第一話(4)

 夜九時を過ぎたゲーセンは、昼よりも落ち着いた雰囲気になる。

 客の数もまばらになり、その年齢層も上がるためだ。

 二階へあがった私は瀬川のいるであろう三階には向かわず、フロアの奥に視線を巡らせる。

「……ちょっといいかな、ネネ姉」

「お、どうしたのー。いいよいいよ、仕事も片付いたしねー」

 受付の奥にいたネネ姉は気の抜けた声を投げ、すぐにぺちんと手を鳴らした。

「あ、分かったー。あのかわいいお友達のことでしょー」

「うん、そのこと。あの子、まだ上にいる?」

 私はネネ姉に心を読まれないように軽く応える。

「ついさっき見たときもいたから、まだいるんじゃないかなー」

「昼からずっといる?」

「うん、ずっといるよー。すっごいゲームにハマったって言ってたねー」

 ということは、いったん帰って今さっき戻ってきた、なんてことはないのか。

「そう言えばー、あの子ってご飯食べてないんじゃないかなー。あ、そだ、三人で晩ご飯を食べて帰ろっか」

「いや、それはいいよ」

「だねー。うららちゃんとはケンカしてるもんねー」

「……知ってたの?」

 唐突なネネ姉の言葉に、驚きが顔に出てしまっていた。

 そんな私の頭をネネ姉が優しくなでる。

「事情は聞いたよ。うららちゃん、そのかつこうの理由が知りたいって言っちゃったんだよね。まあ、それならハルちゃんが怒るのもムリないよなー」

 それは、あってるけど、違う。私が瀬川に、そう言うよう仕向けたんだ。

 なにも言えず黙ってしまった私に、ネネ姉は頭をポンポンとなでて言う。

「だいじょうぶー。うららちゃんも落ちこんでたからね、また話せばすぐに仲直りできるよー。行っておいでー」

「違うんだ。仲直りなんてしない」

 私の言葉にネネ姉は眉根を寄せて、頭をなでた手を止める。

「あれ? 仲直りをしに戻ってきたんじゃないの?」

「違う。もう関わらないでって言ったんだ。でも、瀬川がまだいて。だから……」

 だから、なんなのだろう。私は何がしたいんだろう。

 別に瀬川がこのゲーセンにいることなんて無視しておけばいい。

 なのに、今、会いに行こうとしているのは、私じゃないか。

「ちょっとしたケンカじゃなかったんだねえ。んんー? じゃあ、関わらないでって言われても、あの子ずっと待ってるの? それはちょっと、ストーカーっぽくてコワい――」

「違う。そんなんじゃない!」

 思わず、強く声が出ていた。

 瀬川は打算で動くようなヤツじゃない。

 ゲーセンで待っていれば私に会えるだとか、プレイを続けていれば私に気づかれるだとか、そんな計算なんてしない。「関わらないで」と言ったら、瀬川は関わらないようにする。そういうヤツだ。

 だからこそ、なんでまだゲームをやり続けているのか分からないのだけれど。

「そんなんじゃないなら、なんだろーね」

 またネネ姉が私の頭をなで、のぞきこんでくる。

 そこから目をそらす私に、穏やかな声でネネ姉は言った。

「じゃあさ、お姉ちゃんから、提案」

「……なに?」

「あの子のこと、こっそり確かめてみる?」


   *


「……お、お、おじゃまします」

 緊張しているんだろう。瀬川は相変わらずの激しい動きでキョロキョロと部屋を見回していた。

「どうぞどうぞー。こわがらなくても、大丈夫だよー」

 ネネ姉に率いられて瀬川が入ってきたのは三階の脇にあるスタッフ用の個室。休憩室と着替え室と倉庫を兼ねた小部屋である。

 倉庫と言っても、ゲーム機等の置き場はまた別にあって、ここにはスタッフのロッカー、イベント用の装飾、それから――

「あ、クマ! あのクマここにいたんですね。それにネコも!」

 壁に背を預けたる着ぐるみたちに、瀬川がらんらんと目を輝かせる。

「うららちゃん、ほら、ここ座って」

 着ぐるみに歩み寄ろうとしていた瀬川はネネ姉にうながされ、部屋の中央に置かれた応接ソファーに腰掛ける。

 その光景に、私は気づかれないようこっそりとあんの息をもらした。

 ネネ姉の思いつきに流された私が隠れているのは、着ぐるみの側にある掃除ロッカーの中。

 我ながらなにをしているんだろうと思う。しかし、これ以上の選択肢は思い浮かばなかった。

 瀬川がなにをどう考えているのか知りたい。

 でも、今の私だと顔を合わせて冷静に聞き出せるとは思えない。

 代わりにネネ姉が聞いてくれるのなら助かるのだけど、瀬川がなにをどう応えるのか直接に自分の目と耳で確かめたい。

 そんな思いの解決方法が、今のこの私のバカげた状況だ。

 暗くせまい視界に見える、ソファーに座ったネネ姉の背中と瀬川の顔。

 このロッカーの戸には空気を通す小さな穴がいくつか開けられていて、そこからわずかに外の様子がうかがえる。

 バカげた状況だけど、私自身の目で瀬川の姿をとらえられるのがうれしかった。

「で、その、お話ってなんでしょうか」

「うん、単刀直入に言うね。今日すっごく長くゲームしてるよねー。それって何でなの?」

「え、それは、その、すごくハマったからで……」

「それだけ?」

 すっとネネ姉の声からゆるさが消える。

「聞いたんだよー。ハルちゃんに言われたんだってね、もう関わらないでって。なのにさ、こんな時間までずっといるなんて、ストーカーっぽくてコワいよ。従姉としてね、ちょっと不安になるんだ」

「ご、ご、ごめんなさい! 変な心配かけちゃいましたね。もう来ませんから、ご心配なく!」

 立ち上がってブンブンと何度も頭を下げる瀬川。

「あ、いや、来るなって言いたいんじゃなくて、うーん、ストーカじゃないのよね?」

「はい、そうですよ」

「だったら、言い訳とかしないの? そうですなんて一言じゃ、信用できるわけないよねー。ね、ストーカーさん」

 はっきりと挑発の色を帯びた声を向けるネネ姉。

「理由は言いません」

 瀬川はネネ姉にまっすぐ目を向けたまま言い切った。

「でも、大丈夫ですよ。本当にもうここには来ないです」

「口ではなんとでも言えるけどねー」

「いえ、わたし、ハル君にとっては迷惑な存在なんです。わたしの言葉でハル君を傷つけてしまいました。だから、もうハル君には関わりません」

 言葉とともに強く視線を投げる瀬川に、ネネ姉は考えこむように黙りこむ。

 やっとネネ姉にも分かったのだろう。瀬川は本気で関わらないと決めているのだ。その声音にも表情にも、嘘をついている気配が何一つない。

「そうだ。聞きたいんですけど、あのゲームができるところって、この街だと他にもありますか?」

「あ、うん、あるけど」

「よかった。ゲームだけはしたかったんです。じゃあ、わたし帰ります」

「ま、待って待って! ちょ、ちょっと、ひとまず座って!」

 あわてた声をあげるネネ姉に、きょとんと首をかしげながらも素直に従う瀬川。

 その姿にほっとため息をついたネネ姉は、疲れをただよわせてうなだれた。

「……あの、どうかしたんですか?」

「キミ、ホント不思議な子だねー。こりゃ鉄壁ガードでも振り回されるわけだ」

「鉄壁ガード?」

「ううん、こっちの話」

 そう言ったネネ姉の声はどこか楽しげに響いた。

「あのさ、ちょっと聞いて欲しい話があるんだ」

「……それって、ハル君の話ですか。だとしたら、わたし、聞きません」

「うんうん。うららちゃんのこと、だんだん分かってきたよー。本人からじゃないとそういう話は聞きたくないってことかな」

「はい。ハル君のこと勝手に聞くの、ハル君に失礼だと思うんです」

「うんうん、そうだよねー。じゃ、ここにいた理由を話さないってのも、同じかな?」

 ここにいた理由。その言葉に瀬川は、警戒するように身体を少し後ろに引いた。

「理由ってさ、ハルちゃんに関わることだから、本人のいないとこで勝手に話さないって感じ?」

 私に関わること……?

 ネネ姉の言葉に瀬川は、うつむいて黙ってしまう。

 それは、明らかな肯定だった。

「あ、言わなくていいよー。それに話したいのは、ハルちゃんのことじゃなくて私のことだからねー。一つ話を聞いてさ、うららちゃんがどう思うか教えてほしいんだよ。ね、人助けと思ってさー」

 そう言葉を向けられ、納得できないような表情を浮かべながらも瀬川はうなずく。

「ありがとね、やっぱりいい子だよー。話ってのはさ、私の昔話なんだ」

 ネネ姉のいつもながらのゆるい声に、わずかに真剣な響きがこもる。

「私が大学生になって、こことは別のゲームセンターで働き出したときのことだよ」

 その言葉に思わず身体が動き、ロッカーの戸に服のボタンが触れる。

 鳴ったかすかな金属音に冷や汗が吹き出す。

 瀬川が物音に気づいた様子はなかった。じっとネネ姉の話に耳を傾けている。

「バイトを始めたばかりのとき、うららちゃんと同じように、私も一人の女の子をすごく傷つけちゃったんだ」

 身体が震えだしてくる。なんでそんな話を今ここでするのか。

 それは、ネネ姉の話だけれど、ネネ姉と私の話だ。

「傷つけちゃったんですか」

「うん、私がその子を利用したせいでね。ゲーセンってさ、小さいところだとお客さんがなかなか入らないんだよー。でね、私は、お客さんを呼ぶために知り合いの女の子を看板娘にしたんだ」

 今はもうない、小さな小さなゲームセンター。

 人見知りのひどかった私に、はじめての友人たちができた場所。

「すっごくかわいい中学生の子でね、しかもゲームがすごくうまいんだ。だから、その子をゲーム大会とかのイベントに呼ぶとさ、いつも以上にお客さんが来るんだー」

 目立つことが嫌いで学校じゃ友達を作ろうとしなかった。

 ゲームだけは好きだったから、その話をしたかったけれど、私みたいにやりこむ人はいなかった。一度だけクラスメイトにプレイを見せる機会があったけれど、彼らにとって必死にゲームをする私の姿はちようしようの対象にしかならなかった。

 ネネ姉に呼ばれたゲーセンは家から遠く、学校の知り合いは誰もいない場所。

 そこで出会うのはゲームをするってだけのつながりの人たち。

「他にもうまい人はいるんだけどねー、中学生になりたての女の子が高レベルなプレイをしてたら、やっぱりみんな盛り上がるの。で、その子は人見知りで友達のいない子だったんだけど、ゲーム仲間なら作ってもいいかなって、そう思えたらしいんだ」

 みんなゲームに夢中になる私をバカになんてしなかった。

 ここでなら、同級生とじゃできないゲーム話で盛り上がれる。

 それはすごく新鮮で、そのときはじめて、友達といるってことが楽しく思えた。

「その子も次第にね、なにもない日でも遊びに来るようになって、ちょっとしたグループができるようになったんだよ。でもさ、バカだった私はそこでやっと気づいたんだ。女子中学生を中心に集まるグループなんて、異常じゃないかって、ね」

「異常なんですか? みんなゲームをする友達なんですよね?」

 ――なんで、異常なんて言うの。大切なゲーム仲間なんだよ!

 幼かった私はネネ姉にそう叫んだ。

「……でもね、もっとバカなのは、それからなんだよ」

 ネネ姉の声がはっきりと分かるほど暗く沈みこむ。

「私、最低な提案をしちゃったんだ。本当に純粋なゲーム仲間かどうか、みんなを試せばいいじゃないって」

 あのときのネネ姉には悪気なんてなく、私も軽い気持ちでそれに乗った。

「それでね、ゲーム仲間はいなくなっちゃたんだ、みんなね」

「それって、どんな試し方をしたんですか?」

「その子ね、すごくかわいいんだけど、中性的な顔立ちなの。だからね――」

 言葉を詰まらせたネネ姉は、わずかにうつむいた。

 私はロッカーの中で動けずに、目を閉じて手を握りしめる。

「……二人でみんなに言ったの。ダマしてたけど実は男の子なんだー、って。その子には、肩近くまであった髪を切ってもらって、男の子の格好をしてもらってね」

「その女の子って、あの、ハル君のこと、ですよね?」

「……うん、そうだよ」

「なんで、ダマしたんですか?」

 瀬川の声に怒りはなく、かすかに悲しげな響きだけがあった。

「ううん、ダマしてなんかないよ。その子はたしかにハルちゃんだけど、これは私の話なんだ……。私の、ざんなんだよ」

 私は驚きに目を開ける。

 ゆるい性格のネネ姉が、ここまで落ちこんだ声で話すのをはじめて聴いた。

「グループの大半は別に気にする様子もなかったんだけどさ、ひどく怒った子たちが数人いて、ハルちゃんは、裏切り者って言われたんだ。それもとくに親しくしていた子たちでさ、裏切り者だ、気持ちを踏みにじったって、寄ってたかってののしられたんだよ」

「それは、ひどいです……」

「ううん、ひどいのは私。ハルちゃんを目立つように引っ張り出して、そのあげく人を試すようなマネをして。私がそんなことをしなかったら、その子たちとも普通に出会って、普通に友達になれていたかもしれないんだよ」

 それは絶対にない。あのひようへんした眼差し。あの容赦なく向けられた罵倒。

 あんな人たちと友達になんかなれるはずがなかったのだ。

 思い返したくもない記憶が目の前をよぎって、脂汗がじっとりと浮かぶ。

「私が……、私があの子から、友達を作るって気持ちを奪い取っちゃったんだ。悪いのは私なんだよ」

 ネネ姉は悪くなんてない。

 おかげで、友達なんて自称するヤツらの本心を知れた。

 十人以上は集まっていた常連グループは、その後、一気に雰囲気が悪くなって集まらなくなった。グループの中には純粋にゲームを楽しんでいた人もいたけれど、そういう人たちもやがて来なくなって、そのゲーセンは私が来る前よりも人がいなくなってしまった。

 そうしてようやく分かった。

 バカなゲーム話で笑い合っていた、あの仲間たちとのつながり。

 そこでは、私が求められていたわけじゃない。

 中学生の女の子である私が求められていただけ。

「だから、うららちゃん。私はキミにこの話を……私のしてしまった過ちを聞いて欲しかったんだ。私のせいで、あの子はあれからずっと独りでいようとしてる。それは、すごくさびしいことだと思うんだよ……」

 ぽつりとこぼれたネネ姉の一言は、私がけっして聞きたくない言葉。

 やっぱり。震えながら心につぶやく。やっぱりネネ姉も、なんだ。

 独りでいることがさびしいなんて、他人に決められる覚えはないのに。

「それに、ハルちゃんはすごく頭もいいから、自分のからに閉じこもらなきゃ、きっといろんなことができるはずなんだよ。その可能性を私がつぶしたんだ……」

 ああもう、やめてくれ!

 私は胸を張って独りでいることを選んだ。

 その選択を間違いのように言わないでくれ!

 ネネ姉があのときのことをどう思っているのか聞いたのは、これがはじめてだ。

 私とネネ姉は、気持ちをあいまいにしたまま、過去に触れないでいた。

 触れてしまえば、二人の関係も壊れてしまいそうだったから。だから――

 ――だから、ああ、やっぱり聞かなければよかった!

 ロッカーに手を掛けて飛び出そうとしたそのとき、ネネ姉の身体が動いた。

「でもね、うららちゃんなら変えられるかもしれないんだよ!」

 身を乗り出して瀬川の手を握りしめるネネ姉。

「二人でいるところを見てね感じたんだよ。うららちゃんなら、ハルちゃんとずっと一緒にいてくれる、特別な友達になれるって」

 ずっと一緒にいてくれる、特別な友達。

 そんなもの幻想だ。どれだけ打ち解け合ったように見えても本心は別。

「……ずっと一緒の、友達」

 瀬川はゆっくり噛みしめるように、それをつぶやいた。

 なぜかその響きに、胸の鼓動が速度を増してしまう。

 だけど、私は知っている。ずっとなんてないことを。

 たとえ友達に思えた瞬間があっても、気持ちなんてものは移り変わる。

 いつかどうせ別れるなら――

「ハルちゃんの独りでいたいっていう気持ちを、変えてほしいんだ。バカなマネをした私を助けてくれないかな。お願い、うららちゃんならできる。ずっと一緒の友達になってほしいんだ」

 そんな友達なんて、絶対にいらない。

「わたし、ハル君とずっと一緒の友達に――なりませんよ、別に」

「えっ……!」

 声を震わせたネネ姉に、瀬川はまっすぐな瞳で見つめ返す。

「友達なんていらないって、ハル君は思っているんです。心の底から」

 ごく当然のことを言うように、迷い一つないさらりとした声音。

「また一緒に遊べたらうれしいですけど、ムリに友達になっても迷惑なだけですから。わたし、ハル君につらい思いをさせたくないです。それに、そもそも――」

 瀬川はハッキリと言い切った。

「独りで生きるのって、ダメなんですか?」

 その一言は、私が頭の中でずっと叫び続けてきたもの。

 なのに、それが瀬川の口から出た瞬間、ただ呆然としてしまった。

「それは、ダメとは言わないけど、でも、ずっと独りって、やっぱり普通じゃないよ」

「普通は関係なくて、ハル君の話です。ハル君が独りが好きで、独りでいたいって願うのは、ダメなんですか?」

 手が震えて、抑えられない。

「ハル君は、独りでも大丈夫だって強がっているわけじゃないんです。独りを望んでいて、たぶんですけど、そうなるための努力もたくさんしてますよね?」

「……うん、そうだよ。あれからあの子は友達も作らず、自立しようって努力ばかりしてきたんだ。でも、私はそんな努力をさせたくないんだよ!」

「わたしは応援したいです。だってハル君はただ、幸せになろうとしているだけじゃないですか」

 幸せになろうとしているだけ。

 ああ、そうなんだ。

 独りでいるのが幸せだから、それを目指しただけ。

「でも、そうやって生きていくのは大変なんだよ。私は心配で……」

「音々さんのその気持ちも、分かります。だけど、わたしだけでも、ハル君の考えを応援させてください。わたし、憧れたんです。ハル君を見て、自分の人生を歩いているんだなって感じて」

 そう言って瀬川は不意に左手を前にかざした。

「わたし、小さい頃からピアノを弾いてました。それなりにうまくなったんですけど、中学三年生のときにした小指のケガで、その道をあきらめました。それからはとりあえず勉強して大学に入って、大学では人づきあいが大事だって聞いたから、とりあえずいっぱい友達を作ろうとしました。そんなとき出会ったんです、ハル君と」

 言いながら満面の笑みを浮かべる瀬川。

「わたしなんか、はっきりした目標もなくとりあえず生きているだけです。でも、ハル君は独りでも全然平気な、自分の世界をちゃんと持っているように見えたんです。それが本当にすごいなって。だからわたしは、ハル君の友達にはならないんです」

 そう言って、瀬川は立ち上がる。

「じゃあ、わたし、これで帰りますね」

 笑顔でぺこりと頭を下げて歩き出した瀬川。

「……でも、うららちゃんはそれでいいのかな?」

「はい、もう決めましたから」

 うなずいた瀬川は、悲しげな目をしながら笑顔をみせた。

「最初は、ひとりでいるハル君の特別な友達になれたらなって思ったんですけどね」

 その言葉に浮かぶ、校舎裏の光景。

「迷惑だって思われるのは分かってても、どうしても気持ちが抑えられなくて。それでもハル君は優しいから、イヤな顔はするけれど受入れてくれて。今日も、わたしいっぱい甘えちゃって。ホントに、ハル君、優しいから……」

 言葉をつまらせた瀬川に、ネネ姉はただ黙って小さくうなずく。

「優しいから、だからもう甘えちゃダメなんです。話せたり遊んだりするの、本当に楽しかったから、もう……、もうしゃべれないって思うのはつらいです。けど、それはハル君も一緒だったって思うんです」

 呼吸が止まる。食い入るように瀬川を見つめる。

「その上でハル君は、もうおしまいって決めた。だから、わたしも、おしまいって、決めたんです」

 視線を落とす瀬川の姿に喉が詰まる。

 うん、そうだよ。認める。私は瀬川といて、本当に、楽しかった。

「嘘だよ。うららちゃん、おしまいって決めたなら、なんで今までここにいたの。また会えたらなって思ってたからじゃないの?」

 うつむきながら瀬川は、小さく首を振る。

「違います。それは……、それは、ハル君が、喜んでいたからです」

「喜んでいた?」

「ゲームでわたしのことをライバルって登録するとき、ものすごくうれしそうな顔をしてたんです」

 また自分の知らない、自分の表情。

 ああ、そうだ。うれしかったんだ、私。

「だから、ライバルなんてほど遠いですけど、少しでも近づけたらって思ったんです。あと、本当にゲームが面白かったってのもありますけどね」

 そう言って瀬川は、瀬川らしい顔いっぱいの笑顔を見せる。

「もう会わないように、今度はどこか違うゲームセンターで遊びます。データだけでもいいから、ハル君に恩返しがしたいんです。ちょっとしか一緒にいられなかったけどすごく楽しかったし、面白いゲームも教えてもらえたし、それに、わたしの憧れですから!」

 なんでこんなにも、思いを素直に向けてくれるのか。

 身体の奥が熱くなるほどに胸が締めつけられる。

 瀬川、違うよ。私はあなたに憧れてもらえるような人間じゃない。

「では、失礼します」

 もう一度、深々と頭を下げて、瀬川がドアの前に立つ。

 今度はもう、ネネ姉はなにも言わない。

 心臓が割れそうなほど脈打ち、私はなにもできないまま、唇を噛みしめて瞳を閉じて――

 ふっと、登録解除の画面が目の裏に浮かんだ。


「――行かないで! 行かないでよッ!」

「ハル君っ!?」

 瀬川が目を見開いてロッカーを見る。

 私、なんてマヌケな姿なんだろう。ロッカーに隠れながら必死に叫んでる。

 でも、このロッカーは絶対に開けられない。

「私、瀬川といて、楽しかったんだ。やっぱり、もうこれでお別れなんて、絶対にイヤだっ……!」

 バカみたいな量の涙がほほをボロボロ伝って落ちる。

「やっと分かったんだ。私、間違ってた。独りでいることが幸せだから、独りを目指してた。でも、瀬川のおかげで、気づいたんだ!」

 まぶたを固く閉じ、手を握りしめて叫ぶ。

 私が本当に望んでいたのは、独りでいることじゃない。

 ただ、幸せになりたかっただけ。

「私、独りでいる以上に、瀬川と一緒にいると幸せになれる。だから、お願い、行かないで……!」

 えつで声が途切れ、唇を噛んで涙をこらえる。

「ハル君」

 呼びかけられた声は、驚くほど近くで響いた。

 ゆっくり目を開けた先、瀬川がロッカーの前に立っていた。

「本当に、いいんですか? わたしが一緒だと、迷惑になっちゃいますよ……」

 不安げに私の入ったロッカーを見つめる瀬川。

 そのつぶらな瞳には今にもこぼれ落ちそうな涙があふれていて。

「いいんだ、そんなの! だって、私――」

 瀬川を悲しませたくなくて必死に声をあげた私は、そこで言葉を詰まらせる。

 次の言葉をつなげようとして、唇がただ震えた。

 ああ、分かった。

 告白は、する方がよっぽど緊張する。

「――私、瀬川のことが好きだから」

 震えを抑え、はっきりと届けた言葉。

 私なんかのことを憧れだって言ってくれたけど、それはこっちのセリフだ。

 どれだけ無視しようとしても、心が向かって離せない不思議な女の子。

 瀬川は私の言葉に目を見開いて、そしてすぐ、まぶしいほどの笑みを満面に。

「だからさ、瀬川。私と友達になってほしいんだ」

「はいっ! 友達です! また一緒に遊んでください!」

 瀬川のふりまく笑顔につられるように、ほほが自然とゆるんでしまう。

「うんっ、約束! 今度はもっといっぱい遊ぼうってえええ、な、何っ!?」

 かすかに見える視界いっぱいに見えたのは、瀬川の鼻。

 背の低い瀬川は、私がのぞいている通風口に向けて必死に背を伸ばし、

「ハ、ハル君のにおい、します!」

 強引に鼻を近づけてにおいを味わっているらしい。

ぐなって! って、開けないでっ! 出る、自分で出るからさ!」

 ロッカーの戸に手が掛かる気配を察し、必死で抵抗する。

「は、早く出てきて、姿とにおいをっ……!」

 ガチャガチャ鳴るロッカー。戸に掛けた瀬川の手が小刻みに震えているっぽい。なんだこの激しさ、禁断症状でも出ているのか。

 小さく揺れるロッカーの、この狭くて暗い空間の中でふと思う。

 私はなんてバカげた状況にいるんだろう、と。

 あきれつつこぼれた涙をぬぐうと、もうどうしようもないほど、笑みが抑えきれなかった。


   *


 日曜の昼どきのゲーセンは混雑するので、いつも避けていた。

 ゲーセンの人混みは嫌いじゃないけど、プレイの順番待ちをするのが苦手。とくに、後ろで待つことで、プレイしている人に自分を意識されてしまうのがイヤだ。

 だけど今は違う。こうして後ろで待っていても、不思議なほどマイナスの感情が生まれてこない。

 それは間違いなく、相手が瀬川だからだ。

 目の前の小さな少女は、こちらのことを忘れているんじゃないかってほど、ゲームの世界に集中していて、そんな姿が私にはなぜかとても心地よく思える。

 あの日から二日が経ったけれど、私の生活は平穏無事のままだ。

 学校では話をしないでおこうと決めた。その代わりの二人の時間が、ゲーセンで過ごすこの時間だ。

「……ネネ姉、ありがとね」

 夢中でプレイをする瀬川を少し離れて見ながら、ネネ姉に声を掛ける。

「んんー?」

 側でゲーム台の画面を拭いていたネネ姉が、ゆるい表情でこちらを見る。

「ネネ姉がいなかったら、瀬川ともう遊べなかった」

「ううん、感謝されることなんてないよー。その、悪いのは、私なんだからね」

 言いよどみながらネネ姉は視線を落とす。

「ネネ姉が悪いならね、私も悪いよ。あのときのこと、ほんとにごめん」

 口にしたのは、二人ずっと避け続けていた話題。

「別に、ハルちゃんは何も」

「私、自分が傷ついたってばかり思ってて、ネネ姉のこと考えてなかった。独りでいようってことにばっかり意識が向いて、気づいてなかったんだ。ネネ姉もあのとき、傷ついていたんだって」

 驚いたように顔を上げたネネ姉は、小さく首を振って言う。

「考えられてなかったのは、私も一緒だよ。心配しているつもりでも、きちんとハルちゃんの身になって考えられてなかったよ」

「たぶん、私もネネ姉も、おたがいどこかですれ違ってたんだろうね」

「そうだね。……それに気づけたのは、あの子のおかげだねー」

 ネネ姉と並びながら、ゲームに向かった小さな背中を見つめる。

「うららちゃんをはじめて見たときさ、ビビって来たんだよー。すごいちっちゃくてかわいくて、こりゃー、ハルちゃん好みの女の子だなって」

「なっ、べつに、ま、小動物っぽくてかわいいとは思うけど、それぐらいだって」

「はいはい。ほら、ゲーム終わりそうだよ。行っておいでー」

 ポンと肩を押されて歩き出す。ふと気づくとその足取りが自然と軽くなっていて、なんだかむずがゆくて気恥ずかしくなる。

「どうですっ! またハイスコア更新ですよ!」

 両手ガッツポーズつきの笑顔で振り返る瀬川。

 こっちまで笑みがこぼれそうになるけれど、照れくさいので瀬川には隠しておく。

 あまり笑い慣れていないから、きっと変な顔になるし。

「まだまだ序盤だからね。でも、成長の速度はほんとにすごいよ」

「おっ、おお! ありがたき幸せ!」

 目を輝かせた瀬川は、なぜかボディビルダーがポーズを決めるように両腕の力こぶを固める。どうやらこれが瀬川流の感謝の姿らしい。バカバカしくて吹き出しかけるが、これもぐっとこらえて表情を崩さない。

「じゃあ、次はハル君の番ですよ」

「うん。んじゃ、今やってた曲の見本プレイをするかな」

「うーん、それよりも、難しい曲でハル君の本気プレイが見たいです」

「本気ね、分かった」

 私がうなずくと、瀬川もまた激しくうなずく。

「はい、わたしも本気で見ますからね!」

「それじゃ、サビのとこの連打でさ、リズムが遅れてないか見てて。お願いね、瀬川」

 瀬川と一緒にいると助かるのがタイミングの確認だ。

 一人で音ゲーをプレイしていると、ミスしたとき、ボタンを叩くタイミングが速すぎたのか遅すぎたのか、どちらか分からなくなることがある。

 瀬川はピアノ経験者だけあってそのズレを聴き取ってくれるから、それが本当に助かる、のだけど、あれ?

「……どうしたの、瀬川?」

 なぜか悲しげな顔でじっとこちらを見つめていた。

「ハル君、約束、忘れないでください」

 約束。ああ、あれね。うん、分かっているんだけどね。

 瀬川は大学で話しかけることを我慢する代わりに、私に一つ約束を求めてきた。で、さっき私がそれを守らなかったから落ちこんでしまったらしい。でもなあ、照れるんだよなあ。

 私は瀬川から目をそらし、画面に向かってゲームを始める。

「……じゃあ、改めてお願いするね。うらら」

「はいっ!」

 約束とは瀬川――いや、うららのことを、友達らしく名前で呼ぶというもの。

「ハル君、その、もう一回呼んでくれませんか」

「うらら」

「はいっ!」

 何がそんなにうれしいのか、うららの声は喜びでいっぱいだ。

 ふと好奇心に駆られてもう一度、「うらら」と呼べば、即座に「はいっ!」が返ってくる。脊髄反射っぽくて少し面白いので、おまけでもう一度「うらら」「はいっ!」を繰り返しておく。三度目でも変わらず満面の笑みだ。

 なんだろうなこの子は。耐えきれずにつられて笑う。

 慣れてないだとか、そんなのお構いなしで吹き飛ばしてしまう。

「じゃあ、行くよ。うらら」

「はいっ!」

 幸せでたまらないのが伝わる、明るく弾んだ声。

 きっと私は、うららにどんどん変えられてしまうんだろう。

 目を閉じた私の脳裏に、二人で過ごすこれからがいっぱいに広がっていって――

 またどうしようもなく頬がゆるんで、抑えきれなかった。

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