* 17 *

 高橋さんが自分のクラスに戻った後、オレは教室を抜け出した。

 教室に戻ってきた冨永が、また騒ぎ出したから。

 雲隠れするつもりで向かったのは、美術準備室。


 坂上先生がいたら、ラッキーというくらいで。半分、賭けの気持ちで、部屋の戸をノックする。

いてるよ」

 意外にも、中から声が返ってきた。

 坂上先生がいる事実に驚く。

「失礼します」

 気を取り直して室内に入ると、坂上先生はにやりと人の悪い笑みを見せた。

「また来たな。色男」

「いい加減、それやめてもらえませんか? 先生」

 小馬鹿にしたような顔をする教師に、不快を表明する。

「それで、今日はどうした?」


 ――無視かよ。

 生徒の嫌がることをやめない先生って……。


 オレの願望に返答もしないで、用件を尋ねてくる。

「クラスから逃げてきた。あまりにうるさくて」

「へぇ………サボりか。いかんなぁ」

 正直に答えると、坂上先生は椅子から立ち上がり、棚の中を色々と見出した。

 ついこの前、ここで見た光景と同じ。

「ほら。これ見て、気持ち落ち着けろ」

 そう言って渡された1枚の絵。前に見せてもらった絵より小さい、A4のサイズ。

 青一色の絵。

「俺は、職員室に行くけど。美術室使っていいぞ。5限は授業ないから」


 授業をサボるのを、見逃してくれるらしい。


「ありがとうございます」

 感謝の意思を表すと、先生は追い払うように右手の甲を上下に振る。

 お礼は伝えたし、美術室の使用許可も頂いたので、ここに長居する理由がない。余計なことを言われる前に、絵を手に準備室から美術室に移動した。

 近くの窓を開放して、窓際まどぎわの席に座る。

 机の上に絵を置いて、じっくり見る。


 様々さまざまな種類の青でえがかれた、風景画。

 空も、山も、森も。

 全てが青い濃淡のうたんで表現してある。

 黒のような紺色から、白に近い青まで。


 ただただ、驚嘆きょうたんするだけ。

 すごい――それしか思い浮かばない。


 引っ張られるみたいに、身体からだごと後ろに向き直る。

 おぼろげに浮かぶ、白い桜。

 存在を主張するかのような、大きな枝ぶり。

「………」

 じわりと、心の奥底に広がる感情。

 透明な水に、黒いインクを1滴、らしたように。じわじわと。

 苦い…気持ち。


 ゆっくりと開くドアの音が、静かな室内に響く。

 大きな音に驚き、音の出所でどころに目を移す。戸を開けて中に入ってきた名本さんは、オレの姿に目を見張るほどびっくりしていた。

 オレも似たような表情をしていたのだろう。顔を見合った次の瞬間、2人して笑いをこぼした。

「授業始まりますよ」

 邪気じゃきなど微塵みじんも感じさせない笑顔で、名本さんは室内を横切る。


 サラサラと、こころよい風が美術室の中を通り抜けた。

 授業開始の本鈴ほんれいが校内に響く。ひっそりと心地よい空間で聞くチャイムの音は、揺らぎ、幻想的にも感じる。

「サボり確定だね」

 口角がわずかに上がり、うす笑いで告げる。

「そうですね」

 名本さんはしたり顔で同意すると、美術準備室へつながるドアを開けて入る。

 身体の向きを正面に戻すと、机上の青が視界に入ってくる。

「……」

 紙と鉛筆を持って準備室から出てきた名本さんが、オレの脇を通る。オレが見ている絵に気づいて、「あっ」と言いらす。

「これ、名本さんの絵?」

 横に立つ名本さんを見上げて、質問する。

「はい。そうなんですぅ」

「青一色で、こんな風に表現できるなんて……」


 ――すごい。

 その単語を、何故か飲み込んだ。


「ありがとうございます。それ、モノクロームの絵なんです」

「…モノクローム?」

 嬉しげな笑みを浮かべる名本さんに、問いかける。


 モノクローム………モノクロ。

 その言葉で連想したのは、白黒の世界。


「はい。ひとつの色でえがかれた、単色画のことです」

 オレの疑問をみ取った名本さんが、自分の絵を指で差しながら説明をする。

「…モノクロというと、白黒の写真とか映画が印象強いですよねぇ」

 名本さんの落ち着いた低めの声を聞きながら、絵に視線を戻す。

 説明が終わったのか、名本さんは歩き出して、オレが座る席のひとつ空けて後ろの席に腰かけた。


 単色画。……モノクローム。


 静かに席から離れて、窓辺に佇む。窓枠に頬杖をついて、4階から見える景色を眺める。

 快晴の空から燦然さんぜんたる日差しがそそぐ中、爽やかな風が吹く。

 授業中の、静寂せいじゃくに包まれた校舎。室内はほの暗く、差し込む陽光がきらめく。

 本当なら、教室で授業を受けているのに。

 普段なら意識を向けないものに気づいたことに、少し得した気分になる。


 後ろから、紙と鉛筆がれる音がした。

 そっと左後ろを振り返ると、名本さんが真剣な面持ちで鉛筆を走らせていた。


 何をいているんだろう。

 訊いたら、答えてくれるのだろうか。


 胸の奥にあった苦い感覚が、いつの間にか消えていた。

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