隅で、もう一人の自分が自分に呆れている。


 ルウの呼び声に、人の輪が解けた。話し相手を手で制するしぐさをして、輪の中心にいた若い男が出てくる。こちらに向かって手を上げる。

 火の灯りに照らし出された彼の顔は。昨夜、砂漠で出会ったときと同じ、穏やかな微笑みを浮かべていた。




「ハルだよ」


 なかなか部屋にやってこなかったことについて、ひとしきり文句らしいものを述べ、「仕方ないからきてやった」と胸を張って言った後で、ルウはきわめて短く彼を紹介した。

 ハルは苦笑するように、マリアに目を向けた。


「やあ、一日ぶり」


 顔の半分を火に照らされながら、笑いかける、ハル。村の、他の人々よりは、髪の色が濃いような気がする。リサは「あの子」と言っていたが、マリアよりは一つか二つは年上だろう。少年と、青年の間。黒い瞳で見つめられて、落ち着かない気持ちになった。


 大きな宴でも始まるのだろうか。広場には徐々に人が集まり始めていた。建物の間から、一人二人と連れ立って出てきて火の周りに集まっていく。ざわめきも、大きくなった。

 ルウが近くの石に腰を下ろすように言い、三人は人ごみから離れてそれぞれ適当な石に腰掛けた。


「元気になった? 物凄い勢いで走ってきたみたいだけど」笑いを含んだ声で、ハルが聞く。「みんなが元気ないって言うから。心配してたんだ」


「……それは、どうも……あ、それと、ありがとう」


 ハルは不思議そうな顔をした。

「何が?」


「あの……リサ……さんが、あなたが助けてくれたって言うから」

「ああ」


 再び表情を緩めて。

「連れて帰ってきただけだよ。その後はリサに任せちゃったし」

 目を細めた笑い顔だけで、周りの空気が和らいだ気がした。


「私は、マリア」


 つい口ごもるような話し方になってしまって、マリアは後悔した。

 ハルのほうはしかし、そんなことには頓着しない様子で、


「マリア。いい名前だね。聖母様か」

「聖母?」


「おれの……」

 言いかけて、ハルは少しだけ視線を宙に浮かせて、考えるような顔をした。

「おれの……前にいたところでは……うーん、なんていうかな、神様みたいな人? 説明が難しい」


「ハルはここの人じゃないの?」

「うん、まあね」


「そのことなんだよっ」

 ルウが、なかなか本題――彼女にとっての――に入らない二人に焦れた様子で口を挟んできた。


 もしかしたらハルが自分と同じ境遇なのかもしれないと思ったマリアは、話が逸れたことに表情には出さずに少しがっかりする。が、マリアにとっても、今重要なのは自分の置かれた境遇を理解することだ。


「マリアがどこから来たのかって話だ」

「ああ、それはおれも聞きたい。まさか、ちょっと夜の散歩ってわけじゃないだろ?」

 ハルは冗談めかした調子で、ルウの言葉を引き取った。話題が逸れて安心したような表情が混ざった気がするのは、勘繰りすぎかもしれない。


 一方ルウは、真剣そのものの顔をして、重々しい口調でハルに助言を求める。

「ハル。シンジュクがどういうところか、マリアに説明してやってくれ」


「シンジュク?」予想外の地名だったらしく、ハルはほんのわずかに眉根を寄せた。


「マリア、シンジュクって名前に覚えがあるっていうんだ。でもって、ほかの地名はあたしが知らないのばっかりで」

「ニッポンとトウキョウよ」

「そう、それだ。ううん、聞いたことはあるんだけどなぁ」


 もどかしげに言うルウの横で、ハルは腕を組んで考えるように沈黙した。つかの間、何から聞こうか迷っているという様子を見せたが、すぐに決まったらしく、黒い瞳が真顔でマリアを見つめる。


「きみは、シンジュクから来たの?」

「よく分からないの。ニッポンで、トウキョウだったことは覚えているんだけど」

「シンジュクなわけないだろう?」


 ハルに自分の意見の裏づけを求めようとするルウを、「おまえは黙ってろ」と、さりげなく一言で黙らせて、マリアに続きを促す。


「それ以上の具体的な地名があいまいで。住んでいたのかどうかは。シンジュクっていう場所は知っているけど、ルウの話を聞いていると私が知っているのと違う気がするし」


「ルウがなんて言ったの?」

 あくまで本人でなくマリアに聞く辺り、ルウの扱い方を心得ているようだ。自分に発言権が回ってこなかったので、ルウはふて腐れたように頬を膨らませた。


 マリアは先ほどの彼女の言葉を、思い出す。

「大きな地下都市。人が出てくることも、入っていくこともできない」


 ハルは腕組みのまま、空中に次の言葉を探すように、少し背をそらせて視線を上げた。

 そのまままた、少しの間考える。何をためらっているのだろう。そう思った瞬間、


「なに勿体ぶってんだよ、ハル、さっさと言えよ」

 マリアよりも先に痺れを切らせたルウが、非難がましい声を上げた。


 ハルは困ったように笑って、腕組みを解き、手を膝について身を乗り出した。

「まず誤解を解いておきたいんだけど。シンジュクはそんなにおどろおどろしい都市じゃないよ」

「何を言ってるんだ、あそこは」

「だーから、黙りなさい」


 ハルが横から口出しする少女の頭を押さえて黙らせると、彼女は不本意そうな、けれどもその扱いが嫌ではなさそうな複雑な顔をした。


「たしかにかに、この辺の村よりずっと閉鎖的だけどね、おれは何度も行ってるよ。同じように人も住んでるし、ここよりずっと栄えている都市だ」


 ルウの話にイメージしていた暗雲立ち込める巨大地下都市像は、いとも簡単に吹き飛ばされた。が。「ただし……」とハルの話は続く。


「ルウの言う通り、あそこは地下都市だ。空がない。地面はコンクリート。大きな人工照明が太陽の代わりにそいつを照らしている。きみは、そういう世界に覚えはあるか?」


 ルウがハルの手の下で、そうだそうだとじたばたもがく。今度はマリアが考える番だった。

 どうも、はっきり思い出せない。巨大な地下都市が思い浮かぶ。けれどそれが、今ルウやハルの言葉から想像したものなのか、自分が記憶していたものなのか分からない。しばらくの間忘れていた不安が、再び頭をもたげてくる。


 記憶があいまいになっている。


 二人はマリアの答えがまとまるのをじっと待っていたが、やがてマリアの出した答えは「分からない」というものだった。


「トウキョウ、は?」

 落ち込みかけたマリアの頭に、もうひとつの地名が浮かんだ。


「トウキョウはどうなの? ニッポンの、トウキョウ。シンジュクはトウキョウにあるんじゃないの? 私はトウキョウに住んでいた。ここはそうじゃないの?」

 急き込むようにハルに聞く。

 ハルはきっと、困っている。何を言っているんだ、この子はって。村のみんなと同じように。しかし堰を切った気持ちは、止められない。


「気がついたら砂漠を歩いていたの。最後に記憶に残っているのは、ここじゃない場所。砂漠なんて、私の知っている世界にはなかったわ。私の住んでいたニッポンには」


 まっすぐに疑問をぶつけられたハルは、口を開きかけてやめる。ためらっているのが分かる。しかし、答えを聞かないわけにはいかない。マリアは息をつめて、ハルの言葉を待つ。

 なんと答えて欲しいのか。自分でも、よく分からなかった。


 物理的な移動だったら。たまたまシンジュクという名前を持つ都市が近くにあるだけの、別の場所だったら。帰る方法を探すことができる。しかし、だったら自分はどうやってここに来たのだ。どうしてこんなにも、記憶が頼りないのだろう。

 もしトウキョウなら、ここはマリアの住んでいた場所であるはずだ。でもこんな場所が故郷であるはずがない。それともここは、マリアの知らないトウキョウの一部分だとでも言うのだろうか。この場所を知らなかっただけ? そうだったら救われるかもしれない。最悪の事態は「帰る場所がない」ということなのだから。


 だが、ハルが迷った末に告げた答えは、マリアにとって想像以上に絶望的な宣告だった。

「ここはニッポンだよ。だけど、きみの言っているトウキョウは、たぶん――、もう、ない」


 炎の周りで「わあっ」という歓声が上がった。宴会が始まったらしい。

 誰かが打楽器を鳴らしている。聞いたことのない音が、マリアの耳にぼんやりと届いた。続けて、高く細い楽器の音色が、火の粉とともに宙に舞い上がる。


 こんな音は知らない。こんな世界は知らない。私のものではない。

 この世界がおかしいのか。それとも私が?


 混乱していた。

 この世界に来て、たぶん初めて。


 今の今まで、現実感が持てなかったのだ。――当然じゃない。どうして自分が異世界に来てしまったなんて、信じられるの? 現実感がないのは。それは、私がどうなってしまったのか、まったく分からなかったから。いや。逃げていたのかもしれない。現実を知ったら、見えるのはきっと、帰る道筋ではなく絶望だけだから? 現実を知ったら? ううん、こんなのが現実なわけがない。夢を見ているんだ、それとも誰かが大掛かりな仕掛けで自分を騙して喜んでいるのかもしれない駄目だ引っ掛かるな!


「マリア、マリア?」


 呼ばないで! 私はなんかじゃない。だってここは私の世界じゃない、この世界に私を入れないで。私の中にこの世界を入れないで。違う。違う違う違う――!


「マリア!」


 ふっと、頭の中の霧が晴れた。気づくと砂で覆われた地面に座り込んでいた。頭を手で押さえる。心配そうに覗き込む、四つの目。


「マリア、大丈夫?」


 気遣わしげに、赤い髪の少女が言う。腫れ物に触るようなものの言い方は彼女らしくない。

 マリアは額を手で押さえながら、ゆっくり首を振った。

 聞いておかなければならないことがあった。

 笑顔を完全に消し去って、心配そうにマリアを見つめるハルに。


「今はいったい、いつなの? まさか……」

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