第22話


「来たわよ、来た来た!」

 笠原美紀が大声を上げながらナースステーションに飛び込んで来た。遠くの方で走り去るトラックの音が聞こえる。

 葵 洋子は弾かれたようにデスクから立ちあがった。普段なら笠原をたしなめる場面だが、今日の葵はどこか違っていた。

「来たの? どこ、どこよ?」

 動いた拍子に椅子が倒れ、大きな音を立てた。先輩格の吉田が二人を一喝する。

「ちょっと、あんたたち、うるさいよ」

 葵は慌てて口元を押さえる。

「あ、ご免なさい。……」

 笠原は葵に目配せすると、廊下に誘った。ナースステーションの角を曲がったところで二人は同時に駈け出した。

「搬送先は?」

 興奮を隠しきれない葵に、笠原は笑いながら答えた。

「特別棟の三階奥。決まってるでしょ。他に誰がそんなもの待ってるのよ?」


 (アベックシート)の置かれた治療室に新手の段ボール箱が届いていた。灰色のざらつきのある梱包である。スペース・フレート・フォワーダー(利用航宙運送事業)のブルーのロゴ、FRAGILEの黄色と黒のラベルが側面に張り付いている。

 笠原はラベルを見て茶化した。

「何々、混載便なの? 某有力医療機関が随分しみったれてるわね」

「あんまり目立ちたくないんでしょ。中身は、えーと、……コンピュータ・パーツだって」

 葵は段ボール箱の表面を撫でた。箱の丈は丁度、葵のへその辺りまである。

「まあ、嘘じゃないけどね」

「見掛けは洗濯機くらいかしら? 斜めドラム式だったり?」

 二人のBM療法士は顔を見合わせ笑った。

「始めましょうか」

 理科技術系女子の二人は、要領を得た手順で速やかに梱包を開封した。優れたロジスティクスによって考慮された発泡スチロール緩衝材が順番に取り除かれていく。フロアに陳列されると、そのオブジェの複雑なカーブがヘンリー・ムーアの庭園彫刻を思わせた。

 葵は梱包に含まれていた電気誘導方式の電子ペーパーを立ち上げ、トラックパッドでモノクロ表示をスクロールさせた。

「接続はUSBとHDMI、……あら、WUSBもあるわよ」

「なるほど。ワイヤレスなわけ? バージョンは?」

「XP3」

「やだ、新型じゃない。ちょっと嬉しいかも」

 黄色い歓声を上げながら嬉々として物色する様は、あたかもブランドファッションの新作を前にするオフィスレディたちのようである。しかしながら今彼女等が話題にしているのは、ハードウェアの最新接続仕様の問題だった。

 十数個のパーツは二人の手で淀みなく組み上げられた。出来上がりはカートのような自在車輪付き中継器と、二つのティアラである。

 ブルーとシルバーを基調にした2トーンの筐体。それにファイバーグラス製のティアラに似たヘッドセット。どこぞの国産メーカー家電を思わせる、軽やかな設計意匠である。これがあの悪名高い(アベックシート)の付属パーツというのだから、制作会社が違うとしか考えられない。黒くて無骨な電気椅子とは大違いだった。

「随分、お洒落だねえ」と、葵。

 笠原はティアラの制御装置をいじりながら呟いた。

「サードパーティ製でしょ?」

「そうかも。これならどこにでも運べそうよ。結構軽いし」

 そう言われて笠原もカートを試した。

「ほんとだ。ピクニックにでも行っちゃう?」


 葵と笠原は一旦ナースステーションに戻り、IP回線を使ってプロジェクト担当医、大崎泰明にコンタクトをとった。こっそり笠原も葵の横に付いてレクチャーに参加していた。

 葵は便の到着と組立ての概要、マニュアル理解の程度を簡潔に伝えた。それに対し、大崎医師からはシステム概要と、早乙女一也に対する(自閉症スペクトラムへのBMアプローチによる治療)の第二段階の目的、そのための試験項目等が送信された。その資料を踏まえた上で、大崎医師は葵に、SOAPの手順でカンファレンスを行った。つまり、S(Subjective Deta)主観的情報、O(Objective Deta)客観的情報、それに対するA(Assessment)アセスメント、そしてP(Plan)今後の計画、である。

 生真面目な初老の男は、話の長い語り部だった。笠原に至っては途中で飽きてWebカメラの死角に移動し、携帯をいじり出す始末だ。

 長くて眠たい概要を要約すると、以下の通りである。

 葵たちが組み立てた医療機器は(アベックシート)の付属システムであり、ここ数か月の早乙女一也の検査によって得られたミラーニューロン群活性連携のネットワークを機械的手法によって外部から刺激するフィードバック装置らしい。あのバーチャル映画観賞のfMRIの蓄積データが、一つの技術的結論を出したということである。

 まず、被験者は二人。患者(つまり早乙女一也)と(平均的健常者の平均的心理反応の高得点者)である誘導者(つまり葵のことである)が、ファイバーグラス製ティアラを頭部装着する。それぞれのティアラは異なる機能を有しており、誘導者の側は走査部、患者の側は指向性微弱電流によるインパルス発信器となっている。

 ティアラは無線接続され、背後のキャスター付きカートの中継器に繋がっている。この装置こそがシステム最大の肝、活性連携パターンの翻訳装置だ。誘導者のミラーニューロン活動を走査し、同時にパターン演算され、それを患者の脳へ電気刺激としてフィードバックさせるのである。人為的な跳躍伝導とも言えよう。誘導者の脳内で起きている活動電位の位置とタイミングをトレースし、患者の脳へ転送する。

 平たく言ってしまうと、自閉症スペクトラム患者の脳に、健常者の脳内活動を再現し、疑似体験させるという仕組みなのである。経験を蓄積し機能を拡張させる脳本来の特性がこのシステムの意図を受け入れれば、確実な治療効果が得られるはず。

 それが研究グループの主張だった。

 この装置で行われる過程の一部始終は、ワイヤレスで(アベックシート)に送られ、サーバに記録されていく。ワイヤレス接続は(月の王冠)の携帯端末用の基地局を利用しているので、どこに移動しても問題なかった。体験治療を視野に於いた、優れた設計意匠と言えるだろう。


 早乙女一也は、いつものように、午後一時三十分きっかりに現れた。

「失礼、します」

 早乙女は笠原を認めると会釈をし、にっこり微笑んだ。

 笠原も一瞬表情を輝かせるが、すぐさま不満そうになって口を尖らせた。

「あーあ、私もテストに立ち会いたいよ。……今日は、患者さんの適合検査があるから、抜けられないんだ」

「何? ブレインゲート?」と、葵がたずねる。

「……そう」

 下唇を噛む笠原を、葵は穏やかになだめた。

「それは抜けらんないわね。美紀ちゃん、チームリーダーじゃん?」

 笠原は渋々うなずいた。葵は笠原の肩を軽く叩き、

「今日は色々手伝ってもらってありがとね。初号試験はとりあえず二人でやってみるからさ」

 笠原は口惜しそうに葵を睨んだ。

「必ず報告してよ、私にも」

「別に大したことやんないって。インターフェイスの馴らしくらいだし」

 そう言う葵の言葉に早乙女が急に割って入った。

「今日は何か、……特別なことがあるのですか?」

 葵は早乙女に芽生えた一抹の不安を、素早く取り除いてやった。

「何でもないのよ、一也君。検査に新しい機材を使ってみるってだけ」

 しかし、笠原は大仰に早乙女の手を握り締めると言った。

「そうね。別に大したことじゃないわ。……でも、何かいいことが起きるような気がする」

早乙女は笠原の顔をじっと見詰め、オウム返しに呟いた。

「いいこと、ですか?」

笠原はピンクフレームの眼鏡の奥で、子供のように目を輝かせた。

「私の勘よ」

 そう言い残し、笠原は二人に手を振ると治療室から出て行った。

 残された葵と早乙女は、束の間立ち尽くしていた。葵は我に返り、一つ咳払いすると早乙女に提案した。

「そうだ。今日は天気がいいから、中庭に行きましょう」


 早乙女がカートを持つと言い張るので、葵はバスケットに二つのティアラとマニュアル入り電子ペーパーを詰め込み階下へ降りた。

 午後二時。まさに春うららかな、絶好のピクニック日和だった。二人はカートを引いて芝生の植え込みを抜け、アトリウムに向かった。

 葵は早乙女をベンチに座らせると、カートを受け取った。

 シルバーとブルーで色分けされたコントロールパネルを開き、システムを起動させる。小さなジングル。ネットワークの受信状況がモニタされた。感度は良好だった。

 早乙女は葵の様子を伺いながら、黙り込んでいた。

 不思議そうな顔をしている。何か聞きたいのに、言葉が見つからないという表情である。葵は早乙女の前にかがむと、声を掛けた。

「一也君、始める前にきちんと説明するわね。いい?」

「はい」

 葵はうなずき、早乙女の横に腰かけた。

「この数か月、一也君と二人でやってきた検査。あの映画を観るやつね」

「はい」

「あの検査に基いた、新しい治療法が届いたの」

「僕の治療ですか?」

「そうよ。あなたを自閉症スペクトラムから解放するための治療」

「僕は、自閉症です」

 そう念押しする早乙女を、葵は黙って見詰めた。葵は話しを続けた。

「まだ試験的なものだから確実な効果が期待できるとは言えないの。でもこの数カ月の私たちの頑張りが役立ったんだから、やってみる価値はあるわね」

「そうですね」

葵はそこで笑顔を見せた。

「理屈は、どう? 興味ある?」

「はい。お願いします」

 葵は少し間を置き、早乙女の頭の中が整理されるのを待った。

「あなたの脳内には、私と同じだけの神経細胞があるのに活発に働いていないの。普通なら成長していく間にいろんな経験をして、それが神経同士の結びつきになっていくのだけれど、あなたの場合、何かがそれを妨げているのね」

「はい」

「あの映画を観る検査は、あなたとあたしの脳の働いている場所を調べるためのものだった。二人のデータを並べれば、どこが動いていて、どこが動いていないか、わかるでしょ?」

 早乙女は寂しい笑みを浮かべた。

「動いていないのは、……僕の方ですね」

 葵は敢えて止まらず、言葉を繋げた。

「そうよ。これは比較の問題だからね。そのための検査だった。あなたもそれはわかってるはず」

「はい」

 葵はバスケットを開け、ファイバーグラス製の二つのティアラを取り出した。早乙女が素朴な感想を述べた。

「美しいですね。雪の結晶のみたいだ」

 早乙女の言葉は的を得ていた。六つの足を持ち、均等に広がるパターンはフラクタルな対称性を描きながら銀色に輝いている。

「この二つのティアラが、あたしと一也君の脳を結びつけるのよ。あたしの頭の動きを、あなたの頭の中に再現する、わかるかしら?」

 早乙女はしばし考えた後、言葉を選んだ。

「洋子さんの感じたことを、僕も感じる……」

「まあ、そんなところね」

 早乙女は、うつむいたまま小声で葵にたずねた。

「僕の病気は、直した方がいいですか?」

 葵は一瞬言葉に詰まった。

「それは、……これから決めることだわ」


 君は葵 洋子の動きを目で追っていた。

 彼女はマニュアルをスクロールさせながら、雪の結晶を思わせる銀色の機械装置をくまなく点検した。表を見、裏返し、マニュアルと照合している。

 葵は髪を掻き上げ、ヘアーピンでまとめると、自分用の装置を頭部にセットした。

 彼女の息遣いがすぐ側に聞こえる。

 間近で動く彼女の身体から微かな香気が立った。爽やかな植物の匂いである。

 カミツレの匂い? 

 葵は仕事柄、普段、香水を付けたりしない。それを君は良く知っている。

 恐らくは湯船で使ったアロマオイルの、微かな残り香であろう。

 君はその香りに狼狽し、じっとりと両手に汗をかいた。


「わかった、わかった。なるほど、このスイッチか……」


 葵の声が奇妙に遠のいて聞こえる。

 彼女は手を伸ばすと君の前髪を後ろに撫で付け、ピンで留めた。

 ピンを銜えたまま葵が優しく微笑む。

 邪魔になる頭髪にピンを刺し、順に固定して行った。

 額に触れる彼女の冷たい指先が心地良い。

 君は陶然として、そっと目を伏せる。

 機械装置が頭部に触れるのがわかった。セッティングが決まると、装置は独りでに動き出し君の頭にしがみついた。

 何か大きな手に掴まれたようだった。


 葵は君の肩をそっと叩き、注意を促した。

 目を開くと、彼女の瞳が鼻先にあった。

「さあ、目を開けて頂戴」

 彼女の透き通った鳶色の瞳に、映り込んだ自分の姿を見付ける。

 君は訳も無く返事を返した。

「はい」

 彼女は説明を始めた。

「スイッチを入れると、この装置が私たちの脳を繋げるわ。あたしから一也君へ。一方通行だから双方向じゃないわね。あたしは何も変わらない。一也君の中には、あたしの感じている情動の信号が送り込まれるの。笑ったり怒ったりするわけじゃないけど、普段のあたしが普通にしてる気分よ」 「洋子さんの、……気分?」

 考え込む君に葵は悪戯っぽく笑った。

「気に入ってくれると嬉しいけど」

「努力します」

 葵は人差し指を左右に振った。

 君はどうやら変なことを口走ったらしい。

「努力はしないで。普通にしてて」

「はい」

「じゃ、行くわよ」

 彼女はカートに付いたキーボードのエンタ・キーを押した。


 何かが起こったとは、わからなかった。

 君はベンチに座り、噴水の煌めく放物線を辿っていた。

 芝草の刈り込まれた若葉が艶やかに青い。

 池に浮かぶ観賞魚の赤と白の斑。ゆっくりと滑り、水草の陰に隠れる。

 風の音を聞いた。

 水面を規則正しく打つ落水の木霊が、運ばれては消えていく。

 雫の一粒一粒が際立った輪郭を持ち、その転がる様をスローモーションに想像した。

 乾いた風が新緑の息吹を乗せ、君の鼻腔をくすぐる。

 君は穏やかで豊かな安穏を満喫した。

 満喫した? 

 これは(僕)の気持ちじゃない。

 知らない気分だった。

 洋子さんの中にある、ものの見方。

 初めて知る手触りだった。

 両手に降り注ぐ、色とりどりの透過光が(僕)の興味を惹いた。

 振り仰ぐとアトリウムの屋根にはめ込まれた、アクリル製天蓋に気付いた。ステンドグラスを模した造りになっていた。今日までこの屋根を振り仰いだことはない。初めて目にする模様をつぶさに観察した。赤や緑ではめ込まれたアクリル樹脂は絵物語を描いている。見たことのある図柄だった。

 それはジョルジュ・ルオーの「聖顔」。

 ブルーとレッドの光芒が速度差を持って到達する。

 青方偏移と赤方偏移。

 その考えは間違いだ、と洋子さんは指摘した。

 色彩の異なる光の速度は、真空中では同じ、物質中では異なる。

 これが正解。

 スペクトル偏移を見るには亜高速での移動が必要である。


 ふいに背後に温もりを感じ、驚いて振り返ると、洋子さんの目と出会った。

 自分を見詰める二つの目。

 その中には複数の観念が存在した。

 それは冷静な医療者の観察眼であり、

 または弟を愛でる姉のそれ。

 母の慈しみ。

 そして、恋人の情愛だった。

 感情の群れは高まり、絡み合い、大きなうねりとなって(僕)に襲いかかった。

 (僕)は、うろたえた。

 この世界は、静謐な箱庭じゃない。

 音と感触が充満した、錆びた牢獄だ。

 頭の中に、百本もの毛むくじゃらの手足が入り込み蠢いた。

 吐き気がした。

 迫って来る手触りが(僕)を捉え、圧迫し、窒息させる。

 (僕)は空気を捉えようともがき、空を掻いた。

 急変する(僕)の様子に慌て、洋子さんが接続を切るのがわかった。


「一也くん、ちょっと! 大丈夫?」

 葵は早乙女のティアラをむしり取ると身体を揺すった。早乙女は葵の肩にしがみつき、苦しそうな息を吐いた。数分後ようやく落ち着いて、身を起こすと早乙女はうっすらと瞼を開いた。

 涙が、こぼれた。

「一也君?」

 葵は心配そうに覗き込んだ。早乙女は思わず身を引き、彼女の目を見まいとした。

 それから静かに呟いた。

「あなたの頭の中は、……衝撃でいっぱいです」


 その日、僕は世界を発見した。

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