5 ―喝采―
愕然と、ユウキはハルを見つめる。
ハルも――?
どこか心の片隅で、半ば予期していた言葉。それは、都市脱出のために集まった人々の中に、ハルの姿がないのを知ったときから。ユウキは一度、唾を飲み込んで。
「何……言ってんだよ……!」
ありったけの力を込めて怒鳴ったつもりの声が、震えてかすれ、妙な具合になった。
ハルに駆け寄り、正面からその両腕を掴む。
「行こうよ。なあ。……なあ!」
「駄目だ」
腕を揺するユウキをわずかに見下ろすようにして、ハルは目を細めた。
「おれはこの世界に残ってちゃいけない、『前時代のもの』だ。この都市と一緒に消えないと、『計画』が完成しない」
「そんな……じゃあ! おれはどうなんだよ! おれだって、二〇六〇年代の人間なんだって――!」
ハルは小さくため息を落とす。
「きみは、何も覚えちゃいないだろう? この都市で育った。この時代の人間だ。それでいいじゃないか」
そうして、またスクリーンに目をやって。
「もともと――きみは都市から弾き出されたりしなければ、そのままほかの子供たちと一緒に解放されて脱出していたんだ。何も言うつもりもなかったし、何も知らないまま。たぶん砂漠の村で……ほかの子供たちみたいに両親には会えないけれど、それでもきっと村の人たちは歓迎してくれるよ。いい人たちだ。きみはそこで、現代の人間として暮らせ」
「なんで……もともと、って……?」
めまぐるしく回転してまとまらない思考と、息苦しさに。
上手く言葉が継げず、絞り出すようにユウキは声を発した。
「もともと、……そのつもりだったのか?」
都市に爆薬を仕掛けて、それとともに消える? 子供たちを解放して、村人たちを脱出させて、その後も、ハルだけはここに残って――?
「そういう、計画だったの? 父さんも?」
「トキタさんのことは知らないよ。最初からハシバを殺して自分も死ぬつもりだったのかもしれないし。もしかしたら砂漠に出て、きみと暮らすつもりだったかもしれないし。その後のことまではっきり聞いたことはない。でも――」
そう続けて、ハルはまた小さく笑った。
「その前に、今この場所にいたら、おれが殺していたかもしれない」
呆然と、掴んでいたハルの両腕から手を離す。
ハルは――父さんのことを。
「……恨んでいたの?」
ピアノが、それまでよりもさらに激しく、たくさんの音を紡ぎ始めた。ステージの上の、後ろに並ぶ人々。彼らが手に持つほかの楽器が、流れるような滑らかな音で空間を満たし、その上をピアノの弾けるような音の粒が跳躍する。
「ハルを、この時代に連れてきたから?」
彼らがコールドスリープの技術を完成させて。後の時代に送り込んだから?
向かい合って。ユウキの目を見つめてハルは笑みをしまい、ゆっくりと瞬きをした。そうして。
「いや、それよりも」
ひとつ、首を振る。
「この時代に、おれだけ目を覚まさせたから、かな」
わずかに目を伏せ、数秒。そして、腕を組んでコンピュータに寄りかかった体勢のまま、首をめぐらせぐるりと周囲を見渡す。
「この壁の向こう側に、数千人の人間が眠っていた」
その瞳に浮かんでいる感情を、なんと表現したらいいんだろう。悲しみなのか。悔しさなのか。怒り、なのか。
語られたことに戸惑いながら、ユウキはつられるようにして、首を仰け反らせ周囲の壁を見回していた。壁に、無数に貼り付けられたようなスクリーン。その向こうに――?
「小さな透明の蓋のついたケースの中にね、一人ずつ入って。目を覚まして。周りのことが認識できるようになって。隣のケースにも、その隣のケースにも、見覚えのあるヤツが入ってて――」
ハルは、そのあいまいな瞳で宙を見据えながら、微かに震える息を落とす。
「死んで。腐りかけているんだ。記憶の中では、少し前まで一緒に机を並べて……しゃべったりふざけたりし合ってた、クラスメイトたちが。棺桶の中に入っているみたいに」
深く、長く。震えるように息をつき。両手を持ち上げ、ハルは頬を覆う。
「まだこの向こうに、いるんだ。あいつらが」
ユウキは言葉を挟むことができなかった。黙って、ハルを見つめていた。
「なんでみんな死んだんだ? どうしておれだけ。なんで起こしたんだ、なんで……そのまま、みんなと一緒に眠らせておいてくれなかったんだって。トキタさんに殴りかかったし、殺してやろうと思ったよ」
だけど、とハルは少しだけ顔を上に向けて続ける。
「あの人は、ずるいんだ」
「え……」
「ちゃんと……憎み切らせてくれなかった。殺せなかった」
「……」
「ハシバも、そうだったのかな」
「……ハシバ?」
出てきた意外な名前に、ユウキは首を傾げた。
「ああ。トキタさんやきみを、仲間にしようとした」
「……それが?」
「それまでだって、ハシバはトキタさんを散々利用してきたし、きみだって、問答無用でさっさと人格や記憶を上書きしてしまったって良かったんだ。それなのに、わざわざ反抗されることも承知で、『協力する』と言わせようとした。その気持ちが、少し分かる」
「うん……?」
「仲間が、欲しかったのかなあ。孤独には耐えられなくて。違うな。耐えられなかったのは、孤独じゃない。みんな死んだ中で、自分だけ生き残ってしまった罪悪感、かな。そうして……それを分け合える、ほかの人間が――」
呟くように言って、ハルは、片手で額を押さえた。
「おれにはトキタさんしかいなかったから。憎かったよ。だけど、殺せなかった。トキタさんの『計画』をさっさと済ませて、終わったらトキタさんを殺して、おれも、あいつらのとこに……って、そればっか考えて生きてきた。なのに先に死んじゃうし。……でも、それも今日で終わりだ」
彼を絶望の縁へと追いやったのも。その水際で引き留め生かし続けたのも。トキタだった。
何も覚えていないユウキ。自分の意思で眠りについたトキタ。そのどちらとも違い、暮らしを、夢を、身の回りのすべてを根こそぎ奪われて。奪われただけでなく、追い討ちをかけられるように望みもしない重荷を負わされた。たった一人この世界で目を覚ましたハルの絶望と困惑は、ユウキには想像もつかないものだっただろう。
言葉を見つけられず、ユウキは黙り込んだ。気持ちばかりが焦る。
と――。スピーカーから流れてきていたピアノとほかの楽器の音が一瞬やみ、ほかのスクリーンの音がにわかに主張を始める。
「ああ、ほら――」
ハルはコンピュータにもたれていた身を起こし、ピアノの演奏が続くスクリーンへと一歩踏み出した。
「第三楽章に入る」
再び流れ出す、ピアノの音。
「時間だよ、もう十分切っている。きみは早くここを出るんだ。外への非常通路は確保できたって、爆発に巻き込まれちゃ生きて出られない」
焦る気持ちを静めて、ユウキはハルとスクリーンの間に身を割り込ませ、再びその腕に手を掛けた。
「ハル……なあ、一緒にここを出よう。砂漠に帰ろうよ」
「駄目だ」
ぴしゃりと、ハルは声を上げてユウキの手を振り払い。
「もう、解放してくれよ」
きっぱりと拒絶する口調で、ハルはユウキの肩を片手でどけて、スクリーンの前へと足を進める。
「ユウキ。きみは早く行け。みんなと一緒に砂漠へ行って、このまま忘れろ。トキタさんのことも、ハシバやおれが話したことも全部。それで、おしまいにしよう」
これは――。
通り過ぎていったハルの後姿に目をやりながら、ユウキは思う。
この事態の元凶になったトキタと、全部忘れ、何も知らずに安穏と暮らしていた、ユウキ。それに対する、ハルの復讐なのかもしれない。
トキタは死んで、ハルもここでこの都市とともに消え。そうしてユウキはこれから、これまでハルが抱えてきたのと同じ痛みに押しつぶされるようにしながら生き続けるのだ。
けれど。それに耐えられるかどうかの前に。
(解放?)
違う。そんなものは。
夢も希望もない? そんなはず、ないじゃないか。ハルにはまだ、できることがある。
必要とされる。壊して幕を引くだけじゃない。誰かに、引継ぎ、受け渡すべきものが。
彼を、絶望のまま死なせることはできない。
それは、トキタの息子であり、彼と同じ時代に生まれ、そしてまた同じ時代に目覚めたユウキの役目。
時計を一瞥し。吐き気までしてくるような緊張を押し殺して。
ユウキは目を閉じて、深く、長く、息をついた。
終演が先か、爆発が先か――?
どちらにしたって。一人では出ない。
ハルを、ここから連れ出す。それができないのならここで一緒に消えるまでだ。
「ピアノは?」
ユウキはぽつりと、ハルの背中に言葉を投げかける。ハルがわずかに、その言葉に反応したのが分かった。だから、続ける。
「あのピアノは……あの砂漠の地下で、また誰も弾いてくれる人がいないまま、ずっと放って置かれるのか。ハルがいなかったら、あのピアノだって一人ぼっちに戻っちまうんじゃないの?」
ユウキはもう一度ハルの肩を掴んで、こちらを向かせる。
「なあ、この都市が、もう一度ここで人が暮らすのを待ち続けてたみたいにさ。あのピアノも、ずっとハルのことを待ってたんだろ? 今も、待ってんだろ? それ、置いていけるのかよ!」
ハルの黒い瞳が、ユウキを見つめていた。
横で演奏を続けるスクリーンから、たくさんの楽器の音。そして、ピアノの。
曲はクライマックスを迎え、旋律の膨らみは最高潮に達していた。
力強く。叫ぶように。叩き付けるように。ピアニストは、その大きな楽器にのし掛からんばかりに、両腕――のみならず全身で音を奏でる。
包み込もうとするほかの楽器の演奏から、ひとり抜け出し、すべての音を牽引し、終焉へと導いて。
「おれ、好きなんだよ。この音」
震えるように声を絞り出して、ユウキはスクリーンへと目を向けた。
「あの部屋で。父さんの。そこで初めて聞いたときさ。おれ、この都市でたぶん一度も聞いたことのない音なのに、懐かしい気がしたんだ。初めてじゃないような。どこかが覚えてたのかな。すごく、むかしに聴いたのを」
そうしてまた、両腕を掴み、ハルと視線を合わせる。
「ねえ、また聴かせてよ。おれだけじゃないよ、きっと。ルウも。ユリも。ほかの砂漠のみんなも。都市から出てきたみんなも。聴きたいんだ。ハルのピアノ、もっと聴かせてよ。もっと聴かせてよ!」
ハルの瞳が、揺れる。ゆっくりとひとつ、瞬きをして。何か言いかけるように、唇が動く。その瞳に一粒の滴が浮かんだとき。
スクリーンの中で紡がれる音は壮大な奔流となって、その場にあったすべての音という音を押しのけ、空間に満ち渡り。ピアニストは、最後の音を激しく打ちつけて。
消えて――。
刹那、スクリーンは、動きを止める。静寂。
ハルは、ゆっくりスクリーンへと視線を向ける。
次の瞬間。
空気を引き裂くような音が、スクリーンから溢れ出した。
カメラが動き、たくさんの人々を映し出す。彼らはそれぞれに皆、立ち上がり、必死に手を叩いていた。観客たちの、拍手。歓声。
再び映し出されたピアニストは、椅子を立ち、かすかに上気した顔で満足そうに笑って深く頭を下げた。
喝采と賞賛。それらを浴びているのは、彼なのか。
それともハルなのか。
その場所に、あるべきだったのは。
吸い付くようにそれに向けられていたハルの瞳が、ゆっくりと閉じられて。滴が頬を伝ってこぼれ落ちた。
再び瞳を開けたハルが、ユウキの腕を思いっきり掴み、広間の出口へと駆け出す。足をもつれさせながらユウキは引っ張られるようにして、走る。
焦る気持ちのせいか、点滅を速めたように見える柱を回り、水路をたどって走る。
突き当りを曲がったところで。
轟音が目に見えている世界全体を揺らしたと思うや、背中を突き飛ばされた。
爆風に煽られるようにしてなかば吹き飛ばされながら倒れ込んだすぐ後ろで、壁が崩れた。
「ハルっ?」
慌てて身を起こすと、数メートル後ろに同じようにハルはうつ伏せに倒れている。その上に、バラバラと崩れた壁が落ちて来る。
「ハル!」
さらなる崩落が、後ろから迫る。
壁が、天井が、バラバラと音を立てながら落ちてくるのがスローモーションのように見えて――。
ハルが顔を上げる。
「ユウキ走れ! 崩れる!」
「だっ、だめだ……って……」
大丈夫、抜け出せる。ハルの腕を取って、
「ハル、立って!」
どこか壁を挟んだ遠くのほうで、断続的に爆音が鳴っている。その一つ一つに身を竦め心臓をバクバク言わせながら、
「一緒に――帰るんだってばあ!」
自分のどこにこんな力があったのかと頭の片隅で不思議になりながらも、覆っている瓦礫の下からハルを引きずり起こす。
「歩けるっ? っていうか歩いて?」
ハルに肩を貸し、ユウキよりも少々背の高いその体を担ぐようにして迫ってくる崩壊から逃れ、エレベータホールの広い空間に出たとき。
爆音と、それに誘発されるように断続的に続いてた崩落の音がやんだ。
ユウキは殴りつけるように、エレベータのボタンを押した。
動くのだろうか。まだ――。そんな不安に襲われたが、下降ランプは点灯する。
ハルへとちらりと目をやる。
「て……」
額へと手を当てるハル。こめかみのあたりに血が滲んでいる。
「ケガしたの?」
「いや……大丈夫……」
どこかぼんやりした口調で、けれど軽く足を引きずるようにして、ユウキの肩から離れる。
「歩けるよ」
「一緒に、帰るよな?」
視線を合わせて訊くと、ハルはいささかバツの悪そうな面持ちでフッと息をつき目を逸らした。
パラパラと、壁が剥がれて小さな粉が舞ったのを最後に周囲の音はやみ、エレベータの下降してくる小さな音だけがホールに響いていた。
誰もいない都市。
静まり返った中で。
「……悪かったよ。ちょっと駄々をこねてみたかったんだ。殴りかかる相手が、この世からいなくなっちゃったんだから」
酷い言いようだ。ユウキは体の底から脱力する。
緊張に固まりきった体が、溶けて流れていってしまうのではないかと思った。
「なんだよ、それ……それにしちゃ、命がけだったじゃないか」
「しょうがないだろ? 一度死んでみなきゃ、この先とても生きていけない」
ハルはちょっと口を曲げる。冗談めかした口調。しかしそれはきっと、心の奥底からの本音なのだろう。
ユウキが、ハルを連れ出せなければここで死ぬのだと、一瞬でもそう覚悟したのと同じように。いや、それよりももっと長いこと、真剣に。何かの奇跡が起きなければ、ハルはこの計画の終わりとともにこの世界から消えてなくなるのだと。
だから。何も言えずに、ユウキは降りてきたエレベータに乗り込んだ。
ハルが後に続く。
長い――それは、時間さえも越えてしまうかと思うような、長い上昇だった。
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