第6話

「生まれたところ…そう、」


明るい声を出して女性の方に顔を上げたかと思うと、その男性は、先ほど女性が耳にした国名と同じ名を口にした。


ポーランド。女性は辛うじてその国の位置を思い起こせた。東欧、か。はっきりとした国境線は思い描けないが、高校の時の知識が幸運にも役に立ったようだ。


その為、「ずいぶん遠い所から…。」という返答を紡ぎ出せたのである。


ええっ、そうなんだ、とそれを聞いた男性は興味がありそうな声色で訊く。

じゃあここは、何処なの?という必然的な問いを返された女性は、何も考えずにただ自分の国名を口にした。何故だか自信が無くなって、それに「とても東の方です、」と一応付け足した。


その国名に相手は狼狽しているようだった。「それって、すっごく東…?」と男性は敬語など頭からすっかり抜けてしまうほど困惑しながら訊いた。


ああ、だから…と呟きながら男性は座ったまま腰を捻って後ろを振り返り、エアコンを見上げながら何かを悟ったような神妙な表情で頷いた。


それを見ていた女性はふと紅茶の事を思い出して、まだ正気を取り戻せているか分からない男性に向かって一言かけてから席を立ってポットのある方へと足を進めた。


あっ、沸いてる。と確認してから女性はお湯を注ぐ。

淹れたての紅茶が温かなカップを二つ持ち、女性は零さぬよう気を付けてそれらを運んだ。やはりこんな状況でも、お茶から生まれる蒸気は心を解してくれる。いつの間にか凝り固まっていた女性の心境はほわりと和らぐ。


それに気づいた男性は体を前に向きなおして礼を言った。わぁ、と思わず嬉しそうな声が出る。

そのアールグレイに口を付けた男性は微笑んで言う。


「ありがとう、とてもおいしいよ。」


社交辞令なのだろう、と頭では理解しつつも、女性は単純に嬉しかった。他人に紅茶を淹れるのは、ましてや男性にお茶を出すことなど初めてであった。結構いい気分なものだな、と女性は少し満更でもなく微笑んで自分も紅茶に口を付けた。


そして確かに美味しいのを確認すると、もう一口飲もうともう一回カップを口元に運んだ……時だった。

もう少し男性が次の言葉を発するのが遅かったり早かったりしたならば、女性は危うく初対面の人の前で紅茶を吹き出してしまう所だったかもしれない。


「あっ、名前言うの忘れてたよ、僕の名は…――」


すらすら、とあまりに自然に流れて行ってしまった異国の名前を、女性は一旦聞き逃すところだった。慌ててそれを掴み直し、頭で反芻し吟味する。

――まあ、その様子じゃご存じないようですけれどね、と微笑む彼が発したはずの名は、確かに女性がこの世において聞き覚えのある、いや聞きなれすぎている名前であった。

有名人。というよりは、もはや偉人の域に近かった。


朗らかに笑う音楽家を横目に、女性はカップを持ったまま自分が耳にした発音をひたすら頭で検証していた。


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