* 39 *

 午後初めの授業は、担当教師の急な用事で自習となった。

 午前中、名本さんとオレを見るクラスメイトの好奇の目がやかましかった。そんな状態で教師のいない教室にいても、親しくない同級生から色々聞かれるだけだ。

 これ以上、嫌な気分になりたくなかった。

 だから、冨永が堀としゃべっている間に教室を抜け出た。彼らに気づかれると面倒なことになるから、こっそりと。


 ――名本さんに悪いことをしてしまった。


 静寂せいじゃくに包まれた廊下を進みながら、頭を占めるのは名本さんへの罪悪感。

 後ろめたい気持ちで胸がつかえたまま、校舎西側の非常口から屋外に出て、特別棟の東にある職員室を避けるように歩く。

 正門から西門に延びる舗装道路を挟んで、第1校舎と平行に植えてある芝生には、様々な高さの木が植えてあり、茂みに隠れてしまえば、誰にも見られずにのんびりできる。

 職員室が近くにあるせいで、近寄る学生もいない。

 読みかけの小説を片手に、木々が生い茂る中に入ってみると、先客がいた。


 心臓が一度跳ね上がる。


 猫のように小さく丸まった背中。

 後頭部の高い位置でひとつにまとめた焦げ茶色の長い髪が、芝生の上に散らばっている。

 名本さんの背を見つけて、しこりのように残る後ろ暗さより、嬉しさが心に広がる。

 近くには、スケッチブックと鉛筆が落ちている。

 教室を出る時、名本さんの姿が見当たらなかったことを思い出した。どこに行ったのだろうと思っていたら、ここに来ていたんだ。

 木々の葉の陰で静かな寝息を立てて、心地よさそうに寝ている。


 ――別の場所に行こうか。ここで小説を読んでいようか。


 どうしようかと悩んでいると、他人の気配を察知したらしく、名本さんがゆっくりと顔を上げて、こちらを見た。

「おはよ~ございますぅ」

 いつも以上に、間延びした口調で名本さんは挨拶をする。

「ここで、何をしているの?」

 半分寝たままの彼女に合わせて「おはよう」と返してから、質問する。

「昨日の夜、絵を仕上げていましてぇ。全然寝ていないのですぅ。とてもとても眠いのですが、それと差し引いても、お釣りが来てしまうくらいの出来映えでしたので……」

 のんびりとした笑顔で言いながら、名本さんは芝生の上にうつ伏せになってしまった。

「その絵、見てみたいな」

「…よいですよぉ」

 オレのこぼした言葉に、名本さんは小さく呟いてまた眠りにく。

 名本さんの穏やかな寝顔を見つめながら、「今の約束を名本さんは覚えていないだろうな」と思った。


 名本さんと交わした、大切な約束。


 だけど、名本さんにとっては、友人たちと気軽に交わすような感じかもしれない。オレとは温度差があるのかもしれないけど、そうだとしても嬉しい。

 更に、名本さんは半分寝ているような状態だったし。目が覚めた時には、約束のことなんて覚えていないかもしれない。


 ――それでも、別にいい。


 胸の奥に、ふわりとともる温かさ。


 風が吹いて、スケッチブックが音を立ててめくれる。

 その音で、気がついた。

 とても静かな時間。

 風が吹き抜ける以外、何の音もしない。


 その穏やかで静かな空間が気に入って、ここにいることを決めた。名本さんの睡眠を邪魔しないように、太い幹に寄りかかれる場所に座り込む。

 小説を読む気になれなかった。

 今まで、こんな風に穏やかに時間を過ごしたことがなかった。噂など忘れそうなくらい気が休まるこの時間が、かけがえのないものに感じる。

 スケッチブックに挟まれていた紙が、風で散らばる。葉書くらいのサイズが、数枚あった。集めながらそれを見ると、色だけが塗ってある。


 緑色のグラデーション。

 深い青紫色。

 それから、夕色。


 1枚の紙一面が、それらの色で塗り尽くされていた。

 名本さんらしい、綺麗な色。

 引きつけられる。

 風景画しか見たことがないから、ひとつの色で濃淡をつけた紙は、新鮮だった。丁寧に丁寧に塗られている感じがする。

 その紙をスケッチブックに挟んで、表紙を閉じる。また風で紙が飛ばされないよう、重石おもし代わりに鉛筆を表紙の上に乗せた。

 視線を移して、無防備に眠っている名本さんを見つめる。それから、

「ごめん、ね」

 丸くなって寝ている名本さんの横顔に顔を少し近づけて、伝えられないままの言葉を静かに告げた。


 それでも……好きなんだ。

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