第26話


 二〇二二年、五月二日月曜。

 数週間振りに初瀬研に足を運んだ沢木を最初に出迎えたのは早乙女一也だった。

「沢木さん、いらっしゃい」

 エントランスで自分を待ち受けていた早乙女は、腕組みして受付カウンターにもたれていた。口元に微かな微笑みを湛え、ゆったりとくつろいで見える。水色の検査着にスリッパという相変わらずの出で立ちだったが、長期療養者特有の着崩れた緩みは感じられない。顔付きも腫れぼったくなく、剃刀で整えたように引き締まっていた。

 沢木は我が目を疑った。正直なところ、早乙女本人だと自信が持てなかったのである。そこに自閉症スペクトラム患者の片鱗は、見当たらなかったからだ。

 沢木は見知らぬ人物に声を掛けるように、恐る恐る右手を上げた。

「よう。……早乙女君」

 沢木はそこで声を落とした。

「何だか、見違えたよ」

 早乙女はその言葉に嬉しそうに笑った。

「洋子さんたちと始めた新しい治療が、効果を上げてるらしくて」

「ほんとかい? そりゃ何よりだな。部外者の私が言うのも何だが、その、まるで……別人みたいだ」

「僕のことですか?」

「そうさ」

 沢木は片方の眉を持ち上げると、口の端を曲げた。

「前はもっと病人らしかったぜ」

 早乙女は爪を噛みながらクスクス笑うと、はにかむように身をよじった。

 丁度その時、廊下の彼方に早駆けする足音が響いた。沢木が振り返った通路の先に、書類を抱えた葵 洋子が小走りに近付いて来るのが見えた。彼女は一度立ち止まると束を持ち直し、片手を振った。

「お待たせ、しました」

 息を切らせながら葵は二人の間に割って入った。

「探し物を頼まれたのはいいんだけど、なかなか見つからなくて……」

 薄化粧の額に、うっすら汗までかいている。葵は書類で顔を扇いだ。

「あー、暑い、暑い」

 沢木は含み笑いを浮かべると言った。

「何だか忙しそうですね。今日は特別なことでも?」

 葵は鼻を鳴らした。

「いいえ、いつもと変わらない月曜日ですよ。バタバタしいるのは私の性分ですかね?」

「忙しいってのは、いいことです」

「貧乏暇なしってだけかも?」

 二人は親しげな笑い声を上げた。葵は一息吐くと、改まって沢木の顔を見た。

「さて、では早速」

「お願いします」

 葵は早乙女の袖を軽く引っ張り、促した。

「一也君、沢木さんをご案内して」


 三人は足早に二階の作業療法室2号に向かった。

 沢木が今日、初瀬研に出向いたのは他でもない、早乙女に依頼した絵が仕上がったという連絡を受けたからである。BM療法士、葵 洋子からの通達だった。

 三十番シャフト、0・3Gステージの貴重な目撃情報である。

「どうぞ」

 早乙女が先に立って扉を開けた。ツンとくる、それでいて甘いようなテレピンオイルの臭い。部屋は相変わらず物置のように狭苦しかった。

 しかしながら、そこは早乙女の性分ゆえか、あるべき場所にあるべきものが収まった、理路整然とした佇まいではある。筆は一本一本が石鹸で丁寧に洗い上げられ、ふわふわの毛先を上に、ガラス瓶に並んでいた。樫材のキャビネットには、初心者向けのセット絵の具の箱が上蓋を背に重ねられ、きちんと収まっていた。チューブはどれも尻の方から固く巻き上げられ、無駄なく使い切ろうという気構えが伺える。言うまでもなく厚紙の仕切りに一本ずつ、角度を揃えて並んでいる。

 少々、病的な潔癖性だ。ルーズな沢木には、そんな風に思えた。葵も内心、自らの部屋を振り返り、そう思ったことだろう。

 早乙女は無言で画架に近付くと、二人の注意を促し、おもむろに布の覆いを取り払った。

 一つきりの窓から斜めに差し込んだ光線が、留め具の上に鎮座した小さなキャンバスを照らしている。薄暗がりの中に、それはぼんやりと浮かび上がった。

 沢木はじっと、油絵に見入った。五十センチほどのキャンバス、正確を期するならば530×455ミリの四角形に、その人物像は描かれていた。全体の印象は、ホワイト、ニュートラル・グレイ、イエロー、サーモンピンクが明るい色調で響き合う、現代的な肖像と言えた。古典的な赤茶けた重苦しい歴史画のようでなく、どちらかといえばアメリカ的、アンドリュー・ワイエスや、N・ロックウェルを彷彿させる、あっさりとした色感だった。

 背景に塗り込められた微妙な階調のグレイは、ブラック、ホワイトの単純な混色によるものでなく、黄、朱、藍の配合に白を加えた深みのある階調だった。箇所箇所によって微かに青味や赤味に傾いており、それが手前に描かれた人物とのバランスを絶妙に調整している。

 人物は、どうか。

 細密描写とはいかない仕上がりだが、沢木には十分なリアリティが感じられた。服装は白のタートルセーター。華奢な体付きである。

 敢えて生地の織り目などは描写せず、さらりと流して単純化した陰影だけを捉えることで頭部の、その表情に自ずと観る者の視線を誘導するよう計算されていた。ふわふわとしたプラチナブロンドの巻き毛は、パーマネント・イエロー・ライト、同ペール、イエロー・グレイno・2の巧みな混色と、グレージング技法で仕上げられている。指先にその柔らかさを感じ取れそうな繊細な材質表現だ。

 顔立ちは丸みの際立つ童顔で、実年齢よりも更に幼い印象を与えた。早乙女の証言を踏まえれば、やはり十六、七歳といったところであろう。

 肌の表情も特徴的である。ジョンブリアンにコーラルレッドを含ませた透明感のある色彩。黄色モンゴロイドでなく、明らかにアングロサクソン、白色人種のそれである。

 大きな丸い眼は目尻が上向きに切れ上がり、意志の強さを感じさせた。瞳の色は灰色。それでいて少し青味のある、冷たい氷を思わせる色だった。

 沢木は知らず知らずと、小さな唸り声を上げていた。

 早乙女の仕上げた肖像は華やかさこそないものの、静かな風格を感じさせる一級品だと言えるだろう。後はこの肖像が、彼の自閉症スペクトラム特有のサヴァンの能力を遺憾なく発揮した、高精度の再現であることを祈るばかりだ。

「いいね」

 沢木は一言そう呟いた。早乙女は嬉しそうに返事をする。

「ありがとうございます」

 沢木は画架に近付いたり離れたりしながら眺めすかした後、付け加えた。

「早乙女君、描き手の立場からどうだい? この肖像の精度はどんな具合?」

「似てるかってことですよね?」

 沢木は唸るように言った。

「そうだ」

 早乙女は少々思案して、こくりとうなずいた。

「僕の記憶の限りでは、そっくりに」

 沢木は満足げに鼻息を漏らした。

「それは何よりだ」

 そこで葵が口を挟んだ。

「これで調査のお役に立ちます?」

「ええ、そりゃあもう。大助かりですよ」

 沢木は早乙女を振り返り、

「この絵を借りて帰ってもいいかな?」

 早乙女は静かに同意した。

「どうぞ」

 葵はそこで沢木に、思いつくままに質問した。

「それで……、この絵はどんな風に使われるのかしら? 人相書きとしてステーション中に貼って回るとか?」

 沢木は首を横に振った。

「それもいい手ですが、とりあえずは登録データベースと整合するため、顔認証システムを使います。(月の王冠)を出入りする人間は、何らかの形でデータベースに登録されていますからね」

「なるほど。当然、科学捜査ですよね。……私、馬鹿なこと聞いちゃいました」

 葵がはずかしそうに照れ笑いを浮かべると、沢木はそれを否定した。

「いやいや、人相書きには、それはそれで意味があるんですよ。顔認証プログラムは眼鼻立ちの形態の数学的な整合から推測するシステムですが、ヒトの感じる印象というのは幅が広いんです。コンピュータに雰囲気、というのは理解出来ませんからね」

「そんなものですか?」

「ですよ」


 三人は作業療法室を出ると、アクティビティ・ホールで休憩した。

「それにしても早乙女君、随分な進歩ですね。そう思いませんか?」

 沢木は彼を差して言った。

 葵はコーヒーの入った紙コップをテーブルに置いた。

「彼には、新しい治療が始まっているんです」

「らしいですね」

「この数週間でかなりの効果が表れました」

 沢木は大きく首を振り、身を乗り出した。

「いやいや、ほんと。この間会った彼とは、まるで別人だもの」

「詳しくは話せませんけど、一也君と私で集めた研究データが地上で解析されて新しい治療方針が決まったんです。今のところはすこぶる順調、ですね」

 そう言ってから葵は口をつぐみ、眉をひそめた。

「詳しく話さなくったって、あなたたちなら簡単に調べがつくんでしたっけ?」

 沢木は曖昧に苦笑いした。

「まあ、我々も、……何にでも首を突っ込むわけじゃありません。治安に関わる必要なことだけです」

「沢木さん、信用してますよ、一応。デリケートな研究ですから、情報の扱いは慎重に」

「安心してください」

 そこで葵は、にっこり微笑んだ。

「でも成果が出て嬉しいんです。一也君が日に日に変わっていくのが驚きで」

 早乙女が葵の横で照れ臭そうに頭を掻いた。

「そうかなあ?」

 沢木は素早く人差し指を持ち上げた。

「ほら、それそれ。その口振り。早乙女君、この間会った時、君にそんな反応なかったんだよ」

 沢木は無表情を作り、以前の早乙女の様子を真似て見せた。

「あなたは、命の、恩人です、沢木、亨二、さん、……こんな具合だ。覚えてるかい?」

「はあ、確かに。そうでしたね」

 沢木は両手の指を組むと、早乙女にたずねた。

「聞かせてくれよ。何が変わったんだ?」

 早乙女は、しばし思案した。そして言葉を選び、慎重に話した。

「最初の変化が頭の中で起こった時、吐き気がしました。たくさんの人の手や足が頭の中に入り込んだようで。とても気持ち悪かった。今はだいぶ慣れて平気になりました。それが皆さんの言う気分、だったんですね。ベールのように頭の中に垂れこめていて、それぞれが繋がっている。気分が、そんな風に同時にあることを僕は知らなかった」

 沢木は神妙な表情になった。

「頭の中にたくさんの手足、ね。俺たちの頭はそんな風かな? 逆に想像出来ないけど」

 葵は首を振った。

「一也君にとっては初めての経験だったから、それなりのショックと拒否反応はあったと思いますよ」

「なるほど。突然、未知の感情の扉が開いたわけだものな」

 沢木は自分の言葉に納得するように、小さくうなずいた。そして、ぽつりと付け加えた。

「それで、早乙女君。……君は今、幸せかい?」

 早乙女は、首を曖昧に揺すった。

「はい。多分。今は前より頭の中がごちごちゃしてます。それに考えることも多くなりました。前は全てがすっきりと明快だったけど、今はあちこちに霞が掛ったみたいで。でもそのせいか、難しい映画の意味も少しだけわかるようになりました」

 そこで早乙女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「……それに吉本のギャグも」

 そう言うと、早乙女は破顔した。

「吉本?」

 沢木は興味を惹かれ、聞き返した。葵がにやにやしながら答えた。

「彼、今、吉本新喜劇に夢中なんです」

 沢木は顔を輝かせると、声を上げ笑った。

「ハハハッ。吉本新喜劇ね。そりぁいい。あれは最高だよな」

「ですよね」

「何かギャグ、覚えたかい?」

「そうですね……」

 早乙女は嬉しそうに膝を擦ると、覚えたてのギャグを披露した。

「まず、なんでやねん、でしょ。……それと、怒るで、しかし。正味な話」

 往年のスタンダードが早乙女の口を突いて出る。沢木はうんうんとうなずきながら顔をほころばせた。

「おー、なかなか。いいところ押さえてるねえ。そうだな、じゃあ、こんなのは? 知ってるかい?」

 沢木はおもむろに親指を突き立てると、決め台詞を放った。

「チッチキチー」

 一瞬、葵と早乙女が呆気に取られ、それからどっと笑いが起こった。

「アハハッ、何ですか、沢木さん、それ?」

 沢木は低いしゃがれ声を作り、節回しを付けた。

「意味はないけど楽しい言葉。……往生しまっせー」

 沢木がもう一度親指を突き立てると早乙女が真似た。そこで二人の声が揃う。

「チッチキチーッ!」

 三人は顔を見合わせ大声で笑った。葵はツボにはまって笑いが治まらないのか、ひっくひっくと引き付けながら沢木に言った。

「沢木さんて、……面白い、ですね」

「いやいや、このくらいは」

「見掛けによらず、ギャグだし」

「そうですか」

 葵はようやく落ち着いて目尻を拭いながら大きく深呼吸した。

「あー、可笑しかった。……あの、沢木さん」

「はい」

「この後、何か用事あります?」

「いや別に。急ぎのはないですよ。分署の方には午後いっぱい、ここにいると伝えてありますしね」

 葵は早乙女にちらりと目配せすると沢木に提案した。

「これから一也君の治療に入るんですけど、良かったら沢木さんも参加してみませんか?」

「私が?」

「ええ」

 沢木は眉をひそめると怪訝な表情で葵を伺った。

「ま、暇は暇ですから。……構わないですよ、私は。しかし治療に参加するって、一体何をするんです?」

「私たちと遊んでください」


 沢木は葵の奇妙な申し出に付き合うことにした。早乙女一也の描いた精緻な人相書きの検証も重要だったが、沢木はそれ以上に二人が今取り組んでいるという新しい治療に興味があった。

 三人は揃って、環境河川に沿って自転車を走らせ、三十番シャフトに向かう途中の公園でぶらぶら遊んだ。ただ、それだけである。

 まずブランコに乗り、それからジャングルジムに登った。

 近所の子供たちを交えて、キャッチボールもした。

 早乙女は自閉症スペクトラム患者特有のぎこちなさで、何度もボールを取り落としたが、そのうちに慣れ、動きが途切れなくなった。

 何より印象的だったのは、早乙女が始終笑顔で楽しそうであったことだろう。

 葵と早乙女は、銀色のティアラに似たヘッドセットを付け、脳内活動の記録を続けていた。すぐ傍らのカートでは青い中継器が作動していた。この見慣れぬ臨床システムが、どうやら新しい治療装置らしい。

 葵の大雑把な説明によると、ミラーニューロンという神経細胞群の活性連携のパターンを外部から制御する仕組みなのだそうだ。葵と早乙女の脳はその機械装置によって接続されている。葵の受けた感覚刺激が翻訳され、早乙女のミラーニューロンへとフィードバックされる。確か、そんな説明だったと思う。

 沢木は正直、自分が理解できたとは思わなかった。自分が一度聞いたくらいでわかるような話なら、とっくに問題は解決しているに違いない。


 公園の水飲み場で、ヘッドセットを外して自由の身となった早乙女が、三人の女の子に捉っていた。どうやら近所に住む小学生らしい。

「おー、絡まれてる、絡まれてる、早乙女君。……いや、あれは人気者なのかな?」

 ベンチに腰掛けた沢木と葵は、その様子を遠くから眺めていた。

 春らしく空調の行き届いた、気持ちのいい風が吹いていた。(月の王冠)では、この心地良い季節が数カ月続き、梅雨に阻まれることなく夏を迎えるのである。

 早乙女は困ったような表情で笑顔を浮かべ、おどおどしていた。二、三度うなずき、彼が口を開くと、女の子たちが一斉に笑い声を立てた。

「一也君って、ほんとに、天然ジゴロなのかも?」

 そう言って葵が微笑む。

 それはいつぞやの、同僚、笠原美紀のコメントだった。沢木も同意した。

「確かに。彼は、なかなかの男前ですからね。あんな小さなたちにも、そういうことはわかるんだな」

 葵は汗ばんだ髪を搔き上げると言った。

「ちょうど、そんな年頃なんですよ。そういうことが気になり始める」

 沢木はちらりと振り向いた。

「あなたも覚えが?」

「ええ。昔、私のクラスにもモテモテ君がいましたよ」

 沢木は鼻を鳴らして、後ろ頭を掻いた。

「モテモテ君ねえ。あやかりたいもんだな」

「あら? 沢木さんはモテ男だったんでしょ?」

 沢木は片方の目を閉じてみせた。

「最近はちょっとばかり、ちゃらちゃらしてますけどね、昔は結構、地味にしてまして」

 葵は、からかい半分にたずねた。

「それで茶髪にピアスですか? 案外、わかりやすいですね」

 沢木は目を伏せると含み笑いを浮かべ、降参とばかりに両手を上げた。

「お察しの通り。高校でちょっぴりグレちゃいました」

「若気の至りですか」

「まあ、そうでしょうね」

 沢木はベンチの背に肘を乗せると、少し身を引いて葵を眺めた。

「あなたはどんなでした? 子供の頃は?」

「私は……」

 葵は視線を泳がせると、爪をいじりながら、

「恥ずかしいですけど、優等生でしたよ」

 沢木はハハンというしたり顔になった。

「だと思いました」

「そんな風に見えます?」

「勉強出来そうだもの。でも、眼鏡じゃないですね」

 葵は、うなずいた。

「ああ、それはウチの家系で。皆、眼だけはいいんです」

 沢木は人差し指を立てると、たずねた。

「スポーツとかも、やってました?」

「高校時代にバスケを。大学に入ってからは勉強一本ですけど」

「なるほど、なるほど。やっぱり。これは……」

 と、言いかけて沢木は言葉を選んだ。

「変な意味にとらないで下さいよ。……でも、そういう身体つきだな、あなた」

 葵は少し頬を赤らめ、看護着の裾をいじった。

「それは、……どうも」

「ということは、ずっと体型も変わらず、今のままでしょ?」

「ええ、まあ」

 沢木は覗き込むような不躾な視線を送った。

「男が群がって大変だったとか?」

 葵は、ため息を吐いた。

「ガリ勉、体育会系ってモテないんですよ。それに私、……ほら」

 葵はベンチから立ち上がってみせた。すらりとした長身だった。優に175は越えているだろう。

「背が高過ぎるんです。男の子を見降ろしちゃうんですよね。どうもそれがみんな嫌みたいで。それも一つ原因ですね」

 沢木は頭を計るような仕草をした。

「でも、私よりは小さい」

「みんな沢木さんみたいじゃないんですよ」

 沢木は指摘を認めた。

「なるほど。人の悩みはわからんもンですな」

 沢木はにこりと笑うと話題を変えた。

「葵さん、BM療法士ってことは、やっぱり理系の大学出なんですよね」

「ええ。最初はコンピュータシステムの勉強をしてたんですけど、途中からBM療法士に興味が移っちゃって」

「システムの勉強だって大変でしょうに。それを方向転換とは随分思い切ったものですね?」

 葵はうなずいた。

「そうなんです。夜学に通って看護とケアワーカーの免許を取ったりしたんで、大学時代は目の回る忙しさでしたよ」

 沢木はたずねた。

「聞いてもいいですか? どうしてBM療法士を?」

「それは……」葵は言葉を途切らせ、

「人の命と付き合って行く、そんな仕事がしたかったんです」

 沢木は、一刀両断に返した。

「さすがは優等生」

「……茶化さないで下さい」

 葵は不満げに口をへの字に曲げた。

「ご免なさい。……それで今は? 仕事に満足を? 後悔はなしですか?」

「ええ。もちろんです」

 そこで葵は柔らかい仕草で伸びをすると、公園を走り回る早乙女と子供たちに視線を送った。

 環境河川の水面に反射する、夕焼けのホログラム。

 金色の漣。

 ざわめきと歓声。

 シルエットはオレンジ色の光のハローに溶け込み、滲んだ。

 そこで葵はぽつりと、寂しげに呟いた。

「でもこの仕事、思ったほど助からないんですよ」

「え?」

「人命救助の話です」

 沢木は黙って葵の言葉を待った。

「宇宙は何というか……とても厳しいんです。私たちの毎日は救命ケアとプロテーゼ蘇生の繰り返しで。人間は驚くほどちっぽけで脆い。私たちがこの場所に来るのは、まだまだ早すぎるのかもしれません」

 葵は視線を落とすと下唇を噛んだ。

「時々、それが嫌になることも」

 沢木はそっと囁いた。

「でも、それはあなたのせいじゃない」

「もちろん。わかってますけど」

 沢木は一つ咳払いすると言った。

「理想と現実、ってやつですよ」

「ですね」

 葵は口をつぐみ、言葉を呑んだ。それから沢木の方を向くと、葵は晴れやかな表情を見せた。

「そんな中で、一也君の治療が成功に向かってる」

 葵は遠くを見つめた。沢木は、すぐにわかった。

 その先に、早乙女一也の姿がある。

「私はそれが、とても嬉しいんです」

「これで世界中の自閉症スペクトラムの治療は、大きく前進するわけですからね」

と、沢木。葵の美しい横顔が、上品に微笑んだ。

「ええ。それはもちろん大事なことだけど、私にとっては、一也君の笑い声が一番のご褒美」

 夕焼けに染まった横顔に一筋、涙が流れ落ちる。頬をすり抜け、顎の先から空中に放たれる瞬間、ダイヤモンドのように光った。

 一粒の滴。

 葵の笑顔。

 それが全てだった。

「あなた、いい人ですね」

 沢木は優しく言った。

 葵は照れくさそうに鼻を鳴らすと、目尻を拭って振り返った。

「可笑しいですよね。私、ちょっと感激屋さんなので。……気にしないでください。最初にこの治療のレクチャーを受けた時も一人で泣いちゃって。みんなに笑われたんですよ。私、馬鹿みたい」

 沢木は小さく両手を広げた。

「いいじゃないですか。あなたらしい」

 葵はそこで気持ちを切り替えると向き直り、沢木にたずねた。いつもの元気な口調に戻っていた。

「それを言うなら、沢木さん。あなたはどうして一也君に親切なんです? 普通は、……自閉症スペクトラムってだけで敬遠する人も多いのに」

「そうですかね?」

「私の、少ない経験からですけど」

 沢木はしみじみと言った。

「まあ、私も色々思惑がありますよ」

「仕事のこと? それはそうでしょうけど。でもそれだけでキャッチボールまで付き合わないわ。ね、そうでしょ?」

「ハハハッ……」

 沢木は乾いた声で笑った。腕組みして下を向くと含み笑いを浮かべ、ちらりと葵を盗み見る。

「理由は二つです」

 沢木は人差し指を一本立てた。

「一つめは」そこで言葉を切り、小さく首を振った。

「少々下衆な理由ですが。……早乙女一也君に親切にすると、美人看護師の側にいられるから」

 沢木は茶目っけたっぷりにウインクした。

「まあ」と、葵。

「くだらない下心ですよ」

 しかし葵は、まんざらでもない表情だ。口を窄め、そして問うた。

「じゃあ、もう一つは?」

「それは彼が、……早乙女君が弟に良く似てるいるから、かな?」

「弟さん? 沢木さんの?」

「そうですよ」

 沢木は首を傾げ、ぼそりと答えた。

「……死んだ弟、ですがね」

 葵の表情が強張った。沢木は前かがみになると、両手を擦り合わせた。

「もう随分前の話ですよ。あまり覚えてないんです。丁度、今の早乙女君くらいの年格好でしたね。 ……病気でね」

「まあ。それは、お気の毒」

 二人の間に、しばし沈黙が降りた。沢木は口調を変えると、何でもない風を装った。

「普段は考えることもないんです。覚えてるのは葬儀に出たことぐらいで」

 沢木はライターを弄びながら、平板な言葉で続けた。

「ウチは早くに母親を亡くしましてね。私が小学生の頃でした。母親の死は実感として良くわからなかった。まだ幼かったからかもしれません。父親はどういうわけか再婚せずに、私たち兄弟を男手一つで育てたんです」

 葵は眉をひそめた。

「きっと奥様を、とても愛されていたんでしょうね」

「さあ、どうですか。何、考えてるかわからない男です。父親とはずっと折り合いが悪くて」

「男親と息子って、案外そうだって聞きますよ」

 控えめな葵のコメントに沢木は無言でうなずいた。

「子供の頃の私は本当に困った悪ガキでしてね。あちこちで問題を起こしちゃ、皆を悩ませてました。クラスに一人はいる、いわゆる問題児でした。今考えてみると周りより自分が幾分幼かったんだと思います。うまく自分を理解してもらえないから癇癪を起こす。そうすると周囲はどん引きで、その態度に腹が立ってまた怒る。ずっとこの繰り返しです。……こういうのって、何か症例とかありますか?」

 葵は少し考えて答えた。

「軽度のアスペルガー? 子供だから断定は出来ませんけど」

「ウーム、そうかもしれない。色々、思い当たる、かも」

 葵が注釈を入れた。

「でも今の沢木さん、片鱗もないですよ。もし本当にその症例だったら、大人になってからが目立ってくるものだし」

「そうなんですか?」

「ええ」

 沢木は諦めたような鼻息を漏らした。

「ま、そんな状態だったんで、弟とは、ほとんど接触がなかったですね。自分にとって弟は部屋の設備みたいな感じで。椅子やテーブルと同じ。恐ろしいくらいに関心がなかった。だから彼がどんなだったかは、結局わからず終いです。……病気の話が出た時、初めて弟の存在を意識しましたよ」

「お父様は? 落胆なさったでしょ?」

「ええ、そりゃもう。気の毒なくらいにね。俺と違って自慢の息子でしたから」

 葵は黙って沢木を見詰めた。

 沢木はポケットから煙草のパッケージを取り出し、一本点けた。青い煙をくゆらせ、沢木はしばし物思いに耽った。

「高校を卒業して、父親とすったもんだした後、私が警備保障会社に潜り込んだ頃でした。弟が入院すると聞かされました。十七になった夏だと思います。見舞いには行きませんでしたよ。毎日忙しいとか言って、先延ばしにして。……それから間もなくでした。弟の様態が急変して父親から必ず戻って来いと念押しされました。私は仕事を片付けたら急いで帰るから、十九日には必ず戻ると伝えました。確か年末で、十二月だったな。寒かった。……それから数日後、弟は十七日に死にました」

 沢木は煙草の先端の白い灰を払い、煙を吐き出した。

「馬鹿やってると家族の死に目に会えない。これは、いい教訓ですよ」

 遠くを見詰めるように視線を据えると、沢木は続けた。

「それで弟は無言の帰宅を。さすがに葬儀に出ないわけにも行かないんで、行きました。父親とは一言も口を利きませんでしたね。ま、当然ですけど。……それでも自分はまだ、面倒だな、くらいの気持ちで親族の席に参列してたんです。棺を覗いて死化粧の弟を見ても何も感じなかった。知らない若い男のようでした」

 沢木は葵にたずねた。

「斎場って、入ったことあります?」

「いいえ、まだ。……おかげ様で」

 沢木は目を伏せると、寂しげな笑みを浮かべた。

「斎場に入ると、棺の周りに直前まで枕元にあった最後の品々ってのが並べてあるんですよ。まあ、葬儀屋の遺族に対する演出ですかね。私は焼香の時、何気なくそれを眺めました。携帯ゲーム機に筆記具、薄い文庫本が何冊か。それと小さなメモ帳もありました。メモ帳には、鉛筆書きの弟の下手くそな字で、入院してからの日付が記してあって。カレンダー代わりに使うつもりだったか、何だかわかりませんが、それぞれの日付の側に、その日やってきた人の名前が書いてあるんです。日記とまではいかない、弟なりの何かの記録だったんでしょう」

 そこで沢木は煙草を咥えると、神経質に煙を吸い込んだ。

「私はメモ帳を手に取ってページをめくったんです。そして、最後の日付を見た。最後の日は十七日、私は勝手にそう思い込んでました。でもそれは、……間違いだった」

 沢木はそこで言葉に詰まった。

「……日付は十九日で、数字の側に、私の名前が」

 沢木は葵に背を向けると、少し上を向いて煙草をふかした。

 長い間。

 渦巻く紫煙が河川からの風にさらわれ、ちりじりに霧散した。ホログラムの夕焼けは燃え立つようで、公園の並木がクリスマスツリーのように瞬いていていた。

「弟は十九日まで生きようと思ったんです。……このロクデナシの私に、会うのを楽しみにしながら」

 最後のところで沢木の声は少し震えていたようだ。沢木は煙草を揉み消すと、苦笑いで葵を振り返った。僅かに睫毛が光っていた。

 沢木は口元を歪めると、肩をすくめた。

「ここは風向きが悪い。……目に沁みちゃいましたよ」

 葵は両眼を真っ赤にして貰い泣きしていた。

「悲しいお話……」

 ハンカチで目頭を押さえる葵に、沢木は明るい声で言った。

「おかげ様でロクデナシは卒業です。……いやー、まだまだかな?」

 その時、遠くから早乙女の声が聞こえた。

 二人に向かって手を振っている。そろそろ帰りましょう、という意味だろう。時間にうるさい早乙女らしい。沢木も笑顔で大きく振り返した。

 早く戻っておいで、と。

 どこからか犬の遠吠えが聞こえた。

 沢木は葵を振り返ると、両手を打ち鳴らした。

「さて、そろそろ現実世界へ、戻りましょうか」

葵はハンカチを掴んだまま、まだ、めそめそしている。沢木はそっと彼女の肩を叩いた。

「貰い泣きなんかしてる場合じゃないですよ。それに、あなたが躓(つまづ)いた人生でもないし。……まだ、今のところは、ね」

「それ、どういう意味です?」

 沢木は眉を持ち上げ微笑んだ。

「人生は長い。明日は我が身ですよ」

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