プロローグ3

 大柄で筋肉質なフィリピン人の男が、浅場にあるサンゴの棚からドロップオフの壁に沿って深度を落とした。

 ガイドダイバーのヨヨだ。

 この島は、すぐまわりは水深も浅く、色とりどりのサンゴが群生しているが、少し行くとどん深になっている。わかりやすくいうと、ビルのように細長い岩場のてっぺんが珊瑚礁になっていてその中心が少し盛り上がり、水面に出て島になっているのだ。だから深場に行こうと思えばいくらでも行ける。

 それでも通常は水深三十メートルくらいでとどめる。あまり深くまで潜るといろんな意味でリスクが増すし、初心者ダイバーを連れていくときはなおさらだ。

 もっとも、今連れているファンダイブの客は美奈子ひとりだけ。彼女はベテランダイバーだ。

 美奈子のリクエストはとにかくイルカを見ること。

 今、深場に入っているのは、イルカを探すためでもあるが、ヨヨ自身探したいものがあったからだ。

 そう、あの事件の手がかり。きっと、なにかあるはず。

 一週間前、ラニが死んだ。溺死だった。水深十五メートルほどのサンゴのお花畑の中に仰向けに横たわっていた。

 それを発見したのはヨヨだった。

 客のガイドが終わったあと、ラニが帰ってこないから見てきてくれと頼まれたのだ。

 そのとき、ヨヨはラニが死んでいるなどとはまったく思っていなかった。

 なにしろ、それこそほんとうの人魚のような娘だったのだから。

 ヨヨは回想する。


   *


 なんの緊張感もなく、サンゴの浅瀬をなにげなく流していると、前のほうにチョウチョウウオやハナダイなどの熱帯魚が一カ所に集まって乱舞していた。

 ヨヨはどのあたりにどういう魚が集まるか、このへんの海に関しては熟知している。

 普段、魚が集まらない箇所にそれだけの数が花びらのように舞っている光景に、なにか違和感を覚えた。

 なんとなく胸騒ぎを覚えつつ、ヨヨはフィンを強く蹴った。

 あの光景は一生忘れないだろう。

 そのあたりにも、他の箇所同様美しいサンゴが密生しているのだが、一カ所、岩がえぐれて一段低くなっているところがあるのだ。ちょうど人ひとりが入れるほどのスペースで。

 魚たちが乱舞していたところはまさにそこだった。

 そのくぼみの中にラニは横たわっていた。

 しかも、全裸のまま、手を胸にそえて。まるで眠るように。

 棺。

 そうとしか表現できない。ラニのまわりにある緑や紫のテーブルサンゴやエダサンゴは、まるで敷き詰められた花のようであり、あたりを泳ぎ回る色とりどりの熱帯魚たちは、あたかも風に舞う花びらか、楽園に遊ぶ蝶のようだった。

 浅場の海は、灼熱の太陽のせいで明るく、海面の波紋の影がゆらりゆらりとラニの体に映り込んでいる様は、遺体を忌まわしいどころか、美しいとすら思わせる。

 イルカ島の人魚といわれたラニのサンゴの葬列。

 ヨヨの目にはそう見えた。

 できすぎだった。事故で死んでそんな状態になるはずがない。

 かといって、誰かに殺されたとも思えない。なぜならラニの体には傷ひとつ、痣ひとつなかった。

 やはり事故なのだろう。というより、ラニは海と一体になってしまったのかもしれない。

 そしてイルカのルフィーがラニの体をあの棺に運んだのだろう。

 ヨヨはそんな気がした。

 ルフィーが遺体を慈しみ、ラニの手を合わせ、目を閉じた。だから、こんなおだやかな顔で眠っているのだ。

 馬鹿げているようにも思えるが、真実とは案外そんなものなのかもしれない。

 ラニが誰かに殺されたとしたら、その犯人がわざわざ棺に花を添えて眠らせてくれるはずなどない。

 むしろ、そのままドロップオフに突き落とすにちがいない。

 だから、ラニは謎の殺人鬼に殺されたりしたのではなく、むしろ神に選ばれたのではないのか?

 そう思えるほど、ヨヨから見てもラニは不思議な少女だった。ホテルの料理人の娘で、長い髪に美しい顔、十七歳の健康な体を持ち、同世代の娘がいないためか、よく海でイルカと遊んでいた。

 三十近いヨヨは女としてラニを見ていたわけではないが、そういうことを超えて魅惑されていた。ラニはどんな男も魅了するなにかを持っていたのだ。まるで魔力のようなものを。

 ヨヨから見ても、ラニはまさに人魚だった。

 もちろんラニを人魚足らしめていたのは姿だけではなく、その水中における運動能力が大きな比重を占めた。なにしろスクーバ器材をつけることもなくダイバーのように水中を泳ぎ、五分近い息ごらえができたのだ。

 素潜りに自信があるヨヨにしても、とてもかなわない。そんなラニが溺れたというのはちょっと信じがたいが、神に導かれて天国に行ったのだとすると、なんの不思議もない。

 だが、ほんとうにそうなのだろうか?

 もしそうなら、なんらかの証を残しているのではないのか?

 そう考え、ヨヨはラニの遺体のまわりを調べた。なにか神に召された証拠のようなものがあるにちがいないはずなのだ。

 しかしなにも見つからなかった。


   *


 今、あの場所から深度を下に落としているのは、なにか深場に見落としたものがあるのではないかとふと思ったからだ。もちろん常識的にはそんなことをしてもなにもわからないと考えるのが普通だ。しかしヨヨはなぜかそうせずにはいられなかった。なにかに呼ばれたような気がしたのかもしれない。

 ラニが呼んでいる。

 一瞬そう思ったが、馬鹿げている。ラニは死んだ。まぎれもない事実だ。

 そもそも自分はラニの家族でも恋人でもない。ただの同僚の娘、彼女にすれば自分は遺体の発見者に過ぎない。

 しかしそれでもこのまま下に行けばラニに会えるような気がした。

 自分はラニに会いたいのか? よくわからなかった。

 どうも考えていることがおかしい。ヨヨはふと水深計を見る。四十五メートル。

 潜りすぎた。窒素酔いか?

 ヨヨははじめてそのことに気付いた。窒素酔いとは潜水障害の一種で、深場に行くと自然と高圧の空気を吸うことになり、中にふくまれる窒素も高濃度になる。高圧窒素には麻酔やアルコールに似た作用があるのだ。

 ヨヨはリスクを感じ、BCにエアを入れ中性浮力を保つと、その場に止まった。調子に乗ってこのまま潜行を続けると、ますます窒素酔いが激しくなるからだ。

 浅場に戻ろうかと考え、上を見る。

 美奈子は自分よりすこし浅い水深をキープし、上の方を見ていた。

 ふたたび下からなにかが自分を呼んだような気がした。

 下を見たとき、十五メートルほど深場になにかがいた。人間のようにも思えたし、イルカかなにかのようにも見えた。

 きょうはさほど透明度は良くなく、そこからもう一メートルも下にいれば見えなかっただろう。

 イルカなら、美奈子に教えてやらなくてはいけない。

 しかしそのときヨヨには別の考えが浮かんだ。

 ラニ?

 馬鹿げた考えだ。

 しかし確かめずにはいられない。

 窒素酔いは? まだだいじょうぶだ。判断力はある。視界も狭まっていない。あと五メートルくらいなら判断力を失うことはないはずだ。タンクの残圧もまだ半分以上残っている。エア切れの心配もない。もう五メートルも下がればあれがなにかわかるはずだ。

 ヨヨは美奈子のことを忘れ、単独で深度を落とした。

 そして見た。

 ラニの姿を。いや正確にいえば違う。上半身はラニで下半身は魚だった。

 人魚? ラニは本物の人魚になったのか?

 ラニの姿をした人魚はヨヨにほほ笑んだ。そして体を反転させると底に向かって泳ぎ出し、視界から消えた。

 そんな馬鹿な?

 いくらなんでもそんなはずはないと思った。恐ろしくなったヨヨはフィンを蹴った。水面に向かって必死で。

 浮上スピードが上がりすぎたが、ヨヨにそれを自制する理性はなかった。

 美奈子を追いこしたとき、ようやくそのことに気付き、BCの内部のエアをすべて抜き、浮上スピードを落とした。

 ヨヨは美奈子を見つめると、ラニがいたあたりを必死に指さす。

 しかしそこにはもはやなにもいなかった。

 恐ろしくなったヨヨは、美奈子を連れてドロップオフから、上の棚に向かった。

 浅場のサンゴ畑に留まりながらヨヨは考える。

 今のはいったいなんだったんだ?

 冷静になって考えると、あんなものがいるわけがない。

 幻覚だ。窒素酔いによる幻覚だ。あるいは窒素酔いと思い込みのせいでサメかイルカを人魚と見間違えたんだ。

 それ以外には考えられない。あれが現実であるはずはなかった。

 ラニのことばかり考えていた上に窒素酔い。今まで潜ったこともない大深度だったから窒素酔いも激しかったのだ。だからあんなものを見た。

 ヨヨは二度とこの位置から深場には行きたくないと思った。

 浅場を移動して戻りつつ、窒素酔いから解放されたはずのヨヨの頭に新たな考えが浮かんだ。今まで以上に馬鹿げた考えた。

 あれは幻なんかじゃない。ラニは神に召されて天国に行ったわけでもない。

 ラニは人魚になるために死んだんだ。

 人魚の力を得るために。

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