3 ―親子―
その夢の中で、ユウキは目に入るテーブルや椅子にも背が届かないほどの、小さな子供だった。視線の高さがあまりにも普段と違って、それはたしかに夢なのだろうと、ユウキはぼんやり考えていた。
だれかの大きな手に、手を取られて、地下都市の居住棟のような無機質な、長い長い廊下を歩いていた。手を引くだれかはユウキよりもだいぶ一歩の幅が大きくて、だからユウキに合わせてゆっくり歩いてくれるのだが、それでもユウキはほとんど小走りで半歩後ろを忙しなく歩く。
そのうちに息が切れて、足を進めるのが嫌になって、だれかの手を強く握って立ち止まってしまう。
「どうした? 疲れたのかな」
半歩前で足を止めただれかが、優しく聞く。
夢の中のユウキはぐずり出した。
だれかの大きな手が、ユウキの手を離れて頭を撫でた。
「検査が怖かったかな。もう大丈夫だよ。うちに帰るからね」
腰を屈めて、言う。
「帰ったら、今日の晩ご飯はカレーだって言ってたぞ。ユウキ、好きだろう」
笑い混じりの声。
「そうだ。父さんも、母さんにカレーの作り方を教わることにしたんだ」
父さんが? ユウキは聞く。父さんは、料理なんかやったことないじゃないか。
「だから、カレーだけ習うんだ。そのうち母さんよりも美味いカレーを食べさせてあげるぞ?」
そう言って、彼はユウキを片手に抱え上げた。
長い廊下の先に、光が見えて、出口が近づく。何かが地面を打つ音。
「雨が酷くなってきたな」
建物の出入り口の階段の上にユウキを降ろすと、彼は荷物から黄色いものを取り出した。
「レインコートを着て帰ろうか」
ユウキにコートを被せ、袖を通させて、それから彼はユウキの正面にしゃがみ込む。
ボタンを留めて、フードを被せて、
「よし」
ユウキと同じ目の高さでそう言ったのは、若い男。
少し。面差しが、トキタ博士に似ていた。もっと、ずっと若いけれど――。
何度目かの爆発音が、足元で轟いた。
最初の方はびくびくして飛び上がっていたけれど、何度も聞くうちに慣れてきた。
こんなものに慣れたって、しょうもないのにな。ユウキは顔をしかめる。
「おい! そっちは大丈夫か?」
ひげをたくわえた屈強そうな男が、通路の先でドアから半身を乗り出す。
「大丈夫。だれもいないよ」
答えると、一旦彼はドアの中に体を引っ込め、すぐにそのドアから十数人の子供たちが出てきた。
「あっちに」
短く言って示すと、彼らはわらわらと走っていく。
最後に男が、ゆっくりとした足取りで出てきた。
「これで、この階層は終わりだな」
ユウキよりも一回りは体の大きなこの男は、オキと名乗った。見るからにひ弱そうなユウキを仲間に入れると聞かされて、最初、思い切り目を丸くし、それからまた思い切り、顔をしかめた。
そのひとつひとつの動作や表情の変化にドギマギしていたユウキだったが、しばらく一緒に行動するうちに、彼が見た目ほど恐ろしい人物ではないことが分かってきた。
「じゃあ、次、行くか」
「うん」
分厚い手の平でひとつ肩を叩かれ、それは結構痛かったが、ユウキは構わずに歩きながら図面を開く。ハルから渡された、地下都市の、必要な階層分の見取り図だ。
所々に転がっているロボットをどうにか避けながら、早足で進む。
砂漠の村々から集まった、数十人の大人の男たち。それを率いて、地下都市のメイン・システムを破壊し、子供たちを外へと連れ出す。計画は、ほぼトキタとハルが最初に立てたとおりに遂行されることになった。
見回りのロボットが攻撃をしてくる危険もある都市の外側は、銃の扱いに慣れた男たちを前線として強行突破する。それでも、事前に警備の薄く出入りのしやすい経路は把握しており、想像したほどの苦労はなく都市の内部に入ることができた。
中にいる警備のロボットは、都市を破壊する人間を阻止しようとはするだろうが、人間の命令なく勝手に人間を傷つけたりはしないようにプログラムされているのだそうだ。そして、それらはすべて、中枢システムが停まれば動きを停める。
けれど、と、ハルは見取り図を渡しながらユウキに説明した。
『電力やコンピュータがすべて停止したら、中の子供たちが大混乱するし、エレベータやゲートが作動しなくなれば外に出るのも難しくなる。だから、中枢への侵入と、子供たちの外への誘導を、同時に行わないとならないんだ』
前方で、サイレンが鳴る。素早く周囲を見回すオキ。ユウキは図面を畳んで壁に寄った。
右に折れる通路の先から、足音。そして、後ろからもかすかに何体かのロボットが近づいてくるような音。オキが銃を構え、曲がり角から姿を現したロボットを一発で仕留める。
「走れ!」
鋭く声を掛けられて、オキに続いて走る。後ろから追ってくる足音に、しかし振り返る余裕はなく、走っているためだけではない汗が噴き出して。
「伏せろ!」
先ほどロボットが出てきた曲がり角から、別の村の男が姿を現した。ユウキとオキは、滑り込むようにして地に伏す。数発の銃弾が頭の上を通過し、静かになる。
が、恐る恐る顔を上げたユウキは――。
「誰か! あのドアを!」
離れた場所から掛けられた声。目の前の状況を即座に把握して、素早く起き上がってエレベータへと走った。
叫び声の主は、少し離れた場所で三体ほどのロボットに組み付かれ押さえ込まれている。階層間エレベータの入り口に付いて、子供たちを下の階層へと送る役割だった男だ。
学校から追い立てられるようにして出てきた子供たちが、定員ギリギリまでいっぱいに乗りこんだ、階層間エレベータ。まだ閉まっていないそのドアに、一体のロボットが駆け寄ろうとしていた。
『脱出する人数に比べて、出口のフロアまで行ける階層間エレベータの数は少ない。だから、秒刻みでスムーズに動かさなきゃならない。タイム・スケジュールを頭に叩き込んで、エレベータが停まる時間をできるだけ短くして』
転がるように走って、ロボットよりも先にエレベータのクローズ・ボタンを、叩き付けるように押す。
(早く、閉まれ――!)
数秒、祈るように待つ。
ロボットの指先が、あと拳ひとつ分の隙間となったドアに達しようとする瞬間。迫ってきていたロボットの頭部が弾け飛んだ。
ドアが閉まり、頭上の降下ランプの、階数表示が変わっていく。
駆けつけたオキともう一人の男が、エレベータ係の男に組み付いているロボットを倒す。「ちきしょう、痛てえなあ」と、ロボットに押さえ込まれていた男が、それでも元気そうな声を上げた。
「はあーっ」
深く安堵の息をついて、ユウキは思わず背中を壁につけた。息が切れる。
『子供たちは突然現れた知らない大人の指示に、たぶんほとんど逆らわない。けれど、自分から動くこともしない。細かく誘導してあげないと、動きが止まってしまうから、気をつけろ』
ハルの言葉を思い出す。それは実際に、その通りだった。
呆然とした表情で、言われるがままにエレベータに乗せられた子供たち。
その行き着く先には、別の村の人間が待っていて、そこから数人の誘導者たちを伝って外へと脱出させる手はずになっている。
都市を出て、この計画を運営する側に回っていなかったら。トキタとハルの計画どおりに事が進められて、ユウキも指示されるままに移動させられる子供たちの一人になっていたとしたら。
(俺も、あんな風だったんだろうか)
そうだったかもしれない自分に対する自嘲のような、そうならなかったことへの安堵のような、なんとも説明の付かない複雑な心境。彼らの中から弾き出されたことで、一人の人間として認識され「役割」を持たされたユウキだが、自分以外の都市の子供たちを蔑んだり哀れんだりするようなこともできるはずがなかった。ユウキは大きく深呼吸をして、空気を肺に送り込む。
「坊主! ぼんやりしてるヒマはねえぞ!」
乱暴に声を掛けられ、壁から跳ね起きた。
目指すのは、次の階層へと移動するための別の階層間エレベータ。改めて図面を取り出し、確認しながら歩く。
「ようし、次で最後だな」
オキの声は楽しげに弾んでいた。
「オキさん、なんだか楽しそうだね」
「おうよ。俺の息子に、今日、会えるかもしれねえんだぜ?」
「え! そうなの?」
「ああ。無事にいりゃ、坊主と同じくらいの歳だな。俺のこと、覚えてっかなあ。それで――おっと。こっちでいいのかい?」
「あ、うん」
素早く図面に目を走らせて、確認する。都市の内部を知っていると言っても、ユウキは最後の一日を除けば、自分の生活に必要なごく一部にしか立ち入ったことがない。
十年間住んでいたらしい都市に、これほど知らない場所があることも、そしてこの広い都市の中の、実はごく一部にしか人間がいなかったのだということも、おととい初めて知ったのだ。
それでも階層ごとの構造にそう違いはなく、都市に入ったことすらない――エレベータやコンピュータを見るのだって今日が初めての――ほかの者よりはだいぶマシだろうという理由で案内役に抜擢され、実際それはその通りなのだとは思うが、内部に入ってからずっと図面と首っ引きだ。
「あれだな。よし、走るぞ!」
「あ、わ、ちょっと待って!」
子供と会えるときが近づいているとなって、意気を上げているオキとは反対に、ユウキは気が重くなってきていた。
最後の階層。そこは、ユウキがほんの少し前まで生活していた場所なのだ。
「オキさん、おれ、次の階層――」
「あ? ああ。分かってるよ。顔見知りがいるんだっけな。子供らの誘導は俺たちでやるからよ。お前はあんまり顔を出さねえようにしな」
「うん、ありがとう」
見張りや誘導に出ていた十人ほどの砂漠の男たちと合流し、ともにエレベータに乗って、変わっていく階数表示を見つめながらユウキは大きく息を吐き出した。
変な具合に知った顔に見つかって、驚かせたり警戒させたりして脱出に手間取ってはいけない。再会を喜び合っている場合でもない。ハルは、そういう心配はそれほどいらないのではないかと言っていたけれど――それこそが、ユウキが一番不安に思っていることでもあった。
かつてのクラスメイトたち。大して親しかったわけでもないが、それでもわずか一日二日会わなかっただけで知らない人間のように振舞われれば、それはそれで傷つく。空気のような存在に扱われるのは――おそらく自分も、かつては他人をそのくらいにしか認識していなかったのだが――たぶん辛い。
彼らがユウキを目に入れてそれでも素通りすれば、そちらのほうがショックを受けるような気がした。
それに、この階層には。
ドアが開いた瞬間、前列にいた男が発砲した。
ちょうど、降り口の前にいたらしいロボットが、一撃で吹き飛ばされる。
「おいノブ! もっと慎重にやれよ!」
「そうだ。まだ子供たちがいる階なんだぞ!」
エレベータを降りながら口々に言う男たちに、発砲した男は小さく肩を竦めた。
「悪りぃ。早く済ませて、やつらに会いたくってさ」
「気持ちは分かるが、焦るんじゃねえぞ」
「分かってるさ。けど、……どこにいっかなあ。元気にしてるのかなあ」
「落ち着けよ。はしゃぎすぎだぞ」
「分かってるって。息子と、娘がいるんだ。息子はさ――」
そうなんだ。ユウキは静かに納得していた。みんな村の行く末を案じたり、正義感からハシバや都市に反発していたわけではない。
まさに自分の息子や娘が、この都市に、ハシバに奪われた者も、多いのだ。
そういう人間が、きっといつか彼らを取り戻す機会を狙って、トキタとハルの計画に賛同したのだろう。
そうして、不安に息苦しくなる。再会したとき、彼らの子供たちはどんな反応を示すのだろう。
あるいは都市を出て、砂漠に帰るということを、どう思うのだろうか。
彼らは両親を、砂漠の暮らしを、まったく覚えていないのだ。
「おい、坊主。どうした。案内まではちゃんとやってくれよ?」
エレベータを降りたところで待っているオキに声を掛けられて、ユウキは慌てて続く。
「こっちです。ええっと……」
学校へと男たちを先導するために先に立って歩きながら、図面に記された「使われている教室」を確認する。
「そっちが居住棟。内部はさっきまでの階層とまったく同じです。学校は、こっち」
学校に行かずに自室に残っているかもしれない子供を探すため、広場の入り口で数人が離脱する。
そして残りの者で、学校に着いた。
「人のいるのは、上の三フロア。だけど最上フロアは一室、その下は二室だけで、人数の多いのは三フロア目です。こっちへ!」
校内のエレベータへと導き、手早く各フロアの使用状況を説明しながら乗り込む。上から二つ目のフロアで、数人が降り、最上階へと達した。出ようとすると、オキが振り返った。
「戻って広場で待っていろ。出るときに合流しよう」
ユウキはオキの、ざっくばらんな性格や乱暴な話し方からは想像していなかった気遣いに感謝して、そのままエレベータで一階へと戻った。
広場の脇にあるマーケットの、商店の入り口の陰に身を潜めて。ユウキは息を殺す。数体のロボットが行き交う足音がした。が、どれも銃声や人の声が聞こえるほうへと向かっていき、ユウキの姿を見咎めるものはないようだった。足音が止むと、ホッと息をついて、高鳴る心臓を鎮める。
それほど待つこともなく、大人数の足音と、ざわざわとした話し声。十数人ずつの生徒たちが、断続的に商店の前を通り過ぎていく。
そうして遠くから聞こえてきていた銃声も、消える。
広場に出て、オキたちを待つことにしたとき。
「ユウキっ?」
周囲にはほとんど目もくれず、流れるように歩いていった生徒たち。その中から、唐突に声が掛かった。鎮めたはずの心臓が、また大きく跳ねる。
声のしたほうへと目をやると。
「……シュウ」
足早に去っていく生徒たちの一群の中から、一人だけ離れてこちらに向かってくる、友人の姿があった。彼は、大きく目を見張り。
「おい、ユウキなのか? お前……無事だったのか」
「ああ……まあ、な」
あいまいに笑ったユウキ。それをじっと見つめる友人の視線も、どこか複雑だった。
「どうしてたんだ? あの後」
「それは、えっと……助けてもらったんだ。それで」
どう説明したらいいのか分からず、イチから話すほどの時間もなく。
「ともかく……行けよ、後でまた、……その、上手く会えたら話そう」
ぎこちなく言うユウキに、シュウは不審げに首を捻った。
「なあ、お前。これ、この状況のこと、知っているのか?」
「は? なに……」
「突然、大人が現れて、あっちに行け、こっちへ来いだって、……なんなんだ、コレは。おれたち一体、どこに行くんだよ」
疑問に思う者だって、いるんだ、きっと。言われるままにどこかへ導かれることに、不安を覚える人間だって。
そして、説明を求められる人間が目の前に現れれば、それを無視して知らない大人の指示に従うことなんかできない。
そうだよ、だから会わなきゃいいと思った。けれど、こういうときに限って、変な方向に話は進むんだ。
ユウキは小さく息をついた。学校のほうを一瞥し、出てくる生徒たちがまだ途切れないのを確認して。
「この都市を、出るんだ。みんなで」
「都市を、出る? どういうことだよ、それ。外になんか出たら、生きていけるはずないだろう?」
「違うんだ」
ユウキは言葉を捜す。
「何が違うんだよ。人間はこの中でしか生きられないんだって、外には人はいられないんだって。お前だって分かっているだろうが」
分かっているよ、おれは。外でも人は生きていけるって。外でこそ、生きていくべきなんじゃないかって、今は思ってる。だからユウキは、ゆっくりと首を横に振る。
「外にも村があって、人はいるんだ。シュウ、お前の家族も、きっと……だから……」
「家族?
「お兄ちゃん!」
シュウが視線をやった方向から、カナが姿を見せた。駆け寄ってくる、シュウの妹。
「カナ、ちょっと止まれ。なんだか変だよ。これ。どういうことなんだよ」
シュウの疑惑の視線に応えながらも、ユウキは学校のほうを気にしていた。生徒たちの群れは、途切れ途切れになる。学校の内部からは、ほとんど音がしなくなっていた。
「なあ。これからみんな、どうなるんだよ」
たぶん、校内での誘導は終わったんだ。すぐにそちらに当たっていた男たちが戻ってくる。そして、みんなで都市を出る。
「おい、ユウキ。説明しろよ」
「シュウ、あのな――」
「シュウ! お前……シュウなのか?」
唐突にシュウの背後から呼びかける声がした。
「それに、……カナ」
日に焼けた顔の、砂漠の男が、そこに立っていた。
息子と娘に会えるんだと。嬉々としてエレベータを降りたあの男。ノブと呼ばれていた男が。
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