第4話 フォークナーとトニオ
裏門から出ると、黒一色のボディの車はすでに自分を待っていた。
夜の闇が濃い。
他にも車は何台か止まっていたが、人の姿は見えない。
広すぎる駐車場はがらりとしていた。
冴え冴えとした空気が顔の肌を刺す。上を見上げると、寒い夜の美しい星空が広がっていた。
車の中に乗り込むと、いつもの運転手、コティの顔がのぞく。
「よろしいですか」
「ああ」
コティが、こういちいち確かめるようになったのはキルケゴールのせいであるという。
新任の頃、発進した際にキルケゴールが飲んでいたコーヒーを指にこぼして火傷したとかで、それからは確認を習慣づけたらしい。
『あれの意地の悪さには参ったね。私はもうあのことは忘れてるのに、ああ言われる度に思い出すよ。昔のコトだから、もういいのにね』
キルケゴールの言葉を思い出す。
キースは、この執念深い五十代の男が結構気に入っていた。
広場の噴水の横を通り、門を出るとしばらくは国家治安警察や大使館などのやたら大きな建物が並ぶ非常に静かな並木道になる。そこから先は、市街地に続く大通りに出る。
一年間の日照時間が少ないゼルダでは、太陽に焦がれるように建物の外壁の色は明るい。パステルカラーの黄色、緑、水色が大部分を占める。
外務局庁舎の外壁は水色であり、今、前にいるグレートルイス大使館の外壁はコーラルピンクだった。
他には車がいない交差点で信号待ちをしている時に、キースは思い出したように口を開いた。
「ああ、今日は169番街で降ろしてくれないか。帰りは自分で車を拾って帰るから」
「……
そう言ったコティの片眉がぴくりと持ち上がるのがルームミラー越しに見える。
「ああ、お前も行くか?」
「……」
「冗談だよ」
言うんじゃなかった、とキースは手を組み窓に目をやる。もしかして自分はキルケゴール様化しているのかもしれないな、とキースはぼんやり思った。
「そういえば、先程のパーティーはえらくはやく終わったそうですね。どうしたんです?」
コティが話しかけてきた。
「パーティーへあなたを乗せて行ったベンの野郎が一時間もしないうちに帰ってきたんで」
「……なんでもない。居ても居なくても同じだったから、帰ってきただけだ」
キースは答えた。
コティは何があったか知ってるに違いない。長年、キルケゴールに仕えてきたのだ。内心で笑っているのだろう。
「何だ」
キースは前方の群衆を見て、口に出した。
コティは配慮して車の速度を落とした。
「フォークナー氏の演説ですよ。ここんとこ、回数が増えています」
人の歓声がここまで聞こえてきた。
道は踏み荒らされたチラシで埋め尽くされている。
そのとき、フォークナー氏が何か言ったのか、群衆が大きく揺れた。
熱気で外は充満している。キースは、くもったガラスを手でこすり、外の様子を見ようと目をこらした。人の群れの中央に、長髪の小柄な身体が見えたような気がした。
「不思議とね、苦情は少ないんだそうですよ」
コティが言った。
「くそ寒い中、熱心なことですね」
自らの手や、そこら中のものをたたいて音を出す人々。自分たちの思いを代弁する人物。人々は、その人物が吐き出す言葉を聞いているだけで、その架空の世界を体感している気になってしまうのはなぜだろうか。そして、その興奮に幾度となく身を委ねてしまうのはなぜ。
「知っていますか」
コティは続けた。
集会所を通り過ぎ、車の速度があがる。コンクリート塀に、フォークナーのポスターが連なっているのが見えた。
「フォークナー氏は、外務局の吸収を果たすと、先日街頭で宣言したとかしないとか」
「へえ」
キースは片方の口の端をあげた。
「トニオ氏と取り合いになりましたね」
今、二大勢力がこの国で力を巻き起こしている。
一院制だった政府が、突如分裂し始めた。
ひとつは、左派のJ・フォークナー。六十も真近の高齢の老人だ。そろそろ棺桶の中に入ってもいい時期だが、彼は異常に元気だ。彼の一言で分裂は始まった。
もうひとつは、K・トニオ。三十路に入ったばかりの若手実力派。右派で一院制の存続を説いている。何しろ、やはりパワーはこちらの方が勝る。
お互い手中に政治家や名士を取り込むことに全力をかけているが、それで一番の難所といえば、キースのいる外務局であった。
昔から外務局は特別な位置にいる。
どこともくみしない独立した機関。
院と同等に近い権力をもっており、政府からはあまり好かれてはいない。
また、外務局は専属の諜報部員なども持っており、謎が多い機関とされている。
なのに、競争率が高いのは職務とキルケゴールの人徳だろうか。
「最近、アナーキストたちの……言い切れませんがね。テロ活動も増えてますし……物騒な世になりましたね」
「動物園の動物たちを放したのも、そいつらの仕業だっけな」
三日前に起こった事件をキースは思い起こす。
象やキリンなどが町を徘徊したらしいが、自分たちは出くわさなかった。
「自由への呼びかけですかね。……さすがに道のど真ん中にでかいクソ……失礼、大きな汚物が転がってたのには驚きでしたよ」
数時間で獣は麻酔で眠らされて元に戻され、コトは鎮まったが、おそらくこの一年で最高の珍事件だったろう。
「ライオンなどの猛獣を放さなかったあたりは、ホッとしましたがね」
そう言ってコティは車を止めた。
「キース様、くれぐれもお気をつけて」
キースは車を降り、コティの運転する車が去るのを見送った。
そう、今は不安定な時期なのだ。なのに、高級官僚が街中を歩きまわるのは不用心きわまりないことである。
キースは頭上を仰ぎ見た。
ネオンがギラつく歓楽街、通称 『パラダイス』 の通りをキースは歩き始める。
ここは、全人口のうち五パーセントを占める両性具有の者が住む街である。
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